二十八 歓迎
「ここが生贄の広場か……誰もいないな」
プリシラはタケミカヅチの腕から滑り降りると、松明に火を灯して周囲を照らした。
もうすっかり日は落ちているが、満月を明日に控えた月の明かりで、真っ暗にはなっていない。
山小屋風の基地を出発し、黒死山の反対側まで、二時間もかかっていなかった。
タケミカヅチがプリシラとシルヴィアを抱きかかえ、カー君がアリマを乗せて走り抜いたお陰である。
どちらの幻獣も夜目が利くのが大きい。徒歩だったら倍以上の時間がかかっただろう。
生贄が捧げられる小さな広場に、エイナの姿はなかった。
「まぁ半ば予想されたことだったが、一応確かめないわけにはいかないからな。
よし、いよいよ吸血鬼の館とやらに向かうぞ」
プリシラはそう宣言して、タケミカヅチのもとへ戻った。
巨大な武神は右手一本で、彼女の身体を軽々と抱き上げた。
そこまではよかったのだが、誰も動こうとしない。
プリシラは怪訝な顔をして、反対側の腕で抱かれているシルヴィアに訊ねた。
「どうしたシルヴィア? 早くタケに行き先を指示してくれ。
ぐずぐずしている暇はないのだぞ」
今度はシルヴィアがきょとんとする番である。
「は? 私がですか?」
「当たり前だろう。ほかに誰がいる?」
「まぁそうですけど……私は館の場所など知りません」
「何?」
困った顔をしたシルヴィアは、エイナとの連絡係を務めていた自分の幻獣に訊ねた。
「えーと、カー君はエイナから何か聞いている?」
カーバンクルは首を振った。
「僕が知るわけないでしょう。アリマは知らないの?」
背中に跨っているアフマド族の少女もかぶりをふる。
「お館の場所は、一族の大人たちの誰も知りません」
「でも、アリマの先祖たちは、昔お館に攻め込んだことがあったんでしょう?」
カー君の質問に、アリマは申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「その戦いで生き残った者たちは、お館様から場所を決して口外するなと命じられたのだそうです。
先祖たちはその約束を守ったと聞いています」
プリシラは頭を抱えた。
彼女はここまで明確な方針を示して周囲の者たちを引き連れてきたのだ。
今さら「目的地の場所が分かりませんでした」で済むはずがない。
「カーバンクル! お前、エイナの匂いを追えないのか?」
カー君は彼女に言われる前から、周辺の地面の匂いを確かめていた。
そこに上から目線で訊ねられたので、彼は少しむっとして言い返した。
「僕は犬じゃないんだけどね!
一応匂いは確認したけど、エイナがこの広場に連れて来れられたことは間違いない。
だけど匂いを辿る限り、あの娘はここから出ていないんだよ。
吸血鬼は人を攫うと闇の中に引きずり込むっていうから、その手じゃないかな」
「むう、万事休すか……」
「いや、そうとも限らないぞ」
彼女の頭の上で、タケミカヅチの野太い声が響いた。
プリシラは縋るような目で武神を見上げる。
「何か手があるのか?」
「まぁな。プリシラも知ってのとおり、我は東の神々の一族だ。
我らは〝穢れ〟を何よりも忌む。
穢れにはいろいろあるが、ざっくり言うと「死」と「血」の二つだな。
前者を黒不浄、後者を赤不浄と言うが、特に嫌悪するのが黒不浄だ」
「それがこの事態と何か関係あるのか?」
「大ありだ。
我は吸血鬼という者たちを直接知らないが、陽の光を嫌うということは、あれらは闇から生まれた一族なのではないか。どうだ、カーバンクル?」
訊ねられたカー君はうなずいた。
「そうだよ。吸血鬼っていうのは、〝生ける屍〟なんだ。
本当は死んで土にかえるべき魂が、闇の呪いで生者の世界にしがみついているんだね。だから人の生命力を求めて生き血を吸うらしい。
僕たちも周囲の生き物から生命力を分けてもらうけど、精霊族は太陽の恵みの中から生まれてくる。あの連中とは表と裏の存在だね。
だから、できれば関わりたくない相手なんだよ」
「やはりそうか。
我らは穢れに対して敏感にならざるを得ない。
この山に吸血鬼の巣窟があるというのなら、それと感じ取ることができるだろう」
プリシラはタケミカヅチの逞しい胸を拳で叩いた。
「それを早く言え! タケは最初から館の位置を察知していたんだな?」
「無茶を言うな。
我らは無意識のうちに穢れを避けようとする。誰がすき好んで位置を探るものか!
確かに意識すれば探知はできるだろうが、それだけでも我は穢れるのだ。
やるからには、それなりの覚悟がいるのだぞ」
「カー君も同じなの?」
シルヴィアが自分の幻獣に訊ねる。
アリマを背に乗せたままのカーバンクルは、首を振った。
「身近にいれば別だけど、離れた場所の闇の存在までは知覚できないね」
「分かったわ。それなら私は契約の名のもとに我が幻獣、タケミカヅチに命じます。
吸血鬼の棲家を探しなさい!」
プリシラが怖い顔をしてそう宣言した。命じられた方は、あからさまに嫌そうな顔をした。
「我が穢れてもいいのか?」
「この際、仕方がないでしょう。どうせこの後、吸血鬼とやりあうことになるのよ。もっと盛大に穢れるわ。〝毒を喰らわば皿まで〟って言うでしょ」
「ならば別にやってもいいが、後で穢れを払うために、禊をしないといかんぞ。
プリシラも手伝うことになるのだが……いいのか?」
「私が?」
「ああ、禊は清浄な水の流れで身体清めるのだが、穢れが重い場合は、その……。ちょっと耳を貸せ!」
タケミカヅチはそう言って、プリシラを手招きした。
側に寄ってきた彼女の耳に、武神は身をかがめて何事かをささやいた。
始めは「ふんふん」と聞いていたプリシラだったが、途中から顔が赤くなり、最後には耳まで茹でたエビのようになった。
「そっ、そんなことまで……! 冗談だろう?」
タケミカヅチは憮然とした表情でかぶりを振った。
「冗談でこんなことを言えるか! そうでないと、半年間は物忌みをしなければならん。お前を守ることもできなくなるのだぞ。
禊の手伝いは、別にシルヴィアでもエイナでも構わないのだが、それではお前の立場があるまいし、我もプリシラ以外に頼む気はない。儀式だと思って割り切れ。
いいな、約束だぞ!」
タケミカヅチはそう言うと、両手を合わせて奇妙な印を結び、目を閉じて「むん!」と気合を発した。
数秒の間を置いて、彼は目を開いた。
「我が神通力によって、吸血鬼どもの位置は知れた。行くぞ!」
彼はプリシラとシルヴィアをひょいと抱き上げると、小さな生贄の広場を突っ切り、北の方角へずんずんと進んでいった。
武神の胸に抱かれた二人の娘は、再び向かい合う形になった。
シルヴィアは、目の前のプリシラの顔が真っ赤になったままで、両手で自分の胸を隠すように抱きしめていることに気づいた。
この広場に来るまでの間、プリシラはタケミカヅチの太い腕に、豊かな胸を押しつけるようにして掴まっていたはずである。
一体彼女に何があったのか、シルヴィアにはさっぱり分からなかった。
* *
広場を離れてから、タケミカヅチが足を止めるまで、わずか十数分しかかからなかった。館は意外と近い所にあったらしい。
「着いたぞ」
巨人はそう言うと、抱えていた二人の娘を地面に降ろした。
ここも岩だらけには変わりはないが、ちょっとした広場のようになっている。
ただ、生贄の場のように、人手が加わっているようには思えない。あくまで自然の地形であった。
プリシラとシルヴィアは周囲を見回し、怪訝な表情を浮かべた。
「着いたというが、何もないではないか?」
そこは何の変哲もない岩場であった。
彼女は松明をつけてみたが、明かりに照らされるのは大小の岩石ばかりである。
だが、タケミカヅチは腕組みをして目の前の斜面を睨みつけており、カー君も姿勢を低くして毛を逆立てている。
「うわー、やだなぁ! 闇の塊りじゃない。ここ、本当に入るの?」
「そうだ。だがカーバンクルよ、アリマはここで降ろすのだ。
彼女を連れていくわけにいくまい?」
「だったら、僕はアリマの護衛につくよ。うん、そうしよう」
「馬鹿者! 貴様はシルヴィアを守る契約だろう。少しは働かんか!」
武神がカー君とやりあうのに、プリシラが割って入る。
「こらこら、勝手に話を進めるな。
私には崖しかないように思えるが、お前たちは違うのか?」
「目に見えるものに関しては別に違わんぞ。実によくできた幻影だな」
「幻影……この崖がか?」
「そうだ。人の目から隠れるために、術をかけているのだろう。
だが、この先からは吐き気を催すような、穢れた気配が漂ってくる。
我が父祖なる神は、かつて亡くなった妻を訪ねて黄泉の国に降りたと聞くが、恐らくは同じような感じだったに違いない。
とにかく行くぞ。信じられずとも進めば分かることだ」
彼は腰の大刀を引き抜くと、ずんずんと歩を前に進めた。
その陰に隠れるように、プリシラとシルヴィア、そしてカー君がついていった。
アリマはおとなしく岩陰に隠れ、顔だけを出して見送っていた。
先を行くタケミカヅチの巨体は、崖状となって立ちはだかる岩の斜面にぶつかるかに思えたが、そのまますっと身体ごと呑み込まれていった。
プリシラたちは目の前で起きた光景にぎょっとしたが、恐る恐る足を差し出してみると、軍靴のつまさきが岩の斜面に潜り込んだ。足には何の抵抗も感じなかった。
彼女たちは意を決し、思い切ってそのまま進む。
斜面に身体がぶつかるかと思うと、どうしても目をつぶってしまう。
目を開けた途端、そこには一秒前とまったく違った光景が広がっていた。
目の前にはきれいに掃き清められた石畳の通路が真っ直ぐに伸びていた。
そして、その先には大きな洞窟が口が開けており、その奥には石造りの建物の一部が見えた。
立派な玄関の両側には大きな外灯が掲げられ、大理石のポーチを照らしている。
「夢……ではないな。本当に屋敷だ。
どうやってこんな山の中に建てたのだろう?」
プリシラは呆然としてつぶやいた。
タケミカヅチはそんな感慨とは無縁らしい。
「ふん、陽の光を嫌って地中に棲家を築いたか。いかにも芋虫らしいではないか。
二人とも何をしている、行くぞ!」
彼は大刀をぶらさげたまま、ずかずかと洞窟の中へ入っていった。
プリシラには、それがあまりに不用意な行動に思えた。もう少し慎重に、相手を探りながら行くべきだろう。
彼女はタケミカヅチに止まるように声をかけようとした。
「止まれ、無礼者!」
洞窟に声が反響し、タケミカヅチの足がぴたりと止まった。
厳しい口調とは裏腹の、きれいな少女の声である。
もちろん、それはプリシラではなかった。
一体どこから現れたのか、タケミカヅチの目の前に、ほっそりとした美しい少女が両手を広げ、立ちはだかっていた。
ナイトガウンのような薄物の絹だけを身にまとい、その下の裸体がほぼ丸見えとなっている。
しかし、少女の態度は堂々としたもので、その顔には恥じらいの色が一切なかった。
少女は無表情だったが、赤い瞳には怒りの炎が灯っているように見えた。
「人間ども、どうやって入ってきた?
ここをオルロック伯の屋敷と知っての狼藉か!」
彼女は再び厳しい声を発した。探るような視線は、プリシラとシルヴィアに向けられている。
だが、ふいに何かに気づいたように少女は顔を上げ、目の前に立つ巨人を見上げた。
不審と驚きの感情が、ゆっくりと顔に浮かんできた。
「お前……人間ではないな? そこの四つ足も、この世界の生き物ではない……。
どういうことだ、答えろ化け物!」
タケミカヅチは自分の背丈の半分もない少女を見下ろした。
その表情は嫌悪に満ち、まるで蛇蝎を見るかのような目をしている。
彼は雷のような声で怒鳴った。
「神に対して死者が口を利くとは、まさしく冒涜である!
おとなしく闇へ帰り、その身を蛆に喰われるがよい!」
タケミカヅチはいきなり左腕を振るい、少女の顔に張り手を放った。
華奢な身体はひとたまりもなく吹っ飛び、洞窟の岩壁にぐしゃりと叩きつけられた。
衝撃で手足が変な方向に曲り、頭蓋が割れて黄色い脳漿が飛び散った。
シルヴィアが思わず悲鳴を上げる。
「タケ!」
プリシラも顔を強張らせた。いくら何でもやり過ぎである。
だが、次の言葉が続かなかった。いや、もう声を出すことができなかった。
洞窟の壁で無残に叩き潰された少女が、いきなりバネ仕掛けのように跳ね起き、地面をひと蹴りして戻ってきたのだ。
砕けたはずの頭蓋も、飛び出した眼球も元に戻っており、その顔は夜叉のように怒りで歪んでいる。
少女はタケミカヅチの懐に飛び込むと、大剣を握った彼の手首を取って振り回した。
巨体が宙に浮き、少女を支点として半回転してから、今度はタケミカヅチが吹っ飛ばされ、岩壁に叩きつけられた。
ずしりとした振動が石畳を揺らし、洞窟の天井から、ぱらぱらと小石が落ちる。
タケミカヅチの体重は三百キロ近くはあるだろう。それを少女は軽々と振り回した上に投げつけたのだ。信じがたい力であった。
少女と違い頑丈なタケミカヅチは、洞窟の壁に激突しても潰れなかった。
それでも少しは効いたのか、首を二、三度振って骨を鳴らし、ゆっくりと戻ってきた。
少女の唇が醜く歪み、にゅっと白い牙が伸びた。
彼女は再び巨人に襲いかかる。
また懐に潜り込むかと見せておいて、今度は上へと跳んだ。
そしてタケミカヅチの顔を鷲掴みにすると、そのまま背後に引き倒した。
少女の手は小さく、覆っているのは鼻の周囲だけだったが、長く伸びた爪が皮膚を突き破り、第一関節まで潜り込んでいる。
後頭部から石畳に叩きつけ、さらに指先を喰い込ませた片手だけでタケミカヅチの頭部を持ち上げ、床に打ちつけた。
頑丈な石畳にひびが入り、なおも少女は攻撃を繰り返そうとした。
だが、再び頭部を持ち上げた時、少女の手首をタケミカヅチの大きな手ががっちりと捉えた。
ぺきんと骨が折れる乾いた音が鳴り響き、細い手首はぐずぐずに握り潰された。
顔面に喰い込んだ指が力を失って引き剥がされ、武神はそのまま少女の腕を引っこ抜いた。
関節が外れ、肩を覆う筋肉がぶちぶちと音を立ててちぎれる。
腕をちぎられたお陰で、少女はタケミカヅチから逃れることができた。
肩の傷口から鮮血がほとばしるが、彼女はまったく痛みを感じていないらしい。
床に投げ捨てられた腕は、たちまち萎び、黒い塵と化して消え失せる。
同時に、肩からミミズのように白い手指が生え、続いてずるりと腕が出てきた。
最初に岩壁に叩きつけられた時点で、彼女がまとっていた薄物はずたずたになっていた。
少女は丸裸になってしまったが、その姿はもう人間とは言えなかった。
身体中の筋肉が瘤のようにぼこぼこと膨れ上がり、首も手足も太くなり、背丈までも伸びた。
異様に腕が伸びたゴリラのような体型に変貌しながら、頭部だけが少女のままであるのが不気味である。
血に飢えた赤い目が妖しく光り、耳元まで裂けた口には暴力を期待する笑みが宿り、長く伸びた牙からは粘液のような涎が滴っていた。
吸血鬼は男のようなしわがれた声で吠えた。
「殺してやる!!」