二十二 監察官
「私の血が吸えないって、どういう意味ですか?」
エイナが訊ねたのは当然である。
吸血鬼の餌食になる気などさらさらないが、自分が不良品のように扱われるのは話が別である。
お館様はまた酒を口に含み、美味しそうに喉を鳴らす。
「そうだな……。分かりやすく言えば、お前の血が不味そうだからだ。
何かを口にした時に、苦いとか辛いとか、酸っぱいと感じることがあるだろう?
それは身体にとって毒だという警告だ。
まぁ、経験の積み重ねで、それが美味いと感じるようになることもあるがな」
「つまり、私の血があなた方にとって毒だということですか?」
「まぁ、そういうことだ。
実際には大した害はないだろうし、味さえ我慢すれば飲めないことはないだろう。
だが、食事は美味である方が楽しいと思わないか?
私はそう考えている。
不味い安酒と高価で美味い美酒が目の前にあったら、どちらに手を伸ばすかは自明であろう?」
吸血鬼はそう言うと、手にしたグラスを持ち上げ、笑ってみせた。
「話を変えよう。お前……いや、エイナだったな。
先ほどはうちのクロエが取り乱した。どうか許してほしい。
あれは私の眷属でも古株でな。もう人間であった頃の記憶をなくしている。
彼女にとって人間はただの餌に過ぎず、見下すだけでろくに興味を示さない。
そのために、顔立ちや名前の違いなどに意識が向かないのだ」
「古いというと、どのくらい生きているのですか?」
「クロエを眷属にしたのは、もう二百年以上前の話だ。
あれはもう長くはない。寂しい話だよ」
「え……吸血鬼は不死ではないのですか?」
「それは私のような真祖の場合だ。
いや、実は真祖にも寿命があるのかもしれんな。単にその限界を知らないだけで、その前に滅びているという可能性もある。
いや、話がそれた。真祖の眷属は二、三百年ほどで命が尽きる。身体が石化して、砂のように崩れ去るのだ。
第三世代、つまり眷属によって吸血鬼化した者は、その半分にも満たずに滅ぶ定めだ」
「それは初めて聞きました」
「そうか、研究が足りんな。
クロエがそうであるように、眷属たちは時が経つと人間であった時の記憶が薄れていく。
それと同時に感情も失うのだ。ただ私に対する畏れと忠誠心だけの存在となる。すべてに言いなりの者との会話は、砂のように味気ないものだぞ。
だから、私の話し相手になれるのは数年の間でしかない。
私の退屈が、理解できたかな?」
「それなら人里で暮らして、人間を話し相手にすればよいではないですか」
お館様は少し寂しげな笑いを浮かべた。
「人間がどう思っているかは知らないが、我らは知的で温厚な存在だ。
自分から危険の中に身を投じろと言うのか? 私は退屈でも、穏やかな暮らしをしたいのだ。
だからこのような辺鄙な山の中に屋敷を構えている」
「ですが、それでは人を襲うことが……ああ、そうでしたね。
あなた方は闇を使ってどこにでも行けるのでしたっけ」
「そういうことだ。ただ、それでも危険が皆無というわけではない。
そこで私はもっと安全な手段を考えた。
人間を手当たり次第に狩るから、望まぬ諍いが起きるのだ。
ならば、人間の方から進んで生贄を差し出させればよい。
その要求が頻繁だと、人間の方にも不満が出るだろうから、数年おきという緩い条件をつけてやる。
そうした提供先をいくつも作っておけば、定期的に食糧が供給され、危険も少ない。
よい考えだと思わんか?」
エイナは溜め息をついた。
「その供給先のひとつが、この付近のアフマド族なのですね」
「そういうことだ。
彼らは手近な群れだったから、未熟な眷属が好き勝手に狩っていたのだ。
その結果この館の存在が知られ、人間どもが大挙して襲ってきた。
数人の眷属が滅ぼされたが、結局私が出ることによって、アフマド族は降伏した。
そして、自ら生贄を捧げることを約束し、その代わりに生存の保障を求めてきたのだ。
それは良い提案だった。相手が下等な家畜であろうと、私はよい考えを柔軟に受け入れる。
おかげでこの百数十年、私は人間と面倒を起こすことがなくなった」
「よく人間側が大人しく承諾しましたね。
アフマド族のように、片っ端から殺して脅したのですか?」
「まさか!」
お館様は苦笑いを浮かべた。
「私は生贄要求する代わりに、人間どもに力を貸すことを約束したのだ。するとどうだ、奴らは尻尾を振って契約に応じてきた。
私が交渉したのは、各国の王族や大貴族たちだ。権力を手にした人間は際限なく力を欲するものだからな。
数年に一度、生贄を用意させる代わりに、我が眷属を派遣して彼らの望みを叶えてやる。
エイナにも予想できるだろう? 依頼内容はほぼ暗殺か誘拐だな。我々にとっては容易い仕事だ。
私と契約を結んでいる者どもは、両手の指よりも多い。年に四人は上質の餌が手に入る。私と眷属たちが生きるには、その人数で十分なのだよ。
面白いだろう?」
「アフマド族も同じ条件なのですか?」
「基本的には変わらないな。
ただ、彼らは王侯貴族ではないから、願い事は素朴なものだ。
流行病の治療や予防、あとは旱魃の時に井戸を掘ってやったり、家畜を襲う害獣を退治するとかだ。まぁ、何でも屋だな」
「お館様は私の血を吸わないと言われましたが、それはアフマド族が約束を破ったということになるのですか?」
エイナの不安はそこにあった。
彼女は当初、吸血鬼と交渉して生贄の風習を止めさせるつもりだった。
交渉が決裂した場合は、実力行使(タケミカヅチの力を借りての話だが)に及ぶことも辞さない――そう思っていたのだ。
だが、今の話を聞いた限りでは、アフマド族にもちゃんと利益のある話らしい。
その他の権力者たちに至っては、契約を破棄させたとしても、感謝する者はいないだろう。
王族や大貴族にしてみれば、身寄りのない浮浪児を捕まえたり、貧乏人から買い取った少女を生贄候補を育てるなど、容易いことだろう。
それで人間を遥かに超える力を得られるのなら、誰がその権利を手放すだろうか。
「アフマド族と言えば、エイナの生まれはどこの国なのだ?」
お館様は話題を変えてきた。
「リスト王国と言います。ご存じですか?」
「馬鹿にするな。帝国の南の国だな。
そうか、あれはそんな遠国まで逃れていたのか……。ああ、いや何でもない。気にするな。
それで、両親は達者なのか?」
「父は私がまだ子どもの頃に事故で亡くなり、母はその後に行方が分からなくなりました」
「行方不明……母親も死んだということか?」
「いいえ、生きています!
少なくとも、私はそう信じています!」
喰ってかかるような勢いで、エイナはそう叫んだ。
母が生存しているという希望は、彼女の心の支えなのだ。
「そう怒るな。
そうだな、私は何も知らぬが、そなたの母が生きている方に賭けてやろう」
吸血鬼は思いのほか優しそうな声で、そう慰めてくれた。
エイナは感情的になったことを、たちまち後悔した。
「リスト王国と言えば召喚士で有名だが、エイナもそうなのか?」
「いえ、私は軍に所属していますが、召喚士ではありません」
「そうか……それでは本題だ。王国の軍人が、何故こんな所にいる?
ここまで来るには、帝国領を通過してきたはずだ。
私の知る限りでは、リスト王国と帝国は対立しているはずだが?」
エイナは少し躊躇った。
プリシラとタケミカヅチは彼女にとって切り札である。ここはアフマド族に関する任務だけを明かすのが得策であろう。
「おっしゃるとおり、我が国と帝国は互いを仮想敵国と見做しています。
アフマド族は長年帝国と争っていますから、王国としては共闘の可能性を探りたいのです
ただ、王国はアフマド族の情報をほとんど持っていません。
私はその予備調査として、彼らの民情を探るために派遣されました」
「ほう……」
お館様は目を細めた。
「その任務を放り出して、自ら生贄になったのは、一体どういうことだ?」
その質問は想定内である。
「アフマド族に関する情報は、すべて書き記して仲間のもとへ送りました。
生贄の身代わりになれば、彼らに恩を売れます」
「なるほどな……大体分かった」
お館様がうなずいたのは予想外だった。
エイナの言い訳は、普通に考えて無理がある。
「えと、あの、そう簡単に信じられても……」
口ごもるエイナを、吸血鬼は面白そうに見詰め、グラスの酒を飲み干した。
すかさず背後から少女が近づき、空になった杯に酒を注ぐ。
「エイナが召喚士でないことは、幻獣の気配がないことで、嘘ではないと分かる。
それなのに吸血鬼である我らを前にして、お前は全く怯えておらぬ。
恐らくは、お前の仲間に強力な召喚士がいるのだろう。そして、仲間が助けに来るまでの間、お前は自分自身を守る力を持っている。
そんな力を持つ人間は、魔導士くらいのもの……違うか?」
エイナはがっくりと肩を落とした。
相手は四百年以上も生きている化け物である。わずかな会話と状況だけで、そこまで分析できてしまうのか……。残念だが、エイナとは格が違い過ぎる。
「はぁ。大体合っています」
「そうしょげるな。
最初に言ったように、お前の血を吸うつもりはない。しばらく客人として、私の話し相手になってもらおう。
退屈しのぎにはよい余興だ。エイナを救いに来る、仲間とやらを待とうではないか。
私は平和主義者だ。無用な争いは好まぬ。見返り次第では、お前の返還も考慮しよう」
吸血鬼はグラスの酒をぐいと呷った。
「そう言えば、まだ名乗っていなかったな。
私はオルロック伯爵だ」
「吸血鬼が〝伯爵〟……ですか?」
「ああ。クロエの父王から、正式に授けられたものだ。
我らの餌である人間が王を名乗り、真祖たる私に称号を贈るというのが、実に滑稽で気に入っておる」
彼は愉快そうに身体を椅子の背もたれに預けた。
「クロエの母、即ち王妃は長年王弟と不義を働いておってな。
王を亡き者にしようとしておったのよ。
王の弟は聡明で人望もあった。重臣たちはほとんどが王弟派で、王の命運は尽きようとしていた。
私は王弟と王妃、そして二人の間にできた子どもたちを皆殺しにしてやった……というわけだ」
「爵位はその代償だったわけですね」
「馬鹿を言うな。そんなものに何の価値がある? 私が要求したのは、唯一王の子種であった長女のクロエだ。
彼女は父に似ず、賢く美しい娘であったからな。初めて見た時から眷属にしようと思っていたのだ」
「王はその条件を――実の娘を差し出すことを吞んだのですか……」
「人間とはそういう生き物であろう?
王は若い側室に入れ込んでおったから、子などいくらでも産ませられると思っておったようだぞ。知らぬが仏という奴だ」
吸血鬼の言葉の意味が分からず、怪訝な顔をするエイナに、オルロック伯は笑いかけた。
「王は種なしだったのだよ。
クロエも王弟の娘でな、実子だと言ったのは、殺さずに眷属とするための方便だ」
* *
話は少し前に遡る。プリシラが帝国に渡り、ノルド人の村を目指している頃のことだ。
帝国東部における物流拠点、クレア港は軍の拠点でもある。
東部方面軍司令部は大きな建物であったが、街の中心部からは外れた郊外に建っていた。
クレアは交易都市であるから、商人の方が幅を利かせているのだ。郊外の方が十分な敷地が確保できるという事情もあった。
司令部は石造りの総二階建てで、司令官室は贅沢な調度品に囲まれた広い部屋だった。
立派なマホガニー製の机に革張りの肘掛椅子が、司令官の執務する場である。
だが、その主である司令官は執務机の前で直立しており、豪勢な椅子には別の軍人が足を組んで座っていた。
広い机の上には書類が散乱しており、そのいずれにも「極秘」という朱印が押されている。
椅子に座っていた人物は、手にした書類の束をばさりと投げ捨てた。
「まぁ、こんなものだろう。司令部の監査はこれで終了とする」
机の前に立っていた司令官は、明らかに安堵した表情を浮かべ、ほっと息を洩らした。
「お役目ご苦労でしたな。監察官殿」
おもねるような司令官の視線を、監察官と呼ばれた人物は冷たい目で撥ね返した。
「誤解するな、司令官。
確かに監査は終わったが、内容に問題がなかったとは言っておらん」
「そんな、ご不審の点があれば、何なりと説明をいたします!」
「無用だ。委細は皇帝陛下に直接報告する。
そこに加えるのは私の所見であって、貴官の言い訳ではない」
うなだれる司令官に対し、監察官は苛立った声を上げた。
「何だその情けない顔は! 部下が見ておるのだぞ。指揮官たるもの、虚勢のひとつも張れないでどうする!
貴官は私よりも軍歴が長く、階級も上であろう?
少しは恥を知るがいい!」
司令官はぐうの音もでなかった。
確かに彼の階級は少将で、目の前にいる監察官よりひとまわり年上である。
だが、相手は皇帝の勅命によって選任された特別職である。
監査期間においては階級も軍歴も年齢も関係なく、その権力は絶大で、命令に抗することは許されなかった。
机の前で立ったまま唇を噛んでいる司令官、ハイデル少将は決して無能ではない。
実務にすぐれ、性格は温厚で部下からの受けもよい。
ただ、覇気には欠けており、創造性に乏しいきらいがあった。
平時においては上手く組織を運営していけるが、有事の際には不安がある。
だからこそ東部方面軍司令官という、軍部内では閑職と見做される地位に就いているのだろう。
首を挿げ替えるよう皇帝に進言するのは容易いが、それは王国の警戒を招く愚策である。
皇帝はすべて承知の上なのだ。
「まぁ、そうしょげるな。
別に貴官を糾弾するほどの瑕疵があったわけではない。
問題あるとすれば、情報部の方だな」
少将はやや表情を緩めた。
「しかし、情報部は小官の指揮下にありません。
こちらとしては、彼らから上がってくる報告を受取る以外、あれこれ指図はできないのです」
「そんなことは知っている。
奴らは監査の対象外だから、私の立場も似たようなものだ。
だからと言って、野放しにはするな。奴らには暴走した前科がある。
相手は専門家だから、気づかれずに監視するのは難しいだろうが、それを意識させるだけでも幾分の効果はある。
奴らは軍部を舐めているから、こんな糞のような報告書を上げてくるのだ」
監査官はそう言って、先ほど机の上に投げた書類の束を見下ろした。
それは情報部から定期的に提供される、王国に対する諜報活動の分析書であった。
内容は情報部に都合のよい話ばかりで、本当に重要な秘密は秘匿されている。
軍部と情報部が犬猿の仲なのは、新兵でも知っている事実である。
「ご助言痛み入ります。情報部への監視体制は、至急見直すよう命じましょう。
ところで、監察官殿の滞在予定は十日間のはず、まだ六日も残っております。
東部は広いですが、要地は限られております。視察するとすれば北カシルですが、遠すぎますな……」
「そうだな。私はせっかちな性分だから、査察にもつい集中してしまう。悪い癖だ」
監察官が司令部入りして以降、この有能な人物は、夜明けから深夜まで働き続けていた。
その結果、通常ならば一週間はかかる査察を、半分の時間で終わらせたのである。
それに付き合わされた司令官以下、東部方面司令部の幹部たちはいい迷惑で、くたくたに疲労しきっていた。
「日程を切り上げるわけにはいきますまい、こちらで休養なされてはどうでしょう?
大隧道の近くによい温泉がありますぞ」
「それは魅力的な話だな。
だが、せっかく東部に来たのだ。私はノルドの村に行ってみようと思う」
「はぁ……ノルド人の村ですか」
「王国とやり合うには、どうしてもノルド人問題を避けて通れない。
ただ、実を言うと、私は彼らのことをよく知らないのだ。
情報部の報告書にもあったが、近く三十年に一度という、大きな祭りがあるそうではないか。
王国を含めたすべての村の代表が集まるらしい。視察には絶好の機会ではないか」
「なるほど、ご慧眼ですな。
それでは、早速警護の部隊を用意させましょう」
「無用だ。別に喧嘩を売りにいくのではないのだ。随行は私の副官だけでよい」
「しかし、祭りの行われるオシロ村はかなりの北方です。
一日では行けませんから、途中で野宿になってしまいます」
監察官は馬鹿にしたような笑みを浮かべた。その口の端から頬にかけて、醜い傷跡が走っていた。
「私を誰だと思っている?
あの地獄の西部戦線で、二十年以上も泥の中を這いずってきたのだぞ。
野糞も野宿も屁でもないわ」




