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羅生

 サンショウウオは異世界の都市を再び彷徨い歩く。痩せ衰えた体を引きずり。飢えを抱えて。


 彼は目的もなく歩く。太陽を追って。

 王都タイクーンは東西南北によって大きく四つに区分されている。各区分ごとに更に五つの区画で切り分けられており、全部で二十の行政区が、王都の中央に坐した王城を軸に時計回りになるように並べられている。タイタニアの領土を潤すロゼーヌ川が、都市の中央を横断している。王都タイクーンはこのロゼーヌ川を中心に築かれ発展し、かつては水の都と呼ばれるほどに周辺各国からその美しい都を称えられた。しかし、水質汚染が進んた現在では、過去の栄華はヘドロで覆われた川底に沈んでいる。


 だが、そんなことは彼にとって今はどうでもいいことだ。彼は何一つ知り得てはいない。この国も名前も、この都市の名前も、今の彼には知る必要のないことである。

 今の彼に彼自身に何が起きたのかを考える余裕はない。彼の魂はまだ崖っぷちに立たされている。


 サンショウウオは額から流れる汗を拭う。

 

 彼の痩身は少しばかり生命力が吹き返していた。先ほどのわずかばかりの雨水を飲み込んだおかげだろう。だが、体内に給水させた水以上の水分が、この蒸し暑さで彼の体から汗となって抜け出ていく。雨が上がった昼下がり、太陽の熱で温められた濡れそぼった地表からは熱を帯びた湿気が立ちがり彼が歩く通り全体が蒸し風呂のような状態になっていた。夏まではまだ遠い時期である。今年の王都は異常気象やら疫病やらと災厄が続く。

 彼はけだるい蒸し暑さの中、食べ物を探して再び都市の中を徘徊する。痩身なわりに頑丈な肉体なのか、給水泉で幼い肉体に科された暴力による体のダメージは打撲と裂傷で済んでいた。あれほどの派手な出血もすでに止まっている。

 しかし、それでも殴られたダメージが癒えたわけではない。体を一歩進めるごとに殴られた頭部が痛みを激しく主張する。頭が割れそうになるほどの痛みだ。顔は青痣が色濃く浮かび殴られた跡がくっきりと見て取れる。顔全体がはれ上がり始めていた。時間がたつごとに痛みが増していく。

 だが、今の彼にとって激しい痛みも息苦しいほどの蒸し暑さも意に介する余裕がない。彼の肉体は飢えていた。半端に雨水で喉を潤してからは飢えは激しさを増す一方だ。


(……腹……が……減った……)


 欲とは厄介なもので、一つの欲が満たされると満たされていない別の欲が癇癪を起した子供のように激しく訴えだすものである。

 蒸し暑さによって王都の至るところでは、むせ返るほどの臭気が立ち上っている。汚水があちこちに垂れ流しになっているからだ。慣れているはずの住民でさえも、布で鼻を覆うか手で鼻を摘まんでいる。それほどにあっちこっちから臭い匂いが漂っている。

 その匂いさえも感じる余裕が彼にはすでにない。


(腹が、減った……腹減った、腹減った、腹減った、腹減った、腹減った、腹減った、腹減った!)

 

 サンショウウオは空腹を抑え込むように腹を抑える。しかし、そんなことで飢える腹の虫が暴れるのを止められるわけがない。


(なんでもいい、なんでもいいから食い物を食わせてくれ。食えるものなら、なんでもいい。一口だけでいんだ。誰でもいい、俺に、俺に慈悲を与えてくれ。でないと、俺は何をしでかすか解らない。この苦痛にいつまで耐え続けないといけないんだ。この肉体はあと何日持つんだ。もう限界だ、一日だって一時間だって一分一秒でさえも耐えていたくない)


 彼の理性はいままさに焼き切れる寸前である。これほどの飢えを彼は人生で一度も感じたことはない。転生前の世界でホームレスという社会の底辺まで落ちた彼である。二日三日何も食わないことはよくあった。その時、感じていた空腹は辛いものだった。

 だが、今彼を襲う飢餓はその頃に感じた空腹がいかに生易しいものなのかを理解できた。転生前の世界ならば、気がおかしくなるほど腹が減る前に食べ物が手に入れることができた。公園に行けば、ボランティア団体による炊き出しが行われている。ゴミ箱を漁れば賞味期限が一日過ぎているだけの未開封の何かしらの食べ物が捨てられている。転生前の世界ならば、金を持っていなくても水だけでなく食料にありつくことが簡単にできた。しかも、腹いっぱい食えることができた。肉も甘い菓子も、寿司も天ぷらもカレーも、ピザもハンバーガーだって、なんだって望むだけ食えた。

 しかし、ここでは何一つ食えるものが見当たらない。


 サンショウウオは足を止めた。


 小さな路地から出てきた彼は、多くの人達による雑然とした賑やかさを前にして思わず立ち止まった。通りには雑貨や食料といった様々な商品を売る露店が立ち並び、王都で暮らす人々で溢れ返っており耳を弄すほどに騒々しい。

 ここはカストラ円大通り。王都タイクーンには王都を一周する大きな円通りが三つある。そのうちでもっとも外円にあたる城壁沿いの通りだ。カストラ通りは、王都の城壁沿いに築かれた城壁街と城壁の間を王都全体を一周する円大通りである。この周辺のほとんどが貧しい生活を送っている。城壁街と名付けられているが、実質は貧民街と何も変わらない。


 サンショウウオは賑やかな人通りを横目で見ながら、暗澹が沈殿する通りの端を歩く。


 通りに出た彼は素早く人混みから抜け出すと、人目から避けるように自然と道の端へ移動した。それは彼が転生前から備わっていた生態でもある。

 カストラ通りは、沢山の出店や露店が立ち並んでいるからか、多くの人達で活気が溢れ賑わっているように見えるが行き交う人々には暗澹とした不満や不安が感じられる。それは表情や態度に出る類のものではない。何気ない所作や視線の動き、なにより人と話している会話の内容とその時の表情の隅にわずかに浮かぶ小さくて薄い暗さである。それは転生前の社会の最底辺に零落れた彼だからこそ感じ取れるのかもしれない。

 王都の貧民街地区を横断する通りだからか、カストラ通りは全体的に汚くて至る場所に人々の暗澹さが鎮座している。地面にはゴミが散乱しているが、腹立たしことに食い物になるような物は欠片も落ちていない。そのゴミと一緒に、通りの道端の至る場所には膝を抱えてうずくまる人がたくさんいた。生きているのか、死んでいるのか、倒れているのか、ただ座っているのか、解るのは人間が道の端にいるというだけである。そこにいる人々は彼を含めて全員が現実を見ていない。絶望に打ちひしがれ、希望を捨ててしまったかのように、思考も行動も停止して何もせずに道の端で泥のように沈殿している。

 彼は歩きながら、人混みで賑やかな通りを行き交う貧しい人々を横目で盗み見る。何気なく歩いている男、買い物をしている女、仕事を終えてほろ酔いの男達、世間話に下品に笑う婦人たち、見世物小屋の客引き、出店や露店の売り子と店主と客、夜鷹の娼婦達、誰もかれもが普通を装っているが彼の目にはそれが虚飾であることを見抜いていた。通りを歩く人々の表情には、僅かに醸す辛気臭さが感じられる。その証拠に、誰もが彼を含めた道端に追いやられている人々へ視線を向けようとはしない。まるで目を向けて見るのを拒んでいるかのようだ。

 たとえ異世界であろうとも、変わらないものがある。彼を含めた社会に居場所がない者達は、どこへ行っても厄介者として蔑まされている。通りを歩く人々は、誰一人も彼らを視界に入れたがらないかのように視線を向けない。彼を含めた道の端で横たわる人々を視界に入れると、通りを歩いている人々は不快そうに表情を曇らせて視線を逸らしてしまう。

 何故なら、道の端に追いやられた者達は、いわゆる社会の負け犬達であり一歩踏み間違えれば自分達も明日にはそこへ落ちるかもしれない。そういった焦燥とした恐怖と否認する為の侮蔑から、誰もそこを見ようとはしないのかもしれない。それは転生前の社会と大して変わらない人間社会の景色なのかもしれない。かつての世界でも、彼は今目の前にしている光景と似たものを毎日のように見ていたような気がした。

 だが、ここに一つだけ転生前とは異なる存在がいる。それは子供たちだ。というよりも、子供の数が多い。彼が知る彼が生まれ育った社会では、子供のホームレスという存在を実際に見たことは無い。彼の知る社会では、そういった存在はテレビか本の中でくらいしか存在を目にすることは無い。

 彼と同じように通りを歩く大人達の視界に入らないように道の端にいる子供達の多くが、彼と同じように体のどこかに痛ましい傷跡がある。彼と同じように暴行の痕跡が色濃く残る子供がいても、通りを歩く大人達は誰一人視線を彼に向けようとはしない。視線に入ったところで、興味を持ったりもしない。そして、道の端にいる誰もが腹を空かせ喉を乾かせ、決して満たされることのない欲望に飢えきっていた。ここにいる誰一人例外なく絶望に打ちのめされ、完全に希望を捨てきっている。

 時折、彼を含めた道端にいる連中らが通りを歩く人々を盗み見た時の瞳は、背筋が怖気だすほどに黒く濁っていた。絶望と不幸に打たれ、妬みと怒りで鋭く研ぎ、嘆きと憎悪で磨かれたその視線は、ほとんど凶器と変わらない。


 サンショウウオは足を止めた。ある露店の前で。


 彼は注意深く、通りを歩く人々の視線を注意深く探る。それは彼だけでなく、その露店の周囲にいる彼と同じ境遇の子供達も同じあった。

 その露店は野菜や穀物といった食料を売っていた。食料を売る露店の周りには客で賑わっている。店主は客の恰幅の良い中年の女性から受け取った麻袋に小麦を入れている。露店の商品台の上には様々な野菜が乱雑に積み上げられている。玉ねぎにキャベツ、ニンジンもあれば大きな瓜のような物もある。ほかにも、彼には名前もどんな味がするのかもわからない色鮮やかな様々な種類の野菜が見受けられた。台の下にはジャガイモが詰め込まれた箱がいくつも置かれている。

 彼を含めた、その場にいる飢えた子供達が獲物を見るような目で鋭い視線で露店に乱雑に並べられている食料を見つめていた。見ているだけで、彼の口中には転生前に食べていた洋食の数々を思い出して、思わずあふれ出た涎を飲み込んだ。それは彼だけではない。誰もが腹に抱えた飢餓に悶絶するほど苦しんでいる。

 

 サンショウウオは赤い林檎を気が狂いそうな思いで見つめている。貪欲なる飢えからの欲望は、サンショウウオの理性を貪り食いつくそうとしている。


 彼の視線は、露店で売られているたった一個の林檎にくぎ付けになっている。露店の商品台の端っこに一つだけ転がっている林檎だ。形は歪だしその赤い色の実には艶が無く少しだけ黒ずんでいる。捥ぎ立てとは程遠く新鮮さがかなり失われているのが見ただけで解る。彼の価値観からしたら、絶対に買わないし食べたいなどとは思わない林檎だ。しかし、沢山の野菜や果物といった商品から弾き出されたかのように商品台の端っこに転がっている林檎から目を離すことができない。


 サンショウウオは唾を飲み込む。


 転生前の彼は果物が好物ではなかった。フルーツ味の加工物なら好んで口にしたが、生の果実を美味しくは感じなかった。林檎を最後に食べたのはいつだったろうか。それを思い出すことはできないが、林檎の味はよく知っている。齧ると口の中に溢れる果汁。噛むと口いっぱいに爽やかな酸味と蜜の甘さが広がる。飲み込んだ時の甘いながらも清涼とした香り鼻孔にいつまでも残り続ける。なんの抵抗もなく当たり前のように食していた頃の林檎の味を思い出して、彼は悶絶するほどに苦しみ悶えることとなった。


(食いたい。あの林檎が食いたい。一口で良いから、その林檎を俺に食わせてくれ。死にそうなほど腹が減っているんだ。どうせ、その林檎は売れ残りだろ?)


 彼はジロリと暗く湿った視線を露店の店主に向けた。店主は愛想の良い表情を浮かべて客と何やら話し込んでいる。痩せてはいない、が太り過ぎているわけでもない少しだけ肉付きの良い中年の男だ。客と笑みを浮かべて話している姿を見るに話好きの気の良い男のように見える。だが、彼は一目見ただけで店主が彼にとって都合の良い人間でないことを、彼は瞬時に見抜いた。

 綺麗に陳列された商品台の上で唯一残されている売れ残りの果実の存在感が、彼に店主の人となりを嫌というほど理解させた。

 あの店主はろくでもない人間だということを。


(店主、アンタだってそんな腐りかけの林檎なんか食べないだろ? 仲良さげに話をしている客よりも身なりがいいもんな。どうせ、この辺りをうろついている連中よりかはある程度身分が良いと思ってるんだろ? そんな奴が、そんな売れ残りの林檎なんて食わねぇよなぁ? どうせ捨てるんだから、俺に食わせろ。いや、俺の方に投げ捨てやがれ!)


 彼の不穏な視線を感じたのか、店主が彼の方に視線を向けた。即座に彼は俯いて城壁に寄りかかる。彼は必死に周囲の景色に溶け込もうとする。小心な心臓が早鐘のように鼓動し冷汗が止まらない。店主は城壁に無気力を佇む彼を含めた浮浪者達の姿を見て、不快な表情を一瞬だけ浮かべると対応している客へ視線を戻す。彼に一瞥を向けた時の、店主の目は嫌な目つきをしていた。意地が悪くケチで外面だけが良い性根の腐ったろくでもない人間の目だ。

 そんなことは彼は理解していた。もし、先ほどのような視線に気が付かれていたら、何をされていたか解らない。ただでさえ、彼は先ほどの給水泉で殺されかけたばかりだ。この都市、いやこの世界は命がとても軽いし安い。

 働いていない。住む家も無い。名前も無い。両親や家族もいない。そんな人間たちの命に価値などは無い。

 笑い声が聞こえる。下衆で汚らしい笑い声だ。先ほどの店主が、店の客と城壁に佇む彼を含めた浮浪者に関する話をしているのだろう。意地の悪い笑みを浮かべている。

 そうだ。ああいった奴ほどろくでもないものなのだ。あの男は彼と違って家も身分も名前も持っていて、彼と違ってこの都市で一定の信用を得ている。露店の店主は、転生前の社会でいうところの勝ち組という連中の仲間だ。いつも自己と他者との評価を気にしてばかりいて、自分よりも格下の相手を探している差別主義者達。口では綺麗ごとばかり抜かして、平然と矛盾とした悪意をばら撒く世界の疫病者達。露店の店主を彼は心の底から侮蔑し嫌悪し、そして憎悪する。

 あぁ、彼はなんと愚かで可哀そうなんだろう。悲嘆に暮れたものほどそのままにしているとよくない性質を帯びるというが、これほどまでに心が醜くゆがんでしまうのだろうか。見るに堪えないほどに彼の浅慮な思考と狭量な自尊心が彼の表情から見て取れてしまう。どうか彼を見ても窘めないでやってほしい。ただ憐れんでやって欲しい。

 彼はすがるような思いでぐるりと見渡す。誰か一人でもいいから、哀れな彼自身に施しをくれる相手を期待していたのだろうか。だが、この通りを歩く者達にそのような余裕を持つ者がいるはずもない。誰もが自分のことで精一杯だった。そんなこと解っているはずなのに、彼の怒りは飢えが増すごとに増していった。

 この世界はろくでもない奴ばかりだ。彼は心の底から目に映るすべての人間を蔑んだ。

 カストロ通りの城壁側に佇んでいるのは彼を含めて何人いるだろうか。見える限りの範囲で数えようとしたが、その行為自体の無意味さに荒涼とした不毛さを感じて彼は数えるのを止めた。そもそも子供の浮浪者の数の方が明らかに多い。その全員が荒み切った表情で、通りを歩く人々を警戒していた。虐待を受けた野良の犬や猫のように、城壁で佇む子供達には剣呑な雰囲気が表情に宿っている。


(これほど飢えた子供がいるのに、通りを歩く大人たちは完全に無視していやがる。少しくらい食い物を恵んでくれる奴はいないのか?)


 あぁ、なんて愚かなんだ。

 あぁ、なんて憐れなんだ。

 あぁ、どうか彼を許してやって欲しい。彼の思考は飢えによってすでに支離滅裂とした矛盾に埋め尽くされてしまっているのだ。彼にとっては彼を含む子供は助けられて当たり前だと考えているようだ。その傲慢な考えに怒りを覚える者もいるだろうが、どうか広い心でもって許してやって欲しい。すでに彼の心は限界を超えてしまっている。転生前、彼は悲嘆に暮れに暮れて最後は熱病にうなされながら、神と仏と誰も手を差し伸べない社会を恨んで憤死した。それなのに神も仏も酷なことに、彼に再び辛い人生をお与えになったのだ。醜くやさぐれてしまっても仕方ないと同情できる余地があるのではないだろうか。たとえ、その傲慢な思考が許されなくても。

 

 太陽は西へ少しずつ傾き始めている。城壁の影が少しずつ通りへ伸び始めて行く。影の中に潜む者達の領域が広がっていくようだ。それは彼の中に広がりつつある暗闇のようにも思えた。彼はそんなことを思いながら、ふとかつての自分を思い出した。そして思う。彼を含めた恵まれない子供達を無視して歩く大人達、目を入れれば不快な表情を浮かべる大人達、遠目で厄介者と誹り意地汚く笑う大人達、そんな大人達を彼自身が非難できるような立派な大人ではなかった。

 むしろ、恥の多い大人であった。


(募金箱に金を入れたことあったか? 少なくとも大人になってからはないな。そもそも募金なんてのは金に余裕がある奴がやればいいって思っていたっけな。テレビのCMで流れる“恵まれない子供”とか、心底軽蔑的な感情しか湧き上がらなかったな。同情ならいくらでもしてやるさ。だけど心の底から援助はできるやつがやれって思ってたな。毎年、夏にやるチャリティー番組なんて見ただけで反吐が出た。助けたいのなら、助けたい奴らが勝手に助ければいい……そんな風に考えていたな。だけど、それは決して俺だけじゃないはずだ。むしろ、俺みたいな奴の方が多かったはずなんじゃないのか?)


 サンショウウオは自傷気味な薄く笑みを浮かべる。


(この俺にこの世界の他人をとやかく避難できるほど立派な人生を送ってはいなかったな)

 

 彼はようやく思い出したようだ。かつての世界で彼がどのような人間でどのような人生を送ってきたのかを。

 だが、それは一時の気の迷いのようなものでしかない。強烈が飢えが彼の中で激しく訴え始めた。

 彼は飢えた獣のような思いで露店の林檎を食い入るように見つめなおした。見れば見るほどに空腹が増していく。あの爽やかで濃密な甘さのある果汁を思い浮かべただけで、先ほどの充たしたはずの喉の渇きまで騒ぎだしてくる。


(何か食わなければ、このままで飢えで狂い死にそうだ!)


 サンショウウオは虚空へ向かって手を伸ばすが、すぐに手を引っ込めた。


 彼の飢餓衝動を抑えさせたのは、先ほどの給水泉での出来事である。彼は文字通り、痛いほど学んでいた。


(水を飲んだだけで二回も殴り飛ばされたんだ。いや、騒動が起きなければ、雨が降っていなければ、俺はあの場で確実に殺されていたな)

 

 そんな彼が盗みをする。この多くの人が行き交う賑やかな通りでだ。誰にも見つからずに盗みを働ける技術などあるはずがない。転生前の彼は一度も犯罪を行わなかったことだけが、彼が他人の誇れる数少ない小さな美点なのだ。

 だが、金を持っていない以上、彼が食べ物を手に入れるには盗む以外の方法が思いつかない。そして、その行動は確実にバレるだろう。もし見つかった場合は、今度こそ確実に殺されることが解っている。

 それだけではない。

 これほどの状況になりながらも、彼の心の中には盗みを実行することに僅かながらも躊躇っている彼自身が存在していた。

 それは転生前の世界で生きた彼だからこそ持つ、一種の呪縛。

 転生前の両親から授けられた呪い。

 転生前の社会では、幼い子はある洗脳を大人達から受けながら育つ。

 彼を含めた多くの子供たちが受ける洗脳とは、いずれ大人になり社会で生きることとなる彼らに教え込まれる社会の掟である。

 それは、悪いことは絶対にしてはいけない、という絶対のルールだ。ルールを破った者は、犯罪者のレッテルを張られて社会的制裁を受けることとなる。その制裁の内容は犯した罪によって厳しくなる。


 サンショウウオは空を仰ぎ見上げる。雨上がりの空は腹が立つほど晴れ渡っていた。なのに、そこは薄暗く湿っていて狭い洞穴のような場所だ。


 彼は、いや彼を含めた城壁側に佇む者達は、その陰から抜け出すことができなくなっていた。城壁から背を離して少し歩くだけで、カストロ通りの日の当たる場所に出ることができる。だが、誰一人としてその場を動くことができない。まるでここが彼らに定められた安住の地であるかのように。

 城壁が作る薄影の中には、社会の負け犬達の倒錯した精神が充満している。それをすぐ隣で見ていながら、往来を歩く人々は冷蔑と無視して通り過ぎていく。人々は気づくべきである。人々の幸福な日々を壊す他者はすぐ近くにいることを。

 

(あの林檎を盗まなくちゃ死ぬっていうのに、なんでこんな後ろめたい思いを抱かなくちゃならないんだ。今の俺は子供なんだぞ。しかも、死ぬほど腹を空かせているんだ。誰も助けてくれないなら、もう盗む以外に自分が助かる手はないのに、なんだ俺はあと一歩が踏み出せない!)


 彼は彼自身に絶望した。かつての常識に囚われている意気地のない彼自身に嫌気をさしている。今、彼が直面している現実において転生前の教えなど何一つ彼の利益にならない。不要な倫理観が彼を不必要に苛立たせる。食わなければ死ぬ。待っていても誰かが助けてくれるわけでもない。生きるためにはやるべきことをやらなければならない。

 なのに、何かが彼を制止する。それは薄くて細い糸のようなもので引っ張れば簡単に引きちぎれそうなのに、何故かそれを躊躇させられる。その糸を切ってしまったら、きっと彼の中にある目に見えない何かとの繋がりが完全に途絶えてしまうような、そんな不確かな不快感がより一層彼の理性を蝕んだ。

 

 気が滅入りそうな苛立ちを紛らわそうと、彼はその場から再び動き始めた。まるで背中が城壁と癒着し始めていたかのように、城壁から離れようとするときに力を籠める必要があった。その無駄な労力が余計に煩わしい。

 腹が立つ。とにかく腹が立つ。無性に腹が立つ。夏の夕暮れに発生する羽虫の群生が服や肌を汚していくときのような掻き毟るような苛立たしさだ。

 城壁沿いの影から影へと、彼は鬱屈としたストレスを踏みしめるようにして足早で移動する。強いストレスにさらされ、幼い頃に矯正したはずの爪を噛む癖が呼び覚ました。


 サンショウウオは嘆く。


 どこへ行っても、どこへ来ても、彼を変わらず悩ますのは彼自身が持つ強固な倫理観だ。転生前の世界、ホームレスまで陥った彼は自暴自棄になりながらも、最後の一線を踏み越えることができなかった。どこへ行っても他人から見下され嘲笑を受け続けた。それでも、彼は死ぬまで法律を犯す行動を一度も取らなかった。

 どれだけ不当な扱いを受けても、どれだけ口汚く罵られても、時に一方的な暴力を振るわれても。

 ありとあらゆる許された悪意に晒されながらも、彼は決して犯罪を犯さなかった。

 盗みも暴力も、殺人も。

 強いモラルを持っていたから、両親の教育が良かったから、法律を遵守する真面目な性格をしていたからなのか。

 いや、そんなわけがない。彼は彼なりに、誰でも知っていながらも犯す小さな法律違反は平然と繰り返し行っていた。

 ならば、単純の小心者だったから、度胸がなかったからなのか、それとも犯罪を犯すほど転生前の社会では追い詰められていなかったからなのか。

 それは解らない。転生前の社会でも、彼は彼なりに追い詰められて常にその精神は瀬戸際にあったのは確かである。定期的に起こるそういった犯罪者を見ては、こころのどこかで自分が同じようなことをしてもおかしくはないと危惧している一面はあった。

 だけど、それでも彼は一度もそれらの行動を起こさずに、最後は社会の隅でひっそりと死んだ。

 そうだ、彼は死んだんだ。転生前の社会で生きる人なら、絶対こんな死に方を迎えたくはないと思われる惨めな死に方で。

 彼は死んだ。


 サンショウウオの中で憎悪が膨らむ。それは転生前から抱え続けていたものだ。


(世の中、おかしい。どうして俺だけがこんな苦しまなくちゃならないんだ。俺が何をした。何もしなかったのがそれほどの悪なのか。これほどの罪科を追わなければならないのか。なんで、なんで、なんで俺ばかりがこんな目に合わなくちゃならないんだ!)


 彼の心の叫びは、言葉となって口から洩れることはない。洩らすわけにもいかない。

 転生前の世界でもそうだったように。どこの世界でも社会の負け犬の遠吠えほど耳障りの悪い音はない。大抵、ろくでもない目に合うのが落ちである。ましてや、転生後の世界では彼の扱いは転生前の世界以上に劣悪だ。

 彼は悔し涙で霞む視界を何度も袖で拭う。精神年齢は初老を迎える男だが、まるで願いが聞き届けられず癇癪を必死に抑え込む幼稚園児のように彼は両目から涙を流し続けた。

 それは転生前から、いや思春期を迎えた頃から彼が抱え続けてきた、どこへ行ってもどこへ来ても彼に纏わり続けている敗北感である。それは、彼の行動からもにじみ出ている。

 彼はこれだけ心の中で憤りながらも、一度も城壁が作る薄影から一歩も出ることができなかった。この

陰陰滅滅とした社会的精神遅滞者が逃げ込む為の棲家であるかのように。

 それがより一層、彼の敗北感と劣等感を増長させる。


(どうして俺はいつもコケにされなくちゃならいんだ。どうして俺ばかりが)


 あぁ、なんとも哀れな姿だろうか。飢えほど人を哀れにさせるものはない。不幸ほど人を哀れにするものはない。人生の負け犬ほど、滑稽で愚かで哀れなものもない。

 どうか、彼のように人生に打ちひしがれている愚か者を見たならば、どうか優しくしてやらないでほしい。下手に声をかけないでほしい。笑わないでやってほしい。馬鹿にするのもやめてあげてくれ。助けようとしてくれなくてもいい。

 ただ、見て見ないふりをしてくれればいい。

 無視してくれるだけでいいんだ。


 サンショウウオは鼻をひくつかせる。飢餓により鋭敏になった嗅覚は、ほんの僅かな幸福の臭気を逃しはできない。


 再び、彼の足を止めたのは嗅ぎなれた香ばしい芳醇な匂いだ。暖かで幸福な香りだ。これはパンだ。それも焼きたてのパンの香りだ。

 彼は野良犬のようにパンの焼ける香りを視線で辿る。そこは先ほどの露店から少しだけ離れた通りの一角にある店だった。石造りの古いがしっかりとした店構えのパン屋だ。匂いにつられて客が次々と店に入っては、沢山のパンをかごに詰めて出てくる。誰もが笑みを浮かべて幸せそうな顔をしている。そこだけ幸福な賑やかさで華やいでいるようにさえ見えた。

 その貧しいながらも幸福な光景が、彼に飢餓以上の嫉妬を抱かせる。

 開かれた店の扉からも窓からも、食欲を刺激する焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。ひっきりなしに出入りする客達の隙間から、様々な形をしたパンが並べられ積み上げられたパンの商品棚が見える。大きくて平らなパン、人の頭と同じ大きさの丸いパン、見るからに堅そうな細長いパン、見慣れた四角い形をした一斤のパン。店のカウンターで忙しそうに働く女性の明るい声が外に漏れ聞こえてくる。

 パンを求めて店を訪れる客たちは、今晩の夕餉のためだろう。客のほとんどが女性だ。日もだいぶ落ち始めて来た。澄んだ空に火が入れられたように焼け始めている。貧民街のたちこちで夕餉の煙が立ち上り、人の往来は昼間よりも増して賑わいが活気づく。カストロ通りが間もなく訪れる夜を出迎える準備を始めだした。

 仕事を終えた男達が帰宅の途に就く時間だ。それに合わせるかのようにして、通りの影に隠れていた客引きの女衒が通りに姿を現す。安宿の窓は開け放たれて、そこから身をのぞかせる女たちが下品な視線で通りを見下ろしている。肉屋は盛んに肉も内臓も適当に串に刺すか、適当に鉄板にぶちまけて焼き始めた。

 夜を迎えたカストロ通りの臭気は筆舌にしがたい。悶絶するほどの臭い匂いが漂い始めるが、人々の嗅覚は麻痺してしまったのか誰も匂いを気にした様子はない。

 それは彼も同じである。一心不乱に彼はひっきりなしに客が出入りするパン屋を見つめている。夕餉の時間が進み始めたことで、さらにたくさんのパンが焼かれ始めた。すでに彼の周囲にはむせ返るほどの芳醇の焼きたてのパンの香りが充満している。その匂いは無駄に無意味に彼の空腹を刺激するだけであった。見るからに上手そうなパンには見えない。形も悪く、どれもこれも堅そうだ。だけどパンだ。パンという事実だけで、彼の食欲が強烈に刺激されている。


(盗め、盗め。人込みまぎれてこっそり盗め。もう駄目だ。喉が渇くほどに涎が溢れかえってくる。今なら、俺は人を殺すのさえ厭わない。あれが食えるのなら、俺はなんだってやってやる)


 しかし、サンショウウオは動かない。


 彼はその心の中とは異なり、そこから動くことができなかった。強烈な呪いが彼にそれを行いことを許さない。

 パンは次から次へと売られ、売れるたびに新しく焼かれたパンが積み上げられていく。


(一つでもいい、一つでもいいから俺にそれを食わせてくれ。ここにいるのが見えないのか。俺は子供なんだぞ。まだ幼い子供がお前らの目の前で腹を空かせているんだぞ。これだけ人がいるのに、それだけパンだけでなく野菜や肉といった食い物を籠に溢れる買い込んでいるんだ。一つくらい分けてくれたっていいだろうが。誰か一人だけでいいんだ。一かけらでもいいんだ。一口でいいから、俺に何かを食わせてくれ。お願いだ)


 彼の切望する願いが聞き届けられるはずもない。彼のジメジメとした粘着質の視線に気が付いた人々は、一様にして不快に表情を曇らせた。彼に蔑視を向けると、そそくさとその場から立ち去っていく。


 泣き出しそうになる気分で、彼は繁盛するパン屋の光景を眺めている。人々の同情に縋るように、人々の憐憫に媚びるように、彼はパン屋を出入りする客を見つめた。運が良かったことは、パン屋に出入りしている客のほとんどが女性だったことだろう。もし男だったら、きっと彼の存在は暴力によってパン屋の前から振り払われていただろう。

 だが、誰一人の例外も無く、彼に食べ物を施そうとする人がいなかった。それは彼に深い絶望を与えるのに十分なことであった。

 悲嘆にくれている者を、暗澹に打ちひしがれている者を、さらに追い込んではいけない。彼は彼を縛る腐りに牙を立て始めた。爪で掻き毟り始めた。

 どうにかして外せないかと、この邪魔な鎖を、この邪魔な鎖さえなければ、彼は。

 彼は自由になれる。


 その時、店の中から上背のある筋肉質の男が姿を現した。店の奥の厨房にいたパン屋の主人だ。警戒心の強い鋭い眼光で周囲を見回している。店の中の誰かが話していたのか、それとも彼が醸し出す不穏な空気を察知したのかパン屋の主人が出てきた理由は解らないが、彼は即座にその場から逃げ出した。

 それは、部屋の隅で隠れていた害虫が見つかった時と同じ反応である。暗所から暗所へと素早く移動して身を隠す。弱者なりの生き方なのだが、人間である以上その行動は酷く自尊心が損なわれる。悪いことをしていたわけでもないのに、そのような卑屈な生き方を余儀なくされている彼自身が嫌気を抱いている。

 彼の中で屈辱とした敗北感が強まっていく。それは彼の精神を倒錯へと傾けるのに十分なものであった。


(クソ、クソ、クソったれがぁ。この惨めな気分はいつになったら晴れるんだ!)


 気が付けば、空には陰鬱とした雲が再び漂い始めていた。雲の薄闇が覆い始めると、次第にカストロ通りに不穏な気配が漂い始める。夕暮れに染まるカストロ通りを歩く人々はそれに気が付いている様子はない。

 夕闇迫る中、彼は再びその場所に戻ってきた。彼の目の前には先ほどの露店があり、依然として林檎が一つだけ商品台の端っこに忘れられたように置かれている。露店の店主も客も林檎の存在に気が付いていない。その赤い果実の存在を捉えているのは彼だけである。形は歪で、色艶も悪い、味の良さそうには見えないその果実に彼は完全に魅了され虜になっていた。

 彼は周囲を陰湿な視線で眺める。人の往来の動線を注視、人の視線の向きを予測して、彼は用意周到とその時の機会を窺っている。すでに彼を縛る鎖は完全に外れている。錠も壊れている。彼はすでにスタートラインに立ち、あとは合図が鳴るのを待つばかりだ。

まるで運命が彼の背中を押すように、壮麗な鐘の音がカストロ通りに響き渡る。途端に喧騒としたカストロ通りが水を打ったように静まり返る。人々が甲高く地に響く鐘の音に誘われるように視線を向けた先には、修道服に身を包んだ八人の男の列がカストロ通りの中央をしずしずと進んで来た。修道士たちは全員がその手に本を開いて俯きながら歩き進む。修道士の列の先頭を歩く修道士がハンドベルを鳴らす。フードの隙間からわずかに見える顔立ちが美しい若い修道士だ。邪を払う凛麗とした鐘が響く中、後続の残り七人の若い修道士達は手にした本を読み始めた。修道士たちの玲瓏とした声が静まり返るカストロ通りの魔を打ち払うかのように響き渡る。


「日が沈もうとしている。やがて夜が訪れようとしている。神が眠り、魔が目覚め背後から忍び寄り始める。人々は信仰を見失いやすく、邪悪なる者の囁きに惑いやすい。迷いし子羊らよ、疑うなかれ」


 カストロ通りにいる誰もが、中央を練り歩く修道士達を見送っていた。見るからに信心深そうには見えない露店の主人でさえも、彼らに畏敬の念を送っているのが見て取れる。露店の主人もその客達も、全員が修道士の姿を目で追い、響き渡る鐘の音を聞き彼らの言葉に意識を向けている。

 修道士の姿にも声にも意識を向けることなく、彼は動いた。彼だけではない。城壁側に佇んでいた子供達が一斉に音も無く動き出す。その動きは暗く湿った場所で生息する生物のようだ。

 彼を含めた城壁側の子供達にとって信仰心など腹の足しにもならない。ましてや、転生前の社会で生きた彼にとっては宗教など毛ほども興味がない。

 しかし、そんな彼を含めた薄闇が覆う洞穴の中で生きる者達にとって、それはとても都合の良い存在であった。


「神の御心を疑うなかれ。正しきを尊び、悪しきを憎め。持たざるを嘆かず、持つは驕らず、持たざるは妬まず、持つは蔑まず、ただ信じよ。信ずる者は救われる」


 彼を含めた子供たちは、カストロ通りの人込みの中を蠢きまわる。影の中に潜む蟲の如く、各々が見定めた獲物に音も無く忍び寄る。人々の気は散っていて、誰も彼を含めた悪童達の接近に気が付いていない。カストロ通りは薄闇が覆う洞穴に飲み込まれていた。今、この瞬間だけ、薄影が織り成す湿った日陰の中で生きる者達こそが世界の支配者である。

 跳梁跋扈と悪童達は暴れまわる。人々の気が散っているこの時間は、この悪童共が王者の如く大手を振って人通りの中を歩いていられる。慣れた悪童ほどその動きは大胆で素早い。行き交う人込みの中に滑り込むと、あらゆる手練手管で持って好き放題に獲物を懐に収めていく。

 そんな悪童達に比べて、彼のそれはあまりにもお粗末なものであった。

 彼の狙いはただ一つ。露店の商品台の隅に捨て置かれているたった一つの林檎である。彼は目当ての獲物に向って愚直に進む。その様子は誰が見たって一目瞭然だ。周囲の悪童達は、そんな彼の姿を意地の悪い視線で追っていた。そのことに彼は気が付いてはいない。空腹によると飢餓とこの千載一遇の機会を逃すわけにはいかないという焦りが、彼から理性と冷静さを失わせていた。


 もし、この瞬間にでもいいから、彼に理性が戻ってさえいれば、冷静に周囲を見回す余裕があれば、少なからずこれから始まる狂騒劇の幕が開かれることはなかっただろう。


「正しきはいずれ恵が訪れ救われるであろう。しかし、悪しきはいずれ悪しきによって滅ぼされるであろう。正しく生きよ。汝、信じよ、さらば救われん」

 

 彼は露店に近づく。商品台の上には様々な種類の食料がたくさん置かれている。野菜だけじゃない、麦も干し肉も空腹を満たせる食べ物が、今この瞬間だけは選び放題だ。

 だが、彼が手を伸ばしたのは、隅っこにある売れ残った一つの林檎である。


「恐れるなかれ、拒むなかれ、汝、求めよ、さらば与えられん。たずねよ、さらば見出されん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求むるものは得たずねぬる者は見出し、門をたたく者は開かるるなり」


 彼は盗んだ。林檎を盗み取った。彼は急いでその場から逃げる。彼にとって初めての盗みである。彼は善人ではなく、法律を犯すのは初めてではない。しかし、これほど明確にして明瞭に犯罪を行ったことは一度も無い。

 

 サンショウウオは興奮していた。


 アドレナリンが止めどなく脳内に溢れ出る。激しく躍動する脈拍と共に流動する血流による快楽は性交で得られる絶頂とは比べ物にならない快感が彼の脳を痺れさせた。初めての犯罪で、彼は久しく味わっていなかった快楽を貪るように味わう。

 初めて行う犯罪は、無知なる幼い精神だった思春期に訪れた精通に似て非なる快感を彼に与えた。


 サンショウウオは思い出す。


 この瞬間、彼は思い出していた。かつて、自分が行おうとして愚行を。

 そう、今回彼は初めて犯罪を成功させた。しかし、犯罪を行おうとしたのは初めてではない。彼はかつて犯罪を行おうとしたことがあった。

 それは彼が十歳の時である。誰でも経験があるはずだ。友達との度胸試しで何か悪いことをする遊びをしたことがあるはずだ。彼は幾人かの友達と学校近くの駄菓子屋で万引きをした。耄碌した老婆が営む古い駄菓子屋だ。彼は彼なりに初めての万引きを成功させるために、かなり注意して商品を懐にしまい込んだ。盗んだのは、一本のスプレー缶だ。当時流行っていたミニ四駆の塗装で使用する物だが、彼はとくに欲しくも無いし必要とすらしていない物だった。

 ならば、何故盗んだ。

 それは、当時の彼にも、今の彼にも明確な理由は解らない。

 今の彼に思い出せることは二つだ。

 大人達からやってはいけないといわれ続けてきた悪いことを、いけないと思いながらもやる『それ』にどこか胸を躍らせて興奮していた。

 商品を万引きした瞬間、彼に罪悪感は無くあったのは達成したことへの喜びであった。

 そして、残る一つが。

 それには大きな代償が伴い、大抵は思っていたほど簡単にうまくいかないことである。

 彼の万引き行動の全てが、店の番人である老婆に筒抜けであったのだ。目も悪く頭もボケ始めていた老婆は、老猾な手法で彼が商品を盗む瞬間をばっちり見逃さなかったのだ。

 彼の初めての万引きは失敗し、一時間も彼は老婆から説教を受けた後、両親からも厳しい折檻をくらうことになった。

 この時の彼は痛いほど身に染みたのだ。慣れないことをする時ほど、ろくでもない目にあうことを。

 

「心を尽くし、健全な精神を維持し、力を損なうことなく、健やかなる時も、病める時も、私たちは神を、我らが主を愛さなければならないのです。主の無情なる愛を疑う者は悔い改めよ。疑うなかれ、さすれば道は開かれん」


「泥棒だ!」


 誰かが大声で叫んだ。声からして子供だ。

 誰かが泥棒と叫んだ。その言葉通りに泥棒を働いたばかりの彼は、愚かなことに思わず足を止めてしまった。

 彼が周囲を見渡すと、彼と同じように至る場所で盗みを働いていた子供達が一目散に走り逃げていた。そのうちの一人と彼は目が合う。最初に声を上げたのは、その子供だった。ぼさぼさの栗色の髪に活気に満ちた栗色の瞳をしたいかにもいたずらが好きそうな小僧だ。

 その子供の言葉は魔法の言葉、周囲の大人達の意識を判然と呼び覚ます一言である。その一言で、カストロ通りにいる大人全員がハっとなって周囲を見渡していた。


「食い物を盗んだ奴がいるぞ!」


 栗色の小僧が騒ぐと、他の子供達も走り逃げながら次々と叫び始める。


「泥棒だ、泥棒だ」

「皆、大変だ。あいつが露店から食い物を盗んだぞ」

「あいつだ、あいつ!」


 その時、彼は感じた。かつて駄菓子屋でスプレー缶を万引きした時、何食わぬ顔で店から出ようとした時に感じた物を彼は思い出したように感じた。

 だが、時はすでに遅い。


「ほら、みんな見て、きっとあいつよ。泥棒は、林檎を持ってるあいつよ!」


 それは凛とした少女の声だった。彼は声のする方へ顔を向けると、そこには一人の少女が彼に向って意地悪な笑みを浮かべていた。亜麻色の髪に青い瞳が印象的な少女だ。青い瞳には蠱惑的な輝きが躍動していて、そんな少女のサディスティックな笑みはあまりにも魅力的で、彼はほんの少しだけ少女の姿に見とれてしまっていた。


「本当だ。みんな何してんだよ。泥棒だぞ!」

「逃げられるぞ!」

「誰か、捕まえろ!」


 次の瞬間、サンショウウオはようやく自分の身に何が起きているのか理解して、驚愕と同時に恐怖に撃ち抜かれてすぐに動くことができなかった。


 彼は視線を青い瞳の少女の背後へ視線を伸ばす。逃げる子供達の群れの中に、彼に向って意地の悪くほくそ笑む数人の少年の姿を見た。少年達の笑みには青い瞳の少女とは異なる明らかな嘲りが浮かんでいる。

 彼は愚かだが馬鹿ではない。自分がスケープゴートにされたのは瞬時に理解できた。

 そして、もう逃げることもできないことも。

 彼はさながら幼稚な罠にかかった一匹の愚かなサルにすぎなかった。

 すでに彼の姿は周囲の大人たちの視線に囲い込まれていた。

 彼は危機を感じて逃げ出そうと走り出す。


「この糞餓鬼がぁ!」


 しかし、逃げようとする彼の襟首を即座に何者かが掴んだ。掴んだ手から伝わる力強さから、相手が大人の男だというのが伝わってくる。そして、相手が彼に対して侮り蔑む憎んでいるのも理解できた。


「そいつだ。そいつが持ってる林檎は俺の店の商品だ。その餓鬼が盗みやがった」


 露店の商人が騒ぎ、瞬時にカストロ通りの大人達の視線が彼の全身を突き刺した。


 彼は身の危険を感じて逃げようともがくが、男は力づくで彼を引きずり上げると、相手が子供だというのに何の躊躇もなく力強く地面にたたき伏せさせる。とっさに受け身を取ることで、彼は後頭部を地面に強烈に打ち付けずに済んだ。義務教育の体育で教わった柔道の教えは彼に致命傷を避けさせはしたが、それが決して彼を救う手助けにはならなかった。大事そうに抱えていた盗んだ林檎は、地面に叩きつけられた時の衝撃で彼の両腕から零れ落ちた。

 ころころと地面を転がる林檎を、彼はじっと見送る。その林檎は、彼の所業に憤り彼に押し寄せてくる大人達によって跡形も無く踏みつぶされてしまった。彼は思わずぐちゃぐちゃに踏みつぶされたそれを悲しそうな表情で見つめ、いまではただの地面のシミとなったそれに向って手を伸ばした。彼に押し寄せる大人達は、そんな彼の救いを求めて伸ばした手を踏みつけた。

 

 サンショウウオは痛みで思わず叫んだ。

 

 だが、大人達の容赦ない呵責はこの程度では終わらない。

 痛みでもがく彼を大人達は彼が犯した罪悪に反省しておらず、なおかつ逃げおおせようとしていると思ったようだ。それを見ていた多くの大人達の手によって、彼の肉体は地面に押し付けられて身動きを封じられてしまった。手加減なしの大人達の膂力によって、押しつぶされた彼の肉体は悲鳴を上げた。骨は軋み内臓が潰され猛烈な痛みが彼を襲う。大人達は彼が圧死しても構わないようで、苦痛を訴える彼の悲鳴に苛立ったように彼に暴力を加えた。


「この悪ガキが、これは当然の罰だ」

 

 そういって無精髭を生やした汚らしい恰好をした男が、無抵抗の子供である彼の顔面を殴ると彼の顔に唾を吐き捨てた。

 彼は痛みからでもなく、蔑みからでもなく、ただ恐怖から叫んだ。それは目前に差し迫る死への恐怖だけではない。彼に恐怖のどん底に陥れたのは、圧倒的されるほどの他者からの敵意である。彼は彼を取り囲む大人達から敵意を孕んだ蔑視に突き刺される。憎悪の塊を投げつけるように無数の罵声を浴びせられた。そこに相手が子供なのだからという慈悲は一かけらも存在しない。彼は転生前の世界で、これだけの敵意を剥き出しにした大勢の人数に取り囲まれ罵詈雑言を浴びせられた経験などない。これは子供とか関係なく精神が瓦解されてもおかしくはない仕打ちである。

 大人達の容赦ない呵責による責め苦に、彼は耳を塞いで必死に自分自身を守るために声を上げ続けた。そうしなければ、恐怖で自我が壊れてしまいそうだったからだ。しかし、子供の悲痛な叫びなどこの世界では耳障りな物でしかなかった。いや、それは転生前といえども変わらないだろう。彼に呵責を加えていた大人達は、そんな彼の態度に不快さを表情を露わにした。火に油でも注がれたように、彼に科する加虐が苛烈さを増した。


「うるせぇぞ、このクソガキが!」


 彼の頭部を小汚い中年の男が蹴り飛ばす。まるで路傍の小石を蹴り飛ばすかのように。顔に酒気を帯びているところから酔っているのだろう。本気の蹴りだ。頭がもげてもおかしくはない。普通なら死んでいても不思議ではないが、運がいいことに彼の肉体は頑強だったことであり、それが彼にとって不運な事実でもある。

 痛みを感じることができないほど脳が激しく揺さぶられ、彼は叫ぶことができず壊れたラジオのような苦鳴を漏らす。だが、その声さえも周囲の大人達には耳障りだった。


「黙りやがれ、このクソガキがぁ、反省の色が見えねぇぞ!」


 中年の男はさらに彼のみぞおちを蹴り上げた。内臓が破裂してもおかしくないほど男の足は彼の横腹にえぐり込んだ。

 

「どけ、どけ、そいつは俺の店から商品を盗んだ餓鬼なんだ。まだ、殺すな」


 彼の周囲に集まる群衆を払いのけて息を荒げて現れたのは、彼が盗んだ露店の店主だ。露店の店主は彼に近づくのだが、それは彼を救う為にではないのは店主の顔を見れば一目瞭然だ。顔には恥辱による怒りで染まり、彼を見下ろす視線にはサディズムとした敵意が露見している。

 店主は彼の顔面を踏みつけた。


「このクソガキが、汚らわしい手で俺の商品を盗みやがって。ただで済むと思うなよ」


 口角泡を飛ばしながら、店主は厭らしい笑みを浮かべながら彼の顔を何度も踏みつけた。


「俺の店の商品をどこへやったんだ。あの林檎だぞ。一個いくらで売れると思っているんだ。少なくとも、お前みたいな汚いガキの命よりも値は張る品物だぞ!」

「お前みたいなガキがこうして生きていられるのも、俺達がお前みたいな悪ガキの分も税金を納めているからだぞ、解ってんのか!」


(うるせぇよ。なんで働いてないだけで、お前らみたいなクズに罵られなくちゃならないんだよ。なんで税金を払ってないだけで、お前らみたいな無能から偉そうに説教されなくちゃならないんだよ。俺は誰にも頼らずに生きようとしていただけじゃねぇか。なのになんでお前らみたいなクソどもに殴られなくちゃならないんだ!」


 彼を地面に押さえつけている大人達が、何度も彼を殴った。何度も彼を蹴った。何度も彼を踏みつけた。


「全く、なんて子供なんだい。悪いことをしたのに謝ることもできないのかい? お前みたいな悪ガキは親に捨てられても仕方がないよ」

「よりによって修道士様達のありがたいお経の中で悪さをするなんて、なんて不信人者なんだい」

「本当だよ。きっとろくでもない親から生まれたに違いない」


(俺だって、好きでこんなクソみたいな世界に生き返ったわけじゃない。俺だって、望んで糞みたいな世界に生まれてきたわけじゃない。お前らが好き勝手にやってきた結果が、俺らみたいなガキがこんな糞みたいな世界で生きなくちゃならなくなったんだろうが! 偉そうに俺を見下しやがって、何様のつもりだ?)


 遠くから幾人もの婦人達が、彼に向って侮蔑と共に石を投げる。残飯を投げる。唾を吐き掛ける。ありとあらやる方法で大人達は彼を侮辱した。


「いいかぁ、ここカストロ通りで生活する俺達はな、貧しいながらも真面目に働いて必死に生きてんだ。テメェみたいになぁ、都市のルールを破って他人から奪って楽に生きようとしている奴がいるとなぁ、真面目に働いてんのが馬鹿らしくなんだよ!」

「お前みたいな都市の害虫はなぁ、とっととくたばっちまった方が世の中の為になんだよ」

「お前がこの都市で生きている価値なんてぁ、全くねぇんだよ」


(俺に生きる価値がないのなら、テメェらは一体どんな価値があるってんだよ。こんな糞みたいな世界で必死こいて生きている時点で、俺もお前らもただの道化、糞みたいな世界のただの膿でしかないのさ)


 彼を取り囲み私刑による暴行を繰り替える大人達は、声高に彼に唾を吐き掛けては罵声を浴びせた。彼の意識が現実と死の境界線の間を彷徨い始める中、彼は転生前で生きた日々を思い出していた。転生前の社会で彼は成人だったが、大人だったからこそ奴らの心の声がその視線で読み取ることができた。奴らはいつだってそうだ。いつだって自分よりも能力も階級も劣る格下の相手を探しては、親しいふりして近づいてきて微笑みを浮かべてそいつを心から嘲笑している。口にこそ出さないが、それは話しぶりや話す内容で露骨に読み取ることができる。転生前の社会で、彼は思春期を迎えた頃からずっと負け組だった。

 親しい口調で話しかけてくる者ほど、仲良く気さくに接してくる相手ほど、気安い口調でからかってくる奴ほど、その相手を心のどこかで見下している。

 あぁ、どこでもそうだ。どこでも彼は蔑まされきた。

 結局、世界が違っても。

 容姿が異なっていても。

 環境が悪いとか関係なく。

 彼はいつだって社会の負け犬だ。


(あぁ……人生なんて、クソくらえだ)


「だからよぉ、さっさと死んじまえ!」


 子供といえども、親も金も無い孤児。ルールを犯せば、ただの厄であり悪でしかない。社会に必要なのは、法にルールに従順な人間だけであり、立場が環境がその他によって平然とそのルールを破る異端者の存在を社会は絶対に許すことはできない。それが人間が形成する社会という名の邪悪な化け物である。

 容赦ない呵責を受ける中、彼の感覚はすでに苦痛を感じなくなっていた。地獄のような現実が薄まっていく意識の中、彼は確かに感じていた。彼が転生前から望んでいた瞬間が訪れるのを。


(……そうかい……それは、俺も……心から……)


 死を、彼は転生前から求めていた。怠惰で惰性で生きていた彼は、いつしか彼自身の人生を退屈という牢獄に閉じ込められているようなものだと感じ始めていた。それは社会的責任が伴う立場になればなるほど、その思いは強まっていた。三十代を超えた頃から、彼は自分の首に真綿で絞められているのを知る。その真綿は年齢を重ねるごとに彼の首を絞めつけて彼を苦しめ続けてた。怠惰と惰性に生きて来た彼は常にその苦しみ中で自殺することもできずに生きながらえてきた。両親の温情をすすりながら。

 転生前、彼は公園で熱病に苦しみ抜いて憤死した。しかし、彼は覚えている。死の直前に感じた死という苦痛から解放された瞬間の幸福を。

 

 子供を大人達が集団でリンチするという凄惨な光景が繰り広げられてる。間もなく、彼は彼らによって殺される。いや、殺されるのではない処刑だ。盗みを、たった一つの林檎とはいえ、盗みを働いた彼に対する社会的刑罰を与えるために彼を殺すのだ。それを止める者はいない。

 時折、彼に暴行を加える者達を諫める言葉が投げかけられるが、たかが声だけで狂熱に浮かされたヒステリック集団の耳に聞き届けられるわけがない。仮に彼の為に身を犠牲にしたところで暴走する集団は止まらないだろうし、何より孤児の子供の命の為に自己を犠牲にしてまで善行を施そうする者など、この場には一人もいない。とっくに修道士達の鐘の音も声も聞こえない。修道士達の耳にだってこの騒動は届いているはずなのに、我関せずと手にした鐘を鳴らし手にした経典を読みながら歩き去っていた。

 誰一人とて、この場に彼を救おうとする者などいない。

 半濁する意識の中で、彼は彼を取り囲む群衆を超えた先の奥で、彼を見つめる幼い子供達の視線に気が付いた。彼と同じようにカストロ通りで盗みを働き、彼を囮にして逃げおおせた子供達である。このカストロ通りで、その子供達だけが彼を心の底から憐れんでいた。あまりに残酷な大人達が彼に加える虐待に、恐怖に打ち震えて涙を流している子供がちらほらと見受けられる。見ているのも辛いのか、顔を逸らしている者も目を伏せている者もいる。

 子供達だけが、彼のことを同情していた。

 そんな子供達を、彼は全く恨んでいなかった。子供達の狡猾な奸計によって、彼だけが泥棒に仕立て上げられてこのような仕打ちを受けることになったというのに、彼は彼を痛切と眺めるその子供達を憎んでいない。怒りの感情も湧き上がらない。


(そんな憐れんでくれるな。俺はお前たちを許すよ。俺は大人だから、大人だからお前らのことはよく解っているよ)


 子供達は子供達で必死に生きている。どんなことをしてでも、他人を追い落としてでも、子供達は必死に生きようとしている。それを理解しているからこそ、彼は彼を見つめる子供達を恨まなかったし憎もうとは思わなかった。

 子供達に助けを乞おうという気持ちする思っていない。彼の心の中にある子供達への思いは、子供達が彼に抱く同じ感情である。それは同情だ。彼は彼を窮地に陥れた子供達を心から憐れんでいた。


(悔い改める必要なんてない。だって、俺はこれでようやく楽になれるんだからな。空腹からも、喉の渇きからも、痛みからも、敗北感も劣等感も、未来への暗澹とした気持ちからも、このずっと抱き続けてきたぼんやりとした不安からも、俺はようやく解放されるんだ)

 

 サンショウウオは微笑んだ。


(だから、俺は誰も恨んでないよ。君たちのせいで俺は死ぬけど、俺は君たちだけは憎まないよ)


 しかし、サンショウウオは一つだけ悔やんだ。


 彼は子供達の中で、先ほどの亜麻色の髪に青い瞳の少女の姿を探した。しかし、少女の姿はどこにも見当たらない。少女の悪戯な悪意によって、彼は大人達にリンチを受けて死ぬことになるのだが、彼は少女に対して何一つ恨んではいない。少女のあの意地悪な可愛らしい笑みを思い浮かべると、不思議と憎む気になどなれなかった。むしろ心の中が倒錯的な惑乱さに浮き立つが、不思議と不快な感じがしない。むしろ、少しだけ幸福に近い感情のように思える。

 彼は彼が感じている感情が何なのか解らなかった。


(……最後に……一目だけでもいいから……でも、もういいや……)


 彼は穏やかな気持ちで死を迎えようとしていた。何者の意思によって彼がこの世界に転生したのか、その理由を彼は知らない。何より、彼は自分の身に何が起きたのかについて何一つ考えする暇すらなかった。転生してからまだ一日も経っていなかった。彼が気が付いてからまだ半日程度しか経っていない。

 なのに、彼はこの地獄を十分に堪能した。飢えと渇きと痛みと蔑み、転生前でもこれほど肉体的にも精神的にも辛い目にあったことはない。

 彼は十分に苦しんだ。転生前の世界のことも考えれば、十分すぎるほど彼は生きることに苦しめられ続けてきた。

 もう十分だ。そう思った彼は眠りに就くように生きることを手放そうとした。

 その時だった。


「お前達、一体何をしているんだ!」

 

 誰かの怒りの叫びが落ちた。低く迫力のある男の声だ。


「おい、いい加減にしろ、相手は子供だぞ。殺す気か!」

 

 カストロ通りに怒声が響き渡る。野太く低い声が稲妻の如く狂熱に浮かされた群衆の上に穿ち落とされた。水を打ったように騒動の火中が静まり返り彼に行われていた暴行が止まる。


「一体、お前達は何をやっているんだ。自分達が今何をしているのかわかっているのか!」


(……やめるな。やめてくれるな……)


 群衆をかき分けて現れたのは、先ほど彼が恨みがましく見つめていたパン屋の主人だった。パン屋の主人とは思えない面構えの男だ。元傭兵だと言われても、誰も疑わないだろう。筋骨逞しく、肩を怒らせて周囲の人間を鋭い眼差しで睨み据える。その視線に彼を取り込んでいた大人達全員は、冷汗を浴びせられたかのように気まずそうな顔を俯かせて地面に横たわる幼い子供の彼を見下ろした。

 彼の血と土埃まみれの顔は暴行の凄まじさが刻み込まれ、地面は鮮血で染め上げられていた。子供を集団リンチをした後の凄惨な光景を見下ろした冷静さを取り戻した大人達は、全員が罪悪感を喉に詰まらせた。


(あぁ……やめろ。やめてくれ……)


「お前達、よく見ろ。自分達が何をやったのかを、目を逸らすことなく見ろ」

「お、おい、ドンク。ちょちょ、ちょっと待ってくれよ。俺達だって好きでこのガキを痛めつけていたわけじゃねぇんだ」

「そそ、そう、そうだ。このガキがこの露店の親父から食い物を盗んだから仕方なく」

「仕方なく捕まえてリンチにしていたっていうんだろ? そんなのはな、見てれば大体わかんだよ。俺が言いたいのはだな、そいつはお前らに殺されなくちゃならないほどの罪を犯したのか? 大体、こいつが盗みをしたからって、なんで関係ないお前らが正義面してこのガキを裁いてんだよ」


 カストロ通りにあるパン屋の主人ドンクは周囲の人間を見渡しながら声を張り上げた。


「お前らにこの子を裁く権利があるのか? 俺達はそれほど立派な人間なのか?」

「だけどよ、バンク。こいつが何をしたのかお前は解かってんのか」

「あぁ、解ってるよ。食い物を盗んだんだろ。さっきも俺の店の前で良くない目と顔をしていたからな。何となく気になって跡を追って来てみたらこの騒動だ。だが、こいつはもう十分すぎるほどの罰を受けたとは違うのか? これ以上やれば、このガキは死ぬぞ。このガキは殺されるほどのことをしたのか?」


 ドンクの言葉にカストロ通りの住人達は言葉を詰まらせたように押し黙る。鈍重な沈黙が織り成す中、ドンクの言葉に真っ向から反抗した男がいた。それは彼が林檎を盗んだ店の主人である。店の主人は不服そうにドンクに食って掛かるように詰め寄る。


「ドンク、そのガキは俺の店から商品を盗んだ泥棒なんだぞ。ここでもしそのガキ一人だけでも許しちまえば、増長した悪ガキ共が増えるだけじゃねぇか。そうなったら、お前は責任を取れるのか? ただでさえ、この通りは治安が悪くてまともに商いをするのも大変なんだぞ。お前と違って俺みてぇな露天商はなぁ、いつだってそこのガキみてぇにルールを守らねぇクズに痛い目を見ているんだ」

「俺は一言もこのガキを許す、だなんて言った覚えはないんだがな。俺が言っているのは、もう十分制裁を受けただろって言ってんだよ。お前は耳が付いてないのか。それになぁ、お前にこのガキを責める権利があると思ってるのか? 俺は知っているんだぞ、お前がまともな商売をしていないことくらいはなぁ」

「な、なな、なにを言ってるんだ。みょ、妙な言いがかりは良してくれ!」

「言いがかりも何も、お前小麦粉を売ってんだろ。本来、小麦の売値は国が定められていて、それを超えた値段で売ることを禁止されているはずだ。なのに、お前が売ってる小麦は取引制限で定められている値段よりもずいぶん高値で売っているみたいだな」


 ドンクの問い詰める視線に、露店の主人は顔を青ざめた。


「俺は商業ギルドから依頼されて市場で売られている物の値段を監視しているんだ。多少のことは目をつぶってやっているが、お前さんがやっていることは少しばかり度が過ぎているな。ルールを破った者にはちゃんと罰を与えないとな」

 

 露店の主人は恐怖に体を震わせている。


「衛兵に突き出した後、お前にはルールを破った罪科を負わせるし、ルールを破ったお前は二度とこの場所では商売ができないようにする。お前さんがいうルールを守らないクズはそういう痛い目に合わないといけないんだろ?」

「まま、待ってくれ、ドンク。お前の言う通り、俺はルールを破った。それは認める。だがな、それは粉ひきで買い取った金額に俺の労力と利益分をかさ増ししたほんの少しだ。そのくらいみんなやっているだろ?」

「あぁ、そうだな。だから、多少のことは見逃してやっていた。だけどな、お前さんはそれをいいことにやり過ぎたんだよ。ここ最近のお前さんの値の吊り上げ方には、さすがにこれ以上見過ごすことができんしなぁ。なによりも、お前は値段だけじゃなくて品物自体も嘘をついて売ってるだろ? 犬の肉を牛の肉、穀物はどれも古い物ばかり、野菜に至ってはその辺の畑から盗んだ物だろ? ようはな、お前はやり過ぎたんだ。諦めて罰を喰らいな」


 ドンクは腕を組んで重苦しい溜息を吐く。仁王立ちで見下ろすドンクはパン屋の主人というよりも、古参の傭兵といっても通じるくらいの迫力がある。露店の主人は両ひざをついて地面に体全体を倒すような形で平伏して、ドンクの温情にどうにかして縋ろうとした。薄暗い悪事が表沙汰になった時の小悪党がする常套手段である。


「ド、ドンク、たた、頼む。ど、どうか、どうか見逃してくれ。最近は飢饉だけじゃなくて疫病によってか金回りが悪くなる一方だ。俺達みたいな都市に店を持たない商人は、こんなことをしてでも金を稼がねぇとと生活すらままならねぇ。だから、後生だ。どうか見逃してくれ」

「以前、お前は今見たいな物乞いみたいな見苦しい姿で頼み込んだよな。だが、まぁ、良いだろう。今回も俺はお前を見逃してやるよ」


 ドンクの言葉に露店の主人は安堵の笑みを浮かべて顔を上げた。だが、主人を蔑視するドンクの目は冷ややかなままだ。


「だが、お前から商品を買った客達がお前を許すかどうかは知らんがな」


 ドンクの言葉に血の気を引かせた商人は恐る恐ると周りを見渡すと、怒りの表情を浮かべたカストロ通りの住人達に取り囲まれていた。買い物籠を持ったふくよかな婦人が、逃げ場を求めて視線をおどおどと泳がせる商人に真っ先に詰め寄って問い詰め始めた。


「ちょっと、さっきのドンクの言っていたことは本当なのかい? ついさっき、あたしはあんたから小麦を買ったんだよ。忘れたとは言わせないよ。このあたしから一体いくらぼったんだい。このぼったくりの性悪商人め!」

「ま、まま、待ってくれ。ま、まずは、落ち着いて俺の話を聞いてくれ!」

「私も今朝にお前さんのところで野菜を買ったけど、あれも値を吊り上げていたのかい! 特別に安くするとか言っていたけどそれさえも高い値段だったのかい、ちょっとどうなんだい!」

「おい、テメェ、俺は昨日お前のところで肉を買ったんだがなぁ、あれ全部が犬の肉だっていうのかぁ!」

「ふざけんじゃねぇぞ。俺なんてお前を贔屓していつもお前の店から食料を買い込んでいたんだぞ。テメェ、俺をいつも騙してたのか!」

「そんなの私だって同じだよ。何が『乗客にはサービスする』よ! このぼったくり商人が!」

「まま、待って、待ってくれ! た、頼む、ゆ、ゆる、許してくれ、俺、俺だって必死だったんだ!」

「困っていたら何やっても許されると思ったら大間違いだよ!」

「ド、ドンク、ドド、ドンク、ドンク、ドンク! お、お願いだ、助けてくれ!」


 商人は暴徒と化した群衆に飲み込まれてしまった。騒ぎを聞きつけた衛兵達が姿を現す。先ほどの給水泉での騒動に立ち会った衛兵もいたのか、辟易とした愚痴を漏らしながら怒声を張り叫びながら暴れる群衆の中に割って入っていく。

 祭りのような騒然とした大人達の喧嘩騒ぎを背にして、ドンクは倒れ伏す彼の前で屈んだ。

 無表情と見下ろすドンクを彼は恨みがましく睨んだ。

 ドンクはそんな彼に向って口を開く。しかし、ドンクの声は低く小さくて何を言ったのか解らなかった。ただ、彼はドンクが何を言ったのかわからなくてもその憐れんだ瞳で見下ろされているだけで、目の前の大男が何を思っているのか想像することができた。それは彼にとって不愉快な想像である。


「き……きえ……ろ。お、俺を……俺を救ったつもりか! だ、だれも、助け、助けてくれだなんて……言ってない!」

 

 一語一語、胸中でうずくまる捻くれた暗闇を吐き出すかのように彼は叫ぶ。体中に響く激痛を忘れて、彼は全身の力を振り絞って目の前に屈みこんだ男を彼は心の底から憎んだ。

 彼から侮蔑の視線で見られていることを理解しながらも、ドンクは小さくため息を吐く。それに彼は強く怒りを感じた。見下ろす男に向って唾を吐き掛けるように、彼は彼を苦しめるように胸の中でのたうつ激情を吐きつけた。


「な……なに、さまの……つもりだ。か、感謝なんか……すると思って……思ってんのかよ! 中途……半端に救うな……」


 弱弱しくも醜く歪んだ怒りをまき散らされながらも、ドンクはその場から動かなかった。ただ、ドンクは無言と作業着から取り出したパンを彼の前に差し向けた。

 彼はそれが予想できていた。ドンクが何のつもりで彼の前に姿を現したのか。何のために怒れる群衆から彼を助けたのか。ドンクが何を思い、何を考え、何でこんなことをするのか、彼には吐き気がするほどの怒りが込み上げてくるほど理解できた。

 彼はあまりの激情に耐えられなくなり、力の限り喚きだす。


「ふ、ふざけんな! ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな、ふざけんなぁ!」

 

 悲嘆にくれる者を見る憐憫とした視線ほど、その悲嘆者の心を惨めたらしめる存在はない。


「だ、誰が、誰が欲しいだなんて言った。誰がお前に恵んでくれと頼んだ! 馬鹿にするんじゃねぇ! 俺を憐れむんじゃねぇ!」


 あぁ、なんて憐れ生き物なんだろう。悲嘆に暮れ過ぎて、その悲嘆の中を棲家としてしまった者の心ほど哀れなものはない。もともと意固地だった彼の心には、貧しい自尊心で醜く歪んでしまっている。救ってほしいのに、心から喜んでいるのに、それが憐れみからだとしても心優しき者の施しに感謝をしているのに、それを素直に認めることができなくなっていた。

 あぁ、なんて悲しい生き物なんだろう。

 

 サンショウウオは慟哭を必死に抑えながらも、しかし、その眼から流れ出る涙を留めておくことができずに、ただただ涙を流して怒りをまき散らし続けた。


「くそ、クソ、糞、くそクソ糞、くそったれ! そんな目で俺を見るなぁ、そんな風に俺に優しくするなぁ、ほっといてくれ、無視してくれ、見ないでくれぇ、もう、もう…………いやなんだぁ……」


 悲嘆にくれている者に優しくするのも、良し悪しである。優しさほど厄介な凶器になることがあるのだから。


「……もう……いっそ殺してくれ……」


 彼は小さく呟いた。

 それが聞こえたのか解らないが、ドンクはそっと彼の胸にパンを一つ置いた。そのパンは大きなドンクの手の中では小さく見えたが、子供の彼の胸に置くととても大きかった。なによりも暖かい。

 パンの温かさが彼の胸をじんわりと温めていく。それがより一層、彼を惨めにさせた。パンの匂いが彼の腹が空腹を強調する。心の中で拒みながらも、彼は自分の食欲を押し殺すことができなかった。

 彼は胸に置かれたパンを掌の中に収めた。幼い子供の手で収まるほどパンは小さくない。彼はパンの大きさを感じると、しっかりとした力でパンを掴む。堅いパンだ。転生前の世界ならば、絶対に口に入れないような種類のパンだ。触っただけでも、美味しいとはいえるレベルのパンでないことは解かった。

 彼はパンの感触を確かめると、それを強く掴んだ。持ち上げるとパンの重量が感じることができる。このパンは堅いだけでなくずっしりと重い。持ち上げた大きくて堅くて重いパンは、彼が見たことのない種類のパンであった。転生前の世界の味覚を持つ彼からすれば、決して美味しいとは感じないであろうパンだ。

 しばらく見つめた後、彼はそれを鼻元に近づける。パンの香ばしい匂いがした。彼はゆっくりとした動作でパンに齧り付いた。パンの味とパンの香りが口の中に広がる。パンを噛みちぎると、自然と彼の胸に幸福感が込み上げてきた。


「あぁ、クソ、クソ、クソ、クソ!」


 彼は一噛みするごとに悪態を口から吐き出す。


「酷い味だ。こ、こんな、まずい、不味い物を食ったの、なんて初めてだ」


 彼は彼の虚しさを喉元からしゃくり上げながら、手にしっかりとつかんだパンを離そうとはしなかった。


「不味い、不味い、不味い、不味い、なんて不味いパンなんだ」


 体も起こさずに夕闇に染まる空を眺めながら、彼はパンに齧りつく。バンクも自分が起こした騒動を背にしたまま、悪口を吐きながらもパンを食べ続ける彼を静かに見つめていた。


「あぁ、このくそったれな世界め!」


 そう言いながらも、彼はパンにむしゃぶりつくように食べ続けた。飢えた欲が黙り始める。噛めば噛むほど口の中には負け犬の味が広がり続け、彼の双眸から流れ落ちる涙が止まることは無い。

 涙で濡れ続ける彼の視界に映る世界は、ゆっくりと夜を迎えようとしていた。宵の帷が降り始めた空では星が瞬き始め月がうっすらと姿を現し始める。その時、彼はふと気が付いたのだ。彼がこうして空を見上げたのは、一体いつぶりだったのだろうか。覚えていることは、屈託した思いで見上げる空ほど惨めたらしめるものはない。

 しばらくすると、再び雨が降り始めた。陰鬱な雨は荒れた彼の心に冷たく染み渡る。彼は恨みつらみを吐き出すように叫んだ。 


「クソったれ、みんな死んじまえ!」


 夜を告げる荘厳な鐘の音が都市全体に鳴り響く。

 彼が転生した異世界で過ごす最初の日が終わろうとしている。

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