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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第三章 黒死山の館
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二 休暇願い

「うん、いいんじゃないか。行ってきなさい」

「はい?」


 プリシラは思いがけない蒼龍帝の言葉に、思わず間の抜けた声を発した。

 あまりの驚きのせいだろうか、頭の中で今朝からの記憶が、走馬灯のようにぐるぐると回り始めた。


      *       *


 扉を軽くノックをすると、プリシラは返事を待たずに蒼龍帝の執務室に入った。

 あるじがいないのは分かっている。

 シドがやってくるのは、あと二十分ほど後のことで、几帳面な彼がその時間を違えることはないからだ。


 プリシラは持参した書類の束を並べる前に、いつものように机の上をていねいに拭き清めた。

 部屋は当番のメイドが毎日掃除しているのだが、どうしても最後に自分が手をかけないといけないような気がする。

 花瓶に活けられた切り花を、腕組みで首を傾げて見分し、少し手直しをする。

「うん、こんなものね」

 彼女は満足そうにうなずいた。


 それから続き部屋の秘書室に入り、制服姿の秘書官と挨拶を交わした。

 秘書官はボニータという三十代後半の女性で、先代のフロイア帝の時代から務めているベテランだった。


 秘書室には湯沸かしと小さな台所が附属していて、シドに来客があった場合には、お茶やコーヒー(時には酒)を出すのも秘書の役目である。

 ただ、シドの代になってからは、プリシラが給仕を務めることが多くなっていた。


 特に、朝のコーヒーを出す役目は、絶対に秘書官に譲ろうとしなかった。

 ボニータは自分の領分を侵されて、怒ってもよさそうなものだったが、先輩としての余裕なのか、この大柄で生真面目な副官の好きなようにさせていた。


 小さな戸棚から豆の入った缶を取り出し、ミルに入れてゆっくりと挽く。

 それをネルの濾し器に移し、沸騰したポットの湯を少量注ぐ。

 たちまちコーヒーのよい香りが漂ってくる。十分に蒸れたところで、お湯を回しながら注ぎ入れ、しばらく待てば完成である。


 シドは酒が飲めなかったが、甘い物も苦手で、砂糖もミルクも要らない。

 ソ-サー(受け皿)とカップ、ポットだけをよく磨かれた銀の盆に並べていると、隣りの執務室から物音が聞こえた。

 今朝も時間ぴったりの入室だった。


 プリシラはお盆を持つと、執務室に続く扉をノックする。

「お入り」という声がすると、片手で扉を開いて中に入る。


「おはようございます」

 彼女は落ち着いた声であいさつをすると、シドの机の横へと歩み寄る。

 ソーサーを机の上に置き、音を立てないようにカップをその上に重ね、ポットに入った淹れたてのコーヒーを注いだ。


「ありがとう」

 シドは小さな声で礼を言うと、カップを取り上げて美味しそうにコーヒーをひと口飲んだ。


 少年のような華奢な体でも、声は低く、仕草は大人びている。

 プリシラは彼を見ているだけで、抱きしめて髪の毛を撫でまわしたい衝動に駆られる。

 妄想に囚われると、下腹の内臓をぎゅっと掴まれたような感じがして、思わず内腿がぷるっと震えてしまう。


 シドはカップを口につけたまま、ちらりとプリシラの顔を見上げた。

「どうかしたのかね?」


 副官が朝のコーヒーを淹れてくれるのは、いつものことである。

 彼女は注ぎ終わると、すぐに自分用の小さな机に戻り、仕事の準備を始めるのが習いとなっていた。

 それなのに、今日の彼女は自分の側から離れず、何かを言いたそうにもじもじとしていたのだ。


「その……実はお仕事を始められる前に、少し相談がありまして。

 大したことではないのです。ちょっとした確認というか……」

「君にしては歯切れが悪いな。話してみたまえ」


「はい。実は母方の祖父から手紙が来まして」

「君の祖父というと、ノルドの?」


「はい」

 プリシラはうなずいた。


      *       *


 リスト王国の北西部、コルドラ大山脈の麓にノルドという地域があり、プリシラはそこの出身だった。

 住民はノルド人と呼ばれる人々で、主にボルゾ川を渡った北方(イゾルデル帝国の領域)に分布する山岳民族である。


 プリシラの一族が大河を越えて王国に住みついたのは、まだ帝国がコルドラ大山脈の東に進出する前のことだった。

 そのため、王国に渡った一族は、自由に故郷の北側と行き来ができた。

 ところが、帝国が山脈に隧道を掘って東側に版図を広げると、そうもいかなくなった。国境がどうのこうのと、うるさいことを言い出したからだ。

 特に最近は、帝国と王国が対立するようになり、雲行きは一層怪しくなった。


 王国のノルド人たちは、帝国領となった本家の一族との交流を取り戻したいと願った。単純に言えば、自分たちも帝国に帰属したいと考えたのだ。

 彼らはそのために陳情を繰り返したが、王国が認めるはずもなく、反乱の一歩手前の騒ぎまで起こすようになった。


 これを帝国が見逃すはずがない。

 大陸東部に進出した帝国は、当然その南側に広がる王国の、肥沃な大地に興味を示していた。

「ノルド人は帝国の臣民であり、その一族が住むノルド地方は、我が領土の一部である」

と主張し始めたのだ。


 実際、この十数年の間に、帝国は二度にわたって出兵し、武力によるノルド地方の併合を試みた。

 それは王国軍の抵抗で失敗に終わったが、同地域が両国の火種であることには代わりなかったのである。


      *       *


「それで、君のお爺様は何と言ってきたのかね?」

「はい、私たちの一族には三十年に一度行われる、ニライ・カムイという祭りがあります。すべての部族の代表が集まるので、民族にとっては最大にして最重要な行事なのです」

「ああ、何かの記録で読んだことがあるな。

 それで、今年がその三十年の節目に当たっているという話か?」


「そのとおりです。

 祖父からの手紙というのは、王国ノルド族の代表として、私が祭りに出るよう命じるものでした」

「君が? だが、君は純血のノルド人ではなかろう」


「ええ。ただ、私はこのとおり見た目の上では完全にノルド人なので、村の者たちは問題ないと考えているようです」


 ノルド人は、かなりはっきりした民族的特徴を持っていた。

 金髪碧眼で色白、男女ともに大柄で骨太の体格、そして鼻が高く彫の深い顔立ちである。

 プリシラの母はノルド人だが父親は王国人で、いわゆるハーフである。

 しかし彼女の外見は典型的なノルド人だった。恐らくは母親の遺伝的影響が、色濃く表れたためであろう。


「妙だね。私はその祭りに詳しいわけではないが、普通、そういう祭りに代表として出るのは、村長むらおさなのではないか?」


 シドはその小さな頭を、少しかしげてみせた。

 薄い栗色の前髪がはらりと額にかかる。くるりと巻いた生まれつきの癖毛である。

 一重で切れ長の目が思慮深く細められるのは、彼が興味を示している証拠であった。


 プリシラはそんなシドの何気ない仕草にも、ぞくぞくするような愛おしさを覚え、必死で唇に浮かぶ笑みを抑えた。

 彼女はわざとらしく咳ばらいをしてから、説明を続けた。


「ニライ・カムイは、全部族が一堂に会する重要な祭りです。

 三十年に一度、それぞれの部族を代表する者が紹介される晴れ舞台ですから、下世話な言い方をすると、一種の自慢大会なのです。

 経験と統率力に優れた村長が自ら出るか、部族で最も勇猛で剛力自慢の男を送り込むのが普通です」


「なるほどなるほど」

 シドは愉快そうにうなずいた。


「君はノルド人として初めての召喚士、それも滅多に出ない国家召喚士だ。

 武術でも男に引けは取らず、しかも美人でスタイルもよい。村にしてみれば自慢の娘だろう。

 おまけにこの十数年、ノルド地方はケルトニアへの泥炭輸出で、経済的にも相当に潤っている。これほどの絶頂期は、かつてなかっただろう。

 この状況を、他部族へ見せびらかしたいと考えるのは、当然だろうな」


 にやにやしているシドの言葉に、プリシラは溜め息をつきながら同意をした。

「まぁ……そういうことです。

 特に村の老人たちは、私の幻獣であるタケミカヅチを、何としても他の部族に見せつけたいと思っているようなのです。

 何しろ、ノルド人は昔から身体の大きい者を無条件で称賛する気質があります。

 身長三メートルを超える偉丈夫を従える私を見たら、他の部族が皆腰を抜かすだろうと、この日を楽しみにしていたようなのです」


「それで、祭りに出席するよう君に厳命する手紙が届いたというわけか」

「はい。ですが、ニライ・カムイが開催されるのは、一族発祥の地と言われる霊峰カムイ山の麓です。

 当然、そこは帝国領ですから、国家召喚士にして蒼龍帝副官である私が、のこのこ出かけられるような場所ではありません。

 私の祖父は、その辺の事情をわきまえているはずですが、各村の長老たちの手前、止むなく書簡を出したのでしょう」


「それで、君はどうするつもりなのかね?」

「祖父の面子もあります。

 祭りに出席するため休暇願いを出したが、帝国との緊張した関係をかんがみれば、とても許可するわけにはいかない。

 蒼龍帝閣下から、そういさめられた……と返答して、どうにか収めるしかないと思っています。

 私の返書だけでは、祖父も各村の長老連中を説得するのに苦労すると思いますので、誠に恐れ入りますが、休暇願いを却下する旨の一筆をいただきたいと存じます。

 それを送ってやれば、祖父の重荷を少しは軽減できるでしょう」


 プリシラはそう言うと、深々と頭を下げた。


「つまり、それが君の相談事なのだな?」

「はい」


「蒼龍帝の名で文書を出すとなると、手続き上、君からの休暇願いの提出が必要だろうな」

 シドがすました顔で申し渡すと、プリシラはすっと執務机の上に書面を差し出した。


「そう言われると思いましたので、用意して参りました」

「さすがはプリシラだ。どれどれ……」


 シドは差し出された休暇願いを手に取ると、その文面に目を通した。


「期間は……十月のまるまる一か月か。ずいぶんと長いな。

 そんなに長期間にわたって副官が不在となると、業務に支障をきたすし、アスカに相当の負担をかけることになるだろう」

「はい。それも却下するに十分な事由だと思います」


「だがまぁ、アスカの娘もだいぶ大きくなったと聞くし、ゴードン(アスカの夫)を補佐につければ、何とかなるだろう」

「はぁ……」


 シドは顔を上げると、特に問題がないといった顔で、あっさりと言い渡した。


「うん、いいんじゃないか。行ってきなさい」

「はい?」


 プリシラは思わず間の抜けた声を発した。


      *       *


 頭の中でぐるぐる回っていた回想から、はっと我に返ったプリシラは、確認せざるを得なかった。


「今、何とおっしゃいました?」

「聞こえなかったか?

 休暇を許可すると言ったのだ。何か不満かね?」


「だだだだ、だって、そんな……! 行き先は帝国領ですよ?」

「プリシラ、我が国と帝国は確かに緊張関係にある。

 だが、別に断交はしていない。違うかね?」


「そっ、それはそうですが!」

「正式な旅券を発行すれば、君は問題なく帝国に入国できるはずだ。

 まぁ、国家召喚士であることは伏せた方がいいだろうね。

 タケミカヅチ君、君は確か隠形おんぎょうの術が使えたはずだね?」

 シドは、プリシラの後ろに控えている古代の武人に向けて訊ねた。


「御意。されど術ではござらぬ。神通力と言うべきであろう」

 古代の遺跡から出てくるような鎧を着こんだ巨人は、地を揺らすような低い声で訂正した。


 隠形とは、自身の存在を不可知化する神通力で、周囲の人間に自動的に作用する、一種の集団催眠のようなものである。

 タケミカヅチは巨体であると同時にかなりの強面こわおもてだったので、普通にプリシラと同行すると、一般市民にパニックを引き起こしがちであった。

 そのため、プリシラは自分の幻獣にこの神通力を行使するよう求めることが多かった。


「タケミカヅチの存在に気づかれなければ、君はノルド人の娘にしか見えないだろう。

 帝国は政治的な理由で、王国のノルド人入国には極めて寛大なはずだ。あまり厳しい入国審査を受けないだろう。

 それにだ……」


 シドはそう言いながら執務机の引き出しを開け、積み重なった書類の中から目当ての一枚を引っ張り出した。


「これを見たまえ。人事課からの苦情だ」

 プリシラは渡された書面に目を落した。


 上申者は人事課課長で、その内容はプリシラの勤務状況が〝王国軍の福利厚生に関する内規〟に著しく反しているという抗議だった。

 軍の内規では、年間を通して勤務を続ける将校は、最低でも週に一日の休みを取ること、年に二週間以上の連続した有給休暇を消化することを求めていた。

(一般兵士は、もともと年の三分の一が休暇期間と定められているので、週休の規定しかない。)


 人事課が上げてきたデータでは、プリシラは二年以上長期休暇を消化しておらず、週休すらまともに取っていないことを示しており、直属上司である蒼龍帝に苦情を申し立てていた。


「君の厚意に甘えていた私としても、大いに反省しているところなのだ。

 ここで君が一か月の休暇を取ってくれたなら、私も人事課長への申し訳が立つ。

 いやはや、実に助かるよ」


 シドの思いがけない言葉に、すっかり混乱していたプリシラは、遅まきながら建て直しを図った。


「ですがシド様、国家召喚士が帝国に渡るなどという重大事を、第四軍内部で決めてしまうのは問題ではないでしょうか?

 少なくとも、事前に参謀本部の了解を取る必要があると思います」


 しかし、シドはあくまで冷静だった。

「部下が休暇を取ることに対して、いちいち参謀本部にお伺いを立てる必要はないだろう。

 だが君の言うとおり、確かに事前に報せておくべきではあるだろうね。うん、さっそく連絡を取ることとしよう。

 まぁ、相手はあのマリウス殿だ。にこにこと笑って『まぁ、いいんじゃないですか?』と言ってくれる気がするね」


 プリシラは参謀副総長の人となりを、改めて思い浮かべた。

 切れ者ではあるがまだ若く、いつもへらへらと笑っている軽い男である。


 どう考えても、シドの言うとおりになりそうで、彼女は軽い眩暈めまいを感じていた。


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