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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第十章 復讐するは
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ニ十七 野営地

「あの人、吸血鬼だったんですか!?」

 予想外のエイナの返事に、アデリナは思わず吹き出してしまった。


「馬鹿なこと言わないでよ! もしそうだったら、いくら鈍いあなただって気づくでしょ?

 ハンメルはただの人間よ。ただ、彼の周囲に吸血鬼が出没しているってこと」

「狙われているんですか?」


「まさか。よほど飢えていない限り、女衒ぜげんなんか襲わないわ。

 連中の好みは、男だったら童貞の美少年だもの」

「じゃあ……、もしかしてハンナさんが?」


「正解。彼女は十六歳だし、男なんて知らないでしょうからね」

「ああ! だから明日、ハンナさんに会いに行くんですね?」


「そういうこと。いろいろと腑に落ちないのよ。

 ハンメルについた吸血鬼の臭いがハンナの移り香だとしたら、二人は肌を合わせていることになるわ。

 だけど、女衒は商品に手を出すような真似はしないの、絶対にね。

 まず、そこから確かめなきゃ。

 分かったら寝ましょう。明日は忙しくなるわよ」


      *       *


 翌朝、軽い朝食を済ませたエイナとアデリナは、村長に案内されてフリッツの家に向かった。

 軍の魔導士と伝説の美少女(自称)アデリナの来訪は、すでに村中に知れ渡っていた。

 その二人がハンナに会いにきたというのだから、ハンナの両親に断る道理はなかった。


 ハンナが翠玉楼に向かうのは、あくまで自分の力で未来を掴むため――ということになっている。

 だが実際は、父親が渇望する農地を手に入れるためだということを、誰もが知っていた。

 エイナたちは彼女の決意を称え、門出を祝いたいという来意を告げた。


「ありがとうございます。

 午後には出発だというのに、娘はまだ部屋でばたばたしておりまして……。

 すぐに呼んでまいります」

「いえ、それには及びません。

 私たちが無理を言って押しかけたのですから、こちらから伺うのが礼儀です」

 エイナが打ち合わせどおりに応じる。


「ハンナさんは自分のお部屋をお持ちなのですか?」

 アデリナがさらりと訊ねたが、これは彼女の予想どおりだった。

 フリッツ家は豊かではないが、話を聞く限り子どもたちには不自由な思いをさせていないはずだ。


「はい、何しろ年頃の女の子ですから。

 もっとも、恥ずかしながら、あの子の部屋は姉のお下がりなんです」

「あら、お姉さまがいらっしゃるの?」

 ハンナが三女であることは、昨夜村長から聞いているが、これが話の流れである。

 彼女の二人の姉は他村の若者に嫁いで、すでに家を出ているということだった。


 フリッツがハンナの部屋の扉を開けると(もちろんノックをしてだ)、彼女はベッドの上にずらりと服を広げ、どれを選ぼうかと吟味中であった。

 並べられた衣服は派手ではないが、流行を取り入れた上質の仕立てだと見て取れる。

 高等小学校に通うためパッサウ市で過ごした三年間で、両親が揃えてくれたのだろう。

 晴れの門出に身に着けるには、どれも思い入れが強過ぎて、彼女が悩むのは当然だった。


 エイナとアデリナは自分たちの身許を明かすと、ハンナに祝福を伝えた。

 ハンナは部屋着姿であることに顔を赤らめたが、すぐに表情を引き締め、背筋をすっと伸ばした。

 そして、優雅な仕草でスカートを摘み、片足を引いて膝を折る正式なカーテシーをとった。学校で習ったのだろうが、実に自然な仕草であった。


 アデリナの顔は目深に被った帽子に隠れていたが、すぐ横に立つエイナからはちゃんと表情が窺える。

 彼女は目を細めて微笑んでいた。慈愛に満ちた母親の表情だ。


 アデリナはハンナの横をすり抜け、ベッドの前に歩み寄った。

 マントの前が膨らんでいて、彼女が中で腕組みをしていることが分かる。

 そして、正直な感想を洩らした。

「どれも悪くないけど、いまいちパッとしないわね」


 エイナが慌てて止めに入る。

「アデリナさん、失礼です!」


 だが、アデリナは聞く耳を持たない。

「ほかにはないの?」

「あとは卒業パーティーで着た夜会服しか……」

「それ、見せてくれる?」


 ハンナは躊躇ためらいがちに、衣装タンスの扉を開けた。

「ハンメルさんからは、普段着だけを何着か持ってくるようにと言われています。

 娼館で着る服は、すべて翠玉楼専属の業者が仕立てるそうなんです」

「そりゃそうでしょう。高級娼婦が古着を着ていたら、笑われるもの」


 ハンナの顔がたちまち真っ赤になった。

 実際、ベッドに広げられていたのは、すべて古着だったのだ。

 フリッツ家の財政事情からすれば、それは当然のことである。


 王国もそうだったが、帝国でも庶民の日常衣服は自分で縫うのが基本だった。

 そして、訪問着のような〝いい服〟だけは、古着を購入する。

 いちから仕立てたドレスを身に着けるのは、上流階級の特権であった。


 ただ、ハンナの服からは古着特有のくたびれた感じがしない。生地は上質で張りがあり、仕立ても悪くない。

 これだけのものを探し出すには、相当の手間と金がかかったはずである。


「なぜ赤くなるの?

 あなたのご両親が一生懸命選んでくれた服なのよ。もっと誇りを持ちなさい」

 アデリナはそう叱りつけると、衣装タンスにかかっていた夜会服を吟味した。

 光沢のある薄いベルベット生地で、黒に近い深い紫色のドレスである。


「あらこれ、いいじゃない?

 あなた肌が白いから、とっても見栄えがするわ。これにしなさいな」

「ですがその、夜会服ですよ? いくら何でも村の人に見られるのは……」


 ハンナが躊躇ためらうのは当然である。

 夜会服イブニングドレスは礼服であるが、袖がなく上半身の露出が大きい。

 コルセットで持ち上げられた胸の谷間や、シミひとつない滑らかな背中が大胆にさらされることになる。


「何を言っているの?

 あなたはこの国で一番の娼婦を目指すのよ。その覚悟は口だけ?」

「いいえ!」


 ハンナは食い気味に言葉を返し、顔の見えないアデリナを睨みつけた。

「この服を着ていきます!

 私に恥をかかすまいと、お父さんとお母さんが買ってくれたドレスですもの、恥じるところはありません。

 村のみんなに、私の覚悟を見てもらいます!」


 アデリナの帽子が傾き、くすりと笑った鼻息の音が聞こえた。

「その意気よ。それじゃ、見てあげるから着てごらんなさい。

 お父様は席を外してくださらない?」


 いくら実の娘でも、男親の前では着替えられない。

 フリッツはわざとらしい咳払いをして、部屋を出ていってくれた。


 夜会服に着替えてみると、確かにハンナによく似合っており、白い肌が眩しく輝いて見えた。

 アデリナは数歩下がって、その姿を上から下までじっくりと点検する。


「う~ん、ちょっと首まわりが淋しいわね。

 ネックレスくらい、持っているんでしょ?」

「卒業パーティで着けてたものでしたら……」


 ハンナは鏡の横の小物入れから細い銀のネックレスを出して、首に巻いてみせたが、アデリナは首を振った。

「駄目ね。銀じゃ地味すぎて、服に負けているわ。

 そうだ、ちょっと待ってちょうだい」


 アデリナはマントの中から小さな鞄を出し、テーブルの上に置いて中を探った。

 黒い手袋をした手が何かを摘み上げ、ハンナのお腹のあたりに突きつけた。

 そして、反射的に出されたハンナの掌に、白い数珠のような塊りを乗せた。


 しゃらりと軽い音がして、彼女の掌の上で数珠が広がる。

 それを見たハンナは、目を丸くして息を呑んだ。


「これ、真珠じゃないですか!? まさか、あの……本物?」

「失礼なこと言わないで、正真正銘の本物よ。

 もうあたしが使うことはないから、あなたにあげるわ。門出のお祝いだと思ってちょうだい」


 エイナはその真珠に見覚えがあった。

 辺境で暮らしていたころ、村の収穫祭で父と踊る時、母の首を飾っていたものだ。

 彼女はこの首飾りをとても大切にしていて、幼いエイナには決して触らせてくれなかった。


 真珠の養殖はまだ成功していなかったから、非常に高価なものである。

 母にその由来を訊ねたこともあるが、いつも曖昧な返事でごまかされた。父からの贈られたのか、あるいは貴族だったという実家の形見だったのかもしれない。


      *       *


 フリッツ家を辞した二人は、再び村長の家に戻った。

 付き添ってくれた村長に礼を言って客用寝室に引っ込むと、待ちかねたようにエイナが訊ねる。

「ハンナさんの部屋に、吸血鬼の気配はありましたか?」


 アデリナは帽子を取ってベッドの上に放り投げ、黒髪をかき上げてぽりぽりと頭を掻いた。

「駄目。何も感じなかったわ。

 もしかしたら、よほど時間が経っているのかもしれないわね」


 二人は旅の準備を進めながら、考えられる可能性を話し合った。

 濡れていた着替えや下着はすっかり乾かされ、ふわふわに膨らんでいる。

 エイナは昨夜に着ていたエプロンドレスを丁寧に畳み、少し名残惜しそうに油紙で包んだ。

 それを背嚢の底の方に押し込みながら、彼女はぼんやりとつぶやいた。


「もしかしたら……」

「何か思いついた?」


「ハンナさんって、イチゴなんじゃないでしょうか?」

「あたしには人間に見えたけど?」


「そうじゃなくて! ほら、ケーキの上に乗せるイチゴですよ。

 あれって、最後まで食べずに残しておきますよね?」

「あたしは真っ先に食べる派よ」


「ひょっとして、わざとやっていません?」

 エイナの声に怒気がはらむ。


「あ、分かった? エイナちゃんってば、からかいやすいから。

 気にしないで、先を続けてちょうだい」

「もう……!」


 エイナは咳払いをして気を取り直した。

「つまり吸血鬼とってハンナさんは、最後まで取っておきたいご馳走だったとしたら、どうでしょう?

 まださらうつもりはないから、怪しまれないようにわざと近づかず、遠くから見守っていたんだと思います」

「そこに、都会から女衒が訪ねてきた?」


「はい。吸血鬼はそれに気づき、ハンメルさんの目的を探るために影に潜んでいた。

 彼についた匂いは、そのためだと思います」

「当然、奴らは慌てているってわけね?」


「はい。パッサウの娼館に入る前に、何としても彼女を奪いにかかるはずです。

 狙うとすれば、南部にいるうち。それもできるだけ早い方がいい。ゼルデンに近づくほど村も大きくなって、襲いづらくなりますから」

「ハンナたちの出発は午後よね?

 北のリート村は四十キロも先よ。どう考えてもたどり着かないわ。

 ということは、野宿するしかない。どうぞ襲ってくださいって、股を開くようなものね」


 エイナは盛大な溜息をついた。

「美少女はそんな下品なことを言いません!」

「おいおい」

 すかさずアデリナが合いの手を入れ、二人はしばらく笑い転げた。


      *       *


 エイナたちが村を出たのは、午前十時過ぎであった。

 村長は「ハンナの旅立ちを見送ってはどうですか」と勧めてくれたが、それは丁重に断った。

 見送れないからこそ、朝早くにフリッツ家を訪ねたのだと言われれば、村長も引き下がらずを得ない。


 二人は馬に乗り、村を突き抜ける街道を南へと向かった。

 もちろんこれは偽装であり、村を出て十分ほどで、彼女たちは街道から外れて方向を北に転じた。

 街道の周辺は一面の小麦畑だったが、すでに刈り取りが終わっていたため、人の姿はない。


 馬は畑の細いあぜ道を縫うようにして、のんびりと進んでいった。

 彼らは賢い動物なので、だいたいの方向さえ指示してやれば、あとは自分で歩きやすい道を見つけてくれる。

 彼女たちはパヘス村を大きく迂回してから街道に戻り、北上を続けた。


 ハンナの乗る馬車を、先回りして待ち伏せるためである。

 遠回りしたことで一時間以上を無駄にしたが、時間の優位は失っていない。


 問題は御者を務めるハンメルが、野営地をどこに定めるかである。

 この点では、南部を知り尽くしていて旅慣れたアデリナと、軍で野外行動を叩き込まれているエイナの間で、完全に意見が一致していた。

 その気になれば野営はどこでも可能だが、それに適した場所となると限定される。


 その最大の要因は水場である。

 飲料、炊事、洗濯と、野営における水の重要性は言うまでもない。

 この季節、汗をかいた馬は呆れるほど大量の水を呑む上に、身体を冷やすために水浴びを要求する。


 馬車は不整地を走れないから、街道に停めるしかない。その近くには都合よく小川が流れていて、さらに草地(馬の食糧となる)でなければならない。


 そんな都合のよい場所であれば、多くの旅人が利用することになる。

 誰かが石で組んだかまどは次第に立派になっていき、余った薪が積まれていった。邪魔な灌木や寝心地が悪くなる石や根は取り払われる。

 だから旅慣れた者でなくても、そこが野営地だとひと目で分かるのだ。 


 すでに雨は上がっていたが、前日の土砂降りで道の状態は悪い。馬車は一時間に五キロも進めないだろう。

 パヘス村の北方二十キロ付近で、こうした野営場は一か所しかない。


 エイナたちはそこから一キロ以上離れた木立に馬をつなぎ、そこに隠れてハンナたちの馬車を待った。見張るのは、予想到達時刻が近くなってからでよい。

 帝国軍支給の将校用単眼鏡は、王国のものと同じ倍率だが、遥かに明るく解像度も高い。研磨技術の差なのだろう。

 エイナはどうにかして、私物にして持ち帰りたいと、その方法をぼんやりと考えていた。


 そうしているうちに夕方になり、エイナは街道の監視を始めた。

 ダンピールのアデリナは、鳥のように視力がいいので、単眼鏡を必要としない。

 果たせるかな、五時より前にそれらしい馬車が現れ、野営地に近い街道上で停まった。


 ハンメルが馬を馬車から外し、荷物を背に載せて街道から降りていくのが見える。

 ハンナがスカートをたくし上げ、その後をついていった。


 彼女はあの夜会服ではなく、ごく普通の農家の娘の恰好をしていた。村を出てから、どこかで着替えたのだろう。


 ハンメルは馬を近くの小川に連れていき、ハンナは竈で炊く枝を集め始めた。

 それさえ確認してしまえば、あとは彼らを見張る必要はない。

 暗くなるのを待って、もっと接近すればよいのだ。


 帝国は緯度が高いだけあって、夏でも日が落ちるのが早い。しかも、急速に暗くなっていく。

 肉眼でも見えていたハンナたちの姿は、たちまち闇に呑まれてしまい、竈から洩れる火と、ランプの明かりだけがぽつんと見えるだけになった。

 周囲では虫たちが狂ったように鳴き、耳にわんわんという残響を残している。


 エイナとアデリナは、お互いの顔を見てうなずいた(二人とも夜目が利くのだ)。

 そして、姿勢を低くして、ハンナたちの野営地に近づいていった。

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