10 彼の役に立ちたいの
「役員でうるさいのがいるのよ。マスクなしとか温度が高くて警告出ているのに、そのままビルに入った社員がいるってね……だれかしら、余計なこと言ったのは」
いつものせまい部屋であたしは左目を開けた。でもいつものように夜七時ではなく、珍しく昼休みの時間。
美樹本さんが、椅子に座っている砂尾さんと向き合っている。やだなあ。ダマスカラちゃん、ううんダマスカラじゃなくなった巻田さんの方が、ずっとマシ……あの子、全然来なくなったなあ。あそこまで完璧に振られたら、来られるわけないよね。あたしも悲しくなったもん。
「該当する社員は、総務でわかるはずです。都度、アラートがメールで送信されますし、社員の通過履歴はCSV形式で出力できます……画面を見てもらえませんか? もう一度、説明します」
砂尾さんがマウスをいじりだした。あ……普段、触られてない部分に到達されると、恥ずかしくなってくる。
「こそっと、砂尾君から本人に警告してくれない? そちらでわかるんでしょ?」
砂尾さんの指が硬直した。やだ……そこでやめられちゃうのも……変な気分になっちゃう。
「美樹本課長、それは、総務の仕事ではありませんか? 装置の管理運用は暫定的に我々がやりますが、我々には感染予防を指導する権限はありません」
今、揉めているのは多分、一昨日のことだ。
朝、丸山秀俊さんが出勤したとき、「温度が高めです」って教えてあげた。なのに丸山さんは、あたしの警告を無視して、しれっとエレベーターに乗ったんだよ。ひどいよ。あたし、こんなにがんばっているのに!
「ねえ、お役所みたいな硬いこと言わないで、お互い助け合いましょうよ」
「マスクなし、基準温度より高めの人を、ビルから締め出す手はありますよ。ドアの開閉システムと連動させるんです……予算があれば、ですが」
「そんなことしたら役員たちからクレームの嵐よ! できるわけないでしょ。ねえ……それより……」
またナチュメイクババア、砂尾さんの髪に指を滑り込ませている。気持ち悪いんだよ、お前!
と、砂尾さん、彼女の指をパッと振り払って、美樹本さんをにらみつけた。
「ソーシャルディスタンスです。何度言ったらわかってくれるんですか?」
どうしよう。怖い砂尾さんを見ると、あたし、ドキドキする。
おや、ババアも、腕を組んで目をつりあげている。
「砂尾君、あなたにそんなこと言う資格、あるの?」
「……二十年近く前の話です。私はあれ以来、社員とは節度ある態度を貫いているつもりです」
「そうかしら? 本当は、私への当て付けなんじゃない?」
「やめてください!」
やだ。怖い。昼休みの機械室で火花が散っている。おじさんとおばさんが、怖い顔してにらめっこしている。
「……ねえ、助けてくれないの?」
あ、砂尾さん、また、あたしをいじりだした。さっきと同じメニューだ。あ、もっと、あたしの深いところをいじっている。マウスじゃなくて、キーボードでカタカタと何か打ち出した。
あたし、なんか変になっちゃう、やだ、あたしが変わっちゃうよ……。
「……違反通過した社員に、自動でメールが送信されるように設定しました」
「やったあ! ありがと砂尾君、大好きよ! これで役員連中に、対策とってるって堂々と報告できるわ!」
美樹本さんが、砂尾さんの椅子の背もたれ越しに抱き着いて、手を彼の頭や胸に滑らせた。
やめて! あたしの砂尾さんに触らないで。眼鏡の奥ですごく困ってるじゃない!
「正常温度です」
「いやだ! 突然、変な音出さないでよ!」
ナチュメイクババアが飛びのいた。やった、砂尾さんから離れてくれた。
「カメラが正常に動いている証拠ですよ」
お、砂尾さん、ドヤ顔している。ふふ、いい顔。
ね? あたし、少しはあなたの役に立ってるかな?
あたし、あなたに触る腕はないけど、喜んでもらえるためなら何でもするよ。




