4 彼と二人きりの夜
「正常温度です」
「正常温度です」
薄暗い一階ロビーにあるあたしの右目は、ポツポツ歩く人を追っている。もう夜の七時。こんな時間でも、出勤する人がいるんだ。
そしてあたしの左目は、薄暗い部屋で黙り込むキャビネットを見つめる。さっきの砂尾さんたちがいなくなってから、だれも来ない。
暗い部屋でほのかにキャビネットが光るのは、あたしの力だ。あたしの作る光がキャビネットのガラス戸に反射している。
と、「パチ」っと音がして、明るくなった。だれかが照明を点けたんだ。
眩しくて目が痛い……なんて感覚はないけど、あたしは適正な明るさを認識できるよう、左目の瞳孔を調節した。
眼鏡の砂尾さんだ。周りにダマスカラも刈り上げもいない。一人だ。
「サーマルカメラは順調だな。美樹本さんは、出退勤管理システムもこれに切り替えたいって言ってたな。でも、そのわりにはこっちに来ないよな」
砂尾さんの優しい声が、あたしの左耳を鳴らす。ずっと聞いていたい、ささやくような声。
美樹本さんって、ナチュラルメイクババアの総務課長ね。
「うーん、ちょっと休憩」
そういって、砂尾さんはあたしの目の前でガバっと伏せた。
え、や、やだ……すごく恥ずかしい……袖をまくった砂尾さんの腕が、どーんと目の前に横たわっている。筋張った腕がすね毛に覆われていて……でも、あたし、目と耳はあるけど、鼻とか舌はない。
砂尾さんって親父臭ムンムンだろうなって、想像するだけ。
「IT、いやICTか、どうも慣れない……そういうのが男の分野って絶対偏見だよな。巻田さん、エクスの小佐田さんにウェブ会議で細かい質問して、カメラアプリの操作マスターしたし」
巻田って、ダマスカラだよね。なに、べた褒めしてんのこの親父。やっぱ若い子が好きなんだ。
「これでも俺、大山には気ィ遣ってるんだよ。あいつの方が一年先輩なのに、インストール、ほとんど巻田さんに任せっぱなしでさ……男だからIT、違う、ICTって時代じゃないよな。彼女、よく、うちみたいな中小企業、入ってくれたよ。女子で西都科技大ってすごいな」
いくらダマスカラが若いからって、推定Eカップだからって、ヘラヘラしないで! あの子、ぜーったい体重55キロオーバーだよ!
「正常温度です」
「へ?」
「正常温度です」
やだ、なにやってんの? 落ち着こう。
あたし、右目と左目、二つの目を持ったから、混乱している。右目は一階のロビーの通行人の顔をチェックし、あいさつする。
左目は事務所の狭い部屋で、右目部隊を管理している。
口も二つある。一階の右の口で言うべきことを、ここの左の口で言っちゃ駄目じゃん!
砂尾さんがムクっと起きて、あたしにつながっているマウスを動かしはじめた。
あっ……どうしたんだろう? 砂尾さんがマウスをいじると、なでられてるみたいで、変な気持ちになっちゃう。
「そうか。こっちのパソコンで、カメラの音声チェックできるんだ。よくできてるなあ」
そういうことなのね。右の口で話したことを、この左の口でも言えるんだ。
「こういうシステム、ウェブだけの業者打合せで入るからすごいよな。今の子は……でも、かわいそうだよな」
カツって砂尾さんがマウスをクリックした。何もない画面を。ふふ、くすぐったいな。
「卒業式も授業もサークルもオンライン。外国も行けない。飲み会やってクラスター出たら責められる……俺たちの時は、オールで飲んで、卒業旅行で海外行った。昔の学生と同じことしただけなのに、今の若いやつはしかられる」
砂尾さんが銀ぶち眼鏡を外して、瞼をクシュクシュしている。眼鏡がないと、目がちょこんとしてかわいい。
「ソーシャルディスタンスか……それ守ってたら、女の子と仲良くできないよな、ホントかわいそうだ。これじゃ、ますます少子化が進むだけ……って俺にそんなこという資格ないな」
砂尾さん、なんか寂しそう。あたし知っちゃった。砂尾さんは独身、独り暮らしだって。砂尾さんだけじゃなくて、社員の結婚歴や同居している家族の人数、わかるようになっちゃった。
「初日は上手くいったから、そろそろ帰ろう……早く帰っても遅く帰っても、関係ないか。だれかが待っているわけじゃないし。じゃ、この子をスタンバイモードにして」
また『この子』って言ってくれた。砂尾さんに女の子扱いされるのがうれしい。
彼が、銀ぶち眼鏡の奥からあたしを見つめている。ちょっと怖い目になった。その目を見つめているうちに、あたしの左瞼は重くなり、やがて何も見えなくなった。
でも右目はバッチリ開いたままで、薄暗い一階ロビーをちゃんと見張ったよ。