三十五 攻防
タケミカヅチが斜面を駆け下りてくるのは、当然マグス大佐たちから丸見えだった。
「大佐殿、どうしますか?」
魔法を放つ態勢で腕を伸ばしたエッカルト中尉が、前を向いたままで訊ねた。
「狼狽えるな。まずはあのデカいのに当ててみろ」
「了解です」
短いやり取りを済ますと、中尉は躊躇なくファイアボールを撃った。
彼の手を離れた光球は真っ直ぐに飛んでいき、間近に迫っていたタケミカヅチに直撃する。
しかし光球は爆散せず、巨人の身体に吸い込まれるようにして消えてしまった。魔法反応が消滅したのだ。
タケミカヅチは何事もなかったかのように、大佐たちの前にたどり着いた。
間が開いたとはいえ、互いの距離は二十メートルほどである。大股で坂を駆け下る彼なら、到達まで十秒もかからない。
武神は自らが放った雷撃で生じた浅いクレーターに飛び降りた。
半球状の窪みの中央には、高さ二メートルほどの岩の柱が出来ており、その上に大佐たちが乗っている。
彼らが立っているのが本来の地面である。
ユリアンが展開している防御障壁が轟雷の暴威を遮断し、その直下の地盤だけが砕かれずに残っていたのだ。
柱は不安定なように見えて、元々は地盤であるから頑丈である。その前に、タケミカヅチ仁王立ちとなり、こちらを睨みつけている。
彼の身長は三メートルを超しているので、大佐たちからすれば、巨人の胸から上が地面から生えているように見えた。
分厚い革の鎧と兜を身にまとった姿は、古墳から出土する、戦士を象った素焼きの人形のようであった。
その厳めしい古代の戦士が、ゆっくりと口を開いた。
「降伏をするのなら、命は助けてやる。
武器を捨てて結界を解き、恭順の意志を示すがよい」
マグス大佐が一歩進み出た。
「ほう、貴様は異世界から召喚された幻獣であろう。我々の言語を話せるのか?」
タケミカヅチはおもむろにうなずいた。
「いかにも。
我が名はタケミカヅチ。お前たち人間が神々と崇める者の一族だ。
この世界の言葉を操るくらい、雑作もない」
「ふん、自ら神を名乗るか……。
その神が人間に召喚され、小娘に使われる身とは、堕ちたものだな」
大佐の皮肉めいた言葉に、タケミカヅチはぼりぼりと顎を掻いた。
「痛いところを突くな。だが、これは契約なのだ。
我は一定の期間、召喚主を守るという誓約を立てた。
その代わり、契約が終わればプリシラはその身を我に捧げる。相応の対価は支払われるのだ。
我が一方的に隷属しているというのは、その方の認識違いだぞ」
「なるほど、ご高説承った。
ところで、先ほど私と部下に降伏を勧告してくれたが、その答えは否だ。
お前の主人、プリシラと言ったな? あの娘にも伝えたはずだが、降伏を要求しているのはこちらの方だ。
貴様の雷撃が通じないのは見てのとおりだ。主の身を案ずるのなら、無駄な抵抗はやめろ」
「ふむ、交渉は決裂ということだな?」
「いかにも」
タケミカヅチはしかめていた表情を緩め、白い歯を見せて笑った。
「それはよかった」
「何?」
「我は〝武神〟と呼ばれていてな。戦いを本分としておる。
そうこなくては、面白くなかろう?
取りあえず、お主らを見上げるというのは、どうにも落ち着かんな……」
彼はそう言うと、いきなり岩の柱を殴りつけた。
ズンという低い音が響き、大佐たちの立つ地面が揺れた。
タケミカヅチは丸太のような腕を振りかぶり、もう一度拳を振るった。
今度はゆっくりと地面が傾き、一拍を置いて足が宙に浮く。
直径数メートルの固い岩の柱に無数の亀裂が走り、耐えかねたように崩壊したのだ。
マグス大佐と二人の副官は瓦礫とともに落下したが、防御障壁のおかげで大きなダメージを負わなかった。
障壁は衝突した地面を物理干渉と判断したため、一瞬の間大佐たちは宙に浮く格好となった。
落下の運動エネルギーが消滅すると、障壁は地面へ浸透していき、中の人間を静かに地面に降ろした。
大佐たちにほっとする暇はなかった。
さっきまで上半身を見下ろしていた巨人が、今度は見上げるような高さになって目の前に立ちはだかっている。
そして、太い岩の柱を粉砕した剛腕が、彼女たちに向けて振り下ろされたのだ。
もちろん、防御障壁は相手の攻撃を完璧に防ぎ切った。
タケミカヅチの大きな拳は、目の前で空気の壁を虚しく殴っただけである。
しかし、その凄まじい衝撃は、びりびりという振動となって伝わってきた。
巨人は黙ったまま、休まずに攻撃を続けた。
殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る。
右で殴る、左で殴る、また殴る、殴る、殴る。
重い拳が一発、また一発と打ち込まれ、そのたびに空気が震えた。
攻撃はまったく通らなかったが、障壁を展開しているユリアン少尉の顔色が、目に見えて悪くなってきた。
マグス大佐が彼の肩を抱いて引き寄せ、耳元でささやいた。
「おい、このデカブツは疲れる気配が見えないぞ。
貴様、どのくらい持ちそうだ?」
「二十分程度なら大丈夫ですが、その先は保証できません」
ユリアンがささやき返した。
対物理防御は、鋭利な刃物による斬撃や槍の刺突、弓矢の攻撃といった、狭い範囲に瞬間的にかかる力に対して無類の強さを誇る。
逆に鈍器や人の殴打には、弱いとは言わないが、より多くの魔力を消費するという特性があった。
ただ、そうした攻撃も人間レベルの力であれば、一日中繰り返されても、魔導士の魔力が枯渇することはない。
だが、タケミカヅチの剛力は、人間とは桁が違い過ぎた。
それは、先ほど直径数メートルもの太い柱状の岩盤を、二度殴りつけただけで砕いたことでも十分に証明できた。
「エッカルト!」
「はい!」
「国家召喚士の幻獣がこっちに来たのは好機である!
向こうに残る犬コロは小物と見て間違いない。魔法に抵抗できるかも怪しい。ましてや背後の人間を守るなど不可能だろう。
貴様は召喚士を殲滅せよ! 召喚主が死ねば、幻獣は消滅するはずだ。
ユリウス、敵の魔導士はまだ対魔防御を発動してはいないな?」
「それらしき波動は感知できません!」
「ならば今の内だ。
連中に帝国魔導士の恐ろしさを思い知らせてやれ!」
「了解です!」
エッカルトは再び右手を前に伸ばした。
真正面には巨大な武神が立ちはだかり、黙々と障壁を殴り続けている。
正面上方の敵を狙うには、その巨体が邪魔になるが、ファイアボールはある程度軌道を操作できる魔法である。
彼は右腕を振り上げた巨人の脇腹あたりを狙って、光の球を撃ち出した。
一瞬遅れてマグス大佐も巨大な火の玉を投げつけた。
エッカルトの方はともかく、大佐の放った火球は冗談じみた大きさだった。
これだけのファイアボールが撃てる魔導士は、帝国広しといえどもミア・マグスだけである。
大佐が魔法を重ね撃ちしたのは、犬型の幻獣が魔法を防いだ場合に備え、確実に敵を屠る方法である。
帝国軍では希少な魔導士を多くの部隊に配置するため、単独での攻撃を強いられるのが常であった。
マグス大佐は「魔導士は集団で運用してこそ、最大の効果を上げる」という持論を持っており、自らの部隊に多くの魔導士を抱え込み(それは彼女だからこそ許される贅沢であった)、連携攻撃に磨きをかけ、実際に戦果も挙げてきた。
この多重攻撃も、そうした工夫から生まれた戦法であった。
二つの光球は、同じような軌道を描いて斜面駆け上がる。
それが敵の直前で二手に分かれ、左右から挟み撃ちするようにプリシラたちを襲った。
彼我の距離はわずかであり、魔法の到達に要する時間は一秒にも満たない。
防御障壁を殴り続ける巨人を無視して、大佐たちは敵の最期を見届けようと目を凝らした。
ファイアボールは敵に命中すると、爆散して巨大な火の玉を生成する。火球は敵を包み込み、その中で数千度の炎が数秒間対流して、中にいる者すべてを焼き尽くすのだ。
先行して左側面から敵を襲ったエッカルトの魔法は、しかし爆発を起こさなかった。
一瞬の動きでよく分からなかったが、前衛に出ていた四つ足の幻獣が、光球の前に飛び出したように見えた。
そして、炎の爆発とは違う、赤い光がチカッと瞬いたかと思うと、光球が行きとまったく同じコースで跳ね返ってきた。
驚いたのはエッカルトである。彼はとっさに魔法の軌道を変えようとしたが、なぜか操作が利かない。反射された時点で魔法は彼の支配を脱していたのである。
一方、エッカルトにわずかに遅れて到達した大佐の火球は、右側面から王国兵たちを襲った。
普通の魔導士が放つファイアボールは、敵に当たるまでは強い光を放つ小さな玉なのだが、大佐の場合はあまりに魔力が強過ぎて、彼女の手を離れた瞬間から巨大な炎の塊りと化してしまう。
だがその火球も、敵の直前で何かに弾かれたように軌道を変えた。
一瞬のことなので、大佐がコントロールする暇などない。
弾かれた火球はそのまま背後の崖に当たり、派手な爆発を起こした。
大佐は自分のファイアボールが防がれたことを気にしている余裕がなかった。
副官の魔法が反射され、真っ直ぐこちらに向かってきているからだ。
「エッカルト!」
具体的な指示を出す暇などなく、彼女は部下の名を叫ぶのが精一杯だった。
しかし、それで十分なのだ。幾度となく同じ死線を潜ってきた大佐の意志は、阿吽の呼吸で伝わってくる。
長身の副官は向かってくる光球に対し、即座に次の魔法を放った。
初弾が失敗することに備えて、続けて攻撃するつもりだったのが幸いした。
双方の魔法は彼らの眼前、わずか数メートルの空中で激突し、爆炎を撒き散らした。
炎と熱風はユリアンの防御障壁が遮断してくれたが、熱の伝導までは防げない。
エッカルトは顔を焼かれ、額にかかっていたきれいな黒髪が、焦げてちりちりとなった。
彼が立ち続けて熱波をまともに受けたのは、背後にいる大佐を守るためである。
「馬鹿者! 伏せろっ!」
その大佐から怒号が飛んだ。
エッカルトは反射的に身体を投げうって、地面に這いつくばう。それだけ大佐の声が切迫していたのだ。
「ちいっ!」
地面に突っ伏した彼の耳に、大佐の舌打ちが聞こえた。続いて目の眩むような爆発が眼前で起こり、彼は意識を失った。
* *
「おい! 目を覚まさんか、馬鹿者!」
耳元で聞きなれたマグス大佐の罵声が響き、エッカルトはびくん! と痙攣して目を開けた。
顔を上げると、縮れた赤毛を振り乱した大佐が覗き込んでいた。顔が煤で黒く汚れている。
「わっ、私は……」
慌てて起き上がろうとしたエッカルトの頭を、大佐の拳骨がごつんと殴る。
「貴様が気を失ったのは一瞬だ、馬鹿者。顔面の火傷以外に怪我はないから安心しろ!」
大佐は彼の胸倉を掴み、無理やり引きずり起こした。
小柄な女性とは思えないほどの力だった。
「何が……起きたのでしょうか?」
「連中、魔法を弾き返しただけじゃなく、軌道を重ねて送り狼をつけてきおった。
小便臭い小娘のくせに、こちらと同じことを考えていたとはな……。
私の魔法で吹っ飛ばしてやったが、危なく間に合わないところだったぞ」
「そ、そうでしたか……油断しました。申し訳ありません」
「まったくだ!
私の副官がこんな初歩的な罠にかかるとは、まったく情けないぞ、馬鹿者!」
大佐は怒鳴り散らしていたが、その目には明らかな安堵の色が浮かんでいた。
「大佐殿は……ぐふっ!」
感謝を口にしようとしたエッカルトの腹に、大佐の膝が入った。
「無駄口を叩いている暇はないぞ、馬鹿者!
どうやら敵は防御障壁とは異なる対抗手段を持っているらしい。
おまけにあの犬コロには、こちらの魔法を反射する能力があるようだ。
目の前に巨人が迫っている以上、物理防御は解除できん。ユリアンの魔力は持ってあと二十分だ。
こちらの魔法は通じず、向こうは魔法の撃ち放題だ。まずいことになったぞ」
「そうだ! 今の爆炎は巨人も巻き込んだのではありませんか?」
「目の前を見てみろ、馬鹿者!
こいつは炎をかぶっても、平気な顔をして殴り続けている。どんな化け物だ、糞っ!」
「その割に、大佐殿はあまり困っておられるように見えませんが……。
と言うより、どこか楽しそうです」
エッカルトの言うように、大佐の顔にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
「そんなことはあるか! 気のせいだ、馬鹿者。
とにかく、こちらからの魔法攻撃はなしだ。お前は敵の魔法の迎撃に専念せよ」
「了解です」
「大佐殿~、それでは手も足も出せないのですか?
こっちは予想以上に魔力が削られて、もうふらふらしてきました。
打開策がないのであれば、敵と和解の道を探られてはいかがでしょうか?」
ユリアンが情けない声で甘えてきた。大佐がエッカルトばかりを構うので、嫉妬したらしい。
「馬鹿者! 貴様、それでも帝国軍人か? 心配するな、手はある!
単純な話だ。魔法が駄目なら物理攻撃をすればよいだろう」
「まさか大佐殿、この巨人と殴り合うおつもりですか?」
「そんなわけがあるか、馬鹿者!」
「ということは、色仕掛けとか?
無理です、いかに大佐殿でも裂けてしまいます!」
「……貴様、本気で殴られたいようだな?」
「そういうことは、殴る前に言ってください。
では、どうされるのですか? じらさないで教えてください」
「知れたことだ」
マグス大佐の唇の端が引き攣ったように上がり、頬傷がぐにゃりと踊った。
「爆裂魔法をぶちかましてやる!」