十三 下船
「それにしても二対一とはいえ、よく暗殺奴隷と対等に渡り合えたもんだな。
お前らのことを少し見くびっていたのかもしれん」
ケネスはそう言って、エイナの頭を大きな手で押さえつけ、ぐりぐりと撫でまわした。
子ども扱いをされた彼女は少しむっとしたが、褒められたこと自体は嬉しい。
「大尉殿が適切な助言をお与えくださったからです。
今度は呪文を唱えながら、ちゃんと周囲も見えていました。
それに三重呪文の詠唱にも成功しましたし、自分でもよくできたなと……」
「お前、いま何て言った?」
「ですから、周囲も見えていたと」
「そうじゃない、その後だ!」
「はぁ。三重呪文が唱えられたと」
「それは何かの冗談か?」
「いえ、事実です」
「嘘だろう? 俺は騙されないぞ」
「信じてください、本当です!」
「…………嘘だぁ」
「大尉殿?」
「本当だって言うのなら……ちょっとやってみろ」
エイナは戸惑った表情を隠せないまま、氷結呪文の一節を唱えた。
さっきは夢中だったが、今は落ち着いて余裕もある。
自分でも驚くくらいに、すらすらと呪文が口をついて出てきた。
「うわっ!」
シルヴィアが顔をしかめて手で耳を覆った。
カー君も〝みぎゃっ!〟と鳴いて、大きな耳をぺたんと閉じる。
エイナの口から発せられた呪文は、調子外れの歌――耳障りな不協和音そのものだった。
シルヴィアは先ほどの戦いで、すでに一度聞いているはずだったが、その時は戦いの最中で、その不快な響きを気にする余裕がなかったのだ。
「酷い歌ね。エイナってこんなに音痴だった?」
シルヴィアが目に涙を浮かべて感想を述べると、カー君も同意するように『うんうん』とうなずいている。
「しっ、失礼ね! あたし歌はもっと上手いわよ。
言葉を三つも重ねると、こういう音になっちゃうのよ」
「だったら変な節をつける必要がないじゃない。歌にするから余計に気持ち悪くなるわ」
シルヴィアの言うことはもっともだ。
「う~ん……そう言われても、音階やリズムをつけないと、上手く発声できないのよ。
そんなに酷かった? あたしには何だか懐かしい感じがするんだけど……」
「懐かしい?」
「うん、ずっと小さかったころ、聴いたことがあるような気がするの。
子守り唄だったのかなぁ?」
「はぁ? あんたのお母さん、そんな変な唄を歌ってたの?」
「お母さん……じゃなくて、お父さんだった気がする。多分だけど」
エイナは自分の記憶を掘り起こそうとしたが、記憶に靄がかかっているようで、ぼんやりとしたイメージしか浮かんでこない。
考え込む彼女の頭を、ケネスが丸めた新聞で再度ぱこんと叩いた。
「驚いたな……本当にできてやがる。エイナ、お前は化け物か?」
「もうっ、そうぽんぽん叩かないでください! 私はれっきとした人間です」
ケネスが驚くのも無理はない。
軍に所属する魔道士官にとって、圧縮呪文と二重詠唱は必須の技術である。これができないと詠唱に時間がかかり過ぎて、実戦で使いものにならないのだ。
だが、その先の三重詠唱となるとわけが違う。
これはまだ確立された技術ではなく、その習得に至る者は、百人の魔導士官がいたとしても一人か二人に過ぎない。
ケネスも三重詠唱を自分のものとしたのは、魔導士になって十年以上の経験を積んでからだった。その十年の大半は、地獄のような西部戦線の日々である。血と臓物、悲鳴と絶望にまみれた泥沼の日々だ。
養成学校を出たてで何の経験もないひよっ子が、いきなり使いこなせるようなレベルの技術ではない。
「ふざけるな。子守唄で多重詠唱を聴かせる馬鹿がいるわけねえだろう。
お前の親父は魔導士だったのか?」
「いえ、ただの農民です」
「だったら気のせいだ、馬鹿野郎。
とにかく、お前たちはよくやった。それでいいだろう?」
「はい」
エイナとシルヴィアがうなずく。
「それより今後のことだ。
相手の正体は分からんが、呪術師だと仮定しよう。そいつがこの船の乗客に紛れ込んでいることは間違いないだろう。
今後は一般客室にも、十分な注意を払え」
「分かりました。
ただ、船外の監視を止めてしまうのは危険です。
私たちは交替で外の監視を続け、その間にもう一人が船内を見張る体制にしたいと思います」
「それでいい」
ケネスは了承した。二人の負担は大きくなるが、彼は自分が手助けしようとは決して言わなかった。その理由は明らかなのだが、エイナたちは気づいていなかった。
「ただそうなると、これまでのように大尉殿とサーラさんのお世話ができなくなります」
「当然だな」
「別にあんたたちに世話をしてもらう必要はないわ」
ゆったりとした部屋着姿になったサーラが話に加わってきた。
「ケニーをお世話するのはあたしの仕事だもの。それは任せてちょうだい」
ネズミだけではない。暗殺者の襲撃まであったと知っても、サーラに怯えた様子は見られなかった。彼女は軍人ではなく一般人である。
「サーラさんは怖くないのですか?」
エイナが不思議そうに訊ねると、サーラは苦笑いを浮かべた。
「それがあんまり怖くないのよ。
この商売をしていると、度胸がつくのかしらね」
エイナは直感的に『嘘だ』と感じた。
叔母夫妻と暮らしていた頃の彼女自身もそうだったから、何となく分かる。この人は自分の命に執着していないのだ。
「フォレスター大尉」
エイナはケネスと正面から向き合った。
「状況は大きく変わりました。
サーラさんは次の川港で降ろし、南カシルに帰した方が安全だと思います」
「その方が警護をするお前たちもやりやすいということか?」
「はい」
真剣な顔つきのエイナに対し、ケネスは溜め息をついてみせた。
「エイナ、お前はサーラが嫌いか?」
「いいえ、むしろ好きです」
「あら、光栄だわ」
「サーラは黙ってろ」
茶々を入れるサーラをケネスが叱りつける。
「少しは想像力を働かせろ。サーラを一人で船から降ろしたら、どうなると思う?
俺が呪術師だったら、間違いなく攫う。人質にして取引材料に使えるからな。
それが通じなかった場合でもリスクは少ない。見せしめに目の前で殺してやればいいだけの話だ。
お前はどうだ? 人質に取られたサーラを見殺しにできるか?」
「それは……」
エイナは口ごもった。
サーラが好きだと言った言葉に嘘はない。
最初こそ、男に身体を売る汚らわしい商売女だと、見下す気持ちがあったのは事実である。潔癖な十八歳の娘なら、そう思う方が普通だろう。
だが、一緒に船旅をして、サーラがケネスに奉仕する姿を見ている内に、少し印象が変わってきた。
彼女は決して笑顔を忘れず、相手を悦ばせようと誠心誠意尽くしていた。
そのための細やかな気遣い、見えない所での努力は、感心せずにはいられなかった。
ケネスがいなくなると、彼女は決まって部屋の中を片付け、塵一つない状態に保っていた。彼の服に綻びやボタンの緩みを見つければ、いつの間にか繕われていた。
料理を出すのも、お酒を注ぐのもサーラの仕事で、決してエイナたちには任せなかった。
もし、ケネスの言うとおりにサーラが人質にされたら、その命を簡単に見捨てることなどできそうもなかった。
多分、それはシルヴィアも同じだろう。
「……分かりました。
サーラさんを守ることも、私たちの任務だと心得ます」
「分かればいい。
敵は暗殺奴隷という手駒を失ったばかりだ。これは計算外のことで、それなりの痛手を与えたに違いない。
恐らく次は十分に時間をかけ、策を練って仕掛けてくるだろう。油断は禁物だぞ」
「はい!」
エイナとシルヴィアは声を合わせた。
だんだんケネスが教官のように思えてくるのが不思議だった。
* *
ケネスの予想どおり、その後しばらくは平穏な日々が続き、最初の襲撃から五日が経っていた。南カシルを出てからは、二週間が過ぎようとしていた。
単調だった船外の眺めに、目に見える変化が起きてきた。
左岸に続いていたタブ大森林の巨木が、次第にまばらになってきたのだ。
船は行程の三分の二を消化し、王国の辺境地域にさしかかっていた。
その日の停泊地は小さな川港で、質素な夕食を摂ったあと、ケネスが食堂のテーブルに地図を広げた。
「明日の寄港地はマルコ。近年急激に発展している港だと聞いている。
俺たちはここで下船する」
突然の宣言に、三人の女は驚いて顔を見合わせた。てっきり終点の黒城市まで船に乗り続けると思い込んでいたからだ。
「どういうことでしょう?」
女たちを代表してシルヴィアが訊ねた。
「マルコ港から蒼龍市までは整備された街道がある。
蒼龍市は王国第四軍の本拠地だ。蒼龍帝に事情を説明すれば、警備の兵をつけてくれるだろう。違うか?」
「あ!」
言われてみれば当然の話だった。
エイナとシルヴィアは、ケネスの警護を命じられてからというもの、自分たちだけでその任務を完遂しなければならないという、強迫観念のようなものを抱いていた。
しかし、大尉は国の賓客である。正体不明の敵に襲撃を受けている現状を鑑みれば、援軍を要請するのが自然であろう。
襲撃者と同乗したまま逃げ場のない船で旅を続ける方がどうかしている。
蒼城市は東の守りの要である。
その玄関口にあたるマルコ港で下船し、陸路に切り替えることは、軍人なら誰でも考えつくことだった。
「確かに大尉のおっしゃるとおりです。
ただ、陸路を取れば、かなりの時間がかかるのではないでしょうか?」
「お前ら、船足が遅くなってきたことに気がついたか?」
「はあ、毎日船外を監視していますから、何となく感じています」
「その理由は分かるか?」
「いえ、そこまでは」
「出発当初と比べて、川幅はどうなっている?」
「それは……もうかなり遡っていますから、当然狭くなっています。
特に辺境に近くなってきてからは、対岸の景色がはっきり見えるようになりました
「川の水量は変わらないのに川幅が狭くなったら、流れはどうなる?」
「速くなりますね」
「そうだ。この船はその流れに逆らって進んでいるが、漕ぎ手の人数は変わっていない。
この先、黒城市に近づくにつれて川幅は狭くなり、流れはますます早くなる。
船足が落ちてきたのはそのせいだ。
サーラが船員たちに聞いた話だと、マルコから黒城市までの日数は、陸路と大差なくなるそうだ」
「なるほど……」
感心したようにつぶやくシルヴィアに対し、ケネスは溜め息をついた。
「なるほどじゃねえよ、馬鹿」
「ばっ、馬鹿とは失礼な!」
「馬鹿にバカと言って何が悪い。
俺はお前らに算数を教えているつもりはねえんだよ」
「あの、えと、つまり……どういうことですか?」
エイナも大尉が何を言おうとしているのか、さっぱり分からずに戸惑っていた。
ケネスは諦めたように溜め息をつく。
「いいか、俺たちがこれまで停泊した川港で降りなかったのは何故だ?
ここからここまで――」
彼は地図上のカシルと、王国辺境部までの長い距離を指でなぞってみせた。
「一応の陸路はあるが、馬車が通れるほど整備された道じゃねえ。
そもそも川港には馬すらいない。
襲撃者がいるからといって、おいそれと船を降りるわけにはいかないんだ」
「だったら、いったん降りて次の便に乗り換えればいいですよね?」
「黙れ金髪。お前ら、船の予約は楽に取れたのか?
どの船も定員ぎりぎりまで客を詰め込んで出航する上に、王国中心部に入るまで、下船する物好きなんていないんだ。
運よく空きがある便を待っていたら、何か月かかるか分からんぞ。
だが、次のマルコは違う。港で馬車が雇えるし、ここで降りる客もいるから次の船に乗り換えることもできる。
問題は、そこに気づかないほど敵も馬鹿じゃねえってことだ」
「あ、そういうことですか!
つまり、マルコ港に着くまでの間が最後の機会で、今夜か明日、敵が動くということですね?」
「やっと分かったか、馬鹿野郎。
船に戻ったら、船員に『予定が変わったから、マルコで途中下船する』と伝えておけ。
今夜は交替で不寝番だ。明日は夜明けから甲板で過ごす。その方が敵も襲撃しづらいだろうが、それでも襲ってきたら全力で倒す。
倒すことに成功すれば船を降りる必要がなくなる。失敗したら予定どおりに船を降りればいいだけの話だ」
「分かりました」
ケネスはエイナたちに指示を下すと、今度はサーラの方を見た。
「以前に説明したように、一人で別れるとかえって危険だ。
お前には気の毒だが、もうしばらく付き合ってもらうぞ」
サーラは動じずに、いつもと変わらない蕩けるような笑顔を見せた。
「別に構わないわ。でも、せっかくだから蒼城市を見てみたいわね。きれいなお城もあるんでしょう?
だから、明日はそんなに頑張らなくていいわよ」
* *
エイナたちは船に戻ると、翌日のために荷物をまとめた。
ケネスもそうだったが、エイナとシルヴィアの持ち物は少なかったので、準備はごく短時間で済んだ。
荷物を最低限にしたのはケイトの指示で、二人は始めのうちは不平を漏らしていた。
だが、状況が悪化した今は、上司の指示に感謝していた。
逆に大変だったのはサーラだった。何しろ彼女の荷物は多い(その大半は着替えの衣服と下着類である)。
エイナとシルヴィアは彼女のメイドになった気分で荷造りを手伝ったが、終わったころには夜が更けていた。
この夜は、ケネスたちの部屋に四人が集まって過ごすことになった。
客人であるケネスとサーラはベッドで寝た(ケネスはとっさの事態に備えて軍服を着たままだった)。
エイナとシルヴィアは四時間交替で警備についた。休む方は毛布にくるまって床に転がった。軍服を着て帯剣したままだから、寝心地は最悪である。
二人の緊張をよそに敵の襲撃はなく、夜は平穏に過ぎてくれた。
そして決着をつけるのか、それとも船を降りることになるのか、その運命を決める朝を迎えたのである。




