5 ソーシャルディスタンスは守ろうね
「正常温度です」
「正常温度です」
ランチタイムが終わるころ、あたしの右目は忙しく動き回る。株式会社みらい開発の社員さんたちが、続々とビルに戻ってくる。
あたしはビルから出たことがないから、暑いとか寒いとかわからないけれど、日時は正確にわかる。今は十月になったばかり。戻ってくる人たちは、涼し気な顔をしている。
あ、銀ぶち眼鏡の砂尾さんが入ってきた。あの人がお昼、外に出るなんて珍しいなあ。へへ、今日は砂尾さんの顔、二回もこのロビーで見られるんだ。
え~、大山さんや巻田さんが後ろからくっついてきてる。仕方ないよね。二人とも砂尾さんと同じ企画課だもん。
でも邪魔だなあ。特に、巻田さん邪魔!
彼女、シャツのボタン二つ外して胸の谷間、見せてる。会社はEカップを自慢するとこじゃないんだよ! あ、砂尾さん、見たよね? 絶対、見たよね? 今、一瞬、視線が谷間に向いてた。やめて、そんなスケベ親父みたいなことしないで。
ちょっと巻田さん、なに砂尾さんの腕触っているの!? 今の時代、接触は厳禁。ソーシャルディスタンスって基本でしょ?
こんな時代だからこそ、あたしは毎日休むことなく仕事しているのに。
「正常温度です」
「正常温度です」
「正常温度です」
三人の顔は、ちゃんとしていた。あたしは正直だから、いくらダマスカラにムカついても、ここで変なあいさつはしないんだ。
砂尾さんは、今朝と同じように、ニコニコ笑ってくれた。
「リーチさん、本当にコイツ好きなんすね」
刈り上げの大山さんが、あたしを「コイツ」呼ばわりする。ダマスカラよりはずっとマシだけど、おもしろくない。
「ふふ、砂尾さん、かわいがってますもんね、この子。このカウンターにいると、受付さんみたいですね」
やだ、あたしのこと「この子」なんて言うな! あたしを「この子」と呼んでいいのは、砂尾さんだけなの!
「今はこの内線電話で呼び出すけど、昔はここの受付カウンター、本当の受付嬢がいたんだよ」
砂尾さんが懐かしそうに遠くを見ている。あたしを見ているようで見ていない寂しげな目だ。昔ってどれくらいなんだろう? 彼は入社して二十年だから、本当にすごい昔なのかもしれない。
「へー、受付嬢なんて、俺、ショッピングモールでしか見たことないっすよ」
「確かにこの丸いカウンターって、受付さん用ですね」
「私が入社したころは、社員は今の倍はいて、お客さんがたくさん来たからね……あっ」
砂尾さん、せっかくいい顔をしていたのに、固まっちゃった。固まった顔の先には、あのナチュラルメイクの美樹本さんが立っていた。
あたしはこの人苦手だけど、「正常温度」だから通すしかない。
「わあ美樹本さーん、今日も肌、きれーっすねー」
大山さんが、ヘラヘラしている。お前だまされてるよ。こいつ染みだらけの肌にコンシーラーベタベタ塗りたくって消してるんだよ。
「もう、大山君ったら、そんなこと言っても何も出ないわよ」
うわ! 美樹本さん、腰をクネらせている。いくら若い男におだてられたからって、それキモイよ。
妙に盛り上がっている二人に、砂尾さんが混じった。
「大山さん、君に悪気がないことは知っている。でもそういう発言は、褒めている場合でもセクハラになるから、気をつけた方がいいよ」
あ、砂尾さんの目がちょっと怒っている。一緒にナチュメイクも目をつりあげた。
「砂尾君、私のことなら気にしないで」
「美樹本課長、こういうことははっきりさせるべきです。今の時代、容姿に対する発言には気をつけないと」
「砂尾君の方がハラストメントよ。せっかく大山君みたいなかわいい男の子に褒められて、午後もがんばろって思ったのに、台無しにしないでくれる?」
「総務課長が『かわいい男の子』って、セクハラ発言しては駄目でしょう!」
あれ? 砂尾さん、どーしちゃったの? 「正常温度」だけど、何か変だよ。
「すいませんリーチさん、俺、美樹本さんって見た目だけじゃなくて、偉い役員さん達とも対等に話してるのがカッコよくて、憧れてるんす」
「大山君、いい子ね……砂尾君、余計なこと言わないで、あなたはカメラの方、ちゃんとやってね」
ナチュメイクババアは、偉そうにカツカツとヒールをわざとらしく鳴らして、エレベーターに去っていった。
砂尾さん、かわいそうなぐらいに肩を落としている。
「……悪かったね。行こうか」
「ダイジョーブっすよ。俺、リーチさんのキャラ、把握してますから」
大山さんに続いて、巻田さんも砂尾さんを励ます。
「そもそも大山さんがヘラヘラしてるからでしょ! 砂尾さんは間違ってません。サーマルカメラだって本当は総務の仕事なのに、あの課長、砂尾さんが優しいからって押し付けて!」
銀ぶち眼鏡のおじさんは寂しそうに笑って、エレベーターに向かっていった。
みんな「正常温度」なのに、大変なんだね。