ニ十三 香りの記憶
翌朝、夜明けとともに目覚めたエイナに対し、アデリナは「今日でこの宿を引き払う」と宣言した。
この町に出現した吸血鬼は四人、彼女たちはそのひとりを倒したに過ぎない。
町を安全にするためには、まだまだ時間がかかるはずで、そのためには拠点が必要なはずだ。
そう抗議しても、アデリナは譲らなかった。
「駄目よ。昨日のことは、すぐに町中に知れ渡るわ。
そうなったら、ここにも野次馬が押し寄せて、宿に迷惑をかけるもの」
「では、今夜からどこに泊るのですか?」
「平気、平気。
なんたって、あたしは美少女剣士アデリナよ。家に泊めたら末代までの自慢になるもの。泊めてくれる家なんて、いくらでも見つかるわよ」
「おいおい」
エイナは力なくつぶやいた。
「やぁね、エイナちゃんったら、元気が足りないわよ。そこは全力で突っ込むところよ。
元気があれば、何でもできるんだから」
エイナは溜息しか出ない。
自分の記憶の中にある母は、知的で穏やかな優しい女性であり、こんな性格ではなかったはずだ。
思えば、両親と暮らしていた少女時代は幸せだった。
ありがちな話だが、彼女にとって母親は理想の将来像で、自分は大きくなったら、父親のお嫁さんになると固く信じていた。
もしその夢が叶ったら、最愛の母から夫を奪う結果になるのだが、幼い少女はそこまで考えが及ばない。
エイナは食堂に行く前に、ロビーのカウンターで宿を出ることを告げ、軍票を切って費用の清算をした。
対応してくれた宿の主人は驚き、「どうするつもりですか?」と心配してくれたが、エイナは肩をすくめるしかない。
彼女も知らないのだから、答えようがないのだ。
彼はどこから聞きつけたのか、すでに昨夜の討伐のことを知っていた。
「まぁ、正直に言えば助かります。外に出れば分かるでしょうが、もう野次馬が集まっています。
多分、昼過ぎにはもの凄い数になるでしょうな」
そう言いながらも、主人はえびす顔だった。
短期的な騒ぎさえ我慢すれば、吸血鬼狩りのアデリナが泊った宿という評判は、経営の助けになるだろう。
それに、エイナが切った軍票の金額には、十分な〝色〟がついていた。
これは、世慣れたアデリナの助言(「迷惑料よ」)の結果である。
* *
朝食を食べ終えた二人は、町の南西街区へと向かった。
宿の前には十人以上の野次馬が集まっていて、アデリナの姿を見ると歓声をあげた。
ただ、近寄りはするが、行く手を遮ったり、話しかけてくる者はいない。
アデリナの隣りには、エイナという軍の魔導将校がいるからだ。
帝国では魔導士が非常に尊敬されているが、同時に恐怖の対象でもあった。
魔法を見たことのない田舎の人間は、魔導士様の機嫌を損ねると、地獄の業火で骨も残さず焼き殺されると、本気で信じていたのだ。
それでも町の住民たちは、感謝と期待の声を上げずにはいられなかった。
「アデリナ様! 軍の魔導士様!!」
「ゼルデンを救いにきてくれて、ありがとうございます!」
「俺たちがついている。頑張ってくれ!」
「そうだ! 吸血鬼は皆殺しだ!!」
アデリナは黒い帽子を目深に被っているので、その表情は窺えなかったが、片手を軽く上げてその声に応えてみせた。
それだけでも、早朝から詰めかけた野次馬には、十分な収穫だった。
これで数週間は、酒場で話のタネに困ることがないからだ。
南東地区にある宿から、隣接する南西地区までは三キロほど、エイナとアデリナは馬に乗っているので、ゆったりとした並足でも、三十分ほどしかかからない。
二人は南西地区の世話役をしている、グスタフという男の家を訪ねた。
彼の元にも昨夜の情報は届いていて、予告なしの訪問にも関わらず快く迎え入れられた。
吸血鬼に狙われる可能性のある家の調査は、各地区の世話役にも依頼されていて、その結果はすでに集まっていた。
南西地区から提出された名簿は、全部で八軒であった。北東地区が二十三軒だったのに比べると、ほぼ三分の一という少なさである。
これにはちゃんと理由がある。
街道を挟んで北側が、もともとの集落であったのに対し、南側は町が大きくなってから人が集まり、新たに開発された地区だった。
当然、裕福な商家は昔ながらの北側に多く、南側は仕事を求めて移住してきた労働者が多かった。
アデリナはグスタフに対し、今日中に候補の家を全部回るつもりだと伝えた。
世話役は驚きながらも、それなら自分が案内に立つと申し出てくれた。
これは正直にありがたかった。
作成された名簿には、一応の略図が付いていたが、初めての土地であるから迷う可能性がある。
候補と推定された家には、アデリナが調査にくることが知らされていたが、グスタフが同行していた方が、すんなりと受け入れられるはずだ。
実際に回り始めると、どの家も子どもを避難させた後だった。
そして、全員が昨夜の事件のことを、もう知っていたのだ。
* *
比較的早い順番で見つかった北東地区とは真逆で、吸血鬼の痕跡を発見したのは、一番最後の家だった。
その家は平屋の木造家屋が多い周囲と違って、石造りの二階建てで、外塀まで巡らせていた。
家の主人はリヒャルトという穀物商で、一代で財を成した、いわゆる成金であった。
幸いなことに、リヒャルトは用事で在宅しており、驚きながらもエイナたちを迎え入れてくれた。
彼には三人の子があり、長女は十九歳でもう他家へ嫁いでいた。
その下の長男は十六歳、末っ子の次女は十四歳だという。もちろん、二人とも親戚の家に避難済みで不在だった。
子どもたちの部屋を見せてもらったアデリナは、リヒャルト夫妻に断言した。
「狙われているのは息子さんの方です」
アデリナによれば、吸血鬼の臭気は両方の部屋に残っていたものの、濃度がまったく違うらしい。
次女の部屋はちょっと覗いた程度なのに対し、長男の方は部屋の隅々まで歩き回り、壁や窓に触れた痕跡があった。
「恐らく、女の吸血鬼でしょう。
息子さんは十六歳だそうですが、あまり外交的な性格ではないですね?」
アデリナの質問に、奥方が青ざめた顔で答える。
「ええ、あの子は小さな頃から内気で、家で本を読んでいる方が好きなんです。
でも、どうしてそんなことまで分かるんですか?」
「男の吸血鬼が処女を狙うように、女の吸血鬼は童貞を好みますからね。
少なくとも、息子さんにはまだ〝悪い虫〟がついていないってことです。ませた子なら、もう遊んでいる年頃ですからね。
とにかく、今夜から息子さんの部屋を見張ります。しばらくご厄介になりますが、よろしいですね?」
奥方は慌てて何度もうなずいた。
「えっ、ええ、もちろんです!
ただ、困ったわ。まだ何も準備をしていなくて……。
あの、確かこの地区が襲われるのは、六日先だと聞いていましたが、違うのですか?」
「それは、何もしなければの話です。
あたしたちは昨夜、北東地区の吸血鬼を滅ぼしました。
ベラスケスは今ごろ、帰ってこない手下の身に何が起きたのか、首を捻っているでしょうね。なぜ待ち伏せされたのか、理解できないからです」
アデリナは帽子を上げ、奥方の目を真っ直ぐに見て、ゆっくりと言い聞かせた。
「思い当たるとすれば、同じ周期で人を攫っていたことです。
だから、今度はわざと襲撃日をずらしてくる可能性が高いのです。
ですが、血に飢えている彼らは待つことができない。周期を変えるなら、早くするしかありません。
だから、こちらも早目に待ち伏せをする。……お分かりですか?」
奥方は歯をがちがち鳴らしながら、ようやくうなずいた。
夫のリヒャルトは落ち着いており、アデリナの話をよく理解できたようだ。
「分かりました。私どもはできる限りの協力をいたします」
「いえ、ご夫妻は普段どおりに過ごされて構いません。そして、夜は部屋から出ないでください。
今夜から、中尉が息子さんの身代わりでベッドに入り、私は部屋の前で待機します。何かあった場合は、お二人をお呼びしますので、安心してお休みください」
「あと、あの……」
エイナが遠慮がちに、アデリナのマントを引っ張った。
「何かしら、中尉さん?」
アデリナが〝エイナちゃん〟と呼ばないのは、夫妻の前で猫を被っているだけだ。
赤い唇に悪戯っぽい微笑が浮かんでいることに、エイナは諦めに似た感情を覚えた。
「ということは、前回と同じ作戦でいくということですか?」
「そうよ。手の内はバレていないから、もう一度くらい使えるわ。
別に問題はないと思うけど?」
「いえ、それがあるんです」
「どんな?」
「私が囮でベッドに入るということは、つまり、その……匂いで気づかれないように、息子さんの下着をつけなきゃいけないんですか?」
「ああ、それかぁ」
アデリナはちらりと奥方の方を見た。
彼女は慌ててうなずく。
「はい。お言いつけどおり、息子の寝巻と下着は、洗濯をせずに取ってあります」
「う~ん、さすがにそれは、教育上の問題があるかしら?」
「そそそ、そうですよ! 教育というより、乙女の純潔の問題です!」
「違うわよ。自分の下着を見ず知らずの若い娘が穿いたと知ったら、息子さんの精神衛生上、絶対によくないって話よ。
乙女の純潔なんて、犬にでも喰わせればいいわ」
「ひっ、酷い!」
「まぁ、下着は勘弁してあげるから、パジャマだけは着なさい。
それと、夕方のうちにシャワーを借りて、全身くまなく洗うこと。
ちゃんと洗えているか、あたしが確認するわ」
「い、いやぁーっ!」
ミヒャエル夫妻は目を丸くして、二人のやり取りを聞いていた。
いくらアデリナが名高い吸血鬼狩りでも、相手は権威ある軍の魔導士官である。
それが年の近い母娘のように(実際そうだが)じゃれ合っているのだから、驚き呆れるのは当然であった。
* *
長男(レオンという名だった)の部屋で、男物のパジャマを着たエイナは、毛布を頭から被ったまま、まんじりとせずに夜を過ごしていた。
着用は免除されたが、袋に詰めた下着はベッドの上に置かれていた。
そこから微かに伝わってくる、年頃の少年の匂いが気になり過ぎて、眠気を感じるどころではなかった。
『ああ、これってキノコの匂いだ』
唐突にそんな記憶が浮かんできた。
前にシルヴィアに連れられて、王都の料理屋で食事した時のことである。
彼女は食道楽で、美味しいと評判の店を食べ歩くのが大好きだった。
女性ひとりで食事するのは恥ずかしいので、エイナはいつも付き合わされた。
その日シルヴィアが頼んだ料理は、固めに茹でた麺をガーリックオイルで炒め、仔牛の肉を煮込んだソースがたっぷりとかかったものだった。
それだけで美味しそうだったのに、給仕の男性は皿の上で、板のような道具に白い塊りを擦りつけた。
白い薄片を料理の上に数枚落とすと、給仕はお辞儀をして去っていった。
「えと、あの……シルヴィア? これ、何かしら? すごい匂いがするんだけど」
エイナは周囲に聞こえないよう、小声で訊ねた。
シルヴィアは特に驚く様子もなく答えてくれた。
「キノコよ。トリュフっていうんだけど、初めて?」
エイナはこくこくとうなずく。
辺境で暮らしていた時は、森で採れたキノコが当り前に食卓に並んだが、これは彼女が知っている種類ではない。
「これは白トリュフね。黒いのもあるのよ。
めったに採れないらしくて、とっても高価なの。香りがよくて、食欲をそそるでしょ?」
シルヴィアは嬉しそうに微笑んで、ソースを絡めた麺を口に運んだ。
エイナの方も友人の手前、美味しそうな表情を作って食べ進めた。
だが、キノコの匂いは食欲をそそるどころか、むしろ吐き気を覚えるものだった。
彼女はキノコが好きなのだが、この匂いだけは駄目だった。
独特の青臭さからは、なぜか性的なものが感じる。なぜそう思うのか、エイナは自分でも分からなかった。
真っ暗な部屋の中で、エイナの嗅覚は、あの白いキノコの香りを確かに感じとっていた。
そして、またしても妙な背徳感が蘇ってきて、なぜか頬が熱くなった。
最初の夜は、何事も起こらずに夜明けを迎えた。
空が白んでくると、もう吸血鬼が襲ってくる可能性はなくなる。
エイナはベッドを抜け出すと、急いでパジャマを脱ぎ、自分の普段着に着替えた。
一刻も早く、匂いの呪縛から逃れたかったのだ。
エイナとアデリナは、リヒャルト夫妻に無事を伝えると、朝食も摂らずに二階の客用寝室に向かった。
そしてベッドに潜り込み、夢も見ずにぐっすりと眠った。
エイナが肩を揺すられて覚めたのは、昼前のことであった(アデリナはとっくに起きていた)。
彼女たちは顔を洗い、着替えてから階下に降りた。
まだ少し眠そうな顔で、もそもそとパンを咀嚼しながら、エイナはアデリナに自分が感じた匂いの話をした。
娘の話を〝ふんふん〟と聞き流していたアデリナは、途中からにやにや笑いを浮かべた。
「そりゃあレオン君は十六歳だもの。それくらいは許してあげなきゃ。
大人の女性は寛容であるべきよ」
エイナには、母が何を言っているか分からなかったが、どうやら自分が揶揄われていることだけは理解できた。
つまり、これはアデリナが大好きな、アレ関係の話に違いない。
エイナは顔を赤くすると、ごまかすようにミルクでパンを喉に流し込んだ。
そして、二度とこの話題に触れない、そう決心したのだった。