九 ルームメイト
自分に向けて出されたシルヴィアの手は美しかった。
白くて長い指という点ではケイトさんも同じだったが、彼女の場合は大人のしっかりした骨格というものが感じられた。
だが、シルヴィアの手はもっと華奢で、強く握ったら〝ぽきん〟と折れてしまいそうだった。
何より自分のような農作業で荒れた田舎娘の手で、こんなきれいな手に触れてはいけない気がして、エイナは手を後ろに隠してもじもじとしていた。
シルヴィアは、せっかく差し出した自分の手を取ろうとしないエイナを見て、あっという間に愛想のよい笑顔を引っ込めた。
「あんた、何かどん臭いわね?」
彼女の言葉は否定できないが、エイナは少なからずショックを受けた。
「えとあの、ごめんなさい。
私、エイナ・フローリーです。
初めまして、シルヴィア……えと、その、グレ……グレモンテさん?」
「グレンダモアよ! やだ、ホントにどん臭い娘だわ!
とにかく、今日からあたしとあなたはルームメイトになるの。
先生から聞いていなかったの?」
エイナはぶんぶんと首を横に振った。
実を言うと、シルヴィアと同室になることは、教授陣からエイナに伝えておくはずだった。
だが、彼女には決まった担任がいなかったため、各教科の先生たちは、誰かが伝えただろうと勝手に思い込んでいたのだ。
シルヴィアは溜め息を洩らして自分のベットに戻ると、ボスンとその上に腰をおろした。
「まぁ、いいわ。とにかくそういうことになったの!
あたしは召喚士科だから、この魔導院に入ってもう六年になるわ。
つまり、ここの生活では大先輩っていうわけ。
あなたは来たばかりなんでしょ? 先生からは、右も左も分からないあなたを指導するようにって言われているの。
分からないことがあったら何でも聞きなさい。
あたしの言ってること、理解できる?」
エイナは今度はぶんぶんと首を縦に振った。
「返事はちゃんと『はい』『いいえ』でするのよ!」
「はいっ、シルヴィアさん!」
「さんはいらないわ。同い年なんだから、ただのシルヴィアで構わなくってよ。
あたしもあなたのことはエイナって呼ぶから」
「はいっ、シルヴィア……えと、お嬢さま?」
「だーかーら、ただのシルヴィアでいいの! ほんっと、どん臭いのね。
大体、何なのあなたの名字? フローリーって〝花〟って意味でしょう。
家名に山とか川って付けるのと同じ感覚じゃない。いかにも田舎臭いわ。
エイナはどこの出身なの?」
「えとえと、辺境のソドル村です」
「どこよそれ。辺境ってことは開拓村よね、聞いたことがないわ。
親郷はどこなの?」
「あのえと、クリル村です」
「うーん、聞いたことがあるような、ないような……。
待って、これでも地理は得意なのよ。
えーと、そうだ! 辺境の中部地方ね、そうでしょ?」
「はい、当たりです」
「ふふん、当然よ。あたしに分からないものなんてないんだから。
エイナも大船に乗ったつもりで、あたしに頼りなさい」
「はい、ありがとうございます。
シルヴィア……ちゃん?」
「あんた、いきなり馴れ馴れしいわね!
普通にシルヴィアって言えないの?」
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
エイナは身体をびくっと震わせ、頭を抱えて縮こまった。
「ちょっと、変な真似は止めてよね。
別にあたし、あんたのことぶったりしないわよ」
「ごめんなさい、これはえとその、癖なんです」
シルヴィアは〝ふんっ〟と鼻から息を洩らした。
「まぁ、いいわ。
とにかく、エイナが田舎者だってことは理解したわ。
どうせ王都も初めてなんでしょ?(エイナはぶんぶんとうなずいた)
あたしは召喚士科の首席なの。だから、あなたの面倒を見るために特別に同室してあげることになったのよ。魔導院のことも、王都のことも、何でも教えてあげるわ。
だからその代わり、その……教えなさいよ」
シルヴィアの言葉が、急に小さくなった。
エイナは不思議そうな顔で訊ねた。
「あの、教えるって、何をですか?」
美しい少女は顔を赤らめて横を向いた。
「馬鹿ねっ!
つまり、その……外のことよ」
「外……ですか?」
シルヴィアは顔を真っ赤にしたまま怒鳴った。
「もうっ、鈍いわね! 察しなさいよ!
あたしたち召喚士候補生は、六歳の時からこの魔導院で暮らしているのよ。
王都の外には出たことがないの。
あんたたちは、今までずっと外の世界で生きてきたんでしょ?
だから、外の世界のことを知りたいのよ!」
彼女は一気にまくし立てると、恥ずかしくなったのか、そのままうつ伏せになって毛布をかぶってしまった。
エイナの怯えた顔に、初めて笑みが浮かんだ。最初は居丈高で恐いと思ったシルヴィアが、何だか可愛い人だと思えてきた。
エイナはもこりとした毛布の塊に、思い切って声をかけてみた。
「分かったわ……シルヴィア」
* *
夕食が終わった後、部屋に戻ってきた二人は、消灯時間が来るまで話し続けた。
二人の仲はまだぎこちないものだったが、十一歳の少女同士である。お喋りが楽しくないはずがない。
最初のうちはこの寄宿舎でのしきたりや、知っておくべきことのレクチャーだったが、次第にシルヴィアの話題は、王都で訪れるべきお店(お菓子、小物、洋服等々)に移っていった。
エイナにとってはまったく未知の世界であったが、シルヴィアの話の勢いからすると、それは女子として何を置いても頭に叩き込まねばならない重要事項らしい。
シルヴィアによる渾身のプレゼンテーションが終わると、話し手だけでなく聞いていた方のエイナもぐったりとした。
「あんた、この部屋に入ってからひと月になるんでしょう?
あたし、入った時にびっくりしたわよ。あまりに殺風景なんだもの。
女の子なんだから、お部屋は可愛くするべきだわ」
エイナはそんなことを考えたこともなかった。だが、シルヴィアが絵や花を飾り付けた壁を見ると、何となく彼女の言っていることが理解できた。それと同時に自分が少し恥ずかしく思えてきた。
「でも、あたしそういうのを何も持っていないから……」
すると、シルヴィアの瞳に再び情熱の炎が燃え上がった。
「いいわ。あたしのを少し分けてあげる。
それと、今度の休みに買い物に行かない? 休日は申請すれば半日だけだけど外出許可が下りるの。さっき言ったお店に連れていってあげる。
お小遣いはもらっているんでしょう?」
エイナはこくんとうなずく。月の頭に日用品の購入に充てるための現金が支給されていたのだが、どうやって使えばいいのか分からないので、そのままにしていたのだ。
「じゃあ決まりね。とりあえず、ベッドに置くぬいぐるみは買うべきよ。
あれがなくてどうやって眠れるのか、あたしには理解できないわ」
シルヴィアは買い物の約束を取り付けたことで、大いに満足したらしい。機嫌よく自分自身のことを話し始めた。
驚いたことに、シルヴィアは自分が貴族の娘だと打ち明けた。
「あたしの家はグレンダモア伯爵家……って言っても、王都に屋敷を持たない田舎貴族よ。それほど偉くはないの。
家には上にお兄様が二人とお姉様がいるから、あたしが魔導院に入っても両親は気にしてないと思うわ。
だから、あたしは卒業して召喚士になったら、軍に入るつもりよ。
家に戻ったって、どうせ同じ田舎貴族の三男坊にでも嫁がされるに決まっているもの。
これは天に与えられたチャンスだと思うの。運よく国家召喚士になれれば、女でも軍の幹部として活躍ができるもの。
もし、二級召喚士だったとしても、軍に入れば最初から士官待遇が約束されているでしょう。努力次第で出世できると思うわ。
だからあたし、男の子にも負けないように、勉強でも軍事教練でも一番であり続けなきゃいけないの」
エイナはシルヴィアの熱心な話を、ぽかんとした表情で聞いていた。
この美少女は、頬を少し染めながら真剣な顔つきで、自分の夢を真っ直ぐに語っていた。
エイナがただの田舎娘で、何も知らない新入りだと知って、警戒感を解いたためかもしれない。きっと、ここまで自分の心を正直に打ち明けたのは、初めてなのではないか……何となくそう思えて、エイナは少し嬉しくなった。
その一方で、今は興奮していても、後で恥ずかしくなって虐められるかもしれない――そんな不安にもかられた。
女の子同士の打ち明け話(たいていは恋の話だが)では、よくそういうことが起きる。エイナはまだ十一歳だったが、彼女が暮らしていた辺境の小さな村にも、そんな小さな女社会は存在していたのだ。
「エイナ、あたしの話をちゃんと聞いてる?」
突然、シルヴィアが口を尖らせた。
「え? ええ、もちろん聞いています」
「だってあなた、さっきからずっとノートに何か書いてるじゃない」
「ああ、これは今日の課題で、明日までにやっておかないといけないんです。
ちゃんと話は聞いていますから、気にしないでください」
シルヴィアはベッドから抜け出して、机に向かって座っているエイナの側に寄ってきた。
「どれどれ……やだ、計算問題じゃない。
ん? でもこれって結構前に習ったとこよね?」
エイナは恥ずかしそうに小声で答えた。
「あたし、学校は三年生までしか行ってなくて、今は四年生の単元を補習してもらっているの」
「ああ、そうか。何かそんなことを先生がおっしゃっていたわね。それで時期外れなのに寄宿舎に入ったんだっけ。
割と複雑そうな計算だけど、話をしながらでも解けるものなの?」
「大丈夫です。ほとんど考えていませんから」
エイナはそう言いながら、すらすらとペンを走らせていった。
問題の数式にはちらりと一瞬目を落とすだけで、次々に回答欄に数字が埋められていく。
「ひょっとしてそれ、暗算で解いているの?」
「はい」
シルヴィアは黙り込んだ。
彼女は学年(といっても七人しかいない)で成績トップを譲ったことがない。
今エイナが解いている問題は三桁の混合四則計算だったが、すでに習った内容だから問題なく解く自信があった。
ただし、数字を書きつけて計算すればの話で、暗算で答えを出すなど、とてもできそうになかった。
『この子、ひょっとしてあたしより頭がいいのかしら?』
シルヴィアの心に不安がよぎった。
エイナはその心の変化を敏感に感じ取り、顔に人懐っこい笑顔を浮かべた。
「あたし、暗算だけは得意なの。他の教科だと、ちゃんと考えないとできないです。
ケイトさんの話だと、魔導士候補生で入ってくる子は、全員算数の成績がいいんですって。あたしみたいな子は珍しくないって言っていました」
「そっ、そうなの。じゃあ、まぁ他の教科のことは任せなさい。
それじゃ、あたしの話はもういいわ。
エイナのことを聞かせて。ご両親はよく魔導士になることを許してくれたわね?」
エイナは少し困った顔をしたが、覚悟を決めて淡々と自分の身の上を話し出した。
別に隠すようなことでもないと思ったから、正直に父の死と母の失踪のことも打ち明けた。
ただ、引き取られた叔母夫婦の元で受けた虐待のことだけは、何となく話せなかった。
あまり思い出したくないことだったので、叔母たちがオークに襲われた話も、ごくあっさりと片付けた。
「それで、助けてくれた女召喚士さんが、あたしを蒼城市の孤児院まで連れてきてくれて、そこで偶然ケイトさんに出会ったんです」
「へえ~、大変だったのね。
でも、あっさりとオークをやっつけちゃうなんて、その召喚士の女の人って凄いのね。
二級召喚士なんでしょう、何ていう人?」
「ユニさんです」
「え?」
「えと、ですからユニさん、ユニ・ドルイディアって名乗っていました。
三十代くらいの、小柄だけどきれいなお姉さんでしたよ?」
「うそ!」
「えとえと、あの……嘘じゃありませんけど?
辺境では、〝オオカミ使いのユニ〟って呼ばれるそうです。
馬よりも大きなオオカミを九頭連れていて、あたしも蒼城市までロキっていう白いオオカミに乗せてもらいました」
「やだ、本当なんだ! だってユニさんよ? あんた、何でそんな平気な顔して話してるの?」
「えっ、ごめんなさい」
「そうじゃなくて! もっとユニさんのこと詳しく聞かせて!
ユニさんと二人きりで三日も旅をしたなんて、信じられない!
クラスの子たちが知ったら、大騒ぎになるわよ!」
「えっと……ユニさんって有名なんですか?」
「あんた馬鹿? 有名も有名!
ユニさんと言ったら、二級召喚士の身で女王陛下のご友人だし、マリウス参謀副総長とは〝ため口〟だっていう噂よ。
あの悪名高い帝国の魔女、マグス大佐と一対一で戦って、相討ちで頬を切り裂いた話を知らない召喚士はいないわ!」
「そっ、そうなんですか」
「ああっ、もうじれったい!
いいわ、もうあんたの身の上なんかどうでもいいわ。今夜は寝かさないから覚悟しなさい!」
エイナの胸倉を掴まんばかりの勢いで迫るシルヴィアの背後から、冷たい声が浴びせられた。
「覚悟するのは君の方だ、シルヴィア。もう消灯時間をとっくに過ぎているぞ。
新入の生徒を指導すべき首席の君が、自分から夜更かしを持ちかけるとは何事かね。
もし今夜、この部屋から例え寝言であろうと声が洩れて聞こえたら、明日の朝食は抜き、二時間の早朝教練が待っていると思いたまえ!」
見回りの先生はそう言ってシルヴィアを睨みつけると、部屋のランプの吹き消して部屋を出ていった。
真っ暗になった部屋で、二人の少女はもそもそとベッドに潜り込んだ。
だが、諦めの悪いシルヴィアは、こっそりとエイナの枕元に這い寄ってきて、耳元でこそこそとささやいた。
『いい、ユニさんのことは、まだ他の子に言っちゃだめよ。
あたしが先に聞くんだからね。約束よ!』
彼女はそう言うと、毛布の中に手を突っ込んでエイナの手を引っ張り出し、無理やり小指同士を絡ませて指切りをした。
エイナは顔の見えない闇の中でにこりと笑った。
『分かったわ。それじゃ続きはまた明日ね』
『きっとよ! おやすみ、エイナ』
『おやすみなさい、シルヴィア』
短い会話が終わると、シルヴィアが自分のベッドに這い戻っていく気配がした。
ものの十分も経たないうちに、彼女の寝床から規則正しい寝息が聞こえてきた。
だが、エイナの方はなかなか寝付けなかった。
いきなりのことだったが、ルームメイトができたのはとても心強かった。
それ以上に、名前で呼び合う友だちが出来たことが、嬉しくて仕方なかったのだ。