二十七 合流
「何これ? 湯気が立っているけど……もしかしてお湯?」
シルヴィアは沢の淵に立ち、呆然として目の前の流れを見ていた。
アリマはしゃがんで手をそっと中に入れる。
「うん、いい感じに温くなっている。
シルヴィアさん、運がいいですね。これって温泉ですよ」
「温泉? どう見ても沢水っていうか、小川にしか見えないけど……」
「多分、湧いているのはもっと上の方ですよ。
それが流れてきたんですね。よっぽど湯量が多いのかしら。
きっと源泉は触れただけで火傷するくらいに沸騰しているはずですよ。
それが下に流れてくるに従って、自然に冷やされていい温度になっているんだと思います」
「なるほどねぇ……」
シルヴィアとアリマの二人は、身体を洗える水場を求めて麓に下りてきていた。
川か沼が見つかればよし、湧き水だったら最高だと思っていたのだが、まさかお湯に入れるとは……。
幸運な現状を理解できると、爆発的な喜びが襲ってきた。
彼女は物も言わずに服を脱ぎ捨て、緩やかな流れに素足を踏み入れた。
沢はぬるま湯程度の温度で、ちょうどよかった。
小さな流れなので水深はひざ丈ほど、腰をおろしても乳房の下あたりまでしか浸かれない。
彼女は腰を前に出し、寝そべるように身を沈めた。
首までお湯につかると、思わず溜め息が出た。お湯からは微かに硫黄の臭いがしたが、それほどきつくはない。
この地に来てから四日、これほどの快感は初めてだった。
手足がじんじんと痺れ、身体中から疲れが染みだしていくような気がした。
シルヴィアとアリマは思う存分入浴を楽しみ、持ってきた石鹸で身体と髪を洗い、ついでに洗濯もした。
衣服に硫黄の臭いがつくのは気になったが、汗臭い肌着に比べれば百倍ましである。
* *
二人がこの世の極楽を味わい尽くし、小屋に戻って来た時には、出発(午前十時ころ)から四時間は経っていて、もうとっくに昼を回っていた。
狼煙に気づいたタケミカヅチが現れた場合に備えて、留守番を命じられていたカー君がぶすっとした顔で二人を出迎えた。
「ずいぶんとお楽しみだったようだね。二人ともかなり硫黄臭いよ」
「あら、鼻が鋭いのも考えものね。
あたしには石鹸の香りしか感じないわよ」
軽口を交わすのも早々に、シルヴィアは小屋の前で焚いている狼煙の様子を確かめた。
それは出かけた時と同様に、黄色い煙を上げ続けている。
よく見ると二本が燃え尽きており、今煙を出しているのは三本目である。
どうやらカー君がつぎ足してくれたらしい。
「タケミカヅチは気づいてくれたかしら?」
「どうだろうねぇ……。ノルドの村からだと、ここは完全にカムイ山の影に隠れているからね。
タケちゃんは目がいいから、見つけてくれるとは思うんだけど」
お湯をつかって上機嫌なシルヴィアは前向きだった。
「大丈夫よ。タケミカヅチはあれで神様なんだから、お願いを聞き届ける義務があるわ。きっと来てくれるわよ」
「えっ、あの大きな戦士は神様なんですか?」
横で聞いていたアリマが驚いた声を上げた。
彼女はタケミカヅチがシルヴィアの従者で、身体の大きな人間の戦士だと思っていたらしい。
「そうだよアリマ。まぁそうは言っても、異邦の神々だからね。
僕らのいた世界ではヒュドラや一つ目巨人みたいな怪物と同じ扱いなんだ。
あれでもタケちゃんは結構偉い神様だったみたいだよ」
「そうなんだ……。あたし、今度会ったらもう一度拝んでお礼を言うわ。
何か捧げ物をした方がいいのかしら?」
「いらないと思うよ。
アリマみたいな可愛い女の子が感謝を捧げるだけで、タケちゃんは喜ぶよ。
異邦の神々は好色だって聞くからね」
カー君は大きな欠伸をしながら適当に答えた。
その後頭部を、シルヴィアがぴしゃりと叩く。
「あんたは、小さな子に何てことを言うの!」
アリマはカー君が人間と自由に会話(と言っても頭の中でだが)できることに、最初はかなり戸惑っていた。
しかし、若いだけに頭が柔軟なのか、すぐにその現実を受け容れることができた。
彼女の理解では、カー君は神の使いのような存在であり、それを使役しているシルヴィアが、いかに偉い人なのかを証明するものだった。
シルヴィアとアリマは協力して洗濯物を干し、日が暮れないうちに夕食の準備を始めた。
アリマが着ていたきれいな民族衣装は、吐瀉物で汚れていたので、温泉の川で下着ごと洗ってしまった。
当然着替えなど持っていないので、少女は大き目のタオルを腰に巻いただけの姿であった。
年の割には発育のよい乳房も丸出しだったが、彼女は別に恥ずかしがる様子を見せなかった。シルヴィアは同性だし、カー君は言葉を話すとは言っても、見た目は犬か狐である。
ただ、シルヴィアの方が目のやり場に困った。いくら同性であっても、思春期の少女の裸を見てしまうのは罪悪感があったのだ。
食事の支度が終わったところで彼女は耐えきれなくなり、結局アリマに頼んで、まだ生乾きだった肌着を身につけてもらった。
しばらくは気持ちが悪いかもしれないが、動いているうちに体温で乾いてくるだろう。
夕食は、まだ明るいうちに済ますことにした。
戻した塩蔵肉と、森でアリマが採ってきた山菜で作ったスープがメインで、あとはチーズが一切れ、そしてバターを塗った黒パンだけである。
それでもアリマは「ご馳走だわ」と喜んで平らげてくれた。
日が傾くころには早い夕食が終わり、小屋の中で片付けをしていると、外にいたカー君の声が頭の中に響いてきた。
「二人とも、タケちゃんが来たよ!
……あれ? プリシラも一緒だ」
シルヴィアは手にしていた皿を放り出し、外へ飛び出した。
慌ててアリマも後を追う。
カー君の傍に行って下を見下ろすと、岩だらけの斜面を登ってくるタケミカヅチの姿が見えた。
その胸には人間が抱かれている。
薄暗くなってきた中で目を凝らすと、カー君の言うとおりそれがプリシラだと分かった。
シルヴィアは少し驚いた。
ノルド人の祭りは今日から始まっているはずだった。プリシラはそれに参加するために長期休暇を取り、危険を冒して帝国に渡ったのだ。
狼煙を見たとしても、上げたのは黄色の信号だから、タケミカヅチだけを伝令に寄こせばいいだけの話である。
なぜ、プリシラ本人まで来たのだろう?
シルヴィアが困惑している内にも、タケミカヅチの姿はどんどん大きくなってくる。かなり急いでいるようだった。
彼らはあっという間に斜面を登り切り、平坦な召喚遺跡の上に姿を現した。
タケミカヅチに抱かれていたプリシラは、彼の腕の中から飛び降りると、出迎えたシルヴィアを無視して通り過ぎた。彼女は真っ直ぐに焚火に向かい、いまだに黄色い煙を上げている狼煙を足で踏みつけた。
煙が完全に消えると、彼女はシルヴィアたちの方に向き直り、厳しい声音を放った。
「帝国軍が現れた! もし彼らがこの狼煙に気づいたら、確実にここにやってくる。
森で相当に引き離したはずだが、そうのんびりとはしていられない。すぐに移動するから、大至急荷物をまとめろ。
地図や作戦に関わる文書は残すな。重要度の低いものは焼き捨てるのだ。
私は軍服に着替える!」
彼女はそう言い捨てると、小屋の中に入っていった。
* *
マグス大佐と二人の副官は、森の中で追跡を続けていた。
もう足跡を追う必要はなかった。
王国の召喚士が〝タケミカヅチ〟と呼んでいた巨人は、森の中に迷いようがない痕跡を残して進んでいたのだ。
さすがに太い樹木は避けているものの、進路にある灌木や倒木の類は引き裂いたり踏み潰したりして、強引に突破していた。
まるで大佐たちのために、道を作ってくれたようなものである。
「まるで竜巻の通過跡だな」
マグス大佐は半ば感心しながら馬を進めていた。
あの化け物は鋭い棘を掻き分けるにも平気なのだろうが、馬は嫌がる。
そのため速度は一向に上がらず、徒歩で進んだ方がましに思えるほどだった。
森の中の追跡は二十キロ以上も続いた。カムイ山の南側をぐるりと回り、ノルド人の村から見ると山の裏側に入ったところで、逃亡者の足跡は森を抜けた。
ほっとした大佐たちを迎えたのは、黒死山の荒々しい岩肌だった。
彼らはおおまかな地形を頭に入れていたが、決して詳しいわけではない。
カムイ山に連なる黒死山は知っていても、それが全山不毛の活火山であることは想定外であった。
一行は馬を降り、召喚士が逃げたと思われる方向を調べてみた。
山肌には土というものがなく、固い岩の地面と、そこら中に転がる大小の岩石以外、草の一本も生えていない。
柔らかな土などないから、巨人の足跡はどこにも見つからなかった。
だが、それほど高くない山の斜面から、狼煙の黄色い煙が真っ直ぐに立ち上っているのがはっきりと見えた。
召喚士がそこに向かっているのなら、もう足跡などどうでもよい。
問題は岩だらけで、馬が進めないことである。
大佐たちはここで馬を捨てる決心をして、背後の森へ三頭の馬を曳いていき、立ち木につないだ。
周囲には草が青々と茂っているから、人を残さずともしばらく平気だろう。
彼らは徒歩で狼煙の方向を目指し、斜面を登り始めた。
* *
「アリマのことは、どうなさるおつもりですか?」
小屋の中に入って、軍服に着替えているプリシラに、シルヴィアが訊ねた。
プリシラはボタンを留めながら振り返る。
「アリマ? ……ああ、アフマド族の娘か。
止むを得ん、彼女も連れていく」
「よろしいのですか?」
「仕方あるまい。
アフマド族と帝国は対立している。奴らに渡せばろくな目に遭わんはずだ。
まったく、面倒なことをしおって!」
彼女軍服を着終えると、長い金髪をまとめて結い上げながら、ぶつぶつと文句を言った。
ふと気づくと、アフマド族の少女が両手を組み、泣きそうな顔で自分を見上げていた。
プリシラは目を閉じて溜め息をついた。
「そんな顔をするな。アリマが悪いわけではない。
危ない目に遭うかもしれないが、私にできる範囲で守ることは約束する。
タケミカヅチは私とシルヴィアを運ぶことになろう。アリマはカーバンクルに乗れるのか?」
少女はこくんとうなずいた。
「上等だ。お前の荷物はないのか?」
「はい」
「では、これに水と食糧を適当に詰めてくれ」
プリシラはそう言って、帆布製の肩掛け袋を少女に向かって放り投げた。
アリマは袋を受け止めると、嬉しそうに仕事に取りかかった。
プリシラは肩をすくめてシルヴィアの方を見た。
「それで、狼煙を上げたのは何の用だったんだ?」
背嚢に荷物を詰め込もうと悪戦苦闘していたシルヴィアは、びっくりして飛び上がった。
「そそそ、そうでした!
大変なんです、エイナが吸血鬼で生贄になりました!」
「はぁ? シルヴィア、何を言っている。気は確かか?」
「あ、いえ、間違えました。
私がアリマを助けたばかりに、エイナが身代わりの生贄に立候補しました!
しかも、生贄を要求していた者の正体は、この山に館を構えている吸血鬼だったんです!」
「やはりお前、熱があるのではないか? それとも寝惚けているのか……」
「信じてください、本当なんです!
この付近に住む部族の者たちは、吸血鬼の被害を避けるために、自主的に生贄を捧げていたらしいのです。
エイナは吸血鬼が遥か昔、この召喚遺跡を使って出現したのだと推測しています。
彼女は吸血鬼と対決する覚悟で、自ら生贄を志願したらしくて、タケミカヅチの助力を求めています。
私はそれを報せるために、狼煙を使ったのです!」
「そんな与太話を、私に信じろと言うのか?」
「はい、事実ですから」
シルヴィアは真っ直ぐに見詰めてくる。視線を逸らすことを許さないという顔だった。
プリシラは大きな溜め息をつき、後頭部に巻き上げた毛先をバレッタでぱちんと留めた。
そしてつかつかとシルヴィアの前に歩み寄る。
向かい合うと、シルヴィアも長身だが、ノルドの血を引くプリシラの方が背が高い。
プリシラは両腕を大きく広げると手を握りしめた。そして、シルヴィアのこめかみを拳骨で挟み、ぐりぐりと捩じり込んだ。
「くぉんのぉ、馬鹿娘ども! 揃いも揃って勝手なことばかりしおって!
貴様ら、少しは後先を考えられんのか!」
「痛い、痛い、痛いっ! 止めてください大尉殿!」
シルヴィアの悲鳴を聞きつけたアリマがすっ飛んできて、プリシラに飛びついた。
「シルヴィアさんをいじめないで!
あたしが代わりになるから! お願い!」
プリシラはしがみつく少女の細い手首を掴み、そっと引き剥がした。
そして、頭を抱えてへたり込んでいるシルヴィアを見下ろした。
「ふん、ここはアリマに免じて許してやろう。
とにかく、お前たちの無鉄砲のお陰で方針は否応なく決まった。
私たちは早急に合流しなければならん。吸血鬼の館とやらに殴り込む!」
彼女はそう宣言すると、シルヴィアの襟首を掴んで引っ張り上げた。
「準備は出来たな? 後は外に干してある、お前の着替えを取り込んでこい!」
シルヴィアは緊迫した状況で、なぜプリシラが日常的なことを気にするのか、よく分からなかった。
「しかし大尉殿、あれはまだ乾いていません。ただの洗濯物など、放っておいてもいいのではありませんか?」
プリシラは眉根を寄せ、彼女を怒鳴りつけた。
「馬鹿者! マグス大佐は若い男の部下を二人連れていたぞ。
貴様は自分のズロースを、男に見られたいのか!?」




