ニ十七 野営地
「あの人、吸血鬼だったんですか!?」
予想外のエイナの返事に、アデリナは思わず吹き出してしまった。
「馬鹿なこと言わないでよ! もしそうだったら、いくら鈍いあなただって気づくでしょ?
ハンメルはただの人間よ。ただ、彼の周囲に吸血鬼が出没しているってこと」
「狙われているんですか?」
「まさか。よほど飢えていない限り、女衒なんか襲わないわ。
連中の好みは、男だったら童貞の美少年だもの」
「じゃあ……、もしかしてハンナさんが?」
「正解。彼女は十六歳だし、男なんて知らないでしょうからね」
「ああ! だから明日、ハンナさんに会いに行くんですね?」
「そういうこと。いろいろと腑に落ちないのよ。
ハンメルについた吸血鬼の臭いがハンナの移り香だとしたら、二人は肌を合わせていることになるわ。
だけど、女衒は商品に手を出すような真似はしないの、絶対にね。
まず、そこから確かめなきゃ。
分かったら寝ましょう。明日は忙しくなるわよ」
* *
翌朝、軽い朝食を済ませたエイナとアデリナは、村長に案内されてフリッツの家に向かった。
軍の魔導士と伝説の美少女(自称)アデリナの来訪は、すでに村中に知れ渡っていた。
その二人がハンナに会いにきたというのだから、ハンナの両親に断る道理はなかった。
ハンナが翠玉楼に向かうのは、あくまで自分の力で未来を掴むため――ということになっている。
だが実際は、父親が渇望する農地を手に入れるためだということを、誰もが知っていた。
エイナたちは彼女の決意を称え、門出を祝いたいという来意を告げた。
「ありがとうございます。
午後には出発だというのに、娘はまだ部屋でばたばたしておりまして……。
すぐに呼んでまいります」
「いえ、それには及びません。
私たちが無理を言って押しかけたのですから、こちらから伺うのが礼儀です」
エイナが打ち合わせどおりに応じる。
「ハンナさんは自分のお部屋をお持ちなのですか?」
アデリナがさらりと訊ねたが、これは彼女の予想どおりだった。
フリッツ家は豊かではないが、話を聞く限り子どもたちには不自由な思いをさせていないはずだ。
「はい、何しろ年頃の女の子ですから。
もっとも、恥ずかしながら、あの子の部屋は姉のお下がりなんです」
「あら、お姉さまがいらっしゃるの?」
ハンナが三女であることは、昨夜村長から聞いているが、これが話の流れである。
彼女の二人の姉は他村の若者に嫁いで、すでに家を出ているということだった。
フリッツがハンナの部屋の扉を開けると(もちろんノックをしてだ)、彼女はベッドの上にずらりと服を広げ、どれを選ぼうかと吟味中であった。
並べられた衣服は派手ではないが、流行を取り入れた上質の仕立てだと見て取れる。
高等小学校に通うためパッサウ市で過ごした三年間で、両親が揃えてくれたのだろう。
晴れの門出に身に着けるには、どれも思い入れが強過ぎて、彼女が悩むのは当然だった。
エイナとアデリナは自分たちの身許を明かすと、ハンナに祝福を伝えた。
ハンナは部屋着姿であることに顔を赤らめたが、すぐに表情を引き締め、背筋をすっと伸ばした。
そして、優雅な仕草でスカートを摘み、片足を引いて膝を折る正式な礼をとった。学校で習ったのだろうが、実に自然な仕草であった。
アデリナの顔は目深に被った帽子に隠れていたが、すぐ横に立つエイナからはちゃんと表情が窺える。
彼女は目を細めて微笑んでいた。慈愛に満ちた母親の表情だ。
アデリナはハンナの横をすり抜け、ベッドの前に歩み寄った。
マントの前が膨らんでいて、彼女が中で腕組みをしていることが分かる。
そして、正直な感想を洩らした。
「どれも悪くないけど、いまいちパッとしないわね」
エイナが慌てて止めに入る。
「アデリナさん、失礼です!」
だが、アデリナは聞く耳を持たない。
「ほかにはないの?」
「あとは卒業パーティーで着た夜会服しか……」
「それ、見せてくれる?」
ハンナは躊躇いがちに、衣装タンスの扉を開けた。
「ハンメルさんからは、普段着だけを何着か持ってくるようにと言われています。
娼館で着る服は、すべて翠玉楼専属の業者が仕立てるそうなんです」
「そりゃそうでしょう。高級娼婦が古着を着ていたら、笑われるもの」
ハンナの顔がたちまち真っ赤になった。
実際、ベッドに広げられていたのは、すべて古着だったのだ。
フリッツ家の財政事情からすれば、それは当然のことである。
王国もそうだったが、帝国でも庶民の日常衣服は自分で縫うのが基本だった。
そして、訪問着のような〝いい服〟だけは、古着を購入する。
いちから仕立てたドレスを身に着けるのは、上流階級の特権であった。
ただ、ハンナの服からは古着特有のくたびれた感じがしない。生地は上質で張りがあり、仕立ても悪くない。
これだけのものを探し出すには、相当の手間と金がかかったはずである。
「なぜ赤くなるの?
あなたのご両親が一生懸命選んでくれた服なのよ。もっと誇りを持ちなさい」
アデリナはそう叱りつけると、衣装タンスにかかっていた夜会服を吟味した。
光沢のある薄いベルベット生地で、黒に近い深い紫色のドレスである。
「あらこれ、いいじゃない?
あなた肌が白いから、とっても見栄えがするわ。これにしなさいな」
「ですがその、夜会服ですよ? いくら何でも村の人に見られるのは……」
ハンナが躊躇うのは当然である。
夜会服は礼服であるが、袖がなく上半身の露出が大きい。
コルセットで持ち上げられた胸の谷間や、シミひとつない滑らかな背中が大胆にさらされることになる。
「何を言っているの?
あなたはこの国で一番の娼婦を目指すのよ。その覚悟は口だけ?」
「いいえ!」
ハンナは食い気味に言葉を返し、顔の見えないアデリナを睨みつけた。
「この服を着ていきます!
私に恥をかかすまいと、お父さんとお母さんが買ってくれたドレスですもの、恥じるところはありません。
村のみんなに、私の覚悟を見てもらいます!」
アデリナの帽子が傾き、くすりと笑った鼻息の音が聞こえた。
「その意気よ。それじゃ、見てあげるから着てごらんなさい。
お父様は席を外してくださらない?」
いくら実の娘でも、男親の前では着替えられない。
フリッツはわざとらしい咳払いをして、部屋を出ていってくれた。
夜会服に着替えてみると、確かにハンナによく似合っており、白い肌が眩しく輝いて見えた。
アデリナは数歩下がって、その姿を上から下までじっくりと点検する。
「う~ん、ちょっと首まわりが淋しいわね。
ネックレスくらい、持っているんでしょ?」
「卒業パーティで着けてたものでしたら……」
ハンナは鏡の横の小物入れから細い銀のネックレスを出して、首に巻いてみせたが、アデリナは首を振った。
「駄目ね。銀じゃ地味すぎて、服に負けているわ。
そうだ、ちょっと待ってちょうだい」
アデリナはマントの中から小さな鞄を出し、テーブルの上に置いて中を探った。
黒い手袋をした手が何かを摘み上げ、ハンナのお腹のあたりに突きつけた。
そして、反射的に出されたハンナの掌に、白い数珠のような塊りを乗せた。
しゃらりと軽い音がして、彼女の掌の上で数珠が広がる。
それを見たハンナは、目を丸くして息を呑んだ。
「これ、真珠じゃないですか!? まさか、あの……本物?」
「失礼なこと言わないで、正真正銘の本物よ。
もうあたしが使うことはないから、あなたにあげるわ。門出のお祝いだと思ってちょうだい」
エイナはその真珠に見覚えがあった。
辺境で暮らしていたころ、村の収穫祭で父と踊る時、母の首を飾っていたものだ。
彼女はこの首飾りをとても大切にしていて、幼いエイナには決して触らせてくれなかった。
真珠の養殖はまだ成功していなかったから、非常に高価なものである。
母にその由来を訊ねたこともあるが、いつも曖昧な返事でごまかされた。父からの贈られたのか、あるいは貴族だったという実家の形見だったのかもしれない。
* *
フリッツ家を辞した二人は、再び村長の家に戻った。
付き添ってくれた村長に礼を言って客用寝室に引っ込むと、待ちかねたようにエイナが訊ねる。
「ハンナさんの部屋に、吸血鬼の気配はありましたか?」
アデリナは帽子を取ってベッドの上に放り投げ、黒髪をかき上げてぽりぽりと頭を掻いた。
「駄目。何も感じなかったわ。
もしかしたら、よほど時間が経っているのかもしれないわね」
二人は旅の準備を進めながら、考えられる可能性を話し合った。
濡れていた着替えや下着はすっかり乾かされ、ふわふわに膨らんでいる。
エイナは昨夜に着ていたエプロンドレスを丁寧に畳み、少し名残惜しそうに油紙で包んだ。
それを背嚢の底の方に押し込みながら、彼女はぼんやりとつぶやいた。
「もしかしたら……」
「何か思いついた?」
「ハンナさんって、イチゴなんじゃないでしょうか?」
「あたしには人間に見えたけど?」
「そうじゃなくて! ほら、ケーキの上に乗せるイチゴですよ。
あれって、最後まで食べずに残しておきますよね?」
「あたしは真っ先に食べる派よ」
「ひょっとして、わざとやっていません?」
エイナの声に怒気が孕む。
「あ、分かった? エイナちゃんってば、からかいやすいから。
気にしないで、先を続けてちょうだい」
「もう……!」
エイナは咳払いをして気を取り直した。
「つまり吸血鬼とってハンナさんは、最後まで取っておきたいご馳走だったとしたら、どうでしょう?
まだ攫うつもりはないから、怪しまれないようにわざと近づかず、遠くから見守っていたんだと思います」
「そこに、都会から女衒が訪ねてきた?」
「はい。吸血鬼はそれに気づき、ハンメルさんの目的を探るために影に潜んでいた。
彼についた匂いは、そのためだと思います」
「当然、奴らは慌てているってわけね?」
「はい。パッサウの娼館に入る前に、何としても彼女を奪いにかかるはずです。
狙うとすれば、南部にいるうち。それもできるだけ早い方がいい。ゼルデンに近づくほど村も大きくなって、襲いづらくなりますから」
「ハンナたちの出発は午後よね?
北のリート村は四十キロも先よ。どう考えてもたどり着かないわ。
ということは、野宿するしかない。どうぞ襲ってくださいって、股を開くようなものね」
エイナは盛大な溜息をついた。
「美少女はそんな下品なことを言いません!」
「おいおい」
すかさずアデリナが合いの手を入れ、二人はしばらく笑い転げた。
* *
エイナたちが村を出たのは、午前十時過ぎであった。
村長は「ハンナの旅立ちを見送ってはどうですか」と勧めてくれたが、それは丁重に断った。
見送れないからこそ、朝早くにフリッツ家を訪ねたのだと言われれば、村長も引き下がらずを得ない。
二人は馬に乗り、村を突き抜ける街道を南へと向かった。
もちろんこれは偽装であり、村を出て十分ほどで、彼女たちは街道から外れて方向を北に転じた。
街道の周辺は一面の小麦畑だったが、すでに刈り取りが終わっていたため、人の姿はない。
馬は畑の細いあぜ道を縫うようにして、のんびりと進んでいった。
彼らは賢い動物なので、だいたいの方向さえ指示してやれば、あとは自分で歩きやすい道を見つけてくれる。
彼女たちはパヘス村を大きく迂回してから街道に戻り、北上を続けた。
ハンナの乗る馬車を、先回りして待ち伏せるためである。
遠回りしたことで一時間以上を無駄にしたが、時間の優位は失っていない。
問題は御者を務めるハンメルが、野営地をどこに定めるかである。
この点では、南部を知り尽くしていて旅慣れたアデリナと、軍で野外行動を叩き込まれているエイナの間で、完全に意見が一致していた。
その気になれば野営はどこでも可能だが、それに適した場所となると限定される。
その最大の要因は水場である。
飲料、炊事、洗濯と、野営における水の重要性は言うまでもない。
この季節、汗をかいた馬は呆れるほど大量の水を呑む上に、身体を冷やすために水浴びを要求する。
馬車は不整地を走れないから、街道に停めるしかない。その近くには都合よく小川が流れていて、さらに草地(馬の食糧となる)でなければならない。
そんな都合のよい場所であれば、多くの旅人が利用することになる。
誰かが石で組んだ竈は次第に立派になっていき、余った薪が積まれていった。邪魔な灌木や寝心地が悪くなる石や根は取り払われる。
だから旅慣れた者でなくても、そこが野営地だとひと目で分かるのだ。
すでに雨は上がっていたが、前日の土砂降りで道の状態は悪い。馬車は一時間に五キロも進めないだろう。
パヘス村の北方二十キロ付近で、こうした野営場は一か所しかない。
エイナたちはそこから一キロ以上離れた木立に馬をつなぎ、そこに隠れてハンナたちの馬車を待った。見張るのは、予想到達時刻が近くなってからでよい。
帝国軍支給の将校用単眼鏡は、王国のものと同じ倍率だが、遥かに明るく解像度も高い。研磨技術の差なのだろう。
エイナはどうにかして、私物にして持ち帰りたいと、その方法をぼんやりと考えていた。
そうしているうちに夕方になり、エイナは街道の監視を始めた。
ダンピールのアデリナは、鳥のように視力がいいので、単眼鏡を必要としない。
果たせるかな、五時より前にそれらしい馬車が現れ、野営地に近い街道上で停まった。
ハンメルが馬を馬車から外し、荷物を背に載せて街道から降りていくのが見える。
ハンナがスカートをたくし上げ、その後をついていった。
彼女はあの夜会服ではなく、ごく普通の農家の娘の恰好をしていた。村を出てから、どこかで着替えたのだろう。
ハンメルは馬を近くの小川に連れていき、ハンナは竈で炊く枝を集め始めた。
それさえ確認してしまえば、あとは彼らを見張る必要はない。
暗くなるのを待って、もっと接近すればよいのだ。
帝国は緯度が高いだけあって、夏でも日が落ちるのが早い。しかも、急速に暗くなっていく。
肉眼でも見えていたハンナたちの姿は、たちまち闇に呑まれてしまい、竈から洩れる火と、ランプの明かりだけがぽつんと見えるだけになった。
周囲では虫たちが狂ったように鳴き、耳にわんわんという残響を残している。
エイナとアデリナは、お互いの顔を見てうなずいた(二人とも夜目が利くのだ)。
そして、姿勢を低くして、ハンナたちの野営地に近づいていった。