二十九 オルロック伯
醜い怪物へと変貌した吸血鬼は、タケミカヅチと飽くことのない肉弾戦を展開していた。
筋肉質の身体を手に入れ、男並みの体格になったとはいえ、巨大な武神との殴り合いは、吸血鬼の方が押され気味であった。
ただ身体が小さい分、彼女の動きは俊敏であった。長い大剣を洞窟内で振るう不利を悟ったタケミカヅチは、剣を収めて素手で殴り合うことを選んだ。
タケミカヅチの岩のような拳で殴られると骨が砕け、摑まえられると腕だろうが足だろうが引きちぎられた。
しかし、吸血鬼には驚くべき再生能力があった。
例え頭蓋を叩き潰されても、この化け物は瞬時に再生して逆襲してくる。
そして信じがたい怪力を発揮して、体重が数倍もあるタケミカヅチを投げ飛ばし、地面や壁に叩きつけてくる。
攻防は一進一退で、なかなか勝負がつかなかった。
タケミカヅチはすばしこい吸血鬼から目を離さないまま、後ろにいたカー君に怒鳴った。
「おい、カーバンクル! 呑気に観戦してないで、少しは手伝え!」
カー君は『気づかれたか』という顔をしながら、渋々と前に出る。
ずっと戦いを見守っていたから、吸血鬼の動きの癖は把握できている。
彼は低い姿勢で喉を膨らませ、火球を吐くタイミングを見計らった。
タケミカヅチが丸太のような腕を伸ばすと、敵はその手をすり抜けて跳躍した。
相手の顔の高さまで跳び上がると、空中で身体をひねって回し蹴りを叩き込む。
蹴りは側頭部を直撃したが、タケミカヅチは太い首でその衝撃に耐えた。
その代わり、耳につけていた玉管が砕け、耳の穴からたらりと血が流れた。
吸血鬼はもう片方の足の踵でタケミカヅチの鼻を蹴って跳躍し、相手の手が届かない場所へ降りようとした。
その無防備な着地の寸前、〝ごう!〟という音を立て、火球が襲いかかった。
地面に足がつく前では、いかにすばやくとも避けようがない。
火球は見事に直撃し、吸血鬼の身体は爆散した炎に包まれた。
カーバンクルが放った火は、魔導士が使うファイアボールに酷似していた。
超高温の炎が吸血鬼の身体にまとわりつくと外気が遮断され、息をしようものなら口腔から気道、肺に至るまで焼け爛れてしまう。
吸血鬼は口を閉じて呼吸を止めたが、可能な自己防衛はそれだけだった。
目も閉じたのに眼球が茹で上がった。皮膚が紙のようにめくれ、肉が脂を垂らして炭化する。
全身の血液が沸騰して白い蒸気となり、吸血鬼の身体を包み隠した。
白煙が上昇して再び姿が見えると、吸血鬼の姿は一変していた。
皮膚と肉のほとんどが焼け落ち、肋骨に守られた肺と心臓以外の内臓は、腹膜を失い、ぼとぼとと落下している。
骸骨と化した吸血鬼は唇を失った口を大きく開け、「がはぁっ!」と堪えていた息を吐き出した。
伸びた犬歯の間から長い舌が飛び出して、生き物のようにぐねぐねとのうった。
その間にも、再生を開始した血管と神経が網の目のように骨格を覆い、ピンク色の肉と筋肉が吹き出すように生まれてくる。
数秒前まで骸骨であった姿は、あっという間に人間もどきに復活していたのである。
タケミカヅチは追撃することも忘れ、呆れたような表情でその様子を見ていた。
「参ったな……。おい、カーバンクル。この化け物はどうやったら倒せるのだ?」
その答えの代わりに、カー君は再び火球を放った。
タケミカヅチの鼻先を掠めて炎の塊りが飛び、まだ再生の完了しない吸血鬼を襲う。
化け物は絶叫とともに業火に包まれ、床をのたうち回った。
炎が収まると、ぼろぼろになった吸血鬼はまた再生を始めたが、その速度は明らかに落ちていた。
カーバンクルはタケミカヅチを見上げた。
「ねっ、こういうことだよ。吸血鬼は不死身に見えるけど、そうじゃないんだ。
再生が間に合わないように殺し続ければ、必ず限界がくるんだって。
――おっと、もう元に戻ってきたな」
話を途中で打ち切り、カー君は三度目の火球を吐いた。
人の形に戻りつつあった吸血鬼は、またもや炎に包まれた。
「お前、ずいぶん詳しいな」
「エイナからの又聞きだよ。
この方法を知っていたのはアフマド族なんだ。人間も侮れないよね」
「分かった。後は我がやる。
吸血鬼はまだまだいるだろうから、お主はあまり消耗するな」
タケミカヅチは焼け焦げた吸血鬼の成れの果てを掴み、目の高さに持ち上げた。
再生の速度はさらに落ちており、まだ骨格の上に筋肉が形成される途中であった。
その中でもいち早く再生した眼球が、ぎょろりと動いてタケミカヅチを凝視していた。生まれたてのきれいな瞳に、恐怖の色が浮かんでいた。
「やはり潰すなら頭だな……」
武神はそうつぶやくと、いきなり吸血鬼の顔面に拳を叩き込んだ。
〝ぱきゃっ!〟と頼りない音が響いて頭蓋骨が砕け、脳漿が飛び散った。
残った下あごだけが、痙攣するようにがくがくと踊っている。
それが目障りだとばかりに、タケミカヅチの手刀が薙ぎ払った。
下顎が吹っ飛び、洞窟の壁に当たって黒い塵と化す。
「これを続ければよいのだな」
彼は納得したようにうなずき、再生を開始した頭部の真上から拳を振り下ろした。
* *
「アリマを連れてこなかったのは正解でしたね」
シルヴィアが思わずつぶやいた。
彼女は隣りに立つプリシラの腕を、無意識のうちに抱きかかえていた。
それくらい、目の前で繰り返される暴力は凄惨なものであった。
背後の女性たちが息を呑んで見つめる中、タケミカヅチは淡々と吸血鬼の頭部を潰し続けた。
それはもう戦いではなく、単なる作業であった。
吸血鬼の首をがっちりと掴んだまま、頭部だけを執拗に攻撃し続けるため、首から下はすっかり再生が終わっていた。
それは戦いの途中で変貌した筋肉ダルマの怪物ではなく、現れた時と同じ華奢な少女の身体であった。
頭部を潰されるたびに白い裸体はびくんと痙攣し、膨らみかけの乳房は流れ垂れる血と脳漿で、まだらに染まっていた。
破壊と再生は十数回も繰り返された。プリシラとシルヴィアの目にも、吸血鬼の限界が近いことが理解できた。
それは暴力を行使し続けるタケミカヅチが、一番に感じていたことだった。
「これで仕舞いだな……」
彼はそうつぶやいて、首を掴んでいた左手を離した。頭部を失っている吸血鬼は、地面に膝をつき、無防備な姿を晒している。頭蓋の再生は気の毒になるくらいに遅く、弱々しいものだった。
タケミカヅチは白い少女の裸体を感情の伴わない目で見下ろしていた。
彼にとって、それは闇から生まれた動く屍体――忌避すべき穢れそのものだったのだ。
武神は手刀を大上段に振りかざした。
遅い再生を始めた頭部ごと、身体をも真っ二つにして止めを刺すつもりであった。
吸血鬼の首から上では、やっと下顎が再生されたばかりで、白く尖った牙の間でピンク色の舌が生き物のように踊っていた。
勢いよく振り下ろされた手刀は、その直上でぴたりと止まった。
血で汚れたタケミカヅチの大きな手を、吸血鬼の舌が伸びてぺろりと舐めた。
「そのくらいで勘弁してくれんか。本当に死んでしまうぞ」
落ち着いた低い声が、洞窟の中に響いた。
どこから現れたのか、いつの間にか男が立っており、タケミカヅチの手刀を片手で受け止めていた。
武神は目を剥き、男の手を振りほどこうとしたが、彼の怪力をもってしてもびくともしなかった。
男は黒いスーツの肩に長いマントをかけていた。彼はそれを広げて吸血鬼の裸体を隠すように包み込んだ。
娘を救い出すと、ようやく男はタケミカヅチの手首を離した。その際に軽く押しやったが、それだけで武神の巨体がよろけ、後ろに下がってしまった。
男はぱんぱんとスーツの埃を払い、軽く咳払いをした。
「私の部下が非礼を行ったとすれば、主人として謝罪しよう。
だが、そちらの対応も度を越している――と、私には思える。
ここは双方が手を引くということで、場を収めてもらえないだろうか?」
タケミカヅチが破れ鐘のような大声で応じた。
「主人ということは、貴様、アフマド族が〝お館様〟と呼ぶ者だな?」
「いかにも」
次の瞬間、武神の剛腕がうなりを上げて男の頭部を襲ったが、相手は軽くのけぞってその攻撃をかわしてみせた。
その瞬間を見逃さず、カーバンクルの放った火球が吸い込まれた。
確かに火球は命中したように見えた。だが、爆発的な炎の渦は発生せず、火球は男の身体に吸い込まれた。
いや、もっと正確に言えば、男がまとっているマントがぶわりと広がり、そこに生じた闇に呑まれたのだ。
マントの中には、瀕死の吸血鬼が抱かれていたはずだった。それなのに、その姿はどこにも見当たらない。
「やれやれ、せっかちな連中だな。この者たちは、君たちが召喚した幻獣なのだろう?
礼儀作法がなっとらんな。一体どんな教育をしているのだね?」
男は形のよい眉を顰めて、プリシラとシルヴィアに向かって苦言を投げかけた。
男の言葉に応じて、プリシラが一歩前に出た。
そして男から目を離さぬまま、タケミカヅチに指示を出した。
「タケ、少し待て。私はこの吸血鬼と話をしてみたい」
「だがプリシラ、こいつは穢れの元凶だぞ?
吐く息すら死臭が漂って吐き気がする。これは滅ぼすべき存在だ!」
「私の言うことが聞けないのか!」
主人の一喝で、さすがの武神も口をつぐんだ。
プリシラは警戒を緩めぬまま、真祖たる吸血鬼に呼びかけた。
「私はリスト王国の国家召喚士でプリシラ・ドリー大尉という。隣りにいるのは同じくシルヴィア・グレンダモア准尉だ」
吸血鬼の男は、柔和な笑みを浮かべて軽く会釈をしてみせた。
「私のことはオルロックと呼んでくれ。オルロック伯爵だ」
「笑止。吸血鬼が貴族を名乗るか」
「そう言うな。この爵位を授けたのは、お前たち人間だぞ。私が望んだものではない。
悪いが我が真名は教えられんのだ。呼び名がなくてはそちらも困るだろう。我慢したまえ」
「ならば伯爵、この館にエイナ・フローリーという娘がやっかいになっているはずだ。
彼女は無事か?」
「無論だ」
「ならば、その娘を返してもらおう。
大人しく要求に応じるのなら、我々も黙ってここを引き揚げる」
「嫌だと言ったら?」
「貴様たち吸血鬼を、根こそぎ滅するまでのこと!」
「やれやれ……」
伯爵は大げさに肩をすくめてみせた。
「どうしてお前たちは、そう喧嘩腰なのだ? 少しは話し合おうとは思わないのかね。
君からも何とか言ってもらえないか?」
彼はそう言うと、マントの端を摘まんで片手を上げてみせた。
そこには小柄な娘が、きょとんとした顔で立っていた。もちろん、先ほど消え去った吸血鬼の少女ではない。
マントで人を消したり出現させたりと、伯爵はまるで奇術師であった。
「エイナ!」
シルヴィアとプリシラが同時に叫んだ。
それは生贄になったはずのエイナであった。
彼女は見馴れた王国軍の制服ではなく、いかにも異国風の美しい民族衣装をまとっていた。
プリシラは思わず身構え、長剣の柄に手をかけた。
「卑怯者! エイナを盾にする気か?」
伯爵は首を振り、エイナに話しかけた。
「見ただろう? ドリー大尉は私の話をまったく聞いてくれんのだ。
君から説得してはくれまいか?」
彼はそう言うと、エイナの背中をぽんと押し出した。
エイナは周囲をきょろきょろと見回してから、プリシラたちと向き合った。
なぜ自分がここにいるのか、今ひとつ理解していない感じである。
「えと、あの……。シルヴィアと大尉殿は、なぜここにいるのですか?」
エイナにしてみれば当然の疑問なのだが、呑気な質問にプリシラはむっとした。
彼女は努めて冷静であろうとしたが、出てきた言葉には棘があった。
「ご挨拶だな。私の方こそ訊きたいぞ。
どうして生贄の身代わりになった?
それだけでも愚かなのに、吸血鬼と馴れ合っているのはどういうわけだ!」
「えと、あの、それは……いろいろ複雑な事情がありまして、とても一言では説明できません」
プリシラは大いにうなずいた。
「ああ、そうだろうとも! それでは、私の方の事情を先に説明してやろう。
ノルドの村に帝国軍が現れ、私の身分が知られてしまった。恐らくは追われているだろう。
しかも、よりにもよって、相手はあの帝国の魔女、マグス大佐だ!
我々は合流して身を潜め、アラン少佐の迎えを待たなくてはならん。
貴様には、吸血鬼のお茶にお呼ばれしている暇はないのだ!」
「え? どうしてマグス大佐なんていう大物が、こんな山の中に出てくるんですか?」
「私が知るか!」
プリシラは大声を張り上げた。
エイナはその剣幕に圧されたが、怒鳴られたことでかえって落ち着くことができた。
「待ってください!
マグス大佐に追われているというのなら、ここにいる限り安全ではありませんか?」
エイナの言うとおり、この吸血鬼の館の入口は、高度な幻影魔法によって隠されている。
いかにマグス大佐がすぐれた魔導士でも、そう簡単に見つけることはできないだろう。
「それに、オルロック伯爵は話の通じる相手です。彼に敵意はありません。
ここで争うよりは、交渉をして妥協点を探る方が得策ではないでしょうか?」
「しかし、こいつは人の生き血を吸う吸血鬼だぞ!
おいそれと信じられると思うか?」
「そうでしょうか?
彼は人を遥かに凌駕する能力を持ち、知性を備えた異世界からの訪問者です。
私から見れば、タケミカヅチ殿と大して違いはないように思えます」
「ぐっ……」
プリシラは言葉に詰まった。
『おい、この娘、今さらっと失礼なことを言わなかったか?』
タケミカヅチが憮然としてカー君に愚痴った(もちろん頭の中での話で、声には出していない)。
『タケちゃん、細かいことを気にしちゃ駄目だよ。
エイナにはプリシラを説得してもらおうよ。戦わずに済むなら、それに越したことないじゃない』
『むっ、我は戦いを恐れてなどいないぞ』
『またまた~。タケちゃんだって気づいているんでしょ?
この吸血鬼、滅茶苦茶強いよ。少なくても僕じゃ歯が立たないね。
……それにしても、プリシラって普段はもっと冷静じゃなかった』
『うむ、ここだけの話だぞ。
お嬢はあれが始まったばかりで、イラついておるのだ』
「そこっ、何をごちゃごちゃ言っている!」
いきなりプリシラが振り向いて怒鳴った。脳内の会話が洩れるはずがないのだが、女の勘である。
彼女はタケミカヅチたちを叱った勢いを借りて、伯爵の方に向き直った。
「分かった。ここはエイナの顔を立ててやる。
オルロック伯とやら、話し合おうではないか!」
伯爵は満足そうにうなずいた。
「そうでなくてはいかん。では案内しよう。ついてきてくれたまえ。
私の館にこれほどの人数を招くは初めてだ。うむ、実に愉快だ」
彼は黒いマントを翻すと、洞窟の奥に見える玄関に向かって、機嫌よく歩き出した。




