十九 再びの闇
エイナを囲んだ男たちが野営地を出て行くのを、カスム族すべての人々が見送っていた。
彼女は一族の娘の身代わりを自ら買って出てくれた恩人である。
前日の儀式のように、花を投げて送るということはなかったが、誰もが目を閉じ、頭を垂れて感謝の言葉をつぶやいていた。
馬に揺られていくエイナが、美しい衣装をまとい、きちんと化粧をしているのが痛ましく、女たちの多くが涙を流した。
無言の群衆からすすり泣きが洩れる中、一行を追ってついていく者がいた。
カーバンクルである。
カスムの人たちは、カー君をエイナの飼い犬のようなものだと認識していたから、主人の後を追う姿はさらなる涙を誘った。
そんな悲哀に満ちた送別とは裏腹に、エイナとカー君の間では、忙しく会話が交わされていた。
族長のゲルの中で行われた会議、そしてその後に明かされた化け物の正体の話は、カー君には伝わっていなかった。
これが召喚主であるシルヴィアなら、見聞きした内容がそのまま彼に筒抜けとなる。
だが、エイナとはそこまで深く意識がつながっていないので、そう上手くはいかないのである。
エイナは真っ直ぐ前を向いたまま、後からついてくるカー君に意識を集中させ、今に至る経緯を詳しく説明していた(もちろん声は出していない)。
『……とまぁ、話としてはこんなところよ』
『エイナも無茶なことをするなぁ。
それで、僕はどうしたらいいの?』
『単純なことだわ。シルヴィアに事の経緯を伝えてほしいの。
できたらプリシラ大尉へ、タケミカヅチの派遣を要請してもらえないかしら。
援護に来るのは、それからで構わないわ』
『でも、タケちゃんが次に来るのは明日だよ。
ノルドの村まで報せに行くとなると、かなり時間がかかると思うけど……』
『それは覚悟している。
私は一足先にお館に潜入するつもり。
いざという時には防御魔法を使うから、最低限の安全は確保できるはずだわ。
時間的には、いくらか余裕があるはずよ』
『分かった。それで、そのお館ってどこにあるの?』
『生贄の女の子を助けた広場を覚えているわよね。
そこから北に向けて回った所らしいわ。距離までは分からないの。
何でも大き目の洞窟があって、建物自体はその奥に築かれているらしいわ』
『了解。できるだけ早く駆けつけるよ』
『いいえ、あまり焦らないでいいわ。吸血鬼は手強い相手よ。
タケミカヅチが間に合えばいいけど、それまでは絶対に早まらないで。
もし助けが必要な事態になったら、どうにかして連絡をつけるか、騒ぎを起こすつもりよ』
『エイナこそ無理しないでよ。
僕は……忙しくなりそうだね。ちょっと無理をしなくちゃいけないかな?』
『ごめんね。精気の方は回復したの?』
『八割ってところかな?
今回は森を突っ切るつもりだから、そう消耗はしないと思うよ。
……ねぇ、エイナ』
『なに?』
頭の中に、何かを言いかけて躊躇っている意識だけが流れてきた。
『……カー君?』
『ああ、いやごめん。何でもないんだ。
吸血鬼って、魔石を持っているのかな?』
『さぁ、どうかしら?
でも、手に入ったらいいわね』
『そうだね! じゃあ、僕は行くよ』
カー君はエイナたちの馬列から離れ、山の麓に広がる樹林帯の方へ駆けていった。
彼女のすぐ前で馬を進めていたバータルが、その姿に気づいて振り返った。
「主人のもとを離れない感心な犬だと思っていたが、あれはどうかしたのか?」
エイナは曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。
「森が嬉しいのでしょう。
遊ぶのに飽きたら、きっと戻ってきます」
「そうか……俺はてっきり、どこかに注進しに行ったのかと思ったぞ」
「まさか。そもそも獣ですから、言葉を話せないでしょう」
「そんなことはないぞ」
「え?」
「俺は自分の飼い犬が言うことが大体は分かる。
犬の方はもっと賢くてな。俺の言葉をほとんど理解しているぞ。
遊牧民と犬の関係は、それが当たり前だ。
エイナ殿のためにあれが働いているのは、俺にしてみれば不思議でも何でもないし、犬よりもっと賢そうだ」
「……賢さが分かるのですか?」
「目を見ればな」
バータルは再び前を向いて黙った。
樹林帯を進んでいるうちに、道が上りになってきた。
山の一合目に差しかかったのである。
しばらく進むと木がまばらとなり、次第に灌木が増えてくる。
植物が進出できる限界点に達したのだ。
一行は馬を降り、そこからは徒歩となった。
岩だらけの山肌に刻まれた道は細く、とても馬が通れるようなものではない。
二人の男がその場に残り、馬たちの番と世話をすることになった。
お館のお使いが現れるのは、日が落ちて暗くなってからである。
それを見届けてから山を降りると、夜がとっぷりと更けた頃であろう。
彼らは再び合流し、その場で夜を過ごすつもりでいる。
馬は夜目が利くとはいえ、肉食獣の棲む森を抜けるのは危険過ぎるからだ。
森が切れてから、道の終着点である生贄の広場までは、徒歩で三時間弱の登りとなる。
山道は除けることができない巨岩を避ける以外、基本的には直登するルートである。
最初の内こそ勾配は緩いが、高度が上がるに従ってきつい道となってくる。
一行はほとんど口をきかず、黙々と登っていった。
この日は十月十四日、満月の前日であった。
北の大地では秋が深まっており、日の入りも早い。
エイナたちがようやく広場に着いたのは四時頃であったが、もうあたりは薄暗くなっていた。
広場には前日に生贄の少女、アリマを縛りつけた白木の柱が、そのままの状態で立っていた。
周囲の地面には、切断されたロープの切れ端も散らばっている。
フレグ族のバトバヤルは、それを見て顔をしかめた。
「その娘は縛らぬのか?」
彼は不満を露わにした表情で訊ねた。
バータルが落ち着いた声音で応じる。
「我らが見張っているのです。その必要はありますまい。
お使いは生贄を連れ去る際、縄を切っていかれます。その手間を省いた方がよろしいでしょう」
「むう……まぁ、そうだとも言えるな」
バトバヤルが渋々納得したので、バータルは部下に命じて、広場の四隅に松明を立てさせた。
三本の棒を交差させて上部を縛り、簡易的な架台を作って松明を据えるのである。
松明の先には、松脂をたっぷりと塗りつけた布が巻かれており、数時間は燃え続けてくれる。
バータルによると、吸血鬼たちは日の光を嫌うが、炎の明かりは平気なのだそうだ。
松明の臭い煙が流れてくる場所を避け、一同はごつごつした岩肌に腰を下ろしてその時を待った。
秋の日は釣瓶落としと言うが、周囲は急速に暗くなっていった。
「もうお使いが来られてもよい時分ではないか?」
沈黙に耐えかねたように、バトバヤルがつぶやいた。
その声に応えたのは、意外な方向からだった。
「私ならもう来ておるぞ。
生贄は縛っていないのか……そもそもなぜ、貴様たちが残っておる?」
男たちは弾かれたように飛び上がった。
いつの間に現れたのか、彼らの背後に白い少女が立っていたのだ。
松明の赤い光に照らされていても、その肌は青白く見えた。
銀色の真っ直ぐな髪を長く垂らした、ほっそりとした美しい少女で、十五歳くらいにしか見えない。
上質の白絹でできた夜着のようなものを羽織っている。
その下には何も着けておらず、薄い胸の膨らみや、陰毛のない股間まで透けて見えるが、少女は恥ずかしくないらしい。
日が落ちて気温はかなり下がってきているが、まったく気にする様子がなかった。
立ち上がった男たちは、振り返って少女の姿を目にすると、一斉に地面にひれ伏した。
額を岩肌にすりつけたバータルが、一同を代表して質問に答えた。
「昨日犯しました失態を繰り返さぬよう、此度は貴方様がいらっしゃるまで生贄を見張っておりました。
それ故、縛るまでもないと判断いたしました。
我らの浅慮がお気に障りましたのなら、何卒ご容赦ください」
「よい。その娘が代わりか……検分するぞ」
白い少女は、ひとり立ち尽くしているエイナに視線を向けると、まったく躊躇わずに歩み寄った。
足には編み上げのサンダルのようなものを履いているが、わずかに宙に浮いているように見えた。
履物が汚れていない上、足音がまったくしなかったのだ。
少女は顔を突き出すと、形のよい鼻をエイナの唇に近づけ、すんすんと匂いを嗅いだ。
エイナは自分が臭いのではないかと心配になり、顔が赤らんでしまう。
「ふん……まぁ、処女であることは確かだな。
少し年増だし見た目も……いや、ぎりぎり合格か?
急ごしらえであろうから、こんなもので我慢すべきなのかもしれん」
エイナより少し小柄な少女は、上目遣いでそうつぶやいた。
まったくの無表情で、その目には感情がなかった。
「いつものように酒で酔わせているわけでもない。
それほど恐れている様子も見えないということは、望んでここへ来たということなのか?」
少女はエイナにではなく、頭を上げないままの男たちに問いかけた。
バータルは少し震えた声で、どうにかそれに答えた。
「左様でございます。その娘は自ら志願した者でございます」
「ほう……変わり者なのだな。そう言えば、血の匂いも少し違うように感じる。
まぁよい。ほどよく筋肉もついておるし、健康的ではある。うまく飼ってやれば、三年は持つやもしれぬ。
では、この娘は確かに受取った故、お前たちの役目は済んだ。早々に去ぬるがよい」
「ははーっ!」
男たちはめり込むかと思うほど、額を地面に打ちつけた。
そして広場の端まで後ずさると、エイナたちの方を一切振り返らず、足早に道を引き返していった。
よほど少女を恐れているようだった。
男たちの姿が消えたのを確認すると、少女は再びエイナに向き直った。
「さて、それでは行くとするか」
彼女はそうつぶやくと、エイナの目を真っ直ぐに見詰めた。
相変わらず感情がなく、まるで置物でも見るような視線である。
エイナは少しどぎまぎして、少女が何を言い出すのか、あるいはどういう行動を取るのかと待ち構えていた。
しかし、少女は彼女の目を見据えたまま、しばらく動かなかった。
やがて、少女の目に初めて感情らしきものが浮かんできた。
それは不審、あるいは困惑といった表情である。
「お前、なぜ平気なのだ?」
少女は少し頬を膨らませながら訊ねた。
「なぜと言われましても……何もされていませんから、答えに困ります」
エイナは正直に答えた。
見た目は年下だが、恐らくこの少女はエイナの何倍も生きているのだろう。
そのため、言葉遣いは自然と丁寧なものとなった。
「驚いたな……魅了が効かぬ人間は、初めて見た。
お前、名は何と言う?」
「は、はぁ。エイナ……、エイナ・フローリーと申します」
「そうか。これからエイナをお館様のもとに連れていく。
面倒は好かぬよって、暴れてくれるなよ?」
エイナはこくりとうなずいた。
どうやら吸血鬼の少女は、エイナに魅了の魔法をかけようとして、失敗したらしい。
エイナはお使いが現れるのを待つ間に、密かに防御魔法の呪文を唱えており、いつでも発動できるようにしていた。
だが、それは物理的な攻撃に対する防御であって、対魔法防御ではない。
少女は魔法をかけたらしいが、エイナに防御をした自覚は一切なかった。
ひょとすると、彼女が魔導士であることが関係しているのだろうか……。
エイナは頭の中で忙しく可能性を検討していた。
しかし少女の方では、それほど事態を重要視していないようだった。
よほど実力差に自信があるのだろう。エイナを魔法で服従させなくても、特に問題ではないと思っているらしい。
少女は少し腰をかがめると、エイナをひょいと抱き上げた。いわゆる〝お姫様だっこ〟である。
エイナよりも小柄で華奢な見た目であるが、重さをほとんど感じていないような動作であった。話に聞いたとおり、吸血鬼は怪力を有しているのだろう。
「あの……私、自分で歩けますし、逃げるつもりもありません」
エイナはどぎまぎしながら、吸血鬼の少女に訴えた。
それは予想外の言葉だったらしく、少女は下を向いて少し微笑んだ。
どうやら感情がないわけではないらしい。
彼女はエイナが置物ではなく、言葉の通じる人間なのだと認識を改めたようだった。
それは、名前を訊いてきたことからも窺える。
「私だってお前を抱きたいわけではない。いいから大人しくしていろ」
彼女はそれだけ言うと、エイナの背中に回した手を少し上げ、すっと横に振った。
その途端、周囲に立ててあった松明が、四本とも吹っ飛ばされ、山の斜面を転がり落ちていった。
二人を照らす明かりは、雲の隙間から覗く待宵の月だけである。
少女は夜目が効くらしく、エイナを抱いたまま、すたすたと広場の奥へと歩いていった。
そこには巨石が壁のように立ち塞がっており、広場に真っ黒な影を投げかけていた。
少女はその影の中央に立つと、ずぶりと沈んでいった。
固い岩の地面が、いきなり泥沼に変わったような感じである。
エイナは思わず華奢な少女にしがみついた。
だが、彼女の身体も少女と一緒に沈み込んでいき、闇の中に呑まれていったのである。
* *
闇の中は少し生暖かった。一切光はなく、周囲に何があるのかまったく見通せなかった。
だが、不思議なことにエイナと少女の姿だけは、はっきりと見ることができた。
その光源がどこかは、さっぱり分からない。まるで彼女たちが蛍のように、自ら発光しているような感じである。
地面に沈み込んでいったのだから、常識的に考えてここは地下のはずだ。
だが、身体には何の圧迫も感じないし、呼吸もできた。
もっとも、鼻や口を通して肺に入ってくるのは、新鮮な山の空気ではなく、ねっとりとした糊状の闇そのものであった。
それなのに咽ることはなく、息苦しさも感じない。
この不思議な感覚は、強烈な既視感を伴っていた。
エイナは同じ経験をしたことがある。それも遠い昔の話ではない。わずか一年前のことである。
魔導院を卒業する少し前、彼女は魔導院の教育課程で、第一軍の演習に参加していた。
シルヴィアと組になり、魔導士と召喚士の相互協力という課題を与えられたのだ。
その際、演習に潜入していた敵の工作員に気絶させられ、あやうく帝国へ拉致されるところだった。
郊外のとある小屋に監禁されていたエイナとシルヴィアは、移動の直前に闇の通路を利用して小屋を脱出し、蒼城市のアスカ邸まで逃れたのである。
なぜ、そんな通路に入れたのかは、エイナ自身にも分からず、その後の事情聴取でも再現することができなかった。
今、吸血鬼の少女とともに潜り込んだ闇の中は、その時の通路と瓜二つである。
「驚いた……。あの時と同じだわ!」
エイナは少女の細い腕を握りしめながら、思わず声を出していた。
「驚いたのはこっちだ。なぜ、お前は意識を失わぬ?」
少女が不思議そうにエイナを見下ろしている。
彼女は首を傾げながらエイナを降ろしたが、手だけはしっかりとつないでいた。
エイナの足の裏からは地面の感覚が伝わってこない。これも一年前の経験と同じである。
少女は握っていた手をそっと離した。
それはごく自然な行為に思えたが、エイナが普通に立っているのを見た少女は、目を丸くして驚いた。
「意識を保っていて、それで落ちぬ……のか。
エイナとやら、お前まさか……いや、そんなことはない!
我らの同族なら、匂いを嗅ぐまでもなくそれと分かる。
お前は何者だ? 本当に人間なのか?」




