十四 宴
「送別会? ……何だそりゃ」
ケネスが呆れたような声を出した。
夏の朝はひんやりとしていて気持ちがいい。
川面をわたる風が陸地から青臭い若草の香りを運び、鼻腔から肺へと流れ込んでくる。
まんじりともせず夜を過ごしたエイナたちは、朝の訪れとともに人気のない船の上甲板に上がり、贅沢なひと時を独占していた。
軍服姿のケネスは、デッキチェアの上で寝そべりながら本を読んでいた。
彼の周囲には、エイナとシルヴィア、そしてカー君が仁王立ちとなり、敵を警戒し続けていた。
ケネスの質問に対し、サーラは仰向けになったケネスの上から、覆いかぶさるようにして顔を近づけた。
たっぷりとした乳房が、大胆な胸ぐりで半分以上丸見えになっていた。それが薄絹を隔てて彼の腕を圧迫し、柔らかく潰れている。
「昨日、あたしたちはマルコで降りるって船に伝えたじゃない。
それを聞きつけた船員さんたちが、お別れ会を開いてくれるんですって。
ねえ、出てもいいでしょう?
せっかく仲良くなったんですもの。みんなとってもいい人たちなのよ」
「そいつら、仕事はいいのか?」
「非番の人たちだけでやってくれるみたい。だから、集まってもせいぜい七、八人だって言ってたわ」
「どこでやるんだ? 俺たちの側から離れると危険だぞ」
「うん、ちゃんと甲板でやるって言ってたから大丈夫よ」
「まぁ、目の届くところならいいか……。
それで、その送別会って何をするんだ?」
「知らないわ。それは〝お楽しみ〟なんですって。
さすがにお酒は飲まないみたいだけど、あたしの分だけはちゃんと用意してくれているみたい」
「ふん……まぁ、いいだろう。あまり羽目を外すなよ」
「ケニーならそう言ってくれると思っていたわ。ありがとう!」
彼女はそう言って、ケネスの唇にむしゃぶりついた。
舌を差し入れて絡み合わせるねっとりとした音がする。
エイナたちは、見ない振りをしながら、顔を歪ませずにはいられなかった。
サーラはデッキチェアの傍らから立ち上がると、くるりと後ろを向いて大きく手を振った。
「お許しが出たわよ~!」
不安そうな表情で様子を窺っていた数人の船員たちが、一斉に破顔して歓声を上げた。
ひゅうっ! と指笛を鳴らす者もいる。
「さすが旦那は太っ腹だ! 話が分かるぜ!」
船員たちは飛び跳ねながら、こちらに向けて手を振っている。
ケネスは苦笑いを浮かべ、手を軽く上げて応えながら、サーラの手に何かを握らせた。
「これは?」
彼女が手を開くと、そこには数枚の銀貨がのっていた。
「あいつら、お前のために無理をしたに決まっている。
世話になった礼だとか何とか、上手いこと理由をつけて渡してやれ」
サーラは大きな目に涙を浮かべ、再びかがみ込んでケネスを抱きしめた。
「大好きよ!」
「……いいんですか?」
船員たちの方へぱたぱたと駆けていくサーラの姿を見送りながら、シルヴィアが仏頂面で訊ねた。
「まぁ、サーラは本来の標的じゃないし、船員たちが周りを取り囲んでいる分には大丈夫だろう。
船乗りの腕っぷしは相当のはずだ。任せておいた方が、こっちとしては動きやすい」
「それもそうですね」
シルヴィアは溜め息をついた。
しばらくすると、下から何人かの船員が上がってきた。
彼らは料理の皿や酒器を運んできた。ほかにもリュート(ギターのような弦楽器)や小さな太鼓、笛を持っている者もいる。
集まった船員たちは十人近かった。
サーラの前には敷物の上に湯気の立つ料理が並べられ、輪になって取り囲んだ船員たちが見守る中、手にした盃に酒が注がれた。
あぐらをかいて座っている船員の中から、一人が立ち上がった。
赤い顔をして緊張しまくっているが、いかにも嬉しそうだった。
彼は手にした小さなメモを見ながら、サーラに向かって別れの挨拶を述べてくれた。
有名な遊女であるサーラが、自分たち卑しい身分の船員に分け隔てなく接してくれたことへの感謝。
この船旅が自分たちにとって、いかに楽しかったかという悦び。
そして、これからも頑張って働き、いつかはサーラのいる黒船屋に会いに行ってみせるという決意。
船員はまっすぐな気持ちを、たどたどしくはあるが心の籠った言葉で述べてくれた。
そして最後に、隣りにいた男から渡された小さな箱をそっと差し出した。
「サーラさん、こいつは俺たちの気持ちみたいなもんっす。
本当は黒城市に着いた時に、お別れの記念に渡そうってことで、途中の川港で買い込んだものです。
全員で金を出し合ったけど、俺たちは貧乏だから……これが精一杯なんでさ。
あんたにとっちゃゴミみたいなもんだろうが、どうか貰ってやってくんなせえ!」
無骨な手に握られた箱は、きれいな紙で包装されリボンまでかかっていた。
彼の素朴な挨拶で、すでに涙を目に溜めていたサーラは、贈り物を受け取ると胸に抱きしめたまま泣き出してしまった。
「開けて……いいかしら?」
鼻をぐすぐすさせながら彼女が問うと、取り囲んでいた船員たちは一斉にうなずいた。
サーラが包みを解いて箱を開けると、中には可愛らしい貝殻細工の髪飾りが入っていた。
途中の川港で購入したというから、当然そう高価なものではないが、船員たちからすれば思い切った買い物だったろう。
「可愛い……。ありがとう、大事にするわ!」
涙の粒を落としながら、サーラが嬉しそうな笑顔を見せると、心配そうに見守っていた船員たちの輪からわっと歓声を上がった。
「それじゃあサーラさん、たっぷり呑んで食ってくれ。
そいつはうちの料理人が、特別に作った料理だ。
あんたたちが船のネズミを一掃してくれた礼がしたいって、夜通しかけて仕込んでたやつだから、きっと美味いと思うぜ」
挨拶と贈り物を渡すという大役を果たした船員は、嬉しそうに酒食を勧めると、仲間にちらりと目くばせをした。
すると、リュート、小太鼓、横笛を手にした船員たちが、慣れた仕草で曲を奏で始めた。
同時に一人の船員が立ち上がり、演奏に合わせて歌い出した。
朗々とした声は、船上をわたる風に負けずに響き渡る。
それは〝舟唄〟と呼ばれるものだった。
櫂を漕ぐタイミングを合わせるのと、単調な労働からくる眠気を払うために自然に生まれた労働歌である。
男は仲間内の喉自慢なのだろう。潰れてしわがれた声だが、独特の哀調と色気を持った歌声は、思わず聴き惚れてしまうような魅力があった。
港街のカシルには、こうした労働歌が数多く伝わっていた。
はじめに披露された漕ぎ手たちの歌のほか、重い荷物を揚げ降ろしする沖仲士の歌、砂を浚う浚渫船の歌、果ては最下層の遊女たちの悲哀を歌ったものまで、男は次々に歌い続けていく。
時々、かなり卑猥で滑稽な歌詞の戯れ歌も挿入され、場は大いに盛り上がった。
サーラは酒と料理(お世辞抜きに美味しかった)を楽しみながら、感心して聴いていたが、やがてうずうずとして落ち着きをなくしていった。
遊女といってもピンキリである。船員たちが遊べるような女は、一時間程度の時間制限がある。
当然だが性交が主目的であり、客と遊女はその合間に短い会話を交わす程度で、非常に慌ただしく情緒に欠けるものだ。
だが、サーラのような高級遊女ともなると相手は裕福な客であり、遊ぶ時間も最低で六時間、宿泊したり数日〝居続け〟をすることも珍しくはない。
性交は遊びのうちのほんの一部に過ぎない。それを除く多くの時間で、客をどれだけ楽しませるかが、高級遊女の腕の見せ所となる。
歌舞音曲に優れていることは言うまでもなく、彼女たちは当意即妙な会話ができるよう、芸術から政治・経済に至るまで、話題に精通しているのが当然とされていた。
女衒から老舗の遊女屋に売り渡された女たちは、毎日厳しい稽古と勉強に明け暮れ、客の前に出されるまで一年近くかかるのが普通であった。
そんな高級遊女の中でも、サーラは歌と踊りの名手として知られていた。
舟唄を披露している船員はなかなかの腕前だったが、所詮は素人である。サーラの目からすれば、まだまだ技術が甘い。
彼女は歌と伴奏を聴いているうちに、遊女としての本能とプライドが湧き上がり、もう我慢ができなくなっていた。
曲が途切れたところでサーラは立ち上がり、それまで歌っていた男を押しのけた。
男の歌にやんやの喝采を送って楽しんでいた船員たちは、何が始まるのか分からずに、ぽかんとしてサーラを見詰めている。
彼女は優雅な仕草で船員たちに向けて一礼すると、すっと背筋を伸ばして息を吸い込んだ。
そして伴奏をしている男たちに目くばせをすると、静かに歌い出す。
それは南カシルではよく知られている流行歌であった。
最初の一節はアカペラで、第二節からは心得たように伴奏が追いかけてくる。
恋人(船乗り)の帰りを待ち続ける若い娘の心情を描いた恋の歌を、彼女の高く澄んだ声が、錦のように色鮮やかに織りなしていく。
決して大声を張り上げてはいないのに、美しい歌声は広い甲板の隅々まで響き渡った。
一番の歌詞が終わって間奏に入ると、サーラはゆったりと踊りだす。
やや浅黒いが美しく伸びた手足が、薄く透けた夏服を割って滑らかに動く。
大胆にさらされた素肌は見る者の目を釘付けにしたが、それは美しい動きの故であり、微塵のいやらしさもない。
二番の歌が始まってもサーラは優雅に踊り続け、歌声はますます甘く切なくなっていった。
歌は三番まで続き、その間、彼女を取り囲んだ船員たちは、口をぽかんと開けたまま一言も発することができなかった。
やがて悲劇的な結末を歌い終えると、サーラは歌の女主人公その人であるかのように、がくりと膝をついてうなだれた。
見守っていた男たちは、全員が滂沱の涙を流していた。
サーラはゆっくりと立ち上がり、最初と同じように丁寧な礼をして顔を上げた。
満足したような顔には、無邪気な笑顔が浮かんでいる。
船員たちは我に返って一斉に立ち上がり、夢中で拍手をし、甲板を踏みならしながら指笛を吹いた。
噂には聞いたことがあるが、名高い遊女の歌と踊りを生まれて初めて、しかもすぐ目の前で聴き、観たのである。
それがこれほどまでに心を打つものだとは、船員たちは夢にも思わなかった。
上々の反応に気をよくしたサーラは、伴奏者たちの方を振り返った。
「次は『牧場の仔馬』よ。やれる?」
男たちは親指を上げて笑顔を見せた。
今度は陽気で明るい舞踏曲であり、これもよく知られたものだった。
彼女は船員たちの輪の中で、まるで春を迎えた仔馬のように歌いながら飛び跳ねる。
そして船員の一人をの手を取って引っ張り出すと、一緒になってくるくると踊り始めた。
まるで少女のように笑いながら歌い、スカートの裾を膝上までたくし上げてステップを踏む。
相方に選ばれた男も、どうにかこのじゃじゃ馬に遅れずに滑稽な仕草で踊り、仲間たちの笑いを誘った。
サーラは一節ごとに相手を変え、額に汗を光らせて踊り回った。
男たちは笑い、大声で仲間に野次や声援を送って、船上は大騒ぎとなった。
彼女の歌声は船の中まで聞こえていたのか、やがて一般乗客たちも甲板に上がってきた。
サーラが高名な遊女であることは、すでに乗客たちにも知られていた。
ただ、彼らは特別個室のエリアには立ち入れなかったし、船上でも一緒にいるケネスに遠慮して、声をかけることはなかった。
歌声に誘われた乗客たちは、屈強な船員たちに囲まれている彼女には近づけず、遠巻きにして眺めるだけだったが、その人数は次第に増えていった。
サーラは飽くことなく歌い続け、踊り続けた。時々、最初に舟歌を歌っていた男との二重唱も披露してみせた。
彼女は実によく歌を知っており、かなり卑猥な戯れ唄まで披露して、観客たちを涙を流すほど笑わせたりもした。
聴衆を飽きさせないように軽快な曲も織り混ぜてはいたが、主体は優しいバラードの恋の歌である。
「これが最高級の遊女の歌か。何て凄えんだ!」
悲恋歌でサーラが見せた鬼気迫る演技に感激した男が、やるせない思いをどうにかしようと自分の頭を拳で殴った。
「馬鹿野郎、考えてもみろ! これだけの歌と踊りを見せてもらったら、銀貨十枚は吹っ飛ぶぞ?
俺たちはこの先何年も自慢ができるってもんだ」
「違えねえ。クソッ、これで酒が呑めたなら俺は片腕だってくれてやるぜ!」
「そうはいかねえだろう。おめえ、そろそろ時間だぞ?」
「ああ、分かってるよ、畜生っ!」
すでに〝送別会〟が始まって二時間近くが経っていたが、サーラの周りを囲んでいる船員たちは、三十分もしないうちに立ち上がり、船の中に消えていった。
しばらくすると、入れ替わるように別の船員が上がってきて、宴会の輪に加わるのだ。
彼らは日中でもそれぞれに仕事があり、本当に休めるのは数人しかいない。
こうして短時間で仕事を替わることによって、全員がサーラとの別れを惜しむことができるようにしていたのだ。
だから彼女に酒を勧めながら、船員たちが決して呑まなかったのは、仕方のないことであった。
* *
盛り上がっているサーラの送別会を、ケネスは微笑を浮かべて眺めていた。
彼は傍らの小さなテーブルに置かれた果実酒を口に含むと、すぐ側で立哨を務めている二人の娘に声をかけた。
「サーラのやつ、ずいぶんと楽しそうじゃねえか」
「そうですね」
エイナとシルヴィアは冷ややかに応える。
「何だ、お前らは呼ばれなくて悔しいのか?」
「断じて! そんなことはありません!」
シルヴィアが鼻息も荒く断言した。
考えてみれば、エイナもシルヴィアも軍人とはいえ若い娘である。ボルゾ川を往来する船では珍しい客と言っていいだろう。
サーラが船員たちにちやほやされ、まるで女神のように扱われているのが、内心面白いはずがない。
ただ、それは仕方のないことである。
二人は軍人で、その役目はあくまでケネスの警護なのだ。
遊び女であるサーラとは立場が違う。船員たちに愛想を振り撒く暇などないのだ。
だが、そうした態度は船員たちにも敏感に伝わる。
彼らだって、偉ぶらずに打ち解けてくれるサーラと、頑なな態度を崩さないエイナたちを比べれば、どちらを支持するかは自明である。
こうした点でも、まだまだ二人は世間を知らないと言えるだろう。
「素直に羨ましいと言えばいいだろう。可愛げのない奴らだな」
ケネスの評価は容赦がなかった。
「ええ、ええ、そうでしょうとも!
どうせ私は歌も踊りもできませんから!」
憤然と言い放つシルヴィアに対して、エイナはおずおずと口を挟んだ。
「あ、でも私、『牧場の仔馬』だったら歌えますし、踊りも覚えています」
突然の裏切りにシルヴィアは驚いた。
「えっ、嘘っ!
あんた、歌――ってか、踊れるの?」
「えとえと、小学校に通ってた時に教わったんです……けど」
ケネスは口に含んでいた果実酒にむせて、笑いながら咳をした。
「まぁそう言わずに、楽しそうなんだからお前らも行けばいいだろう?」
シルヴィアは顔を真っ赤にしてかぶりを振る。
「そっ、そういうわけにはいきません! 任務中ですから。
そうおっしゃるのなら、大尉殿こそ行けばよろしいじゃないですか」
「俺が行ったら船員たちに気の毒だろう。サーラだって気を遣う。
まぁ何にせよ、あいつが楽しそうなのはいいことだ。
ああして歌ったり踊ったりして騒ぐのが、本来の姿なんだろうよ」
ケネスの細められた目は、まるで娘を見るように暖かかった。
彼は賑やかな宴から目を逸らすと、曇った空を見上げた。
この日は朝からどんよりとした雲が立ち込め、とっくに昇ったはずの太陽も、どこにあるのか見当もつかなかった。
ケネスが黙ったことで、エイナとシルヴィアは少しほっとしながら注意を周囲に戻した。
聞こえてくるサーラの歌声と船員たちの歓声には、できるだけ気を取られないように努めねばならなかった。
だが、その努力を嘲笑うかのように、突然甲高いサーラの悲鳴が聞こえてきたのである。




