8 あたしは彼のおもちゃなの
夜の七時、倉庫のような狭い部屋で、あたしは左目をパチッと開く。
砂尾さんが、深刻な顔をして座っている。昨晩、巻田さんと修羅場を演じたばかりで大丈夫かな? またあたし、マウスでいじられている。
と、せっかく二人きりの時間を楽しんでいたのに、カツカツと靴音が鳴った。だれよ邪魔するの。げっ、ナチュラルメイクの美樹本さんだ。
「砂尾君。巻田ちゃん、サーマルカメラ導入から外れたの?」
「開発課が忙しくなってきたので、外れてもらいました。運用始まったから、あとは私と大山さんでやりますよ」
「大丈夫なの? 今日、アルコールが切れたって、役員さんから苦情きたのよ」
「消毒用アルコールの補充は、総務課で対応してください。あのカメラは優秀だから、アルコールが減ったらアラート出しますよ。総務課メンバーにメールを送るよう、巻田さんが設定しました。まさか、メールをチェックしていないんですか?」
砂尾さん、怒ってるぞ。ナチュラルメイクに怒る姿見てると、あたし、うれしくなる。
「メールは見たけど、何したらいいか、わからなかったし」
「最初の導入で説明しました。巻田さんが総務課用に説明書作りましたよね?」
「……それぐらい、なんとかしてよ。私たちだって忙しいんだし……」
美樹本さんが、座っている砂尾さんの後ろに回り、ごま塩頭に完璧ケアの美しい指を何本も滑り込ませた。触るなババア! まだ、ダマスカラちゃんの方が許せる。
「総務課長、セクハラですよ」
砂尾さんが振り返って、美樹本さんをギロっとにらむ。
「硬いこと言わないで。あなたとは入社以来の付き合いじゃない」
ガタン! 椅子が転がった。砂尾さんが、髪に絡みついたババアの指を振り払い、立ち上がった。すごい目をつりあげている。
「セクハラって、相手がいやがればセクハラですよね?」
お、ナチュババアの眉毛がよって、ファンデーションが崩れた。厚塗りがバレバレだね。
「いやって……私がいやなの?」
「この時代、不要な接触控えるべきです。あなたは社員にセクハラ問題を指導する立場なのに、なぜ、私にそういう態度を取るのです?」
「……そうやって、巻田ちゃんを泣かせたんだ」
「あなたには関係ありません。アルコール補充は総務課でやっていただけますか?」
「言ったでしょ? やり方わからないのよ」
「巻田さんのマニュアルを見てください」
「ねえ!」
うわ! 今度はナチュババア、背中に抱き着いた。
砂尾さんは、あたしの方をむいて右手にマウスを持ってる。またあたしをいじりだした。あ……そ、そこは普段、触られたところがないの。変な気持ちになっちゃう。
「美樹本課長。これ以上触ると、このカメラコントロールのパソコンで、録画しますよ。あなたが私にセクハラしていると役員に訴えます」
「私を脅迫する気! ひどいじゃない! 本当に私たち、やり方わからないのよ、助けてくれたっていいじゃない」
ナチュババア、すごいムカつく! 砂尾さん、あたし、録画でも何でもやるよ! そこのボタンをポチっと押して、ババアをギャフンさせるの!
「……一度だけ説明します。作業はやっていただけますか?」
砂尾さんは、ゆっくりとマウスから手を離した。
「ふふ、砂尾君、ありがと」
美樹本さんは、カツカツとヒールを鳴らして消えてった。
砂尾さんは、呆然と突っ立っている。
ガツン! 突然、あたしは振動に襲われた。怖い。銀ぶち眼鏡のおじさんが、机をたたいた。
「あああ! 女ってめんどくさい! で、そーいうこというと、性差別だってしかられる! ジョーダンじゃねーよ! 男だろーが女だろーが、セクハラはセクハラだろ!」
あたし、何もできない。砂尾さんの怒りを鎮めること、できない。だってあたしは
「正常温度です」
話せるのは四つの言葉だけ。
と、砂尾さんがピクっと頭を上げた。
「……こういうのも、なぜか女の声なんだよな。別に男の声だっていいよな。声、変えられるのか?」
眼鏡のおじさん、マウスをいじって何か探し出した。
あ、あたしの声を変えるのね! それだけはやめて! あたしに触らないで! ずるいよ! 人間は「触るな!」って言うことができる。
でも、あたしは言えない。あたしは四つの言葉しか言えない。
「へー! すごいな。音声、四パターンも登録されている。ノーマルの女性、男性。子供に、ロボットだって……おもしろいな、この子もロボットみたいなもんだ」
砂尾さん、やめて! あたしはこの声がいいの! おじさんの声になんかなりたくない。声変えたら、あたしじゃなくなっちゃう!
「あ、あれ? 声……メニューにはあるけれど選択できないぞ。そうか、試験導入だから、機能制限されているんだな。まあいいか」
「正常温度です」
よかった。あたし、変わりたくない。このままがいいの。
「……いい声だな。聞いてて落ち着く。変える必要ないな」
砂尾さんは、またあたしをいじりだした。そこをいじられると、あたしは声を抑えられない。
「温度が高めです」
「アルコール消毒をお願いします」
「マスクを着けてください」
砂尾さん、すごい楽しそう。あたしをおもちゃにしてる……あたしは、あなたの言うとおりにするしかない。
「最近の機械は妙に気が利いて、スマホにうっかり『疲れた』なんて言ったら、近所のメンタルクリニック地図に表示するんだよ……そういうの、もう勘弁してほしいよ」
眼鏡のおじさんが、寂しそうにクスクス笑っている。
「……君は、余計なことしないのがいいよね。名前はLXTR1000……長いな、エルちゃんでいいな」
あたし、今、砂尾さんに「名前」を呼ばれたの? それも砂尾さんが特別に付けてくれた名前。
「エルちゃん、昨日はありがとう。君が『マスク着けて』って言ってくれなかったら、俺はあの子に……いや、なんでもない。もう少しだけエルちゃんの声、聞いてようかな」
砂尾さん、やっぱり昨晩のこと、ひきずってるの? もう終わったことだよ。
そんなこと忘れようよ。あたしもあなたのささやき声、ずっと聞いていたい。
知ってるよ。家に帰っても、だれもいないんでしょ? だからもう少しだけ、一緒にいてね。二人きりの夜を楽しく過ごそうね。