三十 月夜
「こんな山の中に小屋だと?」
マグス大佐の第一声には、困惑が表れていた。
「ユリアン、感知魔法には確かに反応がなかったのだな?」
振り返った大佐の顔は、月明かりに照らされて青白く、いつにも増して凄味があった。
「間違いありません。相手が対魔法防御を発動していなければ、の話ですけど」
ユリアン少尉が提示した可能性を、マグス大佐は〝ふん〟と鼻で笑った。
「そんな魔法を使っている暇があったら、逃げるにきまっているだろう」
「明かりをつけます」
エッカルト中尉が背負った荷物から松明を取り出した。
松脂を塗った松明は、火口を近づけただけで着火して、周囲を照らしてくれた。
山に入ってしばらくすると陽が落ちて暗くなったのだが、大佐たちは月明かりだけを頼りに、ここまで登ってきた。
松明をつけてしまえば、こちらの位置を敵に知らせてやるようなものだからだ。
道のない山の斜面は岩だらけで、足元がよく見えない状態であったので、予想以上の時間がかかってしまった。
エッカルトは二本の松明に火をつけ、一本をユリアン少尉に渡した。
二人の副官が照らし出した光景は、実に奇妙なものだった。
これまでゴツゴツとした岩場の斜面が続いていたのに、目の前には平坦な地面が広がっていた。
誰かが片付けたのか、落石は円盤状の平地の端に寄せられている。
その平地は自然のものではなかった。敷き詰められた大理石のような石材には、どこにも隙間が見当たらず、研磨されたように滑らかであった。
その表面には掠れてはいるが、複雑な模様、見たことのない文字や記号が描かれていた。
「まるで魔法陣のようだが……こんな術式は見たことがないな」
ユリアンが珍しく真面目な表情でつぶやいた。
「ああ。それに相当古いものに見えるが、状態が良すぎるというのも不思議だ」
エッカルトも同意した。
「いや、お前たち……そんなことより、目の前の小屋の方を気にしたらどうだ?
明らかにおかしいだろう! 王国の連中の隠れ家だとしても、道もない山の中にこんなものを建てるか?」
大佐が苛ついた声を出した。
「そうですね。調べてみましょう」
「当たり前だ、馬鹿者!」
感知魔法で人の気配がないことは確認済みであるが、無造作に扉を開けられるわけがない。
二人の副官は松明を大佐に預け、扉の両脇に静かに張りついた。
互いの目を見てうなずきあうと、エッカルトが取っ手に手をかけ、いきなり手前に大きく開ける。同時に短剣を手にしたユリアンが、姿勢を低くして飛び込んだ。
床に片膝をつけ、左右を素早く見回したユリアンは、ゆっくりと立ち上がった。
やはり小屋の中は無人であった。
松明を持った大佐が入ってくると、小屋の中が明るく照らされた。
大きなランプが三方の壁に固定されていたので、そこに松明の火を移す。
「私は周囲を確認してまいります」
エッカルトが松明を受取って、外へ出て行った。
小屋の中はそう広くはないが、中央にテーブルと椅子、片方の壁際には戸棚と炊事スペース、反対側にはベッドが二つ並んでいた。
マグス大佐とユリアンは手分けをして調べてみたが、情報物は見つからなかった。
一週間程度は持ちそうな水と食糧、武器、ロープ、救急用具といった装備品も揃っていた。
「慌てて逃げ去ったという感じだな。
軍事機密に属するようなものを残していないのは当然だが……」
「大佐殿、このテーブルと椅子、床に打ちつけられていますよ。
テーブルはまだしも、椅子を固定するって妙ですね」
「どういうことだ?」
マグス大佐も首を捻った。彼女たちは、この小屋が輸送籠であることを知らないから、無理のないことである。
しばらくすると、エッカルトが戻って来た。
「何か分かったか?」という大佐の問いに、中尉は淡々と答える。
「狼煙の燃えかすがありました。やはり軍用のものです。
それと、少し離れた所に、何かを埋めた跡が何か所かありました」
「ほう、王国の奴らが何かを隠していたのか?」
「まぁ、そうとも言えますね。
掘り返してみましたが、大便と残飯でした」
「馬鹿者! そんなくだらんことまで報告する必要があるか」
「そうとも限りません。
排泄物の量と色から見て、この小屋に潜んでいたのは複数、恐らくは二人いたと思われます」
「貴様に糞の分析力があるとは知らなかったぞ。だが、まぁ褒めてやる」
三人は固定された椅子に座り、今後の方針を話し合うことにした。
この場所を発見できたのは、敵が狼煙を上げるという迂闊なことをしてくれたおかげである。
そうでなければ、足跡が残らない岩山での追跡は不可能だった。
逃げ去った召喚士たちを夜間に追っても、迷って遭難するのがおちである。
ここはじっくりと対策を検討すべきであった。
「あの召喚士がノルド人の祭りに出ていたのは、明らかに偽装だな。
こんな山中に基地まで建てて、兵員を潜ませていたということは、何か大がかりな工作を企てていたに違いない。
相手は王国でも十数人しかいない国家召喚士だ。そんな貴重な戦力まで送り込んでくるとは、ただ事ではない。捕えて情報を聞き出せればよし、それが叶わなくとも連中の計画は潰さねばならん」
「彼らが逃走したということは、作戦を中止して撤退するつもりかもしれませんね」
「いや、我々に発見された以上、その作戦を強行する可能性は否定できないぞ」
ユリアン少尉が楽観的な見通しを述べると、すかさずエッカルト中尉が反対意見を出す。彼らは自説を振りかざして議論を始めたが、いずれも推論であるから決着がつかない。
マグス大佐は呆れたように首を振った。
「敵の目的が分からない以上議論は無駄だ、馬鹿者。
連中はどこに逃げたと思う?」
「この山を越えた西側は、もうアフマド族の支配地域です。作戦が露呈した以上、当然そこに逃げ込むでしょう。
我々が手出しできないことは、彼らも知っているはずです」
「いや作戦強行を目指すなら、いったん山を下りて樹林帯に身を潜めているかもしれません。この拠点を奪還する機会を窺っていると見た方が自然です」
二人の副官は、再び正反対の意見を提示した。
「あの召喚士と出くわしたのは、まったくの不意打ちだった。我々は軍本部はおろか、東部軍に対しても連絡手段を持っていない。
だが、向こうもそんな事情までは知るまい。我々に後詰の戦力があるかも分からないのに、逆襲を図るとは考え難い。
よって、私もアフマド族支配地へ逃亡したと考える」
マグス大佐の下した判断は、ごくまっとうなものだったので、エッカルトはおとなしく引き下がった。
案外、彼はユリアンとの議論を楽しんでいただけなのかもしれない。
「明日の朝、行動を再開したとしても敵に追いつく見込みは薄いし、麓に置いてきた馬たちも、いつまでも放ってはおけない。
明日、山の反対側を捜索して手がかりを探すつもりだが、それが限界だろう。
我々はすみやかに東部方面司令部に帰還し、国境の警備を厳重にさせることになろう。
悔しいが、それが現実的な対処法だ」
大佐は火の玉のような激しい性格であったが、冷静な判断能力も持ち合わせていた。
「幸い小屋の中にはベッドが二つある。一つは私のものだ。残りはお前たちが交替で使え。
今は……もうじき九時か」
彼女は軍服のポケットから懐中時計を取り出して、時間を確認した。
時計は高価なもので、かなりの高級将校でなければ持てない代物である。
大佐は立ち上がって金鎖を外し、懐中時計をエッカルト中尉に手渡した。
「最初の立哨はエッカルトが務めろ。四時間でユリアンと交替だ。
よし、寝るぞ」
「ええっ、私が大佐の隣りのベッドですかぁ……」
マグス大佐の凶眼がすっと細くなった。
「ユリアン、貴様、何が言いたい?」
「ですから、夜伽の役はご遠慮申し上げたく……ぐふっ!」
少尉は身体をくの字にして呻いた。大佐の拳がみぞおちに入ったのだ。
「くだらん冗談を抜かすな!」
そう吐き捨てると同時に、彼女の腹が〝ぐう〟と音を立てた。
「そう言えば晩飯を食っていなかったな。
確か村を出る時に、屋台から食糧を調達していただろう? あれを出せ」
ユリアンが腹をさすりながら、荷物の中から大きな葉っぱでくるんだ弁当を取り出してきた。
祭りの期間中は、他村からの見物人のために屋台が出る。弁当はその一つで売っていたものである。
包みを開けてみると、白パンの間に分厚い肉とキャベツを挟んだサンドイッチだった。
イノシシの肉を油で素揚げし、どろりとした甘辛いソースにくぐらせている。
もうすっかりさめていたが、柔らかなパンにソースと肉汁が染み込んでいて、いかにも美味そうであった。
「せっかくのいい月夜だ。外で食おう」
マグス大佐はそう言って、小屋を出て行った。
二人の副官は思わず顔を見合わせた。
実利一点張りの大佐が「月を見ながら」などという、女性らしい提案をしたのが意外だったのだ。
エッカルト中尉が小屋の壁からランプを外し、ユリアン少尉が予備の毛布を敷物用に持ち出した。
三人は外の地面で車座になり、黙々と弁当を食べた。
肉を挟んだパンは、期待にたがわず美味で量も十分だったので、全員が満足の溜め息をついた。
基本的に軍隊の食事には〝糞〟が定冠詞に付くから、思いがけぬご馳走であった。
大佐はあぐらをかいて水筒の水を呷り、山の上空にかかる丸い月を仰ぎ見ていた。
月明かりで山の稜線がはっきりと見えたが、それは真っ黒な闇そのもので、山頂のあたりから、白い噴煙がたなびいているのと対照的だった。
彼女はそれをぼんやりと眺めながら、ソースのついた指をしゃぶっていた。
肉の脂でてらてらと光る唇が、ゆっくりと歪んでいくのを、副官たちは気づかなかった。
マグス大佐は空を見上げたまま、ふいに口を開いた。
「お前たちに打ち明けたいことがある」
その声は静かで、聞き逃しそうになるほど小さかった。
大佐は大きな声で、はっきりと喋るのが普通だった。戦場で喉を潰したしゃがれ声であるからだ。
「黙っていたことは許せ。
実を言うと、私はある病に侵されているのだ」
* *
レースで縁取りされた白いテーブルクロスの上には、多くの燭台が置かれ、花や蝶を描いた美しい蝋燭が灯っている。
すでに晩餐の皿は下げられており、美しい白磁の小皿に盛られた菓子と、よい香りのする紅茶が供されていた。
主人であるオルロック伯は、満足そうな笑みを浮かべていたが、客人側のプリシラとシルヴィアは、いかにも居心地が悪そうだった。
エイナは申し訳なさそうな表情で縮こまっており、タケミカヅチはプリシラの背後で腕を組み、微動だにせず眼下を睨みつけていた。
カー君はシルヴィアの足元に寝そべって、うつらうつらとしている。
館に招き入れられたプリシラたちは食堂に案内され、豪華な食事で饗応された。
いつの間にそんな用意をしたのかは、謎のまま明かされなかった。
薄物だけを身につけた吸血鬼の少女たちが、かいがいしく働いて給仕をしていたが、この料理は誰が作ったのだろうか?
とてもこの少女たちが調理したとは思えない。
プリシラは料理を前にして眉を顰めたが、口にしてみると見事な味わいであった。
たわいないが礼儀に適った話題が交わされ、食事は平穏に終わった。
そして茶菓子が運ばれたことで、いよいよ本題に入るのだと誰もが身構えたのである。
「結構な食事であった。伯爵はよい料理人をお雇いのようだな」
プリシラの賛辞はお世辞ではなかった。
「いやいや、こんな山の中ではろくな食材が手に入らず、お恥ずかしい限りだ。
私の眷属の中に、料理を趣味としている男がおってね。
客人のもてなしは、彼に一任しているのだよ」
「ほう、さすがは貴族殿だ。年端もいかない少女だけではなく、そちらの趣味もお持ちとは、風雅なことだ」
プリシラの皮肉を、伯爵は顔色ひとつ変えずに受け流した。
「さて、お待たせした。それでは本題に移ろう。
君たちの要求は、ここにいるエイナを引き渡せということで、間違いないのだね?」
「いかにも」
「実を言うと、君たちが来る前に、私と彼女は交渉を行っていた。
お互いに腹を割って話し合ったので、我々はすっかり打ち解けたというわけだ。
エイナがアフマド族の生贄として、私のもとに来たことは、君たちも承知しているのだね?」
プリシラは黙ってうなずいた。
「詳しい経緯は省くが、私とアフマド族の契約は、相互利益に基づいた正当なものだ。
それはエイナにも納得してもらった。彼女は当初、生贄をやめさせようとしたのだが、アフマド族が必ずしもそれを望んでいないことに気づいてくれたのだよ。
我々吸血鬼は、確かに人間の血を吸わなくては生きられない。
だが、私は人間との無用の争いを好まない。出来得るなら、平和に共存することを希望しているのだ」
「ご立派なことだ。
私はエイナのような乳臭い娘ではない。しがって、吸血鬼の屁理屈にはまったく興味はない。
貴様が我が王国に災いを為すのでない限り、その行いに干渉するつもりはない」
ぱん、ぱん、ぱん……。乾いた拍手の音が鳴った。
「素晴らしい! ドリー大尉、物分かりのいい人間は私の好むところだ。
私は各地の人間たちと、この生贄提供の契約を結んでいる。
それは、この館に住む私と眷属たちが生き延びるのに、必要なだけの生餌を確保するためなのだ。
当然、その契約者には、彼らが望む見返りを与えている。
エイナ嬢はアフマド族が誠実に果たした義務として、我が館に送り込まれた。その彼女を君たちに引き渡せば、私は一方的な損害を受ける。
その点は理解してもらえるかね?」
プリシラは憮然とした表情で、紅茶を飲み込んだ。
「つまり、エイナを返せというからには、その損害を補填しろと言いたいのだな?」
伯爵は再び乾いた拍手を送った。
「何が望みだ? 金か、宝か?
言っておくが、私やシルヴィアが身代わりになるという案は論外だ」
「私が金や宝物を欲するように見えるかね?」
伯爵の問いに、プリシラは首を横に振った。
この豪勢な館を見れば、答えは明らかである。
「私はエイナにある提案をしたのだが、彼女はうんと言ってくれなかった。
そこで、彼女の上官であるドリー大尉殿に聞いてもらいたい」
「言ってみろ」
「私は万一の事態に備え、できるだけリスクを分散したいと思っている。
私の契約者は、帝国、アフマド族、エウロペ諸王国にまで及んでいる。
これに、豊かさで知られたリスト王国が加われば、言うことがない。
こちらの要求はささやかだ。三年に一度、しかるべき乙女を一人提供してくれるだけでいい。
私はそれに応じて、我が眷属を派遣して、契約者の望みを叶えることを約束する。
私の眷属は、君の幻獣には劣るが、それ相応の実力を持っている。それは、実際に戦ったその異邦の神がよく知っているだろう。
暗殺、誘拐、情報収集……どんなに厳重な警備も、闇を移動する我らにとっては無意味だ。誰にも知られずに任務を成し遂げてさしあげよう」
伯爵はいったん言葉を切った。
「君に判断する権限がないことは分かっている。
この話を、そうだな……君が仕える蒼龍帝、参謀本部の長、女王、この三人に伝えてくれるだけでいいのだ。
その三人のすべてが断ったというのなら、それ以上君には何も要求しない。私は引き下がろう。
もっとも、私の長い経験上、必ず誰かが承諾してくれると思うがね」
オルロック伯爵はそう言うと、卓上に置かれたワイングラスを手に取った。
グラスが傾き、真っ赤なワインがその口に流し込まれていく。
一息で干されたグラスは、静かにテーブルに戻された。
吸血鬼は唇の端からこぼれたワインの雫を、白いナプキンで行儀よく拭き取った。
その際に、鋭く伸びた白い牙がちらりと覗く。
卓上に置かれたナプキンには、まるで鮮血のような染みが残っていた。




