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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第二章 ケルトニアの魔導士
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十二 黒い炎

 シルヴィアも分かっていた。

 自分が敵と距離を取れない限り、エイナは魔法を撃てないことをである。

 通俗的な読み物なら、主人公は『私のことは構わずに撃て!』と叫ぶはずであった。

 彼女としてもそうしたいのは山々だったが、正直に言って命は惜しい。


 だが、このまま敵と斬り合っていても、やがては負けることもはっきりしていた。

 敵の鋭い太刀筋を彼女は天才的な技量で防いでいたが、最終的に体力では男に勝てないことを、悔しいが認めざるを得ない。


 シルヴィアは必死に考えた。

 ――私は何者だ?

 十二年もの間、魔導院で何を学んできたというのか?


 その答えは明快だった。

『そうだ、私は召喚士だ!』


 自分の幻獣を信じなくて、何が召喚士だ。

 カー君が自分の側にいることは、見なくても感じられた。

 彼はシルヴィアが剣を振るう邪魔とならないよう、飛び込んでこないだけであって、いよいよ危なくなれば命じなくても敵に挑みかかるはずだ。


 そのタイミングはまさに今、この瞬間だった。


『カー君! 一秒でいい、あたしに時間を作って!』

 シルヴィアは頭の中でそう命じた。


『了解!』

 きっとその命令を待っていたのだろう。少し嬉しそうなカー君の声がすぐに響いてきた。


 カーバンクルは普段とは見違えるような俊敏な動きで跳ねた。

 小さな狐のような小動物は、シルヴィアの背後の壁に飛びつくと、重力を無視したように垂直に駆け上がる。

 天井近くに達すると再び跳ね、天井を蹴って方向を変えると、敵の頭上から真っ逆さまに飛びかかった。


 敵は身体を逸らすと、襲ってきた獣の胴を横薙ぎに払った。

 まったく見てもいない頭上からの攻撃に、男はあっさりと対処した。エイナの時と一緒である。

 だが、三日月刀シャムシールからは何の手応えも伝わってこない。小動物の落下地点を予測した正確な一撃だったのに、刀は虚しく空を切ったのだ。


 カーバンクルは空中で静止し、浮遊していた。


 襲撃者は初めて動揺した。

 空を切った刀を返し、隙を狙ったシルヴィアの打ち込みをぎりぎり受ける。

 そうしながら、彼の注意は頭上で浮かんでいる未知の獣に向けられていた。


 じゃっ!

 頭を下にした獣が、小さな口を開いていきなり火を吹いた。


 それは予想外の攻撃だった。炎自体はごく小さなものだったが、頭上を見上げていた男の顔に直撃したのだ。

 男はたまらずにのけぞった。

 その場から逃げなかったのは、エイナの魔法攻撃を警戒したためだろうが、シルヴィアにとってはそのわずかな隙だけで十分だった。


 無防備となった男の胴を、シルヴィアの長剣が襲う。

 男は三日月刀を突き出し、長剣の軌道を撥ね上げる。無理な態勢からの強引な力技である。

 バランスを崩した男の下腹部に、間髪入れずにシルヴィアの長い足が叩き込まれた。

 長剣の一撃は最初から囮で、彼女の狙いは蹴りにあったのだ。


 分厚い軍靴の底を通して、ぐにゃりとした嫌な感触が伝わってきた。

 シルヴィアは男の陰嚢を蹴り潰したのだ。


 これは堪らなかった。

 男は二メートル近くも後方に跳び下がり、呻き声を上げてその場にうずくまった。


 勝負はここまでだった。襲撃者は真っ白な氷の塊りになってしまった。

 エイナがこの好機を逃すはずがなく、氷結魔法が狙いどおりに発動した。

 十分に効果範囲が調節された魔法は、男を中心とした一メートルほどの円内を絶対零度の世界に変えてしまった。


      *       *


「死ぬかと思ったぁ~!」

 シルヴィアはからりと剣を投げ捨てると、床にへたりこんでしまった。

 そして、頭上でぷかぷか漂っているカー君を、ぼんやりと見上げた。驚くタイミングを逃してしまったためか、彼女の顔には笑みさえ浮かんでいた。


「あんた、いつから飛べるようになったの?」

『カー君は飛べないよ』


「何言ってんのよ。だって、いま現実に飛んでいるじゃない?」

『これ、浮いているだけ。それは生まれた時からできた。

 でも、カー君は飛べない』


「もしかして、カー君は浮いているだけで、自分じゃ動けないんじゃないの?」

 そう言って、エイナが応急キットを持って近づいてきた。

 彼女にカー君の声は聞こえないが、シルヴィアの言葉で会話の内容が掴めたらしい。


『エイナの言うことが正しい。カー君は鳥じゃない。翼がないから飛べないの』

 カーバンクルは水を泳ぐように、じたばたと犬搔きをしてみせたが、まったく前に進まなかった。


「言われてみれば納得ね。

 でも、宙に浮くことはできるんでしょう? どうしてそのことを今まで黙ってたのよ」

『訊かれなかった』


「……あんたね~!」

『それよりシルヴィア』


「何よ?」

『おろして』

 浮いているだけで、前にも後ろにも進めないカー君は、困った顔をしている。


「はぁ? あんた自分で下りられないの?

 今までに浮いた時は、どうしていたのよ?」

『ほっとけば自然に下がっていく。でも、この高さだと床に着くまで丸一日かかる』


 シルヴィアの表情は泣き笑いだった。

 実際、カー君のお陰で命拾いをしたのだ。特殊能力を黙っていたからといって、そう怒るわけにもいかない。


 一方、エイナは巾着の中から包帯と傷薬を取り出し、くたくたで動けなくなったシルヴィアの治療にかかった。

 軍服の下に着ているシャツは血を吸って、エイナが脱がそうとすると、ぐじゅぐじゅ音を立てた。

 シルヴィアは思わず顔をしかめた。その気持ちの悪い感覚と同時に、興奮状態から醒めてきたことで痛みが襲ってきたのだろう。


 シルヴィアの意識は明瞭であり、出血自体はそう深刻なものではないらしい。

 ボロボロのシャツと肌着を脱がすと、彼女の白い肌には無数の切り傷があった。

 確認すると、やはりそのどれもが浅い傷で、縫わねばならないような深手はなかった。


 同期で一番の剣の使い手であった、シルヴィアだからこそである。

 もし自分だったら、とっくに切り殺されていただろう――傷の手当てをしながら、エイナは背筋が凍る思いであった。


「どうだー、終わったかぁ?」

 のんびりとした声とともに部屋の扉が開き、ケネスが顔を出した。


 上半身が素っ裸だったシルヴィアが「ぎゃっ!」と叫んで背中を丸め、エイナが慌てて脱がせた軍服を彼女に被せた。

「女子の治療中です! 控えてください!」


 エイナの抗議に、ケネスは苦笑いを浮かべて後ろを向いた、

 背中を向けたものの、そのまま部屋の中に入ってくる。いかにも彼らしい。


「あー、悪い悪い。そっちは見ねえから、終わったら声をかけてくれ。

 何にせよ無事に倒せたようで、めでてえじゃないか」

「気づいていたのなら、手伝ってくれても罰は当たりませんよ。

 こっちは死ぬかと思いました」


 シルヴィアがケネスの大きな背に抗議の言葉を投げつけると、彼は笑い声を上げた。

「おいおい、お前らは俺の護衛なんだろう?

 警護対象を守るため、身体を張るのが仕事だって習わなかったのか?」


 確かに彼の言うとおりであるから、二人は何も言い返せない。

「……それで、こいつが襲撃者か。また見事に凍らせたもんだなぁ。

 ネズミの時よりは上手くやったんじゃないか?」

 ケネスは早くも表面が溶けかけている襲撃者の死体の検分を始めた。


 ケルトニアの魔導士にとって、死体はただの物体に過ぎないようだった。

 彼は何の躊躇もなく、凍った衣服をバリバリと剥がし、男の正体を確かめようとした。


「こいつは……暗殺奴隷だな。

 お前ら、カシルで三つ首の龍スリーヘッド・ドラゴンと何か揉めたのか?」

「何ですか、それ?」


 暗殺奴隷――それはエイナたちにとって、初めて聞く言葉だった。


「お前ら、何も知らないんだな……。

 こいつの手首に入れ墨があるだろう? これは奴隷の印だ。

 暗殺奴隷ってのは、剣闘士あがりの戦闘奴隷だよ。馬鹿みたいに高いから、普通の人間が買うことはできねえんだ。

 南カシルだと、三つ首の龍の三つの組織が、数人を飼っているだけだと聞いている」


「大尉殿は何故、そこまで南カシルの内情にお詳しいのでしょう?」

 エイナの素朴な問いに、ケネスは呆れた表情を見せた。


「あのなぁ……。

 俺にとっては南カシルも王国も未知の国だ。言っちゃ悪いが、敵国と何も変わらねえ。出国前にいろいろ情報を仕入れておくのは当たり前だろう。

 何にも知らずに敵の中に飛び込む馬鹿は、あっという間に死ぬんだよ。

 ……ん?」


 ケネスは凍りついた死体を無理やり床から剥がし、その顔を確認しようとしていたが、突然その手を止めた。

「何だこいつ、目に札を貼っているぞ? 神聖文字とは違うな。術式がさっぱり理解できん」


 男の両眼には、奇妙な札が目隠しをするように斜めに貼られていた。

 黄色地の羊皮紙で、蛇が絡み合ったような気味の悪い文字が描かれている。


「その男、閃光魔法で不意打ちを喰らわせたのに、ほとんど効きませんでした。

 背後からの攻撃にも、まるで見えているように対応していましたから、その札のせいかもしれません」


 エイナの説明に、ケネスはうなずいた。

「なるほどな、視力を補助する呪符のようなものか……」

 大尉はそうつぶやくと、男の顔から札を剥がそうとした。


「うおっ! 何だ?」

 ばっとケネスが手を引っ込め、その場から跳び下がった。

 剥がそうとした札が、いきなり燃え上がったのだ。


 いや、燃えたと言ってよいのか分からない。炎のようなものが発生したが、それは光を吸い込む闇のような色をしていたからだ。

 黒い炎は男の顔から全身へ、そして身体の周囲にまで広がっていった。

 熱はまったく感じられなかったし、床に張られた絨毯が焦げる様子もなかった。


「水を!」

 エイナが腰を浮かしかけると、男の死体を包み込んだ闇は煙のように消え去った。

 消えたのは炎だけではなく、男も一緒である。

 絨毯の張られた床の上には何も存在せず、氷の欠片さえ残されていなかった。


 三人はしばらくの間、不可解な現象が起こった床から目を離せないでいた。

 その場から、何かまた非常識なことが起きる気がしたからだったが、実際には何ごともなかった。

 数秒の沈黙が続いた後、やっとケネスが口を開いた。


「無理に剥がそうとすると術式が発動する……そんなタイプの札らしいな。

 肉体ごと札を消滅させたのか、あるいはどこかへ転送させたのか。

 いずれにしろ、本命の呪術師が別に存在するってことだな。あの暗殺奴隷は、ネズミと同じ手駒に過ぎないってことだろう。

 これだけのことができる術者となると、三つ首の龍あたりの手下とは考えられんか……お前ら、本当に心当たりがないのか?」


 エイナは黙って首を横に振った。

「最大組織の黒龍組とは友好関係にあります。

 他の二つの組とは接触すらしたことがないのに、襲われる理由が見つかりません」


「やはり帝国の仕業ではないでしょうか」

 シルヴィアの意見に対しては、今度はケネスが首を振った。


「いや、奴らのやり口とは違う気がする。どうも腑に落ちねえ……。

 まぁ、とにかく部屋を入れ替えたのは正解だったな。お前ら、サーラには感謝しとけよ」


      *       *


 昨夜、川港から戻ってきたエイナたちに、個室エリアへの出入りを監視している船員が、部屋の清掃が終わったことを告げた。


「やれやれ、元に戻るか」

 ケネスが部屋に向かおうとすると、サーラが彼の上着の裾を掴んで引っ張った。


「あたし、嫌よ!

 いくら掃除したからって、あんなにネズミだらけだった部屋なのよ?

 金輪際あの部屋には入りたくないわ!」


 エイナとケネスは、ぽかんとした目でサーラを見たが、シルヴィアには彼女の気持ちが理解できた。

 そこにネズミがいたと考えただけで、背筋がぞくぞくっとするのだ。


「フォレスター大尉は、あのネズミたちが威力偵察だろうとおっしゃいました。

 もしそうだとしたら、こちらの構成が敵に知られているということですよね?」

 シルヴィアの問いに、ケネスの口の端がわずかに上がった。

「何が言いたい?」


「こちらは魔導士二人に召喚士が一人、そしてサーラさんは一般人です。

 相手の戦力が術師に偏っているなら、力押しで急襲するのが常道だと思うのです」

「つまり、間を置かずに次の手を打ってくるということか?」


「はい。その可能性が高いと思います。

 ですから、大尉とサーラさんは私たちの部屋に移っていただいた方が、多少は安全ではないかと……」


「そうね、私も賛成よ。シルヴィア」

 エイナもうなずいた。


「私たちは代わりに大尉殿の部屋に入ります。

 敵を待ち伏せることもできるし、サーラさんも気持ちの悪い思いをしなくて済みますもの。一石二鳥だと思います」


「え? ああ、そうね。もちろんそうだわ!」

 シルヴィアとしては、取りあえず今夜は自分たちの部屋で全員が過ごそう――と提案したつもりだった。代わりに自分がネズミ部屋に行くことなど、考えてもいなかったのだ。


 彼女は焦った。

『エイナったら、何を言い出すのよ!』


「なるほど、それはいいかもしれん。

 だが、俺の身代わりを務めるとなると、かなり危険だぞ。

 お前ら、剣は使えるのか?」


 エイナは少し胸を張って、とんと拳で叩いた。

「任せてください!

 シルヴィアは男子を含めた同期の中で、剣で後れを取ったことのない秀才です。

 私だって、自分の身を守れる程度の腕はあると自負しています。

 そうでなければ、私たちが護衛を任されるはずがないじゃありませんか! ねえ、シルヴィア?」


「えっ? ええ、ええ! もっ、もちろんですわ!

 大船に乗ったつもりで私たちにお任せください!」


 強がりを言ったものの、シルヴィアはネズミが怖くて仕方がなかったのだ。

 彼女は泣きそうな顔で、エイナに引きずられて隣室へ連行された。

 ケネスとサーラの荷物を(八割がたサーラのものだった)運ぶためである。


 清掃が終わったという部屋に入ってみると、床に張られた絨毯はまだしっとりと湿っていて、シルヴィアは軍靴から伝わる感触に怖気を感じた。

 部屋の空気も、ネズミの糞尿の臭いが漂っているような気がする。


 エイナの方はまったく気にならないらしく、てきぱきと荷物の入れ替えを済ませてしまった。

 シルヴィアは不安そうに部屋の中を見回して、なかなか落ち着かなかった。

 どこかにネズミが潜んでいそうな気がして、ちょっとした刺激にも飛び上がるほど驚いた。


 そんなシルヴィアを見ても、エイナはまったく同情してくれなかった。

 田舎育ちのエイナは、ネズミを怖いと思ったことがない。

 幼いころから罠にかけたネズミを水を張った桶に沈めて溺死させ、土を掘って埋めるのは彼女の役目だったのだ。

 辺境では子どもの仕事として、どこの家でも行われていたことである。

 むしろ仔ネズミは可愛くて、できるならペットとして飼いたいとすら思ったこともある。


 エイナの同情が得られないと知ったシルヴィアは、カー君に助けを求めた。

「お願いカー君、ネズミが出たらやっつけてね!」


 仔ギツネのような見た目の幻獣は、その可愛らしい顔をかしげた。

『んー? カー君はネズミと戦ったことってないよ?』


「いや、あんたネコかキツネみたいな顔してるじゃない!

 ああいう動物は、普通ネズミを狩るものよ?」

『それは可哀そう。ネコやキツネはどうしてネズミを狩る?』


「そ、そりゃあ……食べるためよ」

『えええええええーーーー! シルヴィアはネズミを食べるの?

 カー君はネズミを食べたことがないよ。

 ……美味しいの?』


 シルヴィアは肩を落とし、溜め息をついた。どうやら頼る相手を間違えたらしい。


「魔導院の食堂でも、ネズミは食卓に上がったことがないわ。

 きっと美味しくないからでしょうね」

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