三十一 宿痾
「大佐殿がご病気……ですか?」
「なんだその顔は、貴様ら何か不満でもあるのか?」
二人の若い副官は、互いに顔を見合わせた。
「しかし、大佐殿はいつもと変わりないように思えます。なぁ、ユリアン」
「はい。いたって健康そうです」
マグス大佐は少し鼻白んだ。
「いや、いくら私だって病気くらいするぞ?
貴様らはずっと私の傍にいるのだ。それくらい知っているだろう」
「確かに、お風邪を召された時のことは、覚えております。
『こんなものは酒を呑んで寝れば治る!』と言われて、軍医殿の鞄から消毒用の焼酎を盗んでくるよう命じられましたね」
エッカルトがいかにも〝情けない〟といった表情で溜め息をついた。
「そのくらいましな方ですよ、中尉。
私なんか当直の夜、新兵の調達を命じられたことがありますよ。
理由を訊ねたら、『風邪気味だから汗をかきたいのだ、馬鹿者!』と言われて殴られました。
一晩中テントの前で、新兵の悲鳴を聞きながら立哨するのが、どんなに辛かったことか……」
次々と悪事をばらされたマグス大佐は、二人に鉄拳制裁を加えて黙らせた。
彼女は話を戻すべく、わざとらしく咳ばらいをした。
「この数か月、私は苛ついている。ちょっとしたことで怒りを爆発させてしまうこともしばしばだ。
指揮官として情けないとは自覚しているが、実を言うとこれは病気のせいなのだ。
貴様たちも、私の異常に気づいていただろう?」
「いえ、大佐殿の癇癪はいつもどおりでした。平常運転ですね」
ユリアンはにべもなく否定したが、エッカルトの方は上司に寄り添う努力を惜しまなかった。
「私もまったく気づきませんでした。副官として申し訳ありません。
大佐殿は我々に心配かけまいと、気丈に振る舞われていたのですね」
「おお、エッカルトは分かってくれるか?」
「私は鈍感なユリアンとは違います」
「あ、ずるいですよエッカルト中尉、自分だけいい子になろうとしていません?」
「変な言いがかりはやめろ。
大佐殿のお年を考えれば分かることだ。女性には更年期障害というやっかいな時期があってだな……」
「貴様ら、わざと漫才をやっているだろう!」
再び石のように堅い大佐の拳骨がお見舞いされた。
「間違いなく、最近の私は心身に異常をきたしていたのだ!
その原因も分かっている。今回の任務のせいだ」
「皇帝陛下に命じられた全国監査ですか?」
エッカルトの確認に、大佐は大きくうなずいた。
「そうだ。長期にわたる監査と視察は、私の健全な心身を蝕んでいる」
「意味が分かりません。安全な後方勤務ですよ?
皇帝陛下の勅命ですから、どの司令部も下にも置かない歓待ぶりです。
死と隣り合わせの前線に比べれば、天国だと思いますが」
ユリアンが当然の疑問を呈した。
「だから貴様は馬鹿なのだ。
私も五十代になって、さすがに身体能力に衰えを感じるようになった。
だが、魔力量に関しては何故か増大している。
それはお前たちも知っているだろう?」
エッカルトがうなずいた。
「はい。普通は年齢とともに魔力量は減衰するものですが、さすがは大佐殿です」
ユリアンもうんうんと同意する。
「魔導士仲間の間でも、ますます〝人間離れ〟してきたと評判です」
大佐はユリアンを殴ってから話を続けた。
「だが、よいことばかりではないのだ。
前線であれば思う存分に魔力を振るえるが、こうした後方勤務では、そもそも魔法を使うような場面がない。
私の体内で生成される過剰な魔力は、行き場を失って私自身を圧迫している。病気というのは、そのことだ」
「なるほど……膨らまし過ぎた風船は破裂するということですか。
それは厄介ですね」
エッカルトは同情したが、ユリアンの方はあまり深刻に捉えていないようだった。
あるいは、エッカルトより余計に殴られたので、すねているのかもしれない。
「つまり大佐殿は、〝一日に一回爆裂魔法を撃たなければ調子が悪い病〟に罹ってしまったということですね。
何とおいたわしい……」
「ユリアン、やはり貴様……私を馬鹿にしているだろう?」
大佐は拳を振り上げたが、ユリアンは素早くエッカルトの陰に隠れてしまった。
彼女は舌打ちをして拳を下ろした。
「表現がまぁアレだが、簡単に言えばそんなところだ。
解決法は分かっている。人のいない場所で魔法を撃てばよいだけの話だ。
私の魔法は威力が大き過ぎる。人気がないからといって、農耕地でぶっ放すわけにはいかん。
査察の順番と経路は勝手に変えられんから、魔法が使えるような辺境は通れなかった」
彼女はいったん言葉を切ると、背後にそびえる黒い山の姿を振り返った。
「だが、ここはどうだ?
目の前にあるのは、草一本生えていない巨大な火山だけだ。もちろん、人など住んではいまい。
人がいるとすれば、ネズミのように逃げ回っている王国の連中だけだろう」
〝帝国の魔女〟の顔には凄絶な笑みが浮かんでいた。口の端が歪み、醜い傷跡がぐにゃりと踊る。
「どうせひと晩寝れば、魔力など回復する。
ここはユリアンの言うとおり、爆裂魔法を一発撃って、すっきりしてから寝ようではないか?」
* *
「本当にそれだけでよいのか?」
プリシラは半分呆れ顔で訊ねた。
吸血鬼の要求は、女王と二人の軍幹部に契約条件を伝えろというもので、それが成立しなくてもペナルティはない。
そうすればエイナを解放し、全員を無事に帰すというのだ。
「何か不満でもあるかね?」
オルロック伯爵は涼しい顔で答える。
「いや不満はないが、それは我々にとって都合が良過ぎる話ではないか。
第一、私が約束を守る保証がどこにある?」
「私は君を信じているというのは……ふむ、正確ではないな。
国家召喚士としての、君の矜持を信じていると言い直そう。
もっとも、保険はかけてあるがね」
「保険?」
「私の契約者たちが、眷属たちに依頼する案件で、もっとも多いのは何だと思う?」
「それは……敵対する相手の暗殺であろう」
「違うな。そうした需要があることは確かだが、全体の二割程度だろう。
実際には、情報の入手という要望が圧倒的に多い。
我々は闇に紛れていかなる場所へでも出現できるが、必ずしも姿を現す必要はない。
ただ耳を研ぎ澄ませ、目を光らせているだけなら、絶対に気づかれることはない。
敵の作戦情報、身内の裏切り、部下の謀反……支配者たちが知りたいことは、無数にあるのだ」
プリシラは吸血鬼の説明にうなずかざるを得ない。権力者たちは孤独で、その座から追われることを極度に恐れている。
誰にも知られず、あらゆる秘密を知りたい――その欲望に抗しきれる者は少ないだろう。
「だが、私が仕える蒼龍帝や女王陛下は、その引き換えに国民を犠牲にするようなお方ではないぞ」
「それはどうかな? まぁ、その件は脇に置いておこう。
私が言いたいのは、情報は我々の武器になるということだ。
私の眷属たちは、この館で遊んでいるわけではない。
彼らは主要国の王宮、軍司令部、大商人の邸宅など、さまざまな所に身を潜めて有益な情報を集めている。無論、君たちの王国もその例外ではない」
「つまり、私が約束を果たしたかどうかは、すぐに分かるということか」
伯爵は笑みを浮かべたままうなずいてみせた。
「君の連れている幻獣――名前は知らぬが、ただ者でないことは私にも分かる。戦えば命懸けになろう。
エイナはよい話し相手になりそうだが、そこまでの危険を冒すほどの価値があるとは思えない。我が顧客を増やすための取引材料にする方が、ずっと賢い利用法だ。
どうだ、納得してくれるかね?」
「相分かった」
プリシラは結論を下した。
「伯爵の提案を受け容れよう」
「君が聡明な女性で嬉しいよ。プリシラ・ドリー大尉。
交渉が成立した以上、君たちとエイナの行動を妨げるつもりはない。
だが、もう夜も更けてきた。今夜はこのまま泊っていくがよい」
「いや、それは遠慮しよう。伯爵にこれ以上の迷惑をかけるは心苦しい」
プリシラは伯爵の申し出をあっさりと断った。
本音を言えば、吸血鬼だらけの館で眠るなど、まっぴらご免だったのだ。
それに、館の外にはアフマド族の少女を残したままである。
「それは残念だ。だが、無理強いもできまい。
ではどうだろう。交渉の成立を祝して、最後に乾杯をして別れようではないか」
「承知した」
プリシラは素直に提案を受け入れた。
すでに食事もお茶も口にしている。酒の一杯くらい追加しても罰は当たるまい。
今さら伯爵が、酒に何かを混ぜるとは思えなかった。
給仕を務める吸血鬼の娘たちが新しいグラスを配ってまわった。
大き目のチューリップグラスに、ごく少量の琥珀色の液体が注がれた。
プリシラがグラスを手に取ってくるくると回し、立ち上がる香りを嗅ぐ。
「これは……果実酒ですか?」
「フランツ王国から取り寄せた酒精強化ワインだね。私の秘蔵品だ」
エイナは伯爵の傍らから離れ、プリシラの隣りに席を移していた。
エイナもシルヴィアも、プリシラとともにグラスを手にして立ち上がる。
伯爵との交渉は、最上位者であるプリシラが担っていたから、新米の彼女たちに口を挟む余地はなかった。
プリシラと合流するまで、エイナもシルヴィアも自己の判断で単独行動をしなければならず、それは初めての経験であった。
この交渉は、そうした責任から解放された気楽なものだったが、逆に言えば、プリシラの感じる重圧は大変なものだったろう。
エイナもシルヴィアも手柄を立て、一刻も早く昇進することを単純に願っていた。
若い彼女たちは、階級が上がるということの本当の意味を、思い知らされたのである。
ともあれ、平和裏に交渉がまとまったことは喜ばしいことだった。
彼女たちも明るい顔になって、グラスの中で揺れる酒を物珍しそうに覗き込んだ。
赤褐色のワインは甘味が強いのであろう、とろりとした粘性を感じさせた。
液体の縁に蝋燭の光を受けて金色の輪ができ、きらきらと輝いている。
その輪が突如乱れた。
液体の表面に小さなさざ波が生まれ、やがて大きく揺れ始めた。
酒だけではない。テーブル上に置かれた陶器の皿やカップも、かたかたと音を立てた。
次の瞬間、エイナの身体がふっと宙に浮き、すぐさまがくんと下に落とされた。
激しい縦揺れに遅れて、今度はゆっくりとした横揺れが始まった。
「地震か?」
プリシラがテーブルの端を掴んで腰を落とした。
タケミカヅチが素早くその身体を抱きとり、自分の胸に押しつける。
エイナとシルヴィアは抱き合ってその場にしゃがみ込んだ。
手にしていたグラスは床に転がり、伯爵秘蔵の甘味酒が高価そうな絨毯に染みを作った。
一瞬遅れて〝どーん〟という下腹に響くような轟音が聞こえ、部屋の中がびりびりと震える。
給仕に当たっていた少女たちは、主人である伯爵の周りを取り囲み、周囲を警戒する素振りを見せた。
誰もが慌てる中、伯爵だけは平静を保っている。
「皆、落ち着いてくれ。恐らくは黒死山が噴火したのだろう。
この館は多少のことでは崩れないよう、とりわけ頑丈に出来ている。
それに館の周囲には結界が張ってある。噴石や溶岩程度なら、十分に防げるはずだ。
私はこの館に四百年以上住んでいるから、噴火など飽きるほど経験している」
緊張した面持ちで、少女の一人が伯爵の顔を仰ぎ見た。
「外の様子を見てまいります」
「うむ、頼む。十分に気をつけるのだぞ」
吸血鬼の少女は薄物を翻し、足早に部屋を出て行った。
「すまぬが予想外の事態だ。
君たちには申し訳ないが、安全が確認できるまで、今しばらくこの館に留まってもらおう」
伯爵の落ち着いた態度に、王国側の女性たちも再び席に着いた。
それまで遠慮して少し離れていたタケミカヅチとカー君が、今はぴたりと主人の傍らに寄り添っている。
「私たちはこの館に閉じ込められた……ということでしょうか?」
エイナは堪えかねたように訊ねたが、伯爵は首を振った。
「忘れたのかね?
我々は闇に紛れてどこへでも出ることができる。
万が一、溶岩でこの館から出られなくなったとしても、君たちを安全な場所まで送り届けることを約束しよう。
何も心配はいらぬ」
「それにしては、伯爵の顔色がすぐれないようですが?」
エイナの指摘に、吸血鬼は苦笑を洩らした。
「分かるか? 実はどうも腑に落ちんのだ。
さっきも言ったように、私は何度となく噴火を経験しているが、ほぼ例外なく事前に兆候がある。
いつもなら間違いなくそれに気づくはずだが、今回はまったくの不意打ちだった」
「そのことなのだが、実を言うと……」
プリシラが何か言いかけたちょうどその時、先ほど出て行った吸血鬼の娘が戻ってきた。
その腕の中には、気を失っているアリマが抱かれていた。
プリシラは伯爵に対し、館の外に残してきたアリマの保護を頼もうとしていたところだった。
吸血鬼の娘がアリマを見つけて連れてきてくれたのだろう。プリシラもシルヴィアも、内心で安堵の溜め息を洩らした。
部下が抱えている娘の姿を見た伯爵は、一瞬眉をひそめたが、すぐに平静を取り戻す。
「どうであった? それと、その人間は何だ?」
「やはり黒死山の噴火です。山頂の西側が吹き飛んで、山の形が変わっております。
爆発はすでに止んでおり、噴煙や噴石も多くありません。
吹き飛んだ山頂付近からは溶岩が流れ出していて、西側斜面を流れておりますが、量は大したことがなさそうです。五合目あたりで止まるのではないでしょうか」
吸血鬼の少女は状況を説明し終え、いったん口を閉じたが、伯爵の二番目の質問を思い出したのか、腕の中の娘を一瞥して付け足した。
「この人間は結界の外の岩陰に隠れていましたので、連れてまいりました」
「館への影響は、ないということだな?」
「はい」
部下の報告を聞いた伯爵は、さすがにほっとしたようだった。
そして、口を挟む機会を失ってしまったプリシラに助け舟を出してくれた。
「この娘は、君たちの連れなのだろう?」
プリシラは観念して頭を下げた。
「そのとおりです。彼女は一般民間人でしたから、外に残してきました。
お救いいただき、感謝申し上げます」
「別にかまわんよ。
その服装から見ると、その娘はアフマド族が用意した最初の生贄なのだろう?」
「おっしゃるとおりです」
伯爵は軽くうなずくと、少し険しい表情になった。
「取りあえず、差し迫った危険はない。とは言え、夜間にこの館から出て行くのは危険すぎる。
状況が落ち着くまでは軽々しい行動を慎むべきであろう。
やはり今夜は泊まってもらう。異存はあるまいな?」
彼の言葉には、娘を諭す父親のような威厳があった。
プリシラは不本意ながら、吸血鬼の命令に従わざるを得なかった。




