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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第二章 ケルトニアの魔導士
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十五話 幻影

 聞こえてきたサーラの悲鳴で、三人の顔が一瞬で強張った。

 今しがたまで、彼女は船員たちに囲まれて、楽しそうに歌ったり踊ったりしていたはずだった。

 何事が起きたのか――エイナたちが振り返ると、サーラは彼らに組み敷かれ、甲板の上に押し倒されていた。

 離れている上に、船員たちが覆い被さっているので、彼女が具体的に何をされているのかまでは分からない。


 とにかく理由はどうあれ、サーラが船員たちに襲われているのは間違いない。

 シルヴィアが無言のまま長剣の柄に手をかけ、走り出そうとした。

 だが、その行く手を大勢の者たちが遮った。


 サーラの歌と踊りを遠巻きに眺めていた二十人余りの乗客たちである。

 いつの間にか彼らがエイナたちを取り囲み、じりじりとその輪を狭めてきたのだ。

 彼らの手には、思い思いの武器が握られていた。

 そのほとんどが〝道中差どうちゅうざし〟と呼ばれる短刀である。


 王国においては、軍人や貴族階級以外が剣を持つことを、基本的に禁止している。

 ただ、旅をする際に護身用に持つ刃物は例外で、これらを道中差と呼んでいた。

 刀身は四十~六十センチの間で、片刃の短刀である。

 取引のために金を持ち歩く商人は盗賊に襲われることが多いため、この道中差を持ち歩くのが常識であった。


 エイナたちを取り囲む者たちは、道中差を両手で握って前へ突き出し、血走った目でこちらを睨んでいる。


「この化け物め!」

 彼らは口々にそう叫んでいた。

 激しい敵意を見せつつも、エイナたちを恐れているようにも見えた。

 腰の引けた構えから、まともな訓練を受けていないことが丸わかりであった。


「どけっ! 邪魔立てすると怪我をするぞ!」

 シルヴィアがすらりと長剣を抜き放って威嚇したが、彼らは囲みを解こうとしなかった。

 無造作に剣を下げたまま、シルヴィアが前に進み出ると、男たちの何人かが悲鳴のような叫び声を上げて突っ込んできた。


 シルヴィアは突き出された短刀をあっさりと打ち払うと、柄尻で男の顔面を殴りつけた。

 鼻血を吹き出して相手が倒れると、次の男の腹には容赦のない蹴りを叩き込む。

 横から体当たりをするように向かってきた三人目は、ぎりぎりで刃をかわして腕を取り、思いきりじり上げた。相手が苦痛の声を上げてかがみ込むと、すかさず腹に膝蹴りを入れ、嘔吐する男の後頭部をしたたかに殴りつけた。


 彼女はあっという間に向かってきた三人を叩きのめしたが、開いた隙間をすぐに別の者が埋めるので、相変わらず先には進めない。

「畜生! 悪魔め、化け物め!」

 男たちは相変わらずそうののしり、めちゃくちゃに短刀を振り回して威嚇してくる。


「シルヴィア、戻れ!」

 ケネスが厳しい声音で彼女に命じ、シルヴィアは長剣を構えたまま、じりじりと後ずさった。


「ですが、このままではサーラさんが!」

 敵を見据えたまま、シルヴィアが抗議の声を上げる。


「落ち着け! 奴らの目を見てみろ、こいつら誰かに操られているぞ」


 ケネスの言うとおり、取り囲んでいる乗客たちの目は常軌を逸していた。

 血走った目には、凄まじい怒りと恐怖の色が浮かんでいたが、よくよく見ると微妙に焦点が合っていない。

 彼らはエイナたち三人の方を睨んでいるものの、視線が頭の上の方に向けられている感じだった。


 シルヴィアもその違和感に気づき、大人しくエイナとケネスに合流した。

 取り囲んでいる乗客たちは、一定の距離を保ったまま威嚇を続けている。

 積極的に襲ってくるという姿勢ではなく、こちらが近づけば、自衛のために捨て身の攻撃をしてくるといった雰囲気だった。


 エイナは呪文詠唱に入っているらしく、唇から低い声で例の不協和音が漏れ出している。

 ケネスは剣を抜かずに短槍を手にしていた。


「サーラのことならあまり心配するな。確かに悲鳴は聞こえたが、切羽詰まった感じじゃない。

 ここはエイナに任せろ。無理に出ようとすると魔法の巻き添えを食うぞ」

 ケネスの言葉からはどこか余裕が感じられた。

 そう言えば、これだけの敵に囲まれているというのに、防御障壁を張ろうともしていない。


 彼は呪文に集中しているエイナの肩に手を置いた。

「船員も乗客たちも、何かの幻覚を見せられている感じだな。そう強い術じゃない。

 分かっているだろうが、サーラもいるんだ。やり過ぎるなよ」


 エイナは呪文を唱えながら、こくりとうなずいた。

 三重呪文を唱えるのはこれが二度目だったが、最初とは系統が違う魔法だ。

 それなのに口をついて出る詠唱は滑らかでよどみがない。

『多重呪文は高度になるにつれ、得意な魔法にしか使えなくなるの』

 確かケイト先生はそう言っていたはずだった。


 エイナの唇が閉じられた、呪文詠唱が終わったのだ。

 彼女は静かにささやいた。

「いきます。私の側から離れないでください」


 次の瞬間、パチッ! とぜる音がして、青白い閃光が甲板の上を舐めるように走った。

 ぎゃっという短い悲鳴とともに、エイナたち三人を除く船上の者たちは、針に刺されたように飛び上がり、そのまま倒れ伏した。


 周囲には白い煙が上がり、つんとしたきな臭い匂いが漂った。

「これって、どこかで嗅いだことがある……」

 シルヴィアがぽつりとつぶやいた。


「演習でさらわれた時のことを覚えてる?

 私たちが気絶させられた雷撃系の魔法よ。威力は落としているけどね」


 エイナが説明する間に、ケネスが前に進み出た。倒れている乗客の一人の胸倉を掴んで起こし、平手で二、三回頬を叩くと、男はすぐに目を覚ました。


「あれ? ……何で俺、こんなところで寝てたんだ?」

 男は事態が把握できずに、ぼんやりと周囲を見回した。

 辺りには多くの乗客たちが気を失って転がっている。


「うわっ! そっ、そうだ!

 化け物はどうした! あんたがやっつけたのか?」

 男は甲板に手をついて跳ね起きた。すぐ側に彼の道中差が抜身のままに落ちている。


「化け物って――お前は何を見たんだ?」

「頭から角をはやした悪魔だ! 三匹もいて、俺たちは身を守るために……あれ?

 俺は……遊女の踊りを見物してたんだよな?

 何でそんなことになったんだ?」


 やはりこの男は幻影を見せられていたらしい。

 ケネスは首を振って、男から手を離した。


「俺はもう何人か乗客の話を聞いておく。

 お前らはサーラの様子を見てやってくれ」

 そう言われたエイナたちは、サーラの安否を確認していないことを思い出し、慌てて走っていった。


 駆け寄ってみると、船員たちの輪の中でサーラが倒れていた。

 薄い夏物のドレスは無残に引き裂かれて、あらかた風に吹き飛ばされていた。

 扇情的な下着も剥ぎ取られ、サーラはほぼ全裸にされていた。


 シルヴィアが無言で軍服の上着を脱ぎ、彼女を抱き起こして上半身をくるんだ。

 その軍服は、暗殺奴隷に襲われた時に何か所も切り裂かれたものだ。

 裁縫が苦手なシルヴィアたちを叱りつけながら、目立たないように縫ってくれたのはサーラだった。


 エイナはサーラをシルヴィアに任せ、手近の船員の頬をぺちぺちと叩いていた。

 ケネスに比べると遠慮がちな平手打ちだったためか、五、六回も叩いてやっと男が意識を取り戻した。


「俺は……寝てたのか? おかしいな、さっきまで宴会が……うわっ!」

 船員はシルヴィアに介抱されているサーラに気づき、驚いて飛び起きた。


「サーラさんは無事なのか?」

「心配しないで。サーラさんはちょっと気を失っているだけ。

 命に別状はないわ――って言うか、怪我一つ負ってないわよ」


「だが、何であの人は裸にされてんだ? 誰があんな酷いことを……!」

「何を言ってるんですか。あなたたちが寄ってたかってしたことでしょう。

 一体、何があったのですか?」


「俺たちが? ……そんな馬鹿な!

 俺らはただ、サーラさんと歌って踊って、楽しくてしょうがなかったんだ。

 だけど……何かを探さなきゃならなくて――あれ?

 確か、誰かに女の身体を探れって……命令されたんだよな」


「その命令をしたのは誰?」

「……分かんねえ。男の声……だったような気がする。

 それからはぼんやりしてよく覚えていねえんだ。

 とにかく、何か探さなきゃって――やっぱり、俺たちがやったのか……」


「その声は、何を探せって言っていたの?」

「分かんねえ、本当に分からねえんだ! 信じてくれ」


 エイナは溜め息をついて、船員を解放した。

 シルヴィアは、くしゃくしゃになった敷物を拾い上げて、サーラの腰に巻いているところだった。

 敷物の上には酒や料理の皿が並べられていたのだが、それらは割れてあちこちに散乱していた。


 サーラも意識を取り戻していた。

「大丈夫ですか、サーラさん」

 エイナが心配そうな顔で訊ねると、彼女は力なく笑ってみせた。


「割と平気。ちょっとびっくりしただけで、身体は別に何ともないわ。

 それより、一体何が起こったの?

 船員さんたちが急に変になって、あたしの服を脱がしたことは覚えているんだけど……。

 シルヴィアは何を訊いても泣いているし……」


 サーラの言うとおり、シルヴィアはサーラを抱きしめながら泣きじゃくっていた。

「ちょっとシルヴィア、どうしたの? サーラさんに怪我はなさそうだけど」

「だって……サーラさん、こんな酷いことされて!」


 シルヴィアが鼻をすすり上げたので、サーラの方が慌ててしまった。

「いや、別にあたし酷いことされなかったし」

「でも裸に……」


「あ、あたしはこういう商売だから、見られたって別にどうってことないわよ。

 それより部屋に戻りましょう。さすがに着替えないとまずいわ」

 サーラの言うとおりだった。

 エイナは腰に敷物を巻き、軍服の前を手で押さえているサーラを庇うようにして、降り口へと向かった。

 シルヴィアはまだ鼻をぐすぐす言わせながらも、剣を抜いてその先頭に立った。


 船の中では、甲板上で起きた変事にまだ気づいていないようで、ひっそりとしていた。

 三人は人目を気にしながら先を急ぐ。後部中甲板の個室に向かう通路は、ほとんど人が通らないのがありがたい。

 個室エリアの前には、いつものように見張りの船員が椅子に座っていた。

 だが、その様子が少しおかしかった。船員がぐったりと手を伸ばし、後ろにのけぞっている。


 顔を覗き込んでみると、眠っているようだった。

 エイナが軽く肩を揺すぶってみたが、まったく起きない。居眠りとは明らかに違う。

 エイナとシルヴィアは少し顔を強張らせ、足音をあまり立てないよう気をつけて進んだ。

 恐る恐る部屋のドアノブに手をかけ、静かに引いてみる。


 剣を構えたシルヴィアが、隙間からそっと中を窺った。

 どうやら待ち伏せはないと確認した彼女は、大きく扉を開いた。


「やられた……!」


 そこはケネスとサーラが使っていた部屋だったが、一目で荒らされていることが分かった。

 据付の戸棚の引き出しや、衣装棚はすべて開けられた形跡がある。

 とは言え、彼女たちは昨夜のうちに下船の準備を済ませていたから、それらはほぼ空っぽである。

 問題はまとめた荷物であった。


 部屋の隅に置いていた旅行用の大きな鞄は蓋が開けられ、中の物が乱暴に放り出されていた。

 ケネスの荷物は、ただ中身を床にぶちまけた感じだったが、サーラの方は念入りに調べられていた。

 衣服や下着類は一枚ずつベッドの上に投げ捨てられ、化粧道具や小物類が入ったポーチはテーブルの上の乗せられ、中の物がすべて出されていた。


 その中には、宝飾品や多少の現金もあったが、そのまま残されているところを見ると、普通の物盗りとは違うようだ。

「あたし、隣を見てくる!」


 エイナはそう言って部屋を出た。

 少しして戻ってくると、彼女は隣室も同様に荒らされていること、エイナとシルヴィアの荷物も探られた痕跡があると報告した。

「でも、サーラさんのほど細かく調べられてはいないわ。

 賊は何が目的なのかしら……。

 ねえ、サーラさん、何か盗られた物はないの?」


 サーラはベッドの上に散らばっている着替えの中から下着を選び出し、身に着けているところだった。

「う~ん、詳しく見てみないと分からないけど、特に無くなっている物はなさそうな感じだわ」

「分かりました。

 サーラさんは服を着たら、荷物の確認をしてください。

 私は大尉殿に報告してきます。シルヴィアはサーラさんの護衛をお願いね」


 エイナはそう言って、慌しく部屋を出ていった。

 彼女は早足で通路に出ると、まだ椅子の上で寝ている船員を激しく揺すぶった。

 男は呻き声を上げながら、やっと目を覚ました。


「あ、あれ? 俺は何を……?」

 船員の反応は、甲板上で気絶していた者たちと同じだった。

 この男も、同じ犯人の術中に落ちていたのだろう。


 エイナは二、三の質問をしたが、船員の答えは要領を得ないものだった。

 彼女もそれを予想していたのか、尋問に時間をかけずに船上へと急いだ。

 上甲板に上がってみると、倒れていた乗客や船員たちは、全員目覚めて正気に戻っているようだった。


 彼らはケネスの周囲を遠巻きにして囲み、その説明に耳を傾けていた。

 ケネスの直接の話し相手は、船頭だった。


      *       *


 大型外洋船は別だが、川を往来する船の責任者は船頭である。

 船頭の指示を受ける舵取りがそれに次ぐ地位で、彼らはほぼ一日中船上にあって操船に当たっていた。

 船頭は船のさき、舵取りは最後尾がその定位置である。

 彼らは川の流れ、すれ違う他船の動き、風の強さと向きなどを総合的に判断し、安全かつ効率的に運航を取り仕切っている。


 サーラの送別会に参加していた船員と、それを見物していた二十人余りの乗客が、何者かによって操られて起こした騒動を、船頭と舵取りは把握していなかった。

 彼らは船の前後の端に陣取って、常に川の流れと周囲の状況に神経を集中させている。

 甲板上の馬鹿騒ぎについては許可を出していたが、それに注意を払うことはなかったのだ。


 だが、エイナが放った雷撃魔法は威力こそ弱かったものの、術者周辺を除く船上全ての者に平等にその効果を及ぼした。

 当然の結果として、船頭も舵取りも気絶させられた。

 それでも、船の運航に対する責任感の故だろうが、この両名はいち早く自力で意識を取り戻していた。


 二人の幹部船員は、自分たちの船に何が起こったのかを確かめた。

 彼らが目にしたのは、部下の船員ばかりか、大切な顧客である乗客たちを含め、数十人が甲板上で死んだ魚のように転がっている状況だった。


 歳を取っているとはいえ、荒くれ男たちを束ねる船頭は激怒した。

 自分が支配する家とも言える船の秩序を奪った者が現れたのだ。

 彼はその犯人を、甲板上で唯一自由に動き回っていたケネスではないかと疑っているようだった。


 それは周囲で見守っている、乗客や船員たちも同じである。彼らは直接の被害者だから、その原因を知りたいと思うのは当然である。

 船頭はケネスに詰め寄り、説明を迫っていたところであった。


 甲板上には、不穏な空気が立ちこめていた。

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