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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第十章 復讐するは
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ニ十六 夜来香

「そのハンナという娘のこと、もう少し詳しく教えてもらえない?

 どうして身売りすることになったのかしら」

 アデリナは村長に訊ねた。

 食後のお茶の話題としてはどうかと思うが、明日にはこの村を出るのだから、訊くとすれば今しか機会はない。


「ハンナはフリッツという男の三女で、今年で十六歳になります」

「十六? いくら何でも若すぎない?」


「いえ、むしろ遅すぎるくらいです」

 アデリナの隣りに座るハンメルが、村長に代わって説明を始めた。

「普通は小学校を終えた、十三歳で翠玉楼に入るのです。

 もちろん、その年でお客様の前に出すわけにはいきません」



「うちは場末の売春宿ではないのです。

 お客様は、選び抜かれた上流階級の方々ばかりですから、その相手をする女性も、それなりの教養を身につける必要があります。

 基礎的な学問や一般常識は当然として、政治・経済から外交に至るまで、最新の情報を知っていなければ、話し相手が務まらないのです」

 ハンメルの言葉からは、誇りのようなものが感じられた。


「娘を売る家庭は、当然のように暮らしに困っています。罰金が怖くて小学校には通わせますが、その先はありません。

 翠玉楼に引き取られた娘たちは、四、五年かけて十分な教育を受けることになります。

 ハンナさんは特例です。基礎教育ができていますし、私が見てきた中でもとびきりに頭がいい。

 それでも、店に出られるようなるまで、最低でも二年はかかるでしょうね」

「高等学校に通わせるの?」


「いいえ。そんな悠長なことはしていられません。

 一流の家庭教師による個人授業ということになります。

 それに、礼儀作法やダンスは必修ですし、歌や踊り、楽器の演奏まで学びます。

 芸術的な感性を磨くため、週に一度は劇場にも連れていくのですよ」

「あら、それは楽しそうね」


「とんでもありません」

 ハンメルは首を横に振った。柔和な笑顔を浮かべていても、目が笑っていない。


「睡眠と食事以外、一時たりとも休む暇がないのですよ。

 昼は授業がびっしり詰まっていますし、夜は先輩娼婦の身の回りの世話をしながら、彼女たちの技術を学ばねばなりません。

 皆、かなりの覚悟をもっていますから、どうにか耐えられるのです。普通の娘であれば、三日と持たずに逃げ出すか、首をくくることになるでしょうね」


「なるほどね……」

 アデリナはあっさり納得した。この世界は残酷だ。それはいやというほど知っている。

 彼女は再び、村長の方を向いた。


「それで、父親のフリッツはなぜ娘を売ったのかしら。やっぱり借金?」

「とんでもない。フリッツは真面目だし、意欲と情熱をもった立派な農家です。畑の収量も作物の質でも、村で敵う者がおりません。

 ハンナが優秀なのは、父親譲りなんでしょうな」


「じゃあ、なぜ?」

「フリッツは熱心すぎるのです。新しい品種や農法があると聞けば、試さずにはいられません。

 そのためには金に糸目をつけない。道楽にしては度が過ぎるのです。

 だから、稼ぎはいいのに暮らしは苦しい。あれでは女房、子どもが可哀そうですよ。

 私はよく思います。彼は何かの呪いにかかっているんじゃないか、ってね」


      *       *


 以下は、村長の語った身売りの経緯である。


 パヘス村周辺の開拓が終了したのは、もう何十年も前の話だった。

 新たな農地を拓く余地はなく、すべての耕作者が確定していた。

 フリッツは新たな品種や農法を試すだけでなく、もっと規模を広げて実践したいと渇望していた。要するに、農地を広げたかったのだ。

 そうなると、誰かから買うしかないのだが、生活の基盤となる畑を手放す農家などいるはずがない。


 ところが昨年の話だ。村の住民のひとりが、不慮の事故でこの世を去った。

 その男は妻と二人暮らしで、そこそこの広さの畑を耕しながら、羊も三十頭ほど飼っていた。

 夫妻には三人の娘がいたが、いずれも都会に働きに出て、その地で伴侶を見つけて家庭を築いていた。


 寡婦となった女房は、最初のうちこそ村のわか(男の使用人)を雇って耕作を続けたが、一年も経たないうちに音をあげてしまった。

 彼女はもともと身体が強い方ではなく、腰と膝の痛みに悩まされていた。


 そこで、彼女はパッサウ市で暮らしている長女のもとへ身を寄せることにした。

 家と農地は売りに出したが、急なことでもあったから、買い取れるほど余裕のある家は、村長を含めて誰もいなかった。


 フリッツも喉から手が出るほど欲しがったが、ろくな貯えがないのではどうしようもない。

 諦めきれない彼は煩悶し、精神の均衡を崩してしまった。

 突然叫び声をあげたり、髪の毛をかきむしる。そうかと思えば家族と話さなくなり、ぶつぶつ独り言をつぶやいたりしたのだ。


 憔悴する父親の姿を目の当たりにして、娘のハンナは同じように苦しんでいたが、十六歳の少女にはどうしようもなかった。


 成績優秀だったハンナは、義務教育を終えると、ゼルデンの町にある高等小学校(中学校に当たる)で学んでいたが、暮れに卒業して帰ってきたばかりだった。

 無料の小学校と違い、高等小学校の学費や教材は有料で、おまけに下宿代も安くはなかった。

 それが三年も続いたのだから、家の負担は大きかったはずだ。


 だが、フリッツは勉強がしたいという、娘の希望を何よりも優先した。

 もちろん贅沢はさせられないが、町の娘たちに引け目を感じないよう、身なりにも気を遣ってくれた。

 それだけあれば、農地を買うのに必要な金額の、半分は賄えたはずである。

 頼み込んで残りを分割にしてもらえれば、実際に買えていたかもしれない。


 そんな時である。まるで示し合わせたように翠玉楼の女衒、ハンメルが村にやってきた。

 彼の目的を知ったフリッツは怒りに震え、訪ねてきたハンメルを追い返そうとした。

 だが、それを押し止めたのは、ほかならぬハンナ自身であった。


 彼女は父親をなだめすかし、ハンメルを家の中に招き入れた。

 話を聞いてみると、女衒が提示した支度金は、農地を買ってもお釣りがくるほど法外な金額であった。

 村で買い手がつかなかった農地は、ゼルデンの地主へ売ろうという話になっていたから、これは天祐てんゆうといってもよい。


 ハンメルから詳しい説明を聞いたハンナは、その場で翠玉楼に行くことを宣言した。

 両親は慌てふためいて止めようとしたが、彼女は頑として聞き入れなかった。

 

「お父さん、勘違いしないでちょうだい。私は家の犠牲となるつもりはありません。

 暮らしが苦しいのに、高等小学校に通わせてもらったことは、心から感謝しています。私はそれで満足すべきだということも、十分に分かっています」


 ハンナは涙を流しながら、大声で叫んだ。

「でも、それだけじゃ嫌なの! 私はもっと勉強したい! もっともっと、この世界のことを知りたいの!!

 ハンメルさんのお話が本当なら、その学費を自分の身体で支払えるのよ?

 そんなうまい話を、逃してたまるもんですか!

 いま私の目の前に、新たな道が拓けたの!

 もし、お父さんが私を大切だと思ってくださるのなら、どうか私の希望を奪わないでください!!」


 顔を真っ赤にして叫ぶ娘に、フリッツは黙り込んだ。

 だからといって、簡単には承諾できる話ではなかった。

 ハンナの粘り強い説得によって、この三日後、とうとう首を縦に振ったのだ。


 翠玉楼の徹底した健康管理(性病や避妊対策)、そして少なくない数の高級娼婦が貴族や富豪に身請けされるという、ハンメルの説明も後押しをした。


 もちろん、彼女たちが正妻として迎え入れられることはないが、この世界ではめかけの存在は珍しくなく、決して蔑まれるよう身分ではなかった。

 努力次第で、自分の将来と幸福を掴み取れる可能性があると知り、ますますハンナの決意は揺るぎないものとなった。


      *       *


「さあさあ、クッキーが焼き上がりましたよ」

 村長の長い話が一段落したのを見計らい、奥方が大きなお盆を台所から運んできた。

 彼女は籠に山盛りのまだ熱いお菓子を、白い小皿に手際よく取り分けた。


「マダム、お手伝いいたします」

 いつの間にか席を立っていたハンメルが、すっとそこに寄り添って配膳を手伝ってくれた。

 本当は、客人にそんなことをさせられないのだが、彼の行動があまりに自然すぎて、奥方も断れなかったのだ。

 都会の色男から貴婦人のような扱いを受けた奥方は、頬を赤らめてまんざらでもない表情を浮かべていた。


 ハンメルはテーブルを回り、エイナとアデリナの前に、音をたてずに小皿を置いた。まるでプロの給仕の仕事である。

 エイナの目の前をハンメルの腕が横切ると、クッキーの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

 それと同時に、菓子とは違う種類の甘い香りが、ふわりと漂った。


 配膳を終えて自分の席に戻ったハンメルに、エイナは上半身を乗り出すようにして(間にアデリナが座っているため)声をかけた。

「ハンメルさん、とてもよい匂いがしますね。何の香水ですか?」


 エイナはそれまで黙って話を聞いていた。

 彼女は不思議でならない。確かに好奇心を刺激する話題ではあった。

 だが、所詮は会ったこともない娘の運命である。言っては悪いが、吸血鬼を倒す旅とは何の関係もない。

 なぜ、アデリナが詳しく知りたがるのか、彼女には理解できなかった。


 それはそれとして、食事に招かれた客としては、いつまでも黙っていては礼を失する。

 ハンメルに感じた甘い匂いは、たわいもないお茶うけ話として、ちょうどよいものに思えたのだ。


 だが、意外なことに、ハンメルはかなり驚いた表情を浮かべた。

「これは……驚きました。中尉殿はよくお気づきになられましたね?

 私たちは職業柄、香水をつけるのが普通です。ただ、強い匂いは相手を不快にさせることもあるので、本当にごくわずかしか使いません。

 普段は何も感じさせず、肌を合わせた時に初めて、ほんのり香るようにしているのです」


 エイナは吸血鬼の血の影響で、常人より嗅覚が優れているのだが、ハンメルはそんな事情を知らない。

 彼にしてみれば、身だしなみの極意を見破られたような屈辱を感じたのだろう。


「これは夜来香イエライシャンね。

 さすがは翠玉楼の女衒、よい趣味をしてるわ」


 アデリナの説明に、エイナは首をかしげた。

「いえらい……って、中原語じゃないですよね、どこの国の言葉ですか?」

「ああ、そうか。中尉さんはこういう話にはうといんだっけ。

 あなたも年頃なんだから、もう少しおしゃれ方面に興味を持ってもいいんじゃないかしら」


 その口ぶりは、いかにも年上の女性らしいものだったが、アデリナの見た目はエイナとあまり変わらず、少し滑稽に聞こえる。


「夜来香は花の名前よ。夜になると甘くて濃厚な香りが強くなるの。

 昔は遥か東の大陸から、わずかに渡ってくるだけで、同じ重さの砂金と取引されるくらい高価だったそうよ。

 夜来香イエライシャンっていう名前も、東大陸の言葉らしいわ。

 それが、五十年くらい前だったかしら、南の黒人国家で自生していることが分かってね、ゴムと一緒に輸入されるようになったそうよ。

 ちなみに、それを発見したのが伝説の大魔導士サシャ・オブライエン。中尉さんも魔導士なんだから、知っているでしょ?」


 もちろん、エイナはその名をよく知っている(会ったことはないが)。

 それにしても、いろいろな所で出てくる名前である。

 一方で、アデリナの説明に、ハンメルはますます目を丸くした。


「アデリナ様も分かるのですか? しかも香りの種類まで当てられるとは……!」

「あたしは職業柄、犬みたいに鼻が利くのよ。だから、最初に会った時から気づいていたわ。

 中尉さんも鼻がいいけど、あたしほどじゃないわね。今になって気づいたんだから。

 大丈夫よハンメルさん。普通の人間だったら、よほど近寄っても気づかないわよ」


 腕を鼻に近づけて、自分の匂いをくんくん確かめているハンメルに、アデリナは笑って種明かしをした。

 その後は、焼きたてのクッキーを摘みながら、たわいのない話が続いた。


 そろそろお開きという雰囲気になったところで、アデリナが再びハンナのことに話を戻した。


「ハンメルさんは、明日パッサウに向かうのかしら?」

「はい。最後の昼食を家族と囲んでいただいてから、ハンナさんと一緒に馬車で出発します」


「それを村中で見送りするために、この雨なのに飾り付けをしていたのね?」

 村長は黙ってうなずいた。やはり、いく分かの後ろめたさを感じているらしい。


「こちらは朝早く出るつもりだったけど、その前にフランツさんのお家を訪ねてもいいかしら?

 ハンナさんとも会ってみたいし、祝福をお伝えしたいわ」

「それは、こちらからお願いしたいくらいです。アデリナ様のお言葉となれば、ハンナの自慢にもなるでしょう」


「では、お願いしますね。お料理もお菓子も美味しかったわ。どうもありがとう」

 彼女はそう言って席を立ち、エイナもそれにならった。


 村長は火の入ったランプを持って、二人の先に立ってくれた。

 部屋に入って扉を閉め、村長の足音が遠ざかると、エイナは堪らずにアデリナに詰め寄った。


「どうしてハンナという娘に会う必要があるんですか!?

 これは彼女とその家族が決めたことで、私たちには関係ないし、どうしようもない話ですよ!」


 だが、アデリナは動じない、逆に、エイナをさとすように訊ねた。

「そんなことは分かっているわ。

 それよりエイナちゃん。あなた、あの女衒のこと、何か気づかなかった?」


「香水の話だったら――」

「それだけ?」

 アデリナは娘の言葉を遮って訊ねた。その答えは、エイナの戸惑った表情を見れば明らかだった。


「そう。まぁ、仕方ないわね」

 アデリナは小さく溜息をつき、エイナの耳朶に唇を近づけた。


「あのハンメルって男、ほんのわずかだけど……吸血鬼の匂いがしたわ」

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