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蜘蛛の糸

 辺りは夜の暗闇に包まれていた。深々と雨が降り続けている。陰鬱な夜の雰囲気のせいか、いつの間にかカストロ通りには人気が無くなっていた。先ほどまでの騒ぎが嘘のように静かだ。結局、彼が盗みを働いた露店の主は駆けつけた衛兵に連れ去られ、彼に憤怒と憎悪の牙を向けていた民衆は雨で気が削がれたのか足早にその場を立ち去っていた。

 不気味な静けさが漂うカストロ通りを、彼は暴行で傷ついた体を引きずりながら前を歩く巨躯の男の背を追った。怒れる民衆からリンチを受けていた彼を救った男だ。パン屋の主人だ。彼は男の顔に見覚えがあった。男は倒れ伏す彼を立ち上がらせると彼に自分がドンクという名前を告げた。男は彼の体を少し触って見回すと背中を向けて、ついてこい、とだけぶっきらぼうに言い捨てると歩き出した。

 喜ぶべきことか、それとも悲しむべきことか、いやここは憎み恨むべきだろう。恩知らずな彼はドンクの親切心への後ろめたさを怒りに変えて、前を歩く男の背中を睨んだ。あれだけ暴行されても、彼の頑丈な肉体は強烈な痛みに耐えて、歩くことに何の支障もなかった。それが彼にとっては憎らしかった。

 無言で歩き出す大男の背中を追った。大柄な男の歩幅は大きい。しかし、痛みが足枷となっている彼の足取りに合わせているのか、その足取りは見るからに緩慢としている。

 それが彼を更に苛ついた。

 少し歩いた後、彼は古くてボロイ石造りの家の前で立ち止まった。そこはパン職人であるドンクの店、パン屋の前だ。つい先ほど、彼が立ち止まったパン屋の前である。建付けの悪い家の扉の隙間からは、暖色の明かりが外に漏れだし夕餉の香りが漂っている。

 ドンクは家を力任せに扉を開いた。乱暴な男だ。けたたましい音を立てて開かれた扉から家の中の明かりが、ドンクよりも数歩離れた彼の足元まで伸びてきた。


「帰ったぞ」


 低くも太い声は家の中によく響く。ドンクは鈍重な足取りで床を踏み軋ませて進み入っている。家の中は、転生前の社会で生きた彼の感覚では不気味なほどに薄暗かった。数本の蝋燭の頼りない光だけしかなく、空間の半分近くは暗闇が鎮座している。それでも不思議なことに、蛍光灯のような明るさほどはないがどこか懐かしい温かみが蝋燭の光から感じられた。その暖色光に、彼はノスタルジックな感情から一瞬だけ涙腺が緩みかけた。


「どうした、さっさと入れよ。安心しろ、お前みたいなガキを取って食おうなんてしねぇからよ」


 ぶっきらぼうに言い捨てると、ドンクは居間のテーブル真ん中の席にドカッと粗野な人間がやるみたいに座る。まるでこの棲家の主であるかのように横柄な態度で、台所から姿を現した妻に夕餉の準備を促す。腹部が少し膨らんでいるように見える。妊娠中なのだろうが、夫はそんな妻に気を使う素振りはないのか雨で冷えた体をワインを飲むことで温め始めた。妻はそんな夫の態度に辟易しながらも、文句や非難を込めた溜息一つ吐いただけだった。台所に戻ろうと振り返る途中で、戸口に立ち尽くす彼の姿を見つけてバンク夫人は露骨に訝しんだ。

 血と土埃にまみれ雨でずぶぬれの小汚い、それも顔だけでなく体中に殴られたり蹴られた形跡が残る子供がそこに立っていれば誰だって驚いて不審に思うだろう。だが、これが彼の知る世界ならそんな子供を見た大人の開口一番に出る言葉は子供の身を心配する優しい言葉であっただろう。

 しかし、ドンク夫人の口から出た言葉は諦観とした溜息と苛立った声である。


「なんだい、アンタ。またどこからそんな小汚い野良を拾って来たんだい? 全く、うちは孤児院じゃないんだよ。恵まれない子供に施しをあげられるだけの余裕があるわけでもないし、アンタと私の二人だけでも生活は苦しいっていう状況だっていうのに」

 

 ドンクの夫人は棘のある口調で夫に愚痴を投げつけながら、一瞬だけ視線を落として大きく膨らんだお腹をそっと撫でる。夫人がお腹に宿る命に触れる姿の背景には暗澹とした不安の影がはっきりと色濃く浮かんでいた。それを見た彼は気まずさから夫人をまっすぐに見ることがなきなくなった。

 そんな彼に向って夫人は声を飛ばした。


「ちょっと、入るならさっさと入る。そうじゃないんなら、さっさとどっか行ってくれないかい? いつまで戸口を開けっ放しにしとくつもりだい。雨風が冷たいったらありゃしないよ」


 ドンクの妻は見た目も声音も強気な女性だった。はっきりとした口調で早口でまくしたてられた彼は思わず驚いて頭を下げながら今の中に足を踏み入れた。後ろ手で扉を閉めながら伏し目がちにドンクの妻へ顔を向ける。


「す、すいません。し、失礼します」


 とっさに謝罪の言葉が出たのは、転生前の社会で身に染み込んだ種族としての性なのかもしれないが、ドンク婦人の迫力ある声音と気迫に圧倒された可能性も否めない。夫人は彼の生気が薄弱とした声音で出したその言葉に眉根を寄せて訝しんだ。夫人は信用できない露店の商品を見るような目で彼をジロジロと視線で舐め回すと、興味が失せたように嘆息を漏らして背を向けて居間の奥へと姿を消したと思ったらすぐに戻ってきた。


「ほら、これでその濡れた体を拭きな。アンタもだよ」


 ドンク夫人は苛立った口調で、彼と不愛想な自分の夫に向って布を乱暴に投げつけた。麻布は襤褸で汚くて酷くごわついていた。体をこの布で拭くというよりも、この使い倒された布では擦るといった表現が正しいだろう。彼はその布で濡れた体を拭くと少しだけ肌が傷んだ。けれども転生前の癖という習性か、彼は小さい声で夫人に向けて感謝を口から零すが彼女の姿はすでにそこになかった。台所の奥から忙しない物音に交じって夫人の愚痴が聞こえてくる。


「いつまでそこに突っ立っているんだ。そこに座ったらどうだ」


 ドンクの低く圧のある声に促されて、彼はドンクが指し示す対面の席に座る。体を拭いた麻布を食卓の隅に畳んで置く。椅子に座った彼はどこに視線を定めたら良いのかキョロキョロと視線を泳がせている。ドンクはそんな様子の彼を無視して酒杯を重ねていく。彼は次第に息苦しさを感じ始めた。生来の人付き合いを苦手としてきた彼は、見知らぬ相手と同じ空間を共有することに苦痛を感じていた。相手が何を考えているのか、自分に何を求めているのか、何を話せばいい、このまま黙って時間を過ごしていていいのか、そんなことばかりを考えているあまり次第に彼の胸の内にストレスが溜まりだした。自然と足を小刻みに揺すり始めた彼は、目線を上げて彼に無関心そうにワインを飲み続けるドンクを睨んだ。

 しかし、何故彼は彼自身を救った男に対して苛立ちを感じているのが解らなかった。そして、その感情を持つことに後ろめたさを感じて彼は彼自身を軽蔑すると同時にあきれ果ててもいる。

 そんな複雑な心情で疲れて苛立っていた彼は、次の瞬間思わず口から飛び出してしまった。その言葉は彼自身の心を深く傷つけた。


「な、何で、何でだ。何で助けたんだ」


 まるで喧嘩を吹っ掛けるかのような勢いで彼は声を荒げた。まるで無駄に吠えたてる犬のように、必死に心を奮い立たせて無理に怒りの表情を浮かべてバンクを睨む彼の姿は滑稽ですらある。バンクはそんな彼の声が聞こえていないのか視線を向けもせずにワインを飲み続ける。


「お、おい、てて、テメェは俺の、俺の話をちゃんと聞いてんのか。む、無視してんじゃねぇよ!」


 弱い犬ほどよく吠えるとは言ったものだが、声を必死にがなり上げながら立ち上がる彼の虚勢ぶりには呆れるよりも虚しさだけしか伝わってこない。声も足も震えている。睨みながらも視線が泳ぐところからも彼の肝っ玉の小ささが見える。なんともみっともない男だ。仮にも命の恩人に威嚇する彼の心境など、転生前の社会で理解できる者はいるのだろうか。

 だが、これが社会の底辺で劣等感に苛まれながら生きた彼の処世術なのだ。どれほど見苦しくとも、どうか無視してやって欲しい。

 そんな彼に対してドンクは、強い犬ほど吠えないということなのか彼のがなり声など意に返した様子もない。彼の威嚇を無視して、ワインを喉を鳴らして飲み込む。その動作を黙々と繰り返していた。

 それが彼の感に触った。嫌な感触で。


「お、お前、何様のつもりだ!」

 

 彼はドンクを睨んだ。彼の命の恩人であり、今も外で降り続けている冷たい雨水に打たれずに済んでいるのも、家の中に招き入れてくれた粗野ながらも心優しい男のおかげだ。それなのに彼はそんな男の優しさを心の底から憎んだ。彼はドンクに感謝すべきだと解っていながらも、素直にそれを言葉にすることができなかった。ドンクに対する感謝の念が強まるごとに、嫉妬や恨みや敵意といった感情が彼の心の中で募っていった。

 そんな彼の身上を理解できるだろうか。彼がバンクを怒り憎む感情の背後にあるのは、転生前から彼が影のように引きずり続けている劣等感に突き動かされたからである。それは卑屈と僻みによる八つ当たりだ。彼は自分の境遇や運命に不満や不平を抱えていた。彼は自分よりも有能な人間を認めなかった。自分よりも幸福な人間を許せなかった。転生前の彼はいつも周囲の人間と自分を見比べて、その度に憤慨や妬みを感じていた。自分の欠点と無能さを彼自身認めていた。だが、正そうとはしなかった。怠惰にして惰性に生きて来た彼にとって、ドンクのような男は天敵だった。ドンクのように普通に生きている人間を見ると、無能な自分がより一層に愚かで憐れに見えてしまうのだ。


「お、お前がやっていることなんてただのぎ、ぎぎ、偽善だ。哀れで愚かな子供の命を救って満足か? そ、それとも命を救ってくれてありがとう、とでも俺が言うと思ったか? か、勘違いしてんじゃねぇぞ。お、おお、俺は助けてなんて一言も頼んじゃいねぇ!」


あぁ、どうか。どうか、彼の耳障りな言葉に不快な思いをしたとしても彼を許してやって欲しい。長年、社会の底辺で他人を妬み自分の不遇を憤り続けたが為に素直に他人からの行為を受け入れることができなくなってしまっただけなんだ。


「ありがとうございます。私のような小汚い浮浪孤児の命を救ってくれてばかりか、このように雨風を凌げる家の中へ招き入れてくれるだなんて、貴方はなんて素晴らしい人なんだろう。貴方のような心優しい人を私の前に差し向けてくれた神に感謝を、そして貴方に心からの感謝を送らせて頂きます」


 サンショウウオは嫌な笑みを浮かべる。その醜怪な内に溜め込んだ醜い心を表したかのような表情だ。

 まさに水底の洞穴に閉じ込められた怪物そのものだ。


「そう言われて満足か? アンタの利他心はさぞご満足されただろう。なんといったって哀れな孤児の命を救っただけでなく、こうして無償の施しをなさっているんだからなぁ。あぁ、ありがたいありがたい。アンタはまさしく俺にとっては神様……神様よりもありがたい存在だよ。だがなぁ、俺はそんなの微塵も望んじゃいなかった。俺があの場で、周囲を囲む大人達に殴る蹴るのリンチを受けていた時、この俺が一言でも行ったか? 誰か、助けてくださいと!」


 ニタニタと嫌な笑みを浮かべながら、彼はドンクの優しさを嘲るように言う。

 魔女の鍋の蓋を開けたような不浄な空気が居間に漂い始めた。喚き散らす彼の口から、これまで彼の内で煮立たされ続けた負の感情が吐き出されたのだ。

彼の声と表情に浮かぶその感情には忌避とした嫌悪しか感じない。暗くて狭い洞穴の中を思わせる陰湿とした感情だ。この場に常人がいたのならば、彼の攻撃的な暗い感情に敵愾心を抱くことだろう。そんな感情を直接ぶつけられているというのに、ドンクは無表情でワインを注ぐとゆっくりと嚥下する。

 ドンクの優しさに唾を吐き、その善心に爪を立てるような彼の言動を無視するかのようなドンクの様子に、彼の卑屈な心はその虚しさにますます怒りを募らせる。


「与えよ、されば与えられん。胸糞の悪い言葉だ。生活に余裕のある奴が、俺みたいな親も住む家も食い物を買う金も無いガキを勝手に憐れんで勝手に助けて勝手に施して、さぞや気分が良いだろうなぁ。お前に俺の何が解るっていうんだ。俺の何が解る、お前に俺の何が解るっていうんだ。俺の心が解るなら、俺の願いを知っていたのなら、お前はこんな酷い仕打ちを俺にしなかったはずだ。」


 サンショウウオは慟哭し涙を流す。どうかこのどうしようもなく愚かで醜い生き物をどうか憎まないでやってくれ。転生前の社会の下層で、暗く狭い洞穴の淀んだ空気の中で長年過ごしてきた為に、この生物の天邪鬼な心は醜く歪んでしまったのだ。その心を理解してくれなどとは言わない、だがせめて憐れんでやってくれ。この悍ましく心の醜い生き物は、今も傷つき苦しみ続けているのだから。


「俺は生きることに希望なんて持っちゃいないんだ。俺の人生に救われるような価値なんてないんだ」


 彼の言動は恩を仇で返すようなものだ。恩人に対して怒りと憎しみを向ける一方で、悲しみに涙を流していた。そんな彼のその心情を理解できるだろうか。彼は恩知らずな人間なわけではない。今でもドンクに対する感謝の念は持っている。だが、彼は他人から施された時に相手に対して否応も無く心に植え付けられる恩義に苦しみ悩んできた。それは毒のように彼の心を蝕んだ。

 転生前の彼は他人からの施しに頼って生きていた。努力を怠り無能だと自覚しながらも、自尊心が高くて周囲に馴染むことができずに職を転々としていた。彼は親の脛を齧らなければ人並みの生活を送れなかった。両親が亡くなれば、食うに困ることがあれば親族に助けを求めた。そうやって、彼は他人からの施しを受けることで社会の最底辺でどうにか生きながらえることができていた。

 生活費の当てをしていた両親からは、「どうしてお前はそうなんだ」「どこで育て方を間違えたのか」「お前の同級生は結婚して子供もいるぞ」「どうして、もっとしっかりできないんだ」と、その不出来さを諦観と憐れみで見られた。金の無心をした親族からは、「見っとも無い」「アンタと家族だって世間に知られるだけでも恥ずかしい」「いい年齢をして、お前はまだフラフラとしているのか」と、その怠惰な精神を軽蔑と怒りで罵られた。やがては親族からも見放され、彼はホームレスへと身を窶すことになったのが、それでも彼の怠惰な精神が治ることはなかった。ホームレスとして道端で無気力で座っているだけの彼を他人は冷たく笑っていた。それでも、彼は死ぬまで彼以外の見知らぬ他人からのお情けを受けて生きてきた。そうやってどうにか社会の最底辺を生き延びてきたのだ。転生前の社会ではそれが可能だったのだ。

 そんな生涯を送っていた彼の根暗なナルシストな心は酷く醜く歪んでしまっている。無能な人間の自尊心ほど無駄な物はない。彼は自分の尊大なプライドの為に、いまも意味も無く自分を卑下して卑屈して傷つけていた。

 勘違いして欲しくはないのだが、彼自身もそんな人生を望んで歩んだわけではない。彼の無駄な自尊心がそんな生き方を彼に選ばせたのだ。彼はそれを自覚し理解しながらも、結局は死ぬまでその自分の呪いのような性から解放されることはなかった。

 なのに、彼は今もなお生きている。別の世界で、以前の世界と変わらない形で、以前の世界よりも劣悪な環境で、彼は生きている。そして、今もなお彼は彼自身の心の毒気に苦しんでいた。

 そんな彼の苦しみを理解できるだろうか。きっと誰も興味を抱かないだろう。負け犬の梅雨の湿気のような気分が暗くなるような気持ちなんて、誰も知りたくもないだろう。そんな感情をぶつけられているドンクは、時折彼へ視線を向けながら静かにワインを飲んでいる。


「お、俺は、俺は死にたかったんだ! ようやく、この地獄のような世界から抜け出せると思ったのに。お、お前が、お前が余計なことをしてくれたおかげで、俺は今もこんなに苦しんでいる。お前にわかるか、この惨めな気持ちが、お前に俺みたいに他人からのお情けで生きて来た負け犬の気持ちがお前にわかるのか! なんで助けたんだ。死にたがっている人間を助けてなんの意味があるんだよ。頼むから、もう楽にしてくれよ。俺は、俺は死にたいんだ。もう、いい加減死にたいんだよ」


 嗚咽とともに彼は転生前から抱え込んでいた感情を吐き出した。長い間彼の心の中で炎症を起こし化膿して溜まっていた膿を吐き出したことで、彼の心は少しだけ楽になった。親以外のそれも見ず知らずの赤の他人の前で、彼がこのような形で感情を剝き出しにしたのは転生前を含めても初めての経験だった。

 ささくれ立っていた彼の感情が次第に凪いでいく。涙はいつしか枯れ、無気力感の虚無とした感情の中で彼は無言とドンクを見つめた。そして、気まずそうに彼は俯いた。

 ドンクはそんな彼を見つめながら、手にしたゴブレットにワインを注ぎ一気に飲み干すと、酒気が色濃く漂う息を深く吐いた。

 彼にとって気まずい静寂の時間が流れると、ドンクはゴブレットを置くと小さく呟くようにして沈黙を破った。


「頼まれたからだよ」


 ドンクの意外な言葉に彼は顔を上げた。ドンクは窓の外を眺めていた。窓からは夜闇のヴェールに包まれていて何も見えない。所々で家々の窓から漏れ出る蝋燭の弱弱しい光が転々として見えるだけだ。貧民街の通りゆえなのか、遠くから争いごとの物音と小さな悲鳴が聞こえてくる。ドンクの瞳には憂いのような色が浮かんでいるが、何に対して憂いているのか彼には理解することができない。ただ、先ほど呟いたドンクの言葉の意味を彼なりに何度も頭の中で反芻していた。

 ドンクの言う『あの子』に彼が思い当たる人物は一人もいない。仮に彼が記憶を取り戻す前の、この少年に知り合いがいたのするのなら、もっと早い段階で彼自身を違う形で助けているはずだ。


「……た、頼まれたって、一体だ、誰から?」


 彼からの質問にドンクは窓から目を離すと、ゆっくりと視線を彼の方に向けると静かな声で答えた。


「女の子だ。頬のそばかすのある青い瞳が印象的な子で、何度か見たことがある娘だったな。お前の友達じゃないのか?」

「そ、そばかすのある……青い瞳の少女」


 彼はカストロ通りで見た青い瞳の少女の姿を思い出した。彼が露天商から林檎を盗んだ時に、大きな声で周囲の大人達に聞こえるような大声で叫んでいた少女だ。彼をスケープゴートにするために、彼が林檎を盗んだことを周囲の大人達に教えたあの女の子だ。

 彼はその時に少女が浮かべていた悪戯な笑みを思い浮かべると、なぜか自然と頬が緩んだ。彼は少女に対して怒りも恨みも無い。むしろ少女に対する温かな親しみのような感情が湧き上がってくる。その感情の正体が何なのか、彼は何一つ理解できていない。

 彼の表情からは先ほどまで覆っていた忌避とした陰湿な剣呑さがなくなっていた。そんな彼の顔を見つめながら、ドンクは話を続ける。


「お前は俺の店の前に立っていたよな。別にそれを咎めもしないし責めもしない。いつも売れ残ったパンを孤児にやっているせいで、俺の店の前にはこの辺のガキどもがよくたむろっていることがあるからな。だけど、俺の姿を見るや顔を青くして逃げやがったから少し気になっていたんだ。いかにも腹が減り過ぎていて俺の店のパンを盗みそうな顔していたしな。逃げたお前を追うかどうしようか考えていたら、その女の子が突然俺の店に慌てた様子で駆け込んできたんだ。名前は知らないが、この辺で何度か見かけたことのある子だな。あの青い瞳には見覚えがある。この辺の悪ガキ達の中でもかなりタチの悪い娘だが、その子が突然店の前に姿を現すやいなや、大声で俺にお前を助けるように頼んで来たんだよ」


 ドンクは長話で乾いた口を、ゴブレットに注ぎなおしたワインで潤す。


「だから、助けた。理由はそれだけだ。文句をいうなら俺じゃなくその子にいうんだな」


 そう言うと話すことがもうないのか、ドンクの口は再び言葉を発することを止めた。ワインを飲み時だけ開かれるだけである。

 彼は窓の外に視線を向けた。窓から見える宵闇に沈むカストロ通りのどこかであの青い瞳の少女はいるのだろう。何故、少女が彼を救ったのか彼には解らない。彼を窮地に追いやりながら、その窮地から救った少女のあの小悪魔的な笑みが脳裏から消え失せない。

 不思議な少女だ。あの吸い込まれそうな青い瞳の前では、どんな悪態も悪行も許されしまいそうだ。少女の魅力的な笑みを思い出すだけで、軽くステップを踏みそうなほどに彼の心は浮かれかかった。彼は自然と笑みを浮かべていた。このような気持ちを抱くのは、転生前の人生を振り返ってみてもいつぶりだろうか。


「話は終わったようだね。だったらさっさとおとなしく席に座ったらどうなんだい?」


 そう言いながらドンク婦人が両手にスープ皿を持って居間に入ってきた。

 夫人の姿を見て、彼は先ほど大声で口走ったドンクへの悪口雑言を思い出した。先ほどの言葉は全部ドンク婦人の耳に届いていただろう。彼は静かに席に座るが、罪悪感に苛まれてドンク婦人をまっすぐみることができなかった。

 ドンク婦人は夫のドンクに、そして次に彼の前に手にしていたスープの皿を置いた。彼は思わずドンク婦人を見上げたが、夫人は彼に何も言わずにスプーンを置いて台所へと戻っていく。その背中を引き留める言葉を絞り出そうとするが、何を言えばいいのか解らない。彼の口からは形にならない小さな声がとぎれとぎれに漏れ出ただけだった。

 彼は黙って目の前に置かれたスープを見下ろす。ゴロゴロと大きなジャガイモが目に付く野菜スープだ。スープの温かな湯気が彼の食欲を強烈に刺激した。彼の腹の虫が情けない声を上げた。気が付くと、彼はスープに手を伸ばしていた。スプーンを握り締める手が小刻みに震えている。

 一口掬って口に入れると、彼の口の中が歓喜に満ち溢れた。

 それは塩で味付けされただけの、シンプルな野菜スープだった。転生前の世界ならば、コクもうま味も感じない根菜をただ水で煮ただけとしか思えないようなスープだ。野菜の灰汁による独特の臭みがあって、転生前の偏食気味だった彼ならば絶対に口に入れないようなスープだ。

 しかし、今の彼にとってこのスープは極上のものだった。

 気が付けば彼はスープを飲み込んでいた。彼の意志に反してスープをすくうスプーンが止まらない。空っぽだった胃袋に暖かいスープが入ると、体全体に幸福感が染み渡ってくる。この懐かしい温かな幸せを、彼は噛みしめながらスープを味わう。すると、転生前の数々の記憶が蘇ってくる。それは彼が転生前で幸せだと感じられた時の記憶だ。

 それは平凡でとても地味な幸せだ。

 お腹を空かせて家に帰ってきて家族と一緒に夕飯を食べている時。

 給料日前の金が無い時に仕事の上司のおごりで外食した時。

 冬の公園で慈善団体が用意してくれた炊き出しの豚汁を食べた時。

 忘れてしまっていた小さなこの幸せを、彼は思い出しながらスープを飲み干した。空腹の時に食べるご飯で得られる幸せは、どの時代のどのような境遇であろうとも変わらない。彼の顔から子供らしい笑みが零れ落ち続けている。

 そんな彼の様子を見て、ドンクは満足そうにしてドンク自慢の妻のスープに手を伸ばす。


「死にたいと言っておきながらも、どうやらお前の体は生きることを望んでいるみたいだな」

「……腹が減って死にそうな人間の前に食い物を置いて我慢なんてできるわけがないだろう。こんなのはただの拷問だ。耐えがたい苦痛だ。死にたいのに、死にたいのに、そんな俺の願いを無視して体が勝手に食べることを止めようとしない」


 彼は自嘲気味に言いながら、彼は諦めたように言う。


「素直に美味しいって言えないのかい?」


 再び台所から姿を現したバンク夫人が、自分の分のスープとパンが詰め込まれた籠を持ってテーブルにつく。夫人は食卓の中央に置きながら夫の隣に座る。籠に入っているパンは店の売り残りなのか、完全に冷えていて見るからに堅そうなパンだ。彼は抑えがたい食欲に突き動かされて自然と籠の中のパンへと手を伸ばしていた。堅いパンを引きちぎると、スープに浸す。スープを吸い込んだで柔らくなったパンを食べるとさらに彼の体は幸せで満たされていく。

 そんな彼の食べる様子を見て、夫人は呆れたような溜息を洩らしながらもその表情はどこか嬉しそうだ。自分の作った料理を美味しそうに食べてもらえて不機嫌になるものはいない。夫人は夫人なりに彼に対して思うことはいろいろあった。ドンクの家は決して裕福な家庭ではない。それは家の中を見れば明らかだ。最低限の調度品しかなく、ドンクもその妻も服装は古くてボロボロだ。ドンクの稼ぎでは二人で質素な生活を送るので精一杯なのだろう。なによりも夫人は身重で、将来に暗澹とした思いを抱いているに違いない。現に、彼を最初に見た時の夫人の顔には夫に対する不満が色濃く浮かんでいた。だが、浮浪孤児である彼を追い出す気もない。心優しい親切なドンクの妻もドンク同様に優しい心の持ち主であったようだ。

 夫人は隣に座る夫へ視線を向けると、その汚い恰好を見て呆れたような溜息を吐くと小言を漏らした。


「夕飯を食べる時ぐらいは、その煤で汚れた作業着ぐらい脱いだらどうなんだい?」


 ドンクの妻は対面に座る彼の食べる姿を見て、ますます自分の夫への不満が強まった。彼は特別行儀が良いわけではないが、ドンクのようにスープが入った皿を口元まで近づけてスプーンを使って口の中に流し込むような食べ方はしないし、何よりくちゃくちゃと音を立てながら咀嚼したりしなかった。


「なんでアンタの方が目の前の子供よりも行儀が悪いんだい。本当に食べ方が汚いんだから、どうしてそんな意地汚い食べ方をするのかね。いくらアンタが昔は兵士として戦場で働いていたからといって、どうやったらここまで行儀の悪い粗野な人間になるんだろうね。少なくとも、この辺りの衛兵でもアンタよりは行儀ってのを知っているよ」


 愚痴る妻の小言を無視して、ドンクは黙ってスープのおかわりを要求する。そんな夫の横柄な亭主関白ぶりに文句を言いながらも席を立ちあがる。


「ほら、お前も皿をよこしなさいな。もう空じゃないか。まだ食べるだろ?」


 そう言うと、ドンクの妻は手を伸ばして彼のスープ皿を持ち上げた。彼は驚いて何も言えずにいると、ドンクの妻はスープを盛りなおして彼の食卓の前に置いた。さらに盛りなおされた野菜スープはじゃがいもばかりが目立っており、それはスープというよりはジャガイモの煮物に近かった。だが、その方が腹を空かせた彼にとっては都合がよかった。

 彼が転生した子供の肉体は虚弱体質なごとくガリガリにやせ細っているが、胃は健康にして健啖なようでいくらでも入れることができるような気がした。この若さゆえの旺盛な食欲を感じるのは、彼にとってあまりにも久しぶりだった。

 食べれば食べるほど、痩せこけた肉体に生気が満ち溢れてくるのを感じた。ドンクもそんな彼の旺盛な食欲に張り合うようにガツガツと食べる。そんなドンクを見てドンクの妻は呆れたように溜息を吐いた。


「何でアンタまでそんなにがっついて食べているのよ。全く、アンタはいくつになっても子供なんだから」


 そう言いながらも夫人は嬉しそうに微笑んでいた。ドンクも不愛想な顔をしているが、どことなく穏やかな顔つきをしている。そんな二人の姿を見て、彼はいつしか忘れていた懐かしい記憶を思い出していた。

 蝋燭の光に灯された質素な貧しい家の中に家族団欒の温かな時間が流れている。彼はその光景を眺めてノスタルジックな悲しみに涙腺が緩み始めた。それは彼が子供だった時の記憶だ。夕飯時に家族が食卓に揃って母親の手料理を食べていた頃の記憶が鮮明と浮かんできた。それは彼の歩んできた人生の中で、最も幸福に溢れていた時の記憶だった。この頃の彼は、将来への不安も無く、現在への不満も無く、毎日が楽しくて明日が待ち遠しく感じていた。

 熱を帯び始めた目を腕で擦って、彼はノスタルジックな感傷を拭い落す。彼は過去を振り返ると、いつも悔いる思い出ばかりが浮かんできて自己嫌悪に陥りそうになる。だからか、彼は彼自身の過去を思い出すことを嫌っていた。懐かしさは彼にとって彼を苦しませるだけの罠だからだ。

 悲嘆にくれ続けていた者の心は捻くれている。喜びや笑みといった感情を素直に表現することができない。だが、ドンク夫妻の優しさに彼が救われたことは確かだ。

 温かな心持ちで、彼は優しい夫婦を見つめながら言う。


「……ごちそうさまでした」


 彼は頭を下げて、その言葉に込めた感謝の気持ちを伝えた。二人に出会えたこと、食事をごちそうになったこと、それらは彼にとってかけがえのない幸せだった。それは彼がいつしか触れることを恐れるようになった人情の温かみである。だが、その幸せは長くは続かなかった。


「アンタ、本当に孤児なのかい? いや、別にお前さんを悪く言うつもりじゃないんだけど、孤児にしちゃ食事のマナーも良いし、言葉遣いも孤児らしくない。大体、孤児なんて感謝も礼儀も知らない子達ばかりだからね」


 ドンクの妻が不思議そうに尋ねた。彼女の顔には困惑と好奇心が入り混じっていた。

 その瞬間、彼は冷水を浴びせられたかのように緊張で体が凍り付いた。久しぶりに触れた人の優しさに、彼の警戒心が緩み完全に油断していた。ドンク婦人の言葉通りならば、この世界では孤児が正しい礼儀作法を知らないのが普通のようだ。つまり、転生前の高度な文明で高校まで教育を受けていた彼は、この世界では普通ではないということになる。

 世界は異なれど相手が人間である以上変わらない原理がある。それは人間は普通ではない人間を忌避するということである。

 ドンクの妻は訝しんだ視線で彼を見ている。


「まぁ、親に捨てられて誰からも何も教えられていないのだからしょうがないんだろうけどさ」


 彼女はそう言って苦笑すると興味が失せたのか、手を伸ばしてパンを齧りながらスープを飲み込む。ドンクの妻は彼のことを大して気にしてはいなかったようで、彼はほっと胸をなでおろした。

 しかし、妻の疑問に触発されたのか、夫のドンクは彼を鋭い眼光で見つめていた。


「……お前、自分の名前はあるのか?」


 ドンクの低い問いかけに彼は心臓が飛び跳ねる思いをした。その重低音の声はどこか威圧的でも優しくもなく、ただ事実を確かめるような口調だった。しかし、彼にとっては十分に恐ろしい質問だった。彼は転生前の社会で通りを歩いていた時に警察官から職質を受けたときのことを思い出した。


「何をそんなに驚いた表情をしているんだ。俺はお前の名前を聞いているだけだぞ」


 ドンクは困ったように小さくため息を吐く。ドンクとしては軽い気持ちで彼に尋ねたのだろう。それもそうだ。ドンク自身はすでに彼に自分の名前を名乗っているのに、彼の名前を尋ねないのはおかしな話だ。

 だが、名前があるのかどうかもわからない彼にとってその質問は、彼を荒縄で絞めつけるかのように苦しめた。

 彼は体を緊張で硬直させている僅かな間に思考を巡らせる。彼はドンクの質問に何と言って答えるべきなのか迷った。正直に言ったところで信じて貰えるとは思えない。だが、それでもいっそこの優しい男に全てを洗いざらい喋ってしまいたくなった。自分が異世界からの転生者で、この世界のことを何一つしらない。だから助けてほしいと、心の優しいドンクに縋りたくなるような気持ちが湧いてきた。


「……そんなに怖がる必要はない。なにもお前のことを衛兵に言って牢屋に入れようってわけじゃないんだ。もう一度聞くが、名前は無いのか?」


 名前なんて彼自身解らない。いくら記憶を探っても思い出せるのは、彼がこの世界で目を覚ました瞬間からの記憶だけである。彼の魂が宿る少年の記憶は一つも残されていない。それが彼をこれほどまでに苦しめている。自分の名前や素性だけでなく、この世界の常識も解らない。だから、名前を解らないと下手に告げて大丈夫なのだろうか。様々な不安が彼の口を重く閉ざそうとする。

 目の前にいるドンク夫妻は優しい人間だ。それは十分に理解している。素性も名前も言わない気味の悪い孤児を、こうして雨風のしのげる家の中に入れてくれた上に夕飯までごちそうしてくれた。そんな優しい夫妻だからこそ、いっそ全てをゆだねてしまいたくもなる。

 だが、結局彼がドンクの質問にたいして答えたことは、暗い表情で俯いて黙って首を横に振るだけだった。


「もしかして名前は無いのか? まぁ、孤児だからそれが普通なのかもしれないがな。お前は見た所、十歳ぐらいだろう。つまり、その年齢になるまで誰かの世話になっていたんじゃないのか? 一体、お前はどこにいたんだ?」

 

 ドンクの質問に彼は首を横に振り続けた。


「おいおい、まさかとは思うが、お前は自分が何者でどこから来たのかも解らないっていうわけじゃないだろうな」

「……わ、解らない」


 彼は小さく呟き、ドンクから視線を逸らした。それが彼が答えられる唯一の言葉だった。その言葉に嘘はない。彼は自分のことを何一つ解らない。だが、それでも彼はドンクの親切心を裏切っているような罪悪感を抱いた。ドンクはドンクなりに、彼に大して救いの手を差し伸べようとしているのかもしれない。それを気づきながらも、彼はどうしても真実を口にすることができなかった。

 そんな彼の苦悩など知らないドンクは、しばらく考え込むように沈黙したあと、深く息を吐き出しながら言った。


「……そうか。解らないんだな。それじゃあ、仕方が無いか」

「名前だけでなく素性も解らないだなんて、そんなわけないだろうに。まぁ、言いたくないんだったらそれでもいいんじゃないかい。どっちにしたって今日一晩の縁なんだしね」


 ドンクの妻は不機嫌とぶっきらぼうに言いながら立ち上がる。スープが空になった皿を重ねて持ち上げると、そのまま彼女は台所へと姿を消した。台所からはガチャガチャと食器を洗う音が聞こえてくる。

 気まずい空気が彼とドンクの間に流れているような気がして、彼は息が詰まるような苦しさを感じた。ドンクが何も言わずに立ち上がると、彼は表情をこわばらせてドンクの動きに注視する。ドンクはすぐ隣にあった棚から小さな木箱を取り上げた。ドンクがその木箱から取り出したのはパイプとタバコの葉である。ドンクはタバコの葉をパイプに詰めると、パイプを口に咥えながら席に戻る。この間、ドンクは黙ったままだった。彼が緊張した面持ちで見つめる中、ドンクはパイプにマッチで火を付けた。一服を吸うと、ドンクは白煙を口から吐き出しながら言う。


「お前はティターン人だろう?」


 彼はドンクが何を尋ねたのか解らなかった。というよりも、その単語を転生前の記憶を引っ張り出しても知らなかった。だから、彼は普通に首をかしげて困惑とした表情を浮かべた。


「……これはどうやら本当に知らないようだな。まぁ、夜はまだ長い。時間つぶしに、俺が何も知らないお前にいろいろと教えてやろう。ちゃんと聞くんだぞ。ずっと昔の話だが、この国タイタニア王国になる前の話だ」


 ドンクがこれから話すのは、彼が知るはずもないこの世界とこの国の歴史である。自分がどのような世界に転生したのか何も知らない彼は、ドンクが話す内容に耳を傾けた。


「今から二百年以上前、その当時この国はブリタニカ帝国という名で世界の三分の一を支配していた大国だったんだ。想像できるか? 国民の半分以上が俺達みたいな貧民とお前みたいな孤児や乞食しかいない貧しい国が、かつては強大な力で世界を征服しようと企んでいた強国だったなんて」


 ドンクは愉快そうに口からタバコの煙をまき散らしながら自分が暮らす国を皮肉るように語りだした。


「ティターン人ってのは、そのブリタニカ帝国を治めていた人間達のことだ。。帝国の住民全員がティターン人ってわけじゃない。国のお偉いさんたちだけ、言ってしまえば王族や貴族だけがティターン人だったわけだ。ブリタニカ帝国はたくさんの国を征服した国して、国民の数は百万人以上もいたらしいがティターン人はその内の一割にも満たなかったらしいぞ。それ以外は全部周辺国を征服した際に国を動かすための労働力として連れて来た移民達、つまりは奴隷ばかりだった」

「国のほとんどが奴隷ばかりって、誰もティターン人に逆らおうとしなかったのか? だって国民のほとんどがティターン人に侵略された国の人達だったんだろ?」

「あぁ、誰もがティターン人に反旗も翻さずに、ティターン人の横暴に黙って耐えて従っていたんだ。お前はどうしてだかわかるか?」

「……それはティターン人が恐ろしかったから」

「あぁ、そうだ。ティターン人はティターン人にしかない恐ろしい力を持っていたから、誰も逆らうことができなかったんだ」


 彼は息をのんで、ドンクの話に耳を傾けた。


「ティターン人だけが持つ恐ろしい力ってのは、それは魔法だよ。この世界で唯一魔力を持つ人間はティターン人だけだ。そのティターン人だけが魔法を使えるのさ」


 魔法という単語を聞いた途端、彼は雷で撃たれたような衝撃を受けた。その単語の存在を知っただけで、彼の心は激しく躍動する好奇心で興奮し始めた。異世界転生に魔法の二つが揃うと、まさにラノベの異世界転生にありがちな展開である。このような状況で興奮しない者がいるだろうか。

 まるで浮足立ったかのように落ち着かない様子を彼を見て、ドンクはパイプを吹かしながら笑みを浮かべた。


「どうしたんだ。急に子供みたいにはしゃぎ出して。さっきまではまるで人生に絶望しているような陰気なしかめっ面ばかりしていたってのに」

「ド、ドンク! アンタは俺が魔法が使えるティターン人だっていうのか?」


 ドンクは顎を撫でながら彼の顔をじっと見つめた。


「あぁ、おそらくな。そうでなければ今こうしてお前が平然としていられる説明がつかねぇんだよ。あれだけ殴られ蹴られたってのに怪我一つしていねぇ。骨の二三本は折れていたっておかしくないはずだ。魔力を有するティターン人は、普通の人間よりも身体能力が高いらしいからな」


 ドンクに指摘されて彼にも自分の肉体の異常さに気が付いた。大人達によってたかってあれだけ痛めつけられたのに、彼の肉体にはその痛みすら残っていなかった。顔にはうっすらと暴行の形跡があるだけである。彼は自分の体を触りその頑強さに驚いた表情でドンクを見上げた。


「それじゃ、俺にも魔法が使えるのか?」


 彼は意識を集中させて両手を前へ突き出したが何一つ変化は起こらない。彼のそんな子供らしく無邪気な姿を見て、ドンクは小さく笑った。


「さてな。どうだろうな。今ではティターン人だからって必ずしも魔法が使えるわけじゃねぇしな。いちおう、俺もティターン人なんだが魔法なんて使えない」

「ティターン人だけが魔法を使えるのに、使えない奴もいるってことなのか? それってどういうことなんだ? なんで、アンタは魔法が使えないんだ?」

「単純に血が薄いんだ」


 ドンクの言葉の意味が解らず彼は首を傾げた。血が薄いとはどういうことなのだろうか。頭をひねって考えている彼を見てドンクは咳ばらいを一つして彼の注意を引いた。そして、再び話し始めた。


「話を戻そう。二百年前、世界征服を企むブリタニカ帝国とそれを阻む連合国との間で戦争が起きた。その結果、連合国が勝利し、ブリタニカ帝国は領土のほとんどを失った。それに伴って、帝国民の大半が解放されたんだ」


 ドンクは歴史の話を続けた。ブリタニカ帝国が残した領地は大陸の西の辺境だけだった。連合国の慈悲で、そこではティターン人による統治が認められたが、最初の百年間は連合国の監視下に置かれていたという。その間に、ティターン人は徐々にその力を奪われていったらしい。


「ブリタニカ帝国が生き残る条件の一つに、ドラゴン人という種族を国民として受け入れることがあった」

「ドラゴン人?」


 彼はその言葉にゲームや漫画に出てくる怪物を連想した。


「なんだそんなことも知らないのか」

「孤児だからって馬鹿にするな。ドラゴンくらい知ってる」

「言っておくが、ドラゴンってのはガキが読む冒険小説で描かれる巨大な翼で空を飛びながら火を吐く恐ろしい化け物のことじゃないからな?」


 ドンクの言葉に彼は驚きながら首を傾げた。ドンクは苦笑しながらドラゴンと呼ばれる人々について説明してくれた。ドンクの話では、ドラゴンという金や宝石に目がない種族がこの世界には存在するらしい。ドラゴン族はこの王国だけでなく他国でも嫌われているようだった。


「ドラゴン族は金に対してひどく執着している。この種族はこの大陸に国を持たず、大陸の至る所に散らばって住んでいる。彼らは元々住んでいた住民と金に関するトラブルを頻繁に起こしている。つまり、この大陸の迷惑者だ。そんな国のないこの大陸のトラブルメーカーを押し付けられたわけだ。彼らと協力して国を統治することで、ティターン人は何とか国を守った。その国の名前が、私たちが住んでいるタイタニア王国だ」


 しかし、国力を失ったからといって魔法という特別な力を持ったティターン人の脅威が消えたわけではない。連合国側は様々な陰険な手段でティターン人の弱体化を図った。ドラゴン族がこの大陸で嫌われていたのは、ドラゴン人特有の傲慢な民族性にあった。ドラゴンは金さえあれば何事も許されると考えている。ドラゴン族はその財力でブリタニカ帝国の富を手に入れ、そしてティターン族が独占していた魔法を奪い取って自分達の物にしようとした。


「ドラゴン人によって金も力も奪われたティターン人の多くが庶民へと落ちぶれた。それから二百年が経った今では、ティターン人が同族同士の結婚で保っていた魔法という特別な技能は完全に流出してしまっている。純血のティターン人は王族と四大侯爵家くらいしか残っていない」


 ドンクは彼を見つめながら人差し指を伸ばす。


「俺の親父は火の魔法を使えたんだ。こうやって中指と親指を強く擦ると、小さな火花が出せるんだ。タバコや暖炉に火をつけるくらいしか使えないしょぼい魔法だったけど、その息子である俺はそれすらもできなくてマッチを使ってるんだ。親父の話では、祖父は松明ほどの大きな火球を出せたそうだ」


 そう言って、ドンクはどこか懐かしそうに沈んだ目で自分の手のひらを見つめた。皮が厚くガサガサとした働き者の手だった。


「坊主、俺が言いたいことがわかったか?」

「異種族と混血したことで魔法の力が衰えたってことか?」

 

 ドンクはパイプをくわえながら静かにうなずいた。


「多種族と交流し世代を重ねるごとに魔法の力は衰えていった。かつて周辺国を恐怖に陥れた強大な魔法を使えるのは、純粋なティターン人に最も近い王族くらいなものだろうがおそらくは使えやしない。もう古代魔法の伝承は途絶えてしまっている。つまりは、ティターン人が独占し築き上げていた魔法という能力と技術は、この二百年で失われてしまったということだ」

「それじゃ、俺が魔法を使うことはできないのか?」

「さてなぁ、そりゃわからねぇな。だがな、お前さんの顔を見てると、ティターン人としての血は濃そうだぜ」

「お、俺の顔がか?」

   

 彼は顔を触りながら自分の顔を思い出そうとした。最初に浮かんだのは転生前の顔で、顎や頬の肉が垂れ下がり頭髪の薄くなったみすぼらしい中年男の顔だ。だが、この世界で目覚めた時に汚れた川の水面で見た顔は違っていた。ぼんやりとした記憶だが、黒髪に際立つ二重の黒い瞳に色素の淡い白い肌、その顔立ちは美しく整っていた。水面に映った中性的な魅力を持った美少年の姿を思い出す。


「お前さんの顔だがな、整い過ぎてるんだよ。ティターン人ってのは、どいつもお前みたいに異常なほど綺麗な顔立ちをしてるんだ。貴族や王族達は、最も美しい人種とされるエルフ人と同じくらい美しい、らしいぞ。見たことはないがな。それどころか大昔のティターン人は、そのエルフ人以上にこの世のものとは思えないほどの美貌を持っていたらしいぞ」


 エルフ人についてあえて聞く必要はないだろう。名前通りに想像に容易い種族のようだ。そして、ティターン人はそれと同等か以上の美しさを持っているらしい。


「俺の顔が綺麗だから俺がティターン人として血が濃いっていうのかよ」

「あぁ、そうだ。俺と妻の顔を見ればわかるだろうが。俺もアイツもティターン人だが、血が薄いから美男美女ってわけじゃないだろうが。だがなぁ、それでも俺はアイツが世界一の美女だって自信があるんだよ。何せ俺が惚れ込んだ女だからなぁ」

 

 ドンクは笑顔でそう言う。ドンクが言う通り、ドンクもドンクの妻にしてもこれといって目を見張るような特異的な顔立ちをしていない。けれども、いわゆる強面でもなぜか人に好かれてしまう人間特有の人の良さが顔に出ている。彼はそんなドンクの顔を見ていると何故だかおかしくて楽しそうに笑った。だが、ドンクは何かを思い出したように突然に顔に深い悲しみを浮かべた。


「……俺達の息子も、俺達に似ない美しい子だった」


 その消え入りそうな悲しい声に、彼は息が詰まるような思いをした。口の端に浮かべた笑みを引きつらせた。無気力に沈むドンクの瞳にある悲しみに気づいた彼は、中途半端に開いた口を閉じることもできなかった。重苦しい場の空気を変えられないかと、様々な言葉を思い浮かべながらやっとの思いで一言小さく漏らした。


「……死んだのか?」


ドンクは憂鬱な感情を飲み込むようにワインをあおった。


「あぁ、一昨年に病でな。生きていたら、お前と同じくらいの年齢になっていたはずだった」


ドンクはさらにワインをあおった。瞳には隠し切れない深い悲しみが沈んでいた。


「俺はなんでお前にこんな話をしてるんだろうな。息子を墓の下に埋めてから、あいつのことは口に出さなかったのにな。顔も声もお前に似てないのに、お前を見てると息子との思い出が嫌でも浮かんでくる」


 ドンクの瞳から浮かんでくるのは、悲しみの中で浸され絶望で傷つけられたドンクの幸せだった。話すごとにドンクの大きな体が小さくなり、表情が悲しみに陰っていくたびにどんどんと薄れていくように見えた。逞しい体つきをした男が燃え尽きる寸前の蝋燭の火のように、今にも消えてしまいそうなほどに見えた。

 どこから忍び寄ってきたのか、居間の空気が陰鬱とした息苦しさに満ちていた。重苦しい空気に彼は落ち着きなく視線を動かした。彼は改めて家の中を見渡したとき、家の隅々に悲しみに打ちひしがれた絶望が佇んでいるのを感じた。椅子とテーブルと棚、居間には最低限の調度品しか置かれていなかった。目を凝らして居間の奥の台所では、蝋燭の小さな灯を頼りに薄暗がりで作業しているドンクの妻の後ろ姿が見えた。その背中には冷ややかとした質素な儚さが漂っているようだった。

彼が見渡してわかったのは、二人の質素倹約とした生活ぶりではなかった。家の中にあるのは、生きる希望を見失った人間の営みだった。それはとても見覚えのある風景だった。彼が思い出すのは、彼が死ぬ直前まで過ごした終わりへ向かう家だった。段ボールとブルーシートで築き上げられた家の中にあるものは絶望だけだった。その中で彼は病で死ぬまで、ただ漫然と生きるだけの作業を繰り返す日常を過ごしていた。  その頃の絶望に打ちひしがれた鬱屈とした営みの気配が、この家の中にも充満していた。

 彼はドンクに対して親近感が湧いてきた。それは恥ずべき卑しむべき感情だということを彼は理解できているのだろうか。もし逆の立場であったならば、彼はきっと嫌悪していたに違いなかった。

 それに気づいたのか、彼は口から洩らしかけたドンクの悲しさに土足で踏み込むような言葉を慌てて飲み込んだ。


「ん? 今、何か言ったか?」

「い、いや、そ、その……何でもない」

「フッ、まぁこんな話を聞かされても面白くもないし困るよな。俺だってお前の立場だったら困惑するだろうさ。親しい奴にだってこんな話したことないのに、今日会ったばかりの見ず知らずの孤児相手に俺は何をベラベラと話してるんだかな。俺だってこんな話なんてしたくなんざないさ。だけどな、お前を見てるとどうしても息子の顔を思い出しちまうんだ。俺の、俺の大事な息子の姿がどうしても脳裏に浮かんでくるんだ。アイツとの思い出が、必死に忘れようとしてた俺の息子との記憶が、まるで昨日のことのように思い出しちまうんだよ」


 悲痛に押しつぶされながらも声を震わせて絞り出すドンクの姿は、見る者の心を苦しいほど掴んで離さなかった。ドンクの双眸から流れ落ちる滂沱の涙はドンクの絶望の深さを如実に語っていた。身につまされる思いに居心地の悪さから、彼は我慢することができずにドンクに聞いた。


「な、何があったんだ?」


 先ほど飲み込んだはずの言葉を口に出してしまった瞬間、彼は自分の言葉に眉をひそめる。だが、一度言ってしまった以上どうしようもない。彼は諦めたように小さく一呼吸おいてから言葉を続けた。


「事故か、病気か? 別に答えたくなければ答えなくていいよ。ただ溜め込んでるよりは、いっそ誰かに向かって吐き出してしまえば楽になることもあるんじゃないかと思って」


 彼は彼自身を内心で蔑んだ。そんな彼の複雑怪奇な自己嫌悪を知らないドンクは、両目を服の袖で拭きながら薄く笑みを浮かべて皮肉った。


「全く、お前みたいな何も知らないガキが生意気なことを言いやがって」


 やけになったかのように、ドンクはワインを飲み干した。ゲップ混じりの溜息には酒の匂いの他にドンクの諦観した思いが感じ取れた。


「病気だ。息子を殺したのは病気だ」

「……」

「あぁ、そうだ。だがな、決して治せない病気じゃなかったんだ。金さえあれば、アイツは死なずに済んだんだ。そうさ、息子が死んだのは俺の無能さのせいだ。俺が息子を殺したんだ。俺がもっと金を稼いでれば、息子も死ななかったし妻も悲しませずに済んだんだ」

「……」

「おかしい話だ。他の国では治せないような病気やケガもこの国の回復魔法ならば治せる。それも治癒魔法が使える魔導士がちょっと呪文を唱えただけでだ。大して魔力も才能も必要ない簡単な魔法でだぞ。それなのに、その簡単な治癒魔法を唱えてもらうには馬鹿高い金が必要なんだ。魔法の恩恵は貴族と一部の裕福者だけが受けられる、いわば神様からの贈り物なんだとよ。だから俺みたいな、貧民街で暮らす俺たちみたいな貧乏人にはその魔法の恩恵を受ける資格はないんだと。俺は、俺はな、この国の住民でこれまで真面目に働いてちゃんと税金だって納めてきた。なのに、奴らは俺を嘲笑ってやがった。病気で苦しむ息子を助けるために、なけなしの金を持って頼み込んだ俺を見下ろして笑ってやがったんだ。俺みたいな貧乏人の子供に、治癒魔法は上等すぎるってな」


 拳を握って怒りに打ち震えたドンクの両目から溢れ出るのは悔し涙だ。ドンクの激情に晒される彼はただ口を閉ざして話を聞いていた。


「息子が死んだのは、その日の夜だった。誰か息子を助けてくれる親切な人はいないかと必死に駆け回っていたせいで、俺は息子の最後に立ち会うことができなかった。家に帰ってくると、明かりもつけずに暗闇の中で妻が死んだ息子を抱いて泣きながら子守唄を歌っていた」


 彼はその悲痛な光景をまざまざと想像することができた。その時のドンクの気持ちでさえも自分のことのように感じることができた。その安い同情心に彼は彼自身を嫌悪して、焼けるような怒りを自分に向けた。


「息子が入った棺桶の蓋を閉じた瞬間、俺は心の底からこの国と神様を憎んだ。だが、息子の棺桶を地面に開けた穴の中に入れた時、俺の中で何かが消えていったんだ。スコップで穴を埋めていく度に、息子の棺桶が土で覆い隠されていく度に、それはどんどんと強まっていった。穴を埋め終えて息子が眠る墓石の前に立った時、俺は完全に生きる希望を見失っていた。それは妻も同じだった。今日まで俺も妻も、ただ生きていただけだ。目的も希望もなく、ただただ生きていただけだった。息子の思い出を心の奥底にしまって、互いに傷をなめあって寄り添って悲しみと絶望の中でただ生きていただけだった」


ドンクの両目からはすでに涙が枯れ果てていた。瞳の奥には虚無とした暗闇が沈殿しているように見えた。話すごとにそれは深く淀み大きく広がり、やがては宿主であるドンクを飲み込んでしまうかのように彼には見えた。そんなドンクの姿を見ていた彼の心に、彼にも説明のつかない感情が込み上げてきた。それは野火のように燃え広がり、何故か彼をやたらと苛立たせた。


「子供ができた」


低く嘆くように漏らしたドンクの声には、さび付いた絶望がびっしりとこびりついているようだった。妊娠という言葉は彼にとっては負の感情をイメージさせるものだが、息子の死を嘆き悲しむドンクにとってならむしろ吉報になるのではないだろうか。だが、ドンクの表情は暗澹と陰っていた。ドンクが何を不安に感じて何に恐れているのか彼にはわからなかった。


「お前も見てわかってると思うが、妻は妊娠してる。腹もだいぶ大きくなってる。多分、あと少しで生まれるだろう。だがな、俺は素直にそれを喜べねぇんだ!」


苦悩に嘆き苦しむ人のように、ドンクは頭を抱えて悲痛な声を絞り出した。頭を抱える両手は、不平等や不公平に憤る人のように怒りで打ち震えていた。


「妻は子供が授かったとわかった時から、目に見えて明るくなった。息子が死んでから抜け殻になってた妻が、明るく笑うようになったんだ。俺があいつを見初めた時の笑顔で、この俺に話しかけてくるんだ。毎日、腹にいる子供のことで俺にいろいろと聞いてくるんだ。明るく、楽しそうにな。そんな日常が、一日、二日、三日と続いて、妻はかつての生活を取り戻すように生き返っていった。この俺を置き去りにしたままな」


 自傷気味に鼻で笑うドンクの顔は穏やかではなかった。その汚泥の溜まる側溝のように濁った目には狂気が歪み始めていた。


「生きる希望を見出した妻の姿を見るたびに、俺は妻を憎んだ。アイツが笑うたびに、楽しそうに話しかけてくるたびに、俺は妻を絞め殺したくなった。アイツがお腹を撫でながら子供に話しかける姿を目にするたびに、俺は何度も殺意を抱いた。俺の心がどうなっているかわかるか? わからないだろうな、俺だってわからないんだ」


ドンクは憔悴しきった笑みを浮かべた。自分でも制御できない感情に心身ともに消耗していた。今にも壊れてしまいそうなほど危うかった。このままではドンクは完全に狂ってしまうだろう。


「何故か解らないが、妻を殺したくなるほど憎いんだ。それも、腹が大きくなるほどに俺も殺意と憎悪も増していきやがる」


 主人公はドンクの心が少しわかった。自分は満たされない日々を送っているのに、周りは幸せそうに生きている。そんな他人を見るのは苦痛だった。自分は不幸なのに、幸せそうな人間を見ると憎しみが湧いた。

 主人公は哀れな男だった。暗闇から抜け出せばいいのに、自分で選んだ人生にしがみついていた。自分がホームレスになったのは自分のせいだ。それはわかっているのに、明るさを求めても憎しみしか感じなかった。他人を殺したくなるほど世界を恨んでいた。

 主人公はドンクの苦しみを感じることができた。ドンクは息子が死んだ現実を受け入れられずにいる。息子を助けることができない自分を責めていた。妻が新しい命を授かったことに喜ぶ妻に、ドンクは裏切られたように感じている。死んだ息子を過去の物として新しい子供へ乗り換えたように思っているのかもしれない。それがドンクの心を苛む原因だった。でもドンクはそれに気づいていなかった。


「……俺は呪われてるんだ。息子の墓石の前で、俺は神を否定した。これがその罰なんだろうな」

「呪い?」

「神を信じられなかった俺への天罰だ」

 

 ドンクは空になったワインの空き瓶を投げ捨てた。それが床に割れる音が彼の不安定な精神に火をつけた。ドンクは怒りで体を震わせながら叫んだ。

 

「俺は、この理不尽な世界が、不公平な世界が、不平等な世界が、俺は心底嫌になっちまったんだ!」


 天井を見上げる彼の言葉は、誰に聞こえるというのだろうか。暗く落ち込んだ声は、誰を責めているのか。神か、運命か、この国か、それとも世界そのものか。

 ……それとも、子供を救えなかった自分自身であろうか。  

 涙をこらえながら、終わりの見えない悲しみと絶望に耐える彼の姿はあまりにも哀れだった。同情を寄せたくもなるが、彼だけはその姿に怒りを感じた。


「どれだけ働けば生活はよくなるんだ。いつまでこんな地獄のような日常が続くんだ。いつになったら俺達は自由に生きられるんだ。せめて子供達だけでも幸せな世界で生きて欲しい。それが俺の望みなんだ。それだけでいいんだ」


 嘆くドンクの姿に、彼は自分の過去を重ねた。目の前にいる男は、人生に希望を見出すことができずに世の中や運命に対して不平不満ばかりを募らせていたかつての自分そのものだった。


「そんな世界なんとどこにもないさ。望むだけ無駄だよ。神に祈るような馬鹿なことしたって意味はない。はっきりいってなアンタみたいに真面目に働いて、見返りもなく俺みたいな人間に手を差し伸べられる優しいアンタが幸せに生きられていないなら、この世界はきっと完全に壊れているんだ」


 これまでずっと黙って聞いていた彼の言葉を聞いて、ドンクは顔を上げた。


「自分が呪われている、アンタはさっきそう言ったな。アンタ、本気でそう思っているのか?」


 彼の声には侮辱が含まれている。彼の言葉にドンクは目つきを鋭くした。視線の先にいる子供は冷ややかな笑みを浮かべて睨み返した。その子供の目には不気味な光が宿っていた。その視線に不快感を覚えたドンクの目には、危険な雰囲気が漂った。


「呪いなんて言葉で誤魔化すなよ。俺はアンタが何に恐れているのかわかっている。アンタが何を考えて、何に怒って、何故怯えているのか、俺には解っている。素直に認められないなら、俺が教えてやろうか?」

「……何が言いたいんだ、小僧」


 酒気に満たされた鋭い視線が彼を貫いた。ドンクの目が語っている。下手なことを言えば殺してやる、と明確な敵意を持ち目の前で薄笑みを浮かべる子供を脅す。だが、彼はそんなドンクの怒気を臆せずに言葉を続けた。


「アンタは怖いんだろ? また子供を失うかもしれない。息子を助けられなかった、もしかしたら次に生まれてくる子供に何かあっても自分はきっと助けることができない。そう思うから、子供ができたことを素直に喜べない。違うか?」


 それは的確に、ドンクの決して踏み入れてはならない領域に足を踏み入れて荒らした。骨が軋む音が聞こえるほどにドンクの拳が固く握りしめられた。殺意を孕んだ相貌で睨まれながらも、彼はその目を直視しながら話を続けた。


「アンタは自分を置き去りにして、前向きに生きようとしている奥さんに嫉妬している。死んだ息子といつまでも死んだ息子を悲しんでいる夫を過去に置き去りにしようとしている奥さんを、アンタは許すことが出来ないんだろ?]

「黙って聞いていればベラベラと調子に乗りやがって、テメェみてぇなガキが何をわかったふうに生意気なことをぬかしてんだ! 酒に酔って口を滑らしちまった俺の話を聞いて、孤児のテメェが俺の全てをわかったつもりでいるんならただじゃおかねぇぞ!」


 ドンクは腹に響くほどの怒鳴り声を浴びても彼の眉はピクリとも動かなかった。刃物を投げつけるかのようにドンクは怒気をまき散らす。それでも彼は微塵も怯んだ様子を見せなかった。

 ドンクの堅く握りしめられた拳には戦慄を覚える。子供の小さな頭くらいなら簡単に叩き潰せてしまえるだろう。だが、そうはしない。なぜなら、彼の言葉は的確にドンクの本心を鋭く突き刺していたからだ。彼の言葉はドンクの心を暴いてしまっていた。それはドンクにとって屈辱であったに違いない。屈辱に憤怒するドンクだが、それでも彼の口を無理やり閉じさせようとはしなかった。それはもしかしたら、ドンクは心のどこかで自分の本音と本心を誰かに知って貰いたかったのかもしれない。愛する息子を失った親の複雑な心を他人が推し量ることはできないが、怒りに染まるドンクの瞳の奥には深い悲しみで溢れている。


「アンタだって俺の何を解っているって言うんだよ。家族も友人もいない俺のことを。自分の名前だってわからない俺の何をことを。別に俺は他人に同情して欲しくてこんなことを言ってるんじゃねぇ。だがなドンク、アンタは同情して欲しくて身の上話をグダグダと話し始めたんじゃねぇのか? 誰かに知って欲しくて言ってるんじゃねぇのかよ」


 彼は結婚はしなかった。だから愛する女を憎むという愛憎の複雑な感情を知らない。子供もいないから、自分の子が死んだ時の感情なんてわからない。彼はドンクのような人生を歩まなかった。苦労だって解らない。そんな彼にはドンクの苦悩と絶望を理解することはできない。だが、それでもドンクよりも長く生きた経験ある。転生前の彼は、何も成さずに何もしなかった。一生を棒に振ることもしなかった。人生に対して一生懸命じゃなかった。そんな怠惰で無気力な人生を歩んで死んだ。だが、だからといって彼は彼なりに生きることへの苦しさは嫌というほど味わっている。どうしようもない人生を歩んだかもしれないが、彼は彼なりに生きた。だからこそ、彼はドンクに必要な言葉を言うことができた。


「だから嘆いたってしょうがない。壊れたもんが自然と元に戻るもんじゃない。割れた皿は割れたままだし、砕けたビンは砕けたままだ。だから新しいもの作るのさ。次生まれてくるアンタの子供為にな。穴が開いていればアンタのパンを詰め込んでやればいい。ヒビが入っていれば水で溶かした小麦でくっ付けてやればいい。難しく考える必要なんてないのさ。アンタは真面目に働いていれば、きっといいことがあるさ。努力している奴が報われないなら、そんな世界なんてこっちから見捨ててやればいい。こんなクソのような世界を真面目に考えるだけ損だ。息子さんを失ったのは運が悪かった。だが、アンタが悪いわけじゃないんだ。だから次の子供が生まれたら、アンタは何も考えずにがむしゃらに働いていればいいんだ。何も考えずに一生懸命生きて行けばいいんだ。違うのか? それとも、死んだ息子を思っていつまでも死んだように生きるつもりか?」


 死んだ息子の死を他人の口から言われることは、ドンクにとって耐えがたいものだった。ドンクは鬼のような形相で彼を睨みつけた。嚇怒と勢いよく立ち上がったドンクは、今にも雷のような声を発するかのように口を大きく開いた。しかし、沸き起こる怒りを言葉にすることがドンクにはできなかった。『死んだ子供を思って一生懸命に死ぬか』、『生まれてくる子供の為に一生懸命に生きるのか』、どちらを選ぶべきなのかなんてドンクだって解かっている。だが、どうしても簡単に割り切れるものではない。ドンクは何か言おうと口を何度も開け閉めするが、結局言葉は見つからずに力が失ったかのように椅子に座り込んだ。力なく開け放たれた口からは、声にならない彼の悩ます苦しみが何度もこぼれ出ている。

 何よりも、こんな年端もいかない子供の言葉に言い返すこともできない自分が情けなくてどうしようもなかった。力なく項垂れたドンクは悔しさから拳を強く握りしめた。掌に爪を食い込ませて感じる痛みは、まさに情けないほどに弱い自分への罰でもあった。

 そんなドンクの姿を見つめながら、彼は次の言葉を言う前に一呼吸だけ間を置いた。その言葉を言うのが彼にはすごく恥ずかしかったからだ。

 その言葉は彼にとってとても親しみやすくて懐かしい言葉だった。


「なんとかなるさ」


 その言葉にドンクが顔を上げると、気恥ずかしそうな笑みを浮かべている彼の姿が目に入った。はにかむ幼い少年の姿がドンクの目には死んだ愛息子の姿と重なった。


「何とかなるよ、ドンク。頑張って生きている奴が報われない壊れた世界だとしても、この世界から逃げることもできないんだから諦めて生きていくしかないだろう? 文句を言いながら愚痴をこぼしながらも、何とかして生きていかなくちゃならないんだ」


 偉そうにお前が言うな、と彼は心の中で自分を自嘲して罵倒した。彼は一瞬だけ顔を不快そうに歪めたが、両目からあふれる涙で濡れた顔を見られたくなくて俯いていたドンクが、それに気づくはずがなかった。ドンクは、どうみても自分の半分ほどしか生きていない子供から、まるで年長者がする人生の教訓のような諭され方をされていることに不満を持ったが、何故か自分の息子に言われているように思うと苛立つ言葉が凪いでいく。

 彼の言葉が正しいことを、ドンクはわかっていた。


「親も住むところもねぇ、小汚い孤児が俺を説教か。何様のつもりになったつもりだ? 俺の半分も生きてねぇガキが、生きるってことがどれだけ大変なのかを知りもしねぇで、ベラベラと偉そうなことを言えたもんだな」

「確かに、俺はアンタの苦しみを理解することはできない。だけどな、生きることの大変さに身分も年齢も関係ないんだよ。誰だって、どんなやつだって、それなりに苦労しながらも必死に生きてんだよ。富める者も貧しき者も、アンタも俺も!」


 彼はまっすぐにドンクを睨み返した。彼の視線はドンクへ向けられているが、彼の言葉はドンクへ投げられているが、ここにはいない別の人間に向けられていた。恵まれた社会で愚痴ばかり言って惰性に生きた愚か者、彼が嫌というほど知っているかつての自分を彼はドンクの姿を通して睨んでいた。だが、ドンクはそんなことを解るはずがない。彼のその熱の込められた言葉と視線にドンクの胸は激しく叩かれた。まるで憑き物が落ちていくかのように、ドンクの表情に張り付いていた暗澹とした陰りが薄らいでいた。

 彼はそんなドンクの表情を見つめながら、彼が聞き飽きるほど聞いていた言葉を思い出していた。その思い出はとても懐かしくて彼の心を穏やかにさせた。


「難しく考えたってしょうがない。なんとかなる、馬鹿みたいな言葉だけど、そう言い聞かせてでもしていなくちゃ真面目に生きていくのは難しいだろう?」


 なんとかなる、それは彼の母親が幼い頃から口癖のように言っていた言葉だった。死ぬまで彼を全面的に支えた母親は、どれだけ財政的に追い込まれた厳しい状況でもそういってあっけらかんとして笑っていたものだ。

 おどけたように言う彼の言葉を聞いて、ドンクは一瞬だけ間の抜けた顔をして真面目に言葉の真意を考えようとした。だが、それがどれだけ馬鹿らしいことなのか気が付いたらしく豪放磊落と笑った。


「違いねぇな、そいつはまったく違いねぇよ! 全く、何を俺は馬鹿みたいに悩んでいたんだかな。馬鹿のくせに馬鹿みてぇなことで馬鹿みたいに悩んでいて、本当に俺はどうしようもない馬鹿野郎だ」


 破顔させて快活に笑うドンクの姿に彼も楽しそうに笑った。二人の笑い声が今に響き渡ると、台所に引っ込んでいたドンクの妻が訝しるような渋い顔をして居間に戻ってきた。


「なんだい、なんだい。ずいぶんと話がもりあがってるじゃないか。アンタらいつの間にそんなに仲が良くなったんだい? まったく男は馬鹿がつくほどのんきでしょうがないね。アタシが冷たい水で食器を洗っている間に、アンタたち二人はくだらない話で盛り上がっているんだから。というよりも、床が散らかっているんだけどこれは誰が片付けるんだい?」

「……あ、あとで……俺がちゃんと片付けておく……おきます」


 ドンクの妻は口煩い小言を捲し立てて苛立たしそうな表情を浮かべているが、見た目からは知る由もない年の功のおかげか、彼は目ざとく快活に笑う彼女の異変に気づく。彼女の両目がうっすらと赤く腫れていることを。涙痕が薄く残っている。きっとドンクとの会話を聞いていたのだろう。彼女は夫の本音を知ったのだ。夫人の変化にドンクも気づいている。ちらちらと心配そうに妻の様子を窺っている。彼女はあえてドンクの本音について言及するようなつもりもないのだろう。。ドンクもそんな妻に何も言わない。目の前に他人の彼がいるから言わないのではない。言う必要がなかったからだ。二人の間には確かな絆があるのが、まだ他人といえるような短い時間の付き合いである彼にも理解できた。

 互いに信頼しあっているからこそ、お互いに気遣う優しい雰囲気に彼の心は和らいだ。

 ドンクの妻は手に持っていた木製のコップを彼の前に置く。コップの中は水が入っていた。


「あ、ありがとうございます。……その、奥さん」


 ドンクの妻は、再び驚いたように目を見開き不服そうに眉根を寄せて彼を見下ろした。孤児である彼が丁寧な口調でお礼を述べたというのもあるが、彼女が機嫌を損ねたのは別の理由であった。


「アタシは『奥さん』なんて呼ばれるほど上品じゃないよ! よしておくれよ、気持ち悪い」

「そうだ、まだ紹介していなかったな。女房のオソノだ」

「よろしく。名無しの坊や。私のことは好きに読んでくれていいわ。だけど『奥さん』とか『夫人』だなんて呼ぶのだけは許さないよ」

「え、えっと、そ、それじゃ、オソノさん。お水ありがとうございます」

「どういたしまして」


 そう言いながらオソノは満足そうな表情を浮かべてドンクの隣に座った。


「それでアンタ、この子をどうするつもりなんだい?」


 オソノの問いにドンクは一息の間を置いてから答えた。


「明日、救貧院に連れて行こうと思う。俺が頼めばコイツを受け入れてくれるだろう」

「そうね。この地区の救貧院は他と違って悪い噂を聞かないし、あそこの院長さんはとっても立派な人よ。それに孤児たちの面倒を見てくださっている修道士の方々はみんないい人ばかりだしね。特に神父様はまだまだ若いのにとっても優しくて、私の周りでは神父様はきっと神様がこのろくでもない世界に降ろしてくれた天使様だって、誰もがそう言って褒め称えているくらいですもの」


 オソノの言葉を聞いてドンクは不満そうに顔を渋らせたが、妻の機嫌を損ねるようなことは口にしなかった。


「まぁ、何にしても、あそこなら酷い扱いは受けないだろう。明日、売れ残りのパンを置いてくるついでに、コイツを連れて行こう」

「それじゃ、今晩はうちに泊まらせるのね。とはいってもどこで寝てもらおうかね」

「……あの子の部屋で寝かせよう」


 途端にオソノの表情には悲壮とした陰りが浮かんだ。オソノは辛そうに顔を俯かせて、激しく湧き上がる感情をどうやって言葉にすればいいのか解らないかのように、口を何度も開けては閉めてを繰り返した。


「え……で、でも」

「いいんだ。オソノ、いいんだ。いつまでも、あの子を過去にしまっておいたらあの子が可哀そうだ」


 優しく肩に置かれた夫の手を握りながら、オソノはゆっくりと眼を閉じた。まるで瞼の裏に映る思い出を見つめながら、オソノは悲しみに染まりながらも穏やかな口調で答えた。


「……そうね。えぇ、きっとあの子も喜ぶわ」


 会話の内容から、彼は明日から救貧院という所に預けられることが決まったのだけは理解した。救貧院という言葉を聞いた頃がある彼は、孤児院のような場所なのだろうと考えて一人静かに安堵した。二人の会話からしても、想像する限り悪い場所ではないようだ。少なくとも明日からは路上で寝起きする必要もないし、食い物の心配をする必要もないのは確かだ。もう死の恐怖に怯えずに済むのかもしれないと思った瞬間、彼は突然の睡魔に襲われた。

 

「おい、大丈夫か」


 急に彼が頭をガクッと前に倒したのを見て、ドンクは心配そうに声をかけた。


「だ、大丈夫。腹が膨れたからか急な眠気に襲われただけだ」

「もう夜も遅いからな。ひとまず、寝るといい。部屋に案内する。お前の今後のことは明日の朝に話そう」

 

 ドンクは立ち上がると、睡魔に意識が半分失いかけている彼へと近づく。眠そな目つきで見上げる彼を優し気な表情を浮かべて見下ろすと、ドンクは両手で彼の体を優しく抱き上げた。彼の重さを両腕に感じた時、ドンクは温かな幸福の重さを久しぶりに味わった。


「ドンク……恥ずかしいからやめてくれ。子供じゃないんだから。自分で立って歩ける」


 眠そうに言う彼の耳元でドンクは優しく言う。


「子供だろうが。今にも眠りそうな奴が何を言ってるんだか」

「子供だからこそ、子供扱いされるのを嫌がるんじゃないの。忘れたの?」

「フン、だからいつまで経っても子供扱いされるんだ」

「全く、男なんていくつになっても何も変わらないんだから」


 抵抗する術も気力も無い彼の肉体は、なすがままにドンクの両腕に抱えられて運ばれた。近くで楽しそうに小声で笑うオソノの声が聞こえる。両目を閉じた彼は暗闇の中で懐かしい思い出に浸っていた。鮮明と思い出すことのできない記憶の中で、かつて彼は同じようなことがあったような気がした。

 揺りかごのようにゆすぶられる肉体。揺りかごの中はとても暖かくて寝心地が良い。誰かの心臓の音が響き伝わってくる。優しい声音に心が落ち着かされていく。

 この思い出せない記憶は何なのだろうか。夢と現実の堺を漂う意識の中で、彼は必死に思い出そうとするが長い年月で洗いざらしになった不透明な記憶をいくら見つめようとしたところ意味はなかった。


「アンタ、足元に気をつけるんだよ」

「うるさい。俺よりもちゃんと前を見ろ。身重の体なんだ。俺よりもお前の体の方が大事だ」

「バカ言うんじゃないよ。アンタだってアンタ以外の体を預かっている状態でしょうが」


 小さな声だが賑やかな会話の中で、階段を上る音が聞こえる。古い床板が軋む音が二人分だ。


「もう眠ってしまったかしら」

「どうだろうな。まだ半分くらいは起きているかもしれないな」

「子供のくせに強情な子だね。とっとと寝ちまえばいいのに」

「男……だからな」


 廊下を歩く音だ。距離は短くて数歩だけ、その後ですぐに部屋の扉が開かれる音がした。


「……あのまま……だな。なにもかも、あの頃のままだ」

「……えぇ、全部あの頃のままよ」


 二人の声は冷たい雨の中で寒さに耐えているように震えている。少しだけ二人の様子が気になったが、彼には瞼を持ち上げる気力もなかったし勇気も無かった。

 無性に眠かった。すでに何かを考えることさえも面倒でしかたなかった。何かを感じることでさえも億劫で仕方なかった。

 彼はなにか軟らかいなんかの上に寝かしつけられたのを感じた。おそらくはベッドだということだけは理解したのでわざわざ目を開けて確認しようとはしなかった。ベッドで寝かしつけられたと感じた途端、彼の意識は現実から完全に足を離してしまった。

 

「それじゃ、また明日な」

「おやすみ、坊や」


 ドンクとオソノはそっと静かに部屋の扉を閉めて出て行く。彼には体を起こして二人を見送ることはできそうもない。鉛のような疲れが体にのしかかっているのか、彼は体を微塵も動かすことができなかったし瞼を持ち上げる気にさえ起きなかった。まともな寝床で寝るのなんていつぶりだろうか。ずっと長い間、彼は堅く冷たい地面の上に段ボールを何枚も重ねただけの地面で眠りについてた。

 眠気は彼の意識を現実から力づくで連れ去ろうとする。食欲が満たされた心地よい充足感の中、瞼が閉じられた視界の中で一抹の不安を抱いた。次に目覚めた時、自分が一体どこにいるのだろうか。

 いつものように公園の隅でブルーシートと段ボールで自作した住処の中で、鬱屈とした絶望の中で目を覚ますのだろうか。

 それとも、この知らない世界の見慣れない家の中で暗澹とした不安を抱きながら起きるのだろうか。

 そんなことを考え立って意味は無い。どっちにしろ彼にとってはどちらの現実も地獄であることは変わりない。

 抗うことのできない睡魔によって意思とは関係なく、彼の意識は瞬く間に現実から遠のいた。

 彼は穏やかな寝息を立てて、安らかに眠る。彼が昨日に悔やんで今日を嘆いて明日に不安を抱かずに落ち着いて眠りについたのはいつぶりだろうか。転生した彼が異世界で過ごす最初の日がようやく終わった。これから数々の数奇なる運命の選択肢が待ち受けていることを知らずに、彼は絶望も不安も忘れて深い眠りへと落ちていった。

 

三話投稿から四か月の時間を費やしてようやく完成。

次話執筆中、完成は……年末までに。

第一話と第二話の書き直しを検討中。

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