7 切ない恋
夜七時。狭い部屋で、椅子に座った砂尾さんを、突然やってきた巻田さんが見下ろしている。
彼女がピンクの髪をかきあげて、猫のように笑った。
「サーマルカメラが気になったんです。それに……砂尾さん、どうしてるかなって」
砂尾さん、ごま塩のボサボサ頭を掻いて、困った顔をしている。
「勤続二十年の私が、二年目の子に……子供は失礼だな、二年目の社員に心配かけるなんて、駄目だな。巻田さんは、気にしなくていいよ」
「いいえ! 勤怠管理システムと連動したサーマルカメラ入れたいって言ったの、美樹本総務課長ですよね? 何で総務課じゃないあたしたちが、機種選定に社内プレゼンに稟議、全部、やらなくちゃいけないの?」
ダマスカラが怒っている……でもあたしは、砂尾さんが担当でよかった。あのナチュメイクババアじゃなくてよかった。
「すまない。私が頼りないから、巻田さんや大山さんに負担がかかってるね。巻田さんは開発、大山さんは営業なのに、手伝ってもらって」
「砂尾さんだって本業は管理課なんだから一緒でしょ? あたしはいーんです。サーマルカメラのこと勉強になったし……そ、それに、砂尾さんと一緒に仕事ができるなら……」
巻田さんがうつむいている。厳しい顔つきになった。いやな予感する。
「どうした? 開発課から企画をやり過ぎって言われた? それなら、無理しないでいいよ。私から課長に謝っておく」
「バカにしないでください! あたしはちゃんと、開発の仕事も砂尾さんの仕事もやってます! あたしががんばれるのは、砂尾さんに喜んでほしいからなんです!」
いやな予感がますます強くなる。
「巻田さん、そう言ってくれるのはうれしいよ。でも、私のためではなく会社のためだって、意識を切り替えようよ。もう社会人二年目なんだから」
砂尾さん、目が苦しそうだよ。
「わかってないなあ。でも、あたし……砂尾さんのそういうところ、好きなんです」
いやな予感が当たっちゃった!
しかもダマスカラがしゃがみ込んで、椅子に座る砂尾さんの膝にタッチした! やめて! あなたのしてることは、砂尾さんを苦しめるだけだよ。
ほら、彼が天井を見て、眉間にしわを寄せている。
「……やっぱり、ちゃんと言っておくべきだ」
砂尾さんは首を戻し、彼女の目をしっかり見つめ、膝に乗せられた手をゆっくりと、のけた。
「巻田さんが何かと触るのはただのクセと思って気にしないようにしていたけど……そういう態度は誤解されるよ。今は、ソーシャルディスタンスの時代だ」
やった! 砂尾さん、ついに言ったよ。この人はマスカラやEカップには惑わされない。
「誤解じゃありません。あたし、砂尾さんにしかしてません」
巻田さんの目が、潤んでいる。
砂尾さんは椅子に座ったまま、巻田さんのピンク色の髪にそっと手を伸ばした。
やだ、どうなっちゃうの? 女の涙は、マスカラやEカップより強力な武器になる。
「……君は、大山さんが好きなんでしょ?」
「なんで? 大山さんはいい人だけど、チャラいし頼りないもの」
巻田さんは膝立ちになり身を乗り出し、砂尾さんの両腕にガシっとしがみ付いた。あたしこんなの見たくない! あたしの目はこんなの見るためにあるんじゃない!
「開発の人、女の子で科技大すごいねってチヤホヤしてくれるけど、男子の手伝いばっかりでいろいろ提案しても却下されて……でも、砂尾さんは違った。あたしに何でも任せてくれた……」
砂尾さんは何も答えられず、苦しそうな顔をまた天井に向けた。
「砂尾さん、結婚してませんよね。彼女いるんですか? あ……あたしじゃダメですか?」
「会社でそういう関係をもつのはダメだよ」
「うちの会社、社内恋愛自由ですよね。総務の美樹本課長だって日比野常務の奥さんでしょ?」
そうだった。あたしは社員の基本的な情報を知っている。ムカつくナチュラルメイクババアは、常務の奥さんだ。偉い人の奥さんだから、偉そうにしているのか。
「あの人は……いや、それより私は君のお父さんと変わらないだろ? 大山さんじゃなくても、開発課にだって若い男いくらでもいるじゃないか」
砂尾さんの顔が真っ赤だ。怒ってるの? 巻田さんの「セクハラ」に。
「……あたし、本当は陰キャなんです。男だらけの大学でも彼氏できなかった。だから会社入って、男受けするキャラがんばったけど……仕方ないよね。根っこがブスでデブだもん」
巻田さんは、また床に座り込んで、顔を上げた。涙でバッチリメイクが、かわいそうなぐらい崩れている。
「あたし、自分がわかってます。彼女はあきらめます……でも砂尾さん、一度だけでいいから抱いてください!!」
叫ぶと同時に砂尾さんの膝を抱え、顔をギュッと押し付けた。
ダマスカラちゃんが、かわいそうになってきた。砂尾さんが好きで好きで仕方ないんだね。その気持ちは痛いほどわかる。あたしも同じだから。
砂尾さんは全身を震わせ、あらぬ方向を向いている。しばらく硬直していたが、まるで昔のロボットみたいに、ぎこちなく腰を上げ、腕を伸ばした。
膝にまとわりついた彼女の腕を優しくほどいて、ゆっくり立ち上がった。
「……こんなこと言ったらセクハラだけど、敢えて言うよ。君は充分かわいい。ブスじゃないし、デブでもない。ちょうどいいぐらいだ。これから出会いはいくらでもある。ヤケになって、私みたいなおじさんとしたら、絶対、後悔するぞ」
「よく言われますよ。かわいい、モテるよね、そのうち彼氏できるよって。でも……そういう人は、絶対、彼氏になってくれないんです! これじゃあたし、処女で一生終わっちゃいます! その方が絶対後悔します!」
わかる。あたしはこんな体だから一生処女確定だけど、せっかくEカップ持ってるのに処女で終わるのはかわいそう。
「ま、巻田さん……」
砂尾さんも彼女に合わせて床にしゃがんだ。左手で彼女の肩を引き寄せ顔をじっと見つめ、右手で彼女の額にかかった髪をかきあげている。マスクを着けた顔同士で見つめあってる。
……嘘、こんなところでしちゃうの? ダマスカラちゃんに彼氏ができないのはかわいそうだけど、やっぱりいやだ!
そんなことする砂尾さん、見たくない! ソーシャルディスタンスだよ! 濃厚接触禁止でしょ!
でも、あたしの目は見たくないものを避けることはできない。自分の意志で目を閉じることはできない。
巻田さんが、砂尾さんの耳に触れた。マスクのゴムに指を伸ばす……それだけは駄目! このビルに入る人はマスク必須! 食べるとき以外は外しちゃいけないの。あたし、それだけは絶対許さない!
「マスクを着けてください」
「ひっ! なんなの?」
慌てて二人は、身体を離して立ち上がり、あたしの左目をじっと見つめている。
「ロビーのカメラと同じ音声を出すモードになっているだけだよ。杉田さんが来たんだね。夜間作業かな」
あたしのグッジョブのおかげで、二人は、マスクを外して超濃厚接触する危険から逃れられた。巻田さんは忌々しそうに私の左目をにらんでいる。一方、砂尾さんは、脱力したように天井に顔を向けている。少しホッとしたみたい。
と、彼は、意を決したように巻田さんに向き直り、そっと両肩に手を乗せた。
「巻田さん、開発は男ばかりで人数が多いから、二年目の女の子がアシスタント扱いになるのは仕方ない。うちの会社は保守的で女性の役員もいないぐらいだ。こっちの仕事が楽しくなったから、君は錯覚してるだけなんだよ」
砂尾さんの言葉が終わる前から、ダマスカラちゃんの目に涙があふれてきた。マスカラが落ちて、顔がすごい真っ黒けだ。
「ごまかさないでホントのこと言ってください! デブでブスだから、指一本触るのもいやなだけでしょ!」
巻田さんは泣きながら叫んで、バタバタ走って消えちゃった。
砂尾さんは、呆然と立ち尽くしている。
「……二十も年下の女の子に手を出したら、犯罪だ! そうなったら、あの子は、絶対傷つき失望する。俺は二度と女の人を傷つけたくないんだ!」
しばらくして砂尾さんの命令通り、あたしは左目を閉じた。閉じながら……砂尾さんが誘惑を退けたことにホッとするとともに、巻田さんをかわいそうに思ってしまった。