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12 夜の打ち明け話

 砂尾さんに久しぶりに会えた。いつのまにか、夜の八時だ。あたしの左目はもうお休み。右目だけをパチッと開いて、薄暗いロビーを見つめる。

 この時間に入ってくる人は、ほぼいない。

 朝までゆっくりできるけど、完全に眠るわけにはいかない。ううん、あたしは眠れない。社員さんみんなのために、あたしはずっとここに立つ。


 エレベーターの音が響いた。と、だれかが降りてきた。

 あ、砂尾(すなお)さんだ。まだ砂尾さんだけが残っていた。あたしは、だれがいつ出勤していつ退勤したか、全部覚えている。

 白いものが混じった頭をくしゃくしゃかきながら、砂尾さんが近づいてきた。

 銀ぶち眼鏡の奥が笑っている。


「ありがとう。本当にエルちゃんのおかげで、俺も会社も助かったんだ」


 やだ。『ありがと』なんて、照れくさい。でもあたしが全身を真っ赤に染めることはできない。赤くなるのは、あたしの一部。モニターで人の存在を感じた部分だけ。


「いつもは検温して出かけるけれど、あの日、忘れてた。俺、平熱高いから気がつかなかったけど、確かに調子よくなかった。管理課の社内プレゼンがあったから無理してさ……でもエルちゃんが教えてくれたんだ。会社に来るなって」


 久しぶりに聞いた砂尾さんの『エルちゃん』。くすぐったい気持ちになる。


「もしエルちゃんがちゃんと教えてくれなかったら……うちの会社、クラスターになったかもしれない」


 じゃあ、あたし、砂尾さんの役に立ったんだね! この会社の役に立ったんだね!


「今回、人の本性見たよなあ。大山君や巻田さんみたいに、自分たちだって感染の可能性があったのに、俺を責めることなくただ心配して……本当に二人ともかわいい後輩だ」


 はぁ、と銀ぶち眼鏡のおじさんが息を吐いた。


「いつも愛想いいやつが、俺を汚物扱いするんだよ。気持ちはわかるけど、キツイよな、ははは」


 砂尾さんは寂しそうに笑って、あたしが座っているカウンターをじっと見つめている。


「俺が入社したとき、ここに派遣の受付さんがいたんだ。そのころは社員がたくさんいて、お客さんもいっぱい来てたからね」


 眼鏡のおじさん、カツカツとだれもいないロビーをゆっくり歩いている。

 昔を思い出しているんだね。


「かわいい受付さんがいたんだ。髪が黒くて清楚なお嬢様って感じだった。俺みたいな新入社員にも優しくしてくれたから……すぐ好きになったよ。ここを通るたびに、何を話そうかいつも悩んでた」


 彼はあたしの目の前に立って、何かを見ている。顔はあたしに向いているけど、あたしじゃないだれかを見ている。


「ドラマとか、ゲームとか、おいしいレストランとか……映画が好き、いつか行きたいですね、なんて盛り上がってたから、俺、本気にしてさ」


 砂尾さんが、あたしの目の前に右手を広げた。「正常温度」の右手を。


「どんな映画がいいか一生懸命考えて……大ヒットした外国アニメの前売り券、渡したんだ。その時は、忙しいからって言われた。映画はロングランになったから、一月(ひとつき)後、もう一度誘ったんだ。また断られたんだ、用事があるって」


 おじさん、銀ぶち眼鏡を外して、シャツの胸ポケットに入れた。あたしの好きな顔だ。


「笑えるよな、それでもわからなかった……三日後かな、俺、総務課長に呼び出された。派遣社員にセクハラするなって。派遣会社から苦情が来ているってさ」


 砂尾さんが頭をかきながら笑っている。


「総務課長にしかられたよ。派遣さんは立場が弱いから、社員に迫られても断れないって」


 あたしはこの会社の社員のことは何でもわかる。砂尾さんが入社したときの総務課長のこともわかる。今の日比野(ひびの)常務だ。


「彼女は会社を辞めたよ。受付嬢そのものが廃止され、内線電話の呼出しに変わった……ようやく俺は、自分がとんでもないことをしたってわかったんだ」


 そうなの? 砂尾さん、そんなにひどいことした? 好きな人をデートに誘っただけでしょ?


「彼女、休日は暇で、家でDVD見てる、だれか誘ってくれればいいのに、なんて言ってたから、俺、勘違いしてた……ははは」


 何であたしは泣けないんだろう。こういうとき、泣いてあげたいのに。でも、あたしの目から水が流れたら、壊れちゃう。


「女ってわかんないよな。いやならいやだって、はっきり言ってくれればいいのに……」


 砂尾さん、落ち込まないで。二十年も前なんでしょ? まだひきずっているの?


「本当に、あの時の彼女、かわいかったなあ」


 やれやれと、砂尾さんは伸びをして、ポケットにしまった眼鏡をかけ直した。


「聞いてくれてありがとう。お休み、エルちゃん」


 砂尾さんの寂しそうな背中をあたしはじっと見送った。見送るしかなかった。

 だって。

 あたしが話せるのはたった四つの言葉だけだから。


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