三十九 闇の世界
誰もいるはずのない背後からの声に、全員が一斉に振り返った。
そこには、長い外衣に身を包んだ、長身の男が立っていた。
黒死山の館の主、オルロック伯爵であった。
一同は驚きながらも、半ば気の抜けたような息を洩らした。
取りあえず、伯爵は敵ではない――というのが、彼女たちの認識だったからだ。
階級が一番上であるプリシラが、一歩進み出て吸血鬼と相対した。
「普通なら『どこから現れた?』と訊くべきなのですが、あなたに関しては愚問なのでしょうね。
代わりに訊きたいことがあります。なぜ、館の結界を閉じられたのですか?」
伯爵は口髭を指でしごきながら、微かに鼻を鳴らした。いかにも馬鹿にしたような響きであり、それを隠そうともしない。
「お前たちの相手がミア・マグス大佐だったからだ。
あの女は有名人だからな。いろいろと噂は聞いている。話半分だとしても、人間離れをした正真正銘の〝化け物〟だ。
お前たちを匿ったら、大佐に我が館の存在が知られてしまう。
それはまずい。四百年にわたる私の平穏な暮らしが台無しになる。そうは思わんか?」
「真祖たる吸血鬼でも、帝国の魔女は恐ろしいですか」
「馬鹿を言うな。
私が本気を出せば、頭のネジがいかれた女を葬る程度、雑作もない。
だが、そんなことをすれば、面倒なことになるのが目に見えている。
あの女は帝国の英雄だ。辺境の山中で消息不明になりました――で済むと思うか?
帝国軍は万の軍勢を派遣してでも、この山を虱潰しに捜索するだろう。
いかに結界があろうとも、我が館が発見されるのは時間の問題だ。
私は英雄の敵としてこの山を追われると同時に、多くの顧客を失うことになる。
そんな危険を、私が冒すと思うか?」
「なるほど。それで、こそこそ覗いていたというわけですな?」
「ははは、手厳しいな。
王国内に私の顧客を増やすため、君には橋渡し役をしてもらわねばならない。
いよいよ危なくなれば、助けてやろうとは思っていたのだ。
だからここにも現れた。感謝をしてくれてもいいと思うがな……」
プリシラは潮時を覚った。
これ以上、伯爵を試すような会話を続け、彼の機嫌を損ねるのは得策ではないと感じたのだ。
「それはありがたい話ですね。
私たちはエイナの提案で、あなた方吸血鬼が使うという闇の通路に入って、脱出を試みるところでした。
なぜ、それを止められたのでしょう?」
「ああ、やっと本題に戻ったな……」
吸血鬼はそう言うと、顔をしかめた。
そして、プリシラから視線を外し、エイナの顔をじっと見詰めた。
「エイナ、お前は人間だ。
たまたま闇の世界に潜る力を持っているからといって、自惚れるな!
それがどれだけ危険なことか、お前は微塵も理解していない。だから私は〝愚か者〟と言ったのだ」
伯爵は露骨に不機嫌な表情を見せていた。
口調も厳しい。館でエイナと会話をしていた時は、それなりに丁寧な言葉遣いだったはずだ。
だが、エイナには責められる理由が分からなかった。
「ですが、この状況で他に選択肢はありません。
それに、私には闇を使って脱出したという経験があります。
その言い方は心外です」
伯爵は溜め息を洩らしながら、ますます表情を険しくした。
「黙れ。お前は何様だ? 誇り高き吸血鬼か? そうではあるまい。
何度も言うが、貴様は無力で哀れな、ただの人間に過ぎない。違うか?」
エイナはぐっと言葉を呑み込み、伯爵の次の言葉を待った。
「私たちは闇に生を受けた種族だ。闇とは我らの故郷そのものなのだ。
当然、生まれながらに闇を渡る力を身につけ、使い方も熟知している。
だが、お前はどうだ?
闇に潜ってどこに行く気だった? どうやって望む地点に出られるのか、理解していたのか?
そして、何よりの問題は、闇の力を行使することで命が削られるという事実を、お前が知らないということだ!」
それは思いがけない言葉だった。二人の間を遮るように、プリシラが割り込んだ。
「命の危険とは穏やかではないですね。詳しく教えていただきたい」
伯爵はプリシラとエイナ、二人の顔を交互に睨み、吐き捨てるように説明を始めた。
「闇の世界に潜れば、距離を無視してどこへでも出られる。そのことは知っているな?」
プリシラたちは黙ってうなずいた。
「なぜ、そんなことが可能だと思う?
お前たち人間に理解できる仕組みではないが、分かりやすい例えで教えてやろう。
闇の通路を使えば、百キロ離れた場所でも、十分足らずでたどり着くことができる。人間の能力では、およそ不可能な話だ。
お前たちは、無理をしないという前提で、一日にどれほど歩くことができる?」
「まぁ、三十から四十キロといったところでしょうね」
「つまり、三日かければ、百キロを楽に進むことができるということだな。
闇の世界では、その三日がわずか十分に感じられるほど、時の流れが速いのだ」
「それは便利ですが、命と何か関係あるのですか?」
「分からぬか?
言い方を変えれば、闇の世界で十分が経つ間に、お前たちの身体は三日分の時を過ごしているということだ。
それだけではなく、闇の入口を開くには膨大な力が必要となる。
それも時間経過という形で肉体に負担を与えるのだ。
……どうもピンとこないような顔をしているな。エイナは最初に闇に潜った時、脱出するまでどのくらい彷徨っていた?」
急に話を振られたエイナは口ごもった。
「えと、あの……確か、二時間くらいだったと思います」
「ふん、そのくらいで出口が見つけられたとは、運がいいな。
この世界で換算すれば、お前とシルヴィアは、一か月の間うろうろしていたことになるのだぞ。
それに加えて、闇を開いたエイナは、代償として一年分の時間経過を受けることになる。
お前は闇に潜ったことで一年余分に歳を取った。つまり本来の寿命が一年削られたということになる」
「例えそうであっても、ここで全員死ぬよりはましです!」
エイナはきっぱりと言い返した。
伯爵はその顔をじっと見つめていたが、不機嫌そうな表情をふいに緩めた。
「私は、人間が安易に闇の力に頼ることを戒めているのだ。エイナがその危険を自覚してくれれば、それでよい。
この場に関しては、私が闇を開く。そしてお前たちの国まで案内してやろう。
お前たちが受ける肉体的な負荷は、最低限で済むと保証する。
文句はあるまい?」
「それでは伯爵が危険を冒すことになるではありませんか。
なぜ、そこまでしてくれるのですか?」
吸血鬼の顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「大したリスクではない。
私たち吸血鬼は、闇に生まれた種族だと言っただろう?
移動による時間経過の影響は避けられないが、闇を開くだけなら、何のダメージも受けないのだよ。
そもそも、私の寿命は数千年だ。眷属ですら五百年以上は生きる。
闇の移動を繰り返すことで数年寿命が減ろうとも、それは誤差の範囲内だ。気にするな」
彼はプリシラとシルヴィア、そしてアリマを自分の前に並ばせた。
そして、長い外衣の端を握った右手を水平に広げると、ぶわりと広げて彼女たちの頭にかけた。
「これでよい」
独り言をつぶやいた伯爵が、エイナの方を振り向いた時には、プリシラたち三人の姿は消えていた。
美女に布をかけ、一瞬で消して見せる手品師のようだった。
「おい、吸血鬼! お嬢をどこへやった?」
タケミカヅチがのしかかるように伯爵に詰め寄った。
カー君も毛を逆立てて牙を剥いている。
「そう殺気立つな。
三人は私自身の闇に入れただけだ。
その方が安全だし、移動で受ける肉体への負担も多少軽減できる」
「それなら、三人ではなく全員を入れてくれればよいではありませんか?」
「そうはいかんのだよ。
エイナと幻獣たちは、闇の中でも意識を保っていられる。
意識のある者を私の身中に取り込むことはできないのだ。
君たちは散歩に付き合ってもらうことになる。では行こうか」
伯爵がそう言って指を鳴らすと、エイナが出していた明かりの魔法が消えた。
周囲は闇に包まれたが、エイナには吸血鬼の姿を捉えることができた。
彼の身体は、地面にゆっくりと吸い込まれていく。
そして、エイナもタケミカヅチもカー君も、同じように足元から沈んでいった。
* *
エイナが闇に潜るのは、これで三度目になる。
油のようなねっとりとした闇に包まれ、上下左右、前後の感覚が失われた世界だ。
闇の中でもある程度の視力を保っていられるエイナでも、何も見通すことができなかった。
ただし、前にいる吸血鬼の姿は、はっきりと視認できる。
隣にいるタケミカヅチとカー君も、そして自分自身の身体も、青白い燐光を放っていた。
幻獣たちは初めて闇に入ったはずだが、混乱した様子はないのはさすがだった。
ただ、二人とも顔をしかめていて、不快そのものといった表情をしている。
『ついてきたまえ』
すぐ前にいる伯爵の声が、頭の中で響いた。この世界には振動する空気が存在しないので、喋っても音が伝わらない。
カー君と同じように、吸血鬼も脳内会話ができるらしい。
エイナは素直に伯爵の後を付いていく。
足は動くのだが、踏みしめる地面が存在しないので、ふわふわとして歩いている実感が伴わない。
前を行く伯爵をよく見ると、彼はまったく足を動かしていなかった。
それでも身体が移動していることは、はっきりと感じることができた。
多分、自分が足を動かしているのは、無意味な行為なのだろう。
だが、エイナは歩くことを止めなかった。そうしていないと、どうにも落ち着かないのだ。
彼女は頭の中で伯爵に呼びかけてみた。
『伯爵は私たちの国に送ってくれると言われましたが、具体的にどこに向かっているのでしょう?』
すぐに明瞭な返答が頭に鳴り響いた。
『あいにく私は王国には不案内でね。目指している場所の名称までは知らないのだよ。
ああ、せっかくだからエイナに闇の世界の移動法を教えておこう。
ただし、安易な利用はしないと約束できるなら――だぞ』
『はい、約束します』
『よろしい。一度入った闇から出るには、明確にイメージできる目標が必要となる。
行ったことがある場所なら、目的地を頭の中に思い浮かべ、そこに行きたいと強く意識すればよい。
そうすれば、自然に行くべき方角が分かる』
『では、知らない場所へは行けないというということですね?』
『そうとは限らない。
知らない場所でも、そこに存在する人物、あるいは特定の物体をイメージできればよい。
その人や物が既知のものなら、そう難しくはないが、未知であった場合は面倒だな。
その場合は、事前に多くの情報を集めることが肝要となる。あとは想像力の問題だ。
ただし、この方法は失敗することも多い。場合によっては全く関係ない場所に出ることもあるのだよ。
迷ったらすぐに戻ることだ。覚えておくがよい』
エイナは思わず下を向いて、「ふふっ」と笑いを洩らした。
『何がおかしい?』
頭に響いた伯爵の声からは、気分を害したという雰囲気が伝わってくる。
『いえ、最前からの伯爵様のお話を聞いていたら、何だか父のことを思い出しました』
『……お前の父は、確か小さい頃に死んだと言っていたな。
優しかったのか?』
エイナはにっこりと笑った。
『はい。それはもう。あまりに私に甘いので、父はいつも母に怒られていました』
『……そうか』
伯爵はそれきり黙ってしまった。
幻獣たちは顔をしかめたままで、会話に加わる気がないらしい。
彼女は沈黙が気まずくなって、唐突に別の話題を持ち出した。
『そう言えば、マグス大佐たちはどうなったのでしょう?
私たちが火砕流に気を取られている間に、彼女たちの姿は消えていました』
『ああ、あのいかれた女か。
見張らせていた眷属の話では、自分たちの足元に魔法を撃った反動で、麓の樹林帯まで吹っ飛ばされたらしい。
無茶苦茶な奴だとは聞いていたが、あそこまでとは思わなかった。
昨日の夜に噴火があっただろう?』
『はい』
『どうやらそれもあの女のせいで、魔法で山頂付近の岩盤を根こそぎ吹っ飛ばしたらしい。
お前を探しに来たプリシラたちを、溶岩で押し流すつもりで失敗したのだろう。
あれが人間だとは信じがたいな』
『爆裂魔法でそんなことまで……。麓に落ちた大佐は無事なのですか?』
『あの女だけはな。
忠義な部下どもが身を挺してかばったお陰で、ぴんぴんしているそうだ』
『そうでしたか……』
『無駄話が過ぎたな。そろそろ着くぞ』
着いたと言われても、自分たちの姿以外は何も見えない暗闇の中である。
エイナは黙って足を動かし続けた。
溶岩洞で闇に潜ってから、まだ十五分程度しか経っていないように感じられる。
だが、伯爵の言葉は嘘ではなかった。
ふいに内臓が持ち上げられるような、くすぐったい浮遊感が感じられた。
そして、視界が開けた。
* *
エイナの目の前には、すべすべとした光沢のある石の床が広がっていた。
磨き上げられた大理石のようであった。
そこにぽこんと自分の頭が、半分だけ浮上している。
すると、目線の高さにあった石の床が、みるみる眼下に離れていった。
彼女の身体が、地中から押し出されるように浮かび上がったのだ。
数秒後には、冷たい床の上に、伯爵とエイナ、そしてタケミカヅチとカー君が立っていた。
伯爵は芝居がかった仕草で片手を上げ、黒いマントを広げてみせた。
マントの内側は血のような真紅で、その足元に三人の娘たちが横たわっていた。
エイナたちが慌てて駆け寄った。
耳元で名前を呼び、肩を揺さぶると、彼女たちは〝う~ん〟と唸りながら目を開いた。
いち早く我に返ったのは、タケミカヅチに抱き上げられたプリシラである。
彼女は身を起こし、きょろきょろと周囲を見回した。
「ここは……どこだ?」
訊かれたタケミカヅチも答えようがない。
「分からんが、吸血鬼の言葉を信じるのなら、王国のどこかだ。
まぁ、何かしら大きな建物の中らしいな」
彼の言うとおり、そこはかなり大きな部屋の中だった。
床全体が磨き上げられた大理石で、太い石の柱が等間隔に並び、壁は精緻な浮き彫りで飾られていた。
天井は呆れるほど高く、薄暗くて見づらいが、漆喰で花と唐草模様が描かれていた。
薄暗いのは当然で、この大広間にはなぜか窓が一つもない。
壁には申し訳程度の数のランプがかけられているが、それがなければ真っ暗であっただろう。
カー君に顔をべろべろと舐められ、目を覚ましたシルヴィアが立ち上がって広間を見回した。
そして彼女は振り返り、かすれた声でつぶやいた。
「ここって〝召喚の間〟じゃないかしら……」




