十二 宴
「いえ、決してそのような――」
言いかけたエイナを、族長は片手を出して遮った。
「おやおや、聞こえてしまったかの?
どうも歳を取ると耳が遠くなるせいか、つい声まで大きくなってしまうようじゃ。
今のは独り言じゃから、聞かなかったことにしてくれんかのう」
老人は穏やかな笑顔を浮かべ、ぺこりと頭を下げた。
バヤルがわざと聞こえるような声を出したのは間違いないが、こう言われるとエイナも従わざるを得ない。
王国とアフマド族との同盟を模索するという目的にしては、小娘一人が使いとは〝舐められたものだ〟と言いたいのだろう。
彼女は気を取り直し、傍らに置いた荷物の中から、きれいな布の包みを取り出した。
「見てのとおり、私は正式な使節ではございませから、何かの交渉を行うなど、毛ほども考えておりません。
私たちはお互いのことを、ほとんど知りません。
ですから、まずはお会いして皆さま方のことを知り、私たちのことを知ってほしいのです。
簡単に言えば、個人的に仲良くなりたいということですね」
エイナはにこりと笑いながら、目の前に置いた包みをすっと前に差し出した。
「それは?」
「お近づきの印です。
つまらないものですが、お納めいただけますか?」
バヤルが横に侍る女性に軽くうなずいた。
その女性が族長の世話係を取り仕切っているのだろう。彼女の目くばせを受けた若い娘が、エイナの横に近づいて小さな包みを受け取った。
娘はそれを老人の前に置き、結んでいる飾り紐を解くと、恭しくお辞儀をしてから後ろに下がった。
バヤルは皺だらけの手を伸ばし、包みを開いた。
「ほう……」
彼が手にしたのは、きらびやかなビーズの首飾りであった。
色鮮やかな水晶やガラスに穴をあけ、絹糸で編んだものである。
決して高価な宝玉が使われているわけではないが、一流の職人が編み上げた美しく、かつ華やかな逸品である。
これは出発にあたって、贈り物としてマリウスが持たせたものであった。
マリウスの話によれば、アフマド族は派手な装飾品を好むということだった。
シルヴィアはひと目見て「派手過ぎない?」と眉をひそめたが、庶民であるエイナには、とても素敵に見えた。
案の定、族長がじゃらりと首飾りを広げてみせると、周囲の女たちが思わす身を乗り出し、目を輝かせた。
有力者の近づくには、まずその周りの女性の歓心を得るのが定石である。
贈り物としてエイナが持参したのは、同じデザインで色違いのものが三つで、族長は女たちへの分配で、さぞかし頭を悩ますことであろう。
三つの首飾りを取り出すと、その下からさらに油紙にくるまれた包みが現れた。
その包みを開けると、彼は思わず嘆声を洩らした。
「これは……また見事な!」
それはひと振りの短刀であった。
老人が柄を握って引き抜くと、刀身がぎらりと鈍く光る。
肉の厚い頑丈な造りでいながら、よく研がれた刃先は鋭く、獣の皮を剥ぐのによさそうな感じである。
ただ、族長が驚いたのは、柄や鞘に施された精緻な細工のせいであった。
獅子狩りの情景が彫られた板状の象牙を嵌め込み、その周囲に小さな宝玉で描かれた唐草模様が取り巻いている。
美術品に疎いエイナが見ても、溜め息が出るような素晴らしい装飾であった。
「その柄と鞘の細工はノームという地霊の手によるものだそうです」
彼女の説明に、バヤルは唸り声を洩らしながらうなずいた。
「なるほど、ノームと言えばドワーフの親戚筋と聞く。
王国にはそのような者たちが棲んでいるのか?」
「いえ、どこか遠国から流れてきた者だそうです。
もう何十年も前の話で、そのノームはとうに故国へ帰ったと聞いております」
「ふうむ……。これほどの逸品は、わしも見たことがない。
いやはや、これは驚いた」
エイナの説明は、マリウスの受け売りであった。
このノームというのは、蒼城市で鑑定と宝飾店を営んでいた、ヴァンという二級召喚士が呼び出した幻獣であった。
エイナとシルヴィアが数か月前に訪れた店の初代店主のことなのだが、彼女もそこまでは知らない。
とにかく、これらの贈り物は族長の態度を大いに軟化させた。
エイナの滞在は許され、客人として迎えられることとなったのである。
無事に面会を果たした彼女は、こぢんまりとした居心地のよいゲルに案内された。
族長と面会している間に、急いで設置された客人用のものらしい。
夕方になると、彼女は再び族長のゲルに呼び出され、目もくらむような大宴会が始まった。
大きな天幕の中には、部族の主だった者たちが集まっていた。
中央の囲炉裏の上には、子羊の丸焼きが香ばしい匂いを上げており、見たこともない料理の数々が並んでいた。
肉は乳製品と並ぶ遊牧民の主食であるが、食べられるのは老いた家畜に限られていた。
子羊は彼らにとって宝あり、それを潰して焼くということは、大変な歓待である。
歓待の証は、集まった者たちの服装にも表れていた。
胡坐をかいて座っている男たちも、その間でかいがいしく給仕をしている若い娘たちも、全員がよそ行きと思われる民族衣装を着こんでいたのだ。
それ自体はベージュ色のフェルト生地だが、びっしりと刺繍が施されいる。
彼らの誇らしげな表情から、その衣装を着るということは、この宴会が特別なものだということを示していた。
エイナの贈り物は、それだけの効果をもたらしたのである。
エイナの席は、族長の隣りに用意されていた。
気後れしてしまうほどの美女が二人、ぴたりと彼女の両脇につき、しきりに白い飲み物を勧めてきた。
彼女は山羊か牛の乳だろうと思って口にしたが、まったく違う味わいであった。
かなり酸味があって、飲みやすくするためか甘味も加えられている。
「あ、お酒だ!」
すぐにそれと気づいた。喉から胸にかけて、ぼうっと熱くなったからだ。
エイナに密着している娘(ものすごく胸が大きかった)に訊ねると、馬乳酒というらしい。
それほどきつい酒ではなく、アフマド族は男女の別なく、未成年でも飲んでいるという。
王国でも十八歳になると飲酒は許されるので、エイナも飲めないことはなかったが、正直に言って酒は苦手だった。
失礼にならない程度にしなければ、と心したつもりだったが、隣りの族長に勧められると飲まないわけにはいかない。
おまけに宴席が進むにつれ、次々と主だった男たちがやってきては挨拶を交わし、そのたびに杯を空けなければならなかった。
彼らは溢れるような好奇心を隠そうとせず、王国の暮らしや風俗、王族のことや軍の体制について、次々と質問を浴びせかけてきた。
彼女はそれらに答えることで忙しく、どうにか酔いつぶれるのを免れていたとも言える。
質問攻撃は数時間にも及んだが、どうにか一段落すると、族長のバヤルが愉快そうに話しかけてきた。
「疲れたであろう。
まぁ、客人自体が珍しいのだが、外国からとなると百年に一度あるかないかじゃ。災難だと思って我慢してもらおう。
ところで、エイナ殿の世話をしておる娘たちは、気に入ったかの?」
「ええ、とても」
本音を言えば、彼女は少し辟易していた。あまりに密着してくるのと、身体から漂ってくる香油の匂いで頭がくらくらしたからである。
右に座っているのは大きな目をしている愛嬌のある娘で、オユンと名乗っていた。
左の胸の大きな娘は、ツェツェグだと言っていた。エイナの姓であるフローリーが、花の意味だと教えると、ツェツェグも同じ意味だと言って、とても喜んでいた。
二人とも十八歳のエイナより、少し年下のように見えたが、スタイルのよさは完全に上回っていた。
「我らの仕来りでは、客人には世話をした娘が夜伽を務めることになっておる。
好みの方を選ばれよ。気に入ったのなら、二人一緒でも構わんぞ?」
「は? 私はこれでも女ですが……」
「それは分かっておる。
若い男を所望というのであれば、いくらでもおるのじゃが、子ができてはまずかろう。
アフマド族の女子は情が深いし、客人を悦ばせる技をきちんと教えられておる。
女同士だろうが、十分満足させられるはずじゃ」
族長が馬乳酒を呷りながら、楽しそうに笑う。
すかさず二人の娘がエイナの腕を取って、胸の膨らみを押しつけてきた。
「エイナさま、ぜひ私にお世話をさせてくださいまし。
必ず旅の疲れを癒してさしあげます」
オユンがそう耳元でささやき、ぽってりとした唇でエイナの耳たぶを吸った。
「あら、いけませんわ。
夜のお世話だったら、私に敵う者などおりませんわよ」
ツェツェグが負けじとエイナのうなじに舌を這わせてくる。
エイナは全身に鳥肌を立て、身をよじって二人を引き離した。
「よっ、夜伽はご遠慮させていただきます! 男も女もです!
大体、客人が男であれば、それこそ夜伽をした娘たちが子を孕むこともありましょう。
それは構わないのですか?」
バヤルはきょとんとした表情を見せた。
「客人の子を授かることは、新しい血を入れるということじゃ。
部族にとって、これほどめでたいことはないぞ?」
エイナは目をつぶって溜め息を吐いた。価値観が違う以上、議論をするだけ無駄だと気づいたのだ。
「とにかく、私は一人で眠りとうございます!
それよりバヤル様、私にアフマド族のことをお教え願えませんか?」
「何ともったいないことを……。
わしは男だからよくは知らんが、貝合わせは乙なものだと言うぞ?
それに、オユンもツェツェグも正真正銘の生娘じゃ」
「私だってそうです!
族長殿は、国に帰った私にアフマド娘の手管を報告させる気ですか?」
「つまらんのぉ……」
バヤルは心底残念そうな溜め息をついた。
「まぁ、そなたの役目も分からんでもない。興覚めなことじゃが、少しだけ教えてしんぜよう」
そう言うと、バヤルは表情を改めた。さっきからかなりの馬乳酒を飲んでいたはずだが、まったく酔いを感じさせない声だった。
* *
「アフマドには五つの大部族、即ちイエル、バイドゥ、オグタイ、チャダイ、イルチャクが存在する。
これらは一つの部族の総数が万を超えていて、わしらカスム族のような小部族とは比べ物にならん力を持っておる。
帝国と小競り合いを起こしているのは、たいていがこの五部族のうちのどれかじゃ。
そして大規模な紛争に発展した場合に限り、これらが協力して事に当たる。
そうした重大事には、クリルダムと呼ばれる族長会議が行われ、五大部族の他にも主だった中規模部族も召集されるのじゃ」
バヤルは言葉を切って、じろりとエイナを睨んだ。
「つまり、そなたの王国が対帝国の同盟を結ぼうと望むならば、このクリルダムを開催させる必要がある。
無論、そのためには五大部族の半数以上を味方にするため、事前の根回しが必要になる。
これは、並大抵のことではないぞ?」
エイナは黙ってうなずき、手もとに取り出していた手帳に要点を書き込んでいた。
「じゃから、わしらカスムのように、クリルダムに参加できない小部族に取り入っても、アフマド全体を動かすことは不可能じゃ。
……とは言え、五大部族も中小部族の支持がなければ成り立たんのも事実。
そうした草の根から信頼を勝ち得ていくのも、ひとつの道だと言えよう」
「カスム族はどの派閥に属しているのですか?」
エイナは素直に訊ねた。
「わしらは先祖代々のつながりを重要視する。
部族として独立して以来二百年、わしらカスムの民はイルチャク族と友誼を結んでおる。
小なりと言えど、帝国と揉めた時には戦士を派遣して、武勲を挙げたことも数多い。言うまでもないが、わしもその一人じゃ」
そして、老人は得意気に自らの武勇伝を語り始めた。
自慢はどうでもよかったが、アフマド族の支配関係や、帝国との戦い方はよく理解できる話であった。
族長は贈り物の対価として、意識してこうした話をしてくれているのだ。
小さな部族とはいえ、バヤルはその領袖に相応しい、頭の切れる人物であった。
ひととおりの話を聞き終えると、エイナは気になっていたことを訊ねた。
「広場にきれいに飾られた輿のようなものがありましたが、何かの祭りがあるのですか?」
彼女の質問で、それまで上機嫌だったバヤルの顔から、一瞬で笑顔が消えた。
エイナの両側に侍るオユンとツェツェグはもっと露骨で、明らかに顔が青ざめていた。
「祭り……ではない」
老人は苦虫を噛んだような顔で答えた。
どうやらエイナは、彼らが触れてほしくないことを口にしたらしい。
だが、吐いた言葉はもう元には戻せない。ここは覚悟を決めるしかなかった。
彼女は周囲の反応に気づかないふりをして、無邪気に質問を重ねた。
「そうでしたか……。
こちらに来るのに二つの山を越えて来たのですが、東の山麓ではノルド人がニライカムイという、大きな祭りの準備に大わらわでした。
つい同じような祭りなのかと早合点をしました。失礼があったら、お詫びいたします」
バヤルの厳しい表情が、わずかに緩んだ。
「そうか、山の民の祭り……確か三十年に一度であったな。
エイナ殿はノルドの村にも立ち寄られたのか?」
「いえ、今回は通り過ぎただけです。
ノルド人は王国にも住んでおりますから、特に調べる必要がないのです。
彼らの存在は、帝国が手を出す口実に使われているので、あまり刺激をしたくありません」
「ほう、それは難儀なことじゃのう。
その辺のところを、少し詳しく聞かせてくれんかの?」
話題は帝国の二度にわたる侵略と、それを退けた経緯に移った。
男たちは戦いの話が好きである。たちまちエイナの周囲に男たちが集まってきた。
こうなると、彼女も求めに応じなけらばならない。
エイナが訊ねた輿の話は、族長によって巧みに逸されてしまった。
『……やはり何かあるんだわ』
彼女の心に浮かんだ疑念は、ずしりと重みを増したように思えた。
* *
夜も更けたころ、盛大な宴はやっと終わりを告げた。
エイナは用意された客用の小さなゲルに案内されると、服も脱がずに寝床に転がり込んだ。緊張が解けて、どっと酔いが回ってきたからである。
彼女は分厚いフェルト生地のマットと毛布に潜り込むと、泥のように眠ってしまったのだ。
そして翌朝、目を覚ましたエイナは、自分が軟禁されたことを知るのである。




