20 いかがわしい取引
夜の七時、あたしは倉庫部屋で左目を開ける。
目の前に理一郎さんが座っている。久しぶりに会った気がする。
いや、もう一人あの女……巻田さんじゃない、ナチュラルメイクの美樹本さんが、後ろに立っていた。
「総務課長。サーマルカメラについて、いい加減、総務に引き継ぎたいのですが」
理一郎さんが座ったまま椅子をくるっと回転させて、美樹本さんに顔を向けた。
巻田さんといるときとは、全然、声が違う。こっちの方が理一郎さんっぽくて好きだけど。
「私たち忙しいのよ。言ったでしょ? 年末調整があるの」
「忙しさを減らすために、こういう機械を使うんです。ロビーに人が常駐することなく、社員やゲストの入館時の表面温度が記録されるし、異常があれば知らせてくれます」
理一郎さん、カッコいいこと言ってる。
でもあたし、理一郎さんと離れたくない。駄目なの? 美樹本さんとは、仕事したくない。
「随分、強気ね。ニ十歳も下の子に手を出して、恥ずかしくないの?」
「美樹本課長、サーマルカメラの件とは関係ありませんが」
美樹本さんが、理一郎さんの肩に頭を乗せてきた。やめて触らないで!
思わず声をあげたくなる。でもあたしは我慢した。だって話すと、あたしは交換させられる。そしたら、理一郎さんに二度と会えなくなる。
「本当に、男って勝手よね……社内の人間とは付き合わないって言ったじゃない」
「……課長には関係ないことです。それより、引継ぎの打合せ日程を決めたいのですが」
理一郎さんが立ち上がって、美樹本さんの手を振り切った。
「……わかったわよ。残りは私たちが引き受けるから……」
美樹本さんは、理一郎さんの胸に頭を押し付け、背中に腕を回した。
やめろババア! あたしの理一郎さんに気持ち悪いことするな!
「あなたには日比野常務もお子さんもいるでしょ!」
理一郎さん……本当に、いやな顔をしている。巻田さんの時と全然違う。
「砂尾君が映画に誘ってくれて、二十年近くになるわね」
今、美樹本さんはなんて言ったの? 映画に誘ってから二十年? それってどういうこと?
「私はうかつでした。社員が派遣社員に迫れば断れないことを、理解していなかった」
理一郎さんが好きだった受付さんって、美樹本さんなの? でも、受付の彼女は、会社辞めたんじゃなかったっけ?
「あなたが日比野さんと結婚して、正社員として戻ってきたのは驚きましたけどね」
「ねえ、違うのよ。あの男、私があなたを誘惑したと責めたてたの。社員を誘惑する派遣はいらない、会社を辞めないと派遣会社にクレームを入れて取引停止するって。そしたら他の派遣社員に迷惑かかるじゃない」
「それが本当でしたら、日比野さんは、重大なパワハラをしたことになりますね」
「会社を辞め仕事を失った私は、あの男と結婚する以外、生きるすべはなかったの」
理一郎さん、信じないで! このババアがそんなことで、会社を辞めて結婚するわけないじゃん!
「結婚したらあいつ金食い虫だから、給料だけじゃやっていけなかった。でも、私みたいに、なんの資格もない女が正社員になるには、日比野に頼るしかなかったのよ! ねえ、砂尾君、私を助けてはくれないの?」
理一郎さんが天井を向いている。目が本当に苦しそう。
が、古いロボットみたいに首をぐっと下げ、美樹本さんの身体を引き離した。
「私には何もできません。あなたは日比野常務と話し合うべきです」
それでも美樹本さんは、また理一郎さんの胸に手を押し付けた。
「あいつ、次から次へと社内の若い女に手を出すし、あんなハゲデブになるとは思わなかった! 今更、話すことなんかないわ」
「二人のお子さんのことを考えてください。こんな時間まで残ってていいんですか?」
見たくないシーンなのに、あたしは命令がない限り、目を閉じることができない
「子供は私よりおばあちゃんが好きだから問題ないわ。それより男はみんな若い女が好きね。日比野もあなたも一緒。でもね、私は、巻田ちゃんができないこと、してあげられる」
「私があなたに望むのは、引継ぎです」
「あなた、あっという間に巻田ちゃんに抜かされるわよ。彼女が作ったスカイプリーモのリニューアル案、役員会議で谷川専務が絶賛してたわ」
「谷川専務が、ですか。あの人でも褒めること、あるんですね」
「ええ『二年目の女子社員とは思えない』ってね。私は、あの人、いつもムスっとしてるから苦手だけど……ニ十歳も年下の奥さんが上司になるってどうかしらね?」
理一郎さんは何も答えず、目を少し細めた。
「残念だけど、私は日比野と生きていくしかないの。でもね……一度だけ、あなたと思い出を作りたい。出世したいでしょ?」
「私があなたと映画を見れば、引継いでいただけますか?」
「お互い四十代よ。映画だけですむわけないわよね」
ババアがまた理一郎さんの胸に頭を押し付けた。
理一郎さんは少し顔を背けたけど、抵抗せず、美樹本さんに触られるままにしていた。
「映画の他に何を望むのですか? 私は人の気持ちがわかりません。あなたの気持ちも知らず、二回も映画に誘ったぐらいですから」
「女の私に言わせるの? 何もかも忘れてあなたと愛し合いたいだけよ」
気持ち悪いこと言うな! あたしの左目はこんなものを見るためにあるんじゃない! 何かしゃべって邪魔してやりたいけど、それをしたら最後だ。あたしは理一郎さんに二度と会えなくなる。
「引継ぎを先に済ませる、ということで、よろしいですか?」
……え? 理一郎さん、まさか、こんな気持ち悪いババアを抱くつもり?
「キャハハハハ! 若い奥さんに追い越されるのは嫌なのね。どうやっても落とせなかったのに、こんな簡単にあなたを手に入れられるなんて! 男なんてみんな同じ!」
美樹本さんが理一郎さんの顔を引き寄せた……やだ、キスしようとしているんだ! 彼のマスクを外そうと指を伸ばした。
駄目! あたし、それだけは絶対に許さない! だってこのビルは……
「マスクを着けてください」
この会社でマスクを外していいのは、飲食する時だけ。
二人があたしの左目を凝視して固まっている。
あたしは自分から声を出してはいけなかったのに。
終わった。
これで、理一郎さんとはサヨナラだ。
二人のキスは阻止できた。理一郎さんは「職場です。ここではやめましょう」といって、立ったまま、マウスをいじりだし、あたしの左目を閉じるように命令した。
いつもなら「お休みエルちゃん」と、あいさつしてくれるのに、怖い顔をして何も話さなかった。
五分後、ロビーのあたしの右目は、無言でビルから出る二人の背中を見つめていた。
ビルから出た二人がどうなったか、何をしたか、あたしは知らない。
あたしはここから出られないから。




