二十二 抜刀一閃
アデリナの〝いかにも〟な恰好は、詐欺師と疑われながら、周囲の目を集めていたのは間違いない。
ヤン中尉が勧めてくれた、裏通りの家庭的な食堂、錆猫亭でもそれは同じだった。
客たちは食事をしながら、ちらちらと横目で彼女を盗み見し、耳をそばだてていたのだ。
アデリナは、当然その視線に気づいており、十分に意識していた。
その上で、彼女はアデリナだと名乗るとともに、軍出張所の指揮官と会っていたことも明らかにした。
ゼルデン市民にとって、その意味するところは重い。
もし彼女が詐欺師なら、軍が黙って帰すはずがない。それなのに所長と会い、地元民しか知らないこの食堂を紹介されたという。
出張所はすぐ近くにあるから、嘘ならすぐにバレる。
『……ということは、本当の本物だってことか?』
ほぼ満席だった食堂の客たちが、内心ざわついたのは当然である。
アデリナたちが店を出るのを、彼らが黙って見送ったのは、エイナの存在に遠慮したからだ(帝国魔導士官の権威は、それだけ大きい)。
エイナたちがいなくなった後、常連客たちは女主人にあれこれ訊ねたが、彼女だって初めての客だから、答えようがない。
この数か月、急増した行方不明者を人びとは吸血鬼の仕業だと信じ、人が集まればその噂でもちきりだった。
訴えても軍が何もしてくれない……それはいつもと同じだったが、いつまで待っても吸血鬼狩りはやってこなかった。
不満を募らせていた食堂の客たちは、集団で出張所に押し寄せ、口々に喚きたてた。
『アデリナがこの町を救うため、戻ってきたというのは本当か?』
『彼女はどこに滞在している? 会うにはどうしたらいい!?』
暴動になりかねない気迫に呑まれ、出張所の兵士たちはアデリナが本物で、大通りの麦倉屋に宿泊していることを教えてしまった。
ヤン中尉は、なぜか緘口令を敷かなかったから、情報を洩らした兵士に罪はない。
むしろ彼らだって、誰かに話したくてうずうずしていたのだ。
これを聞いた者たちは、急ぎ家に戻ってこの大ニュースを家族に伝えた。
この先は、女房たちの独壇場だった。
女の噂話は、燎原の火のごとく町中に広がっていった。
同日夕方には、ロブの店(この町で代々続く料理屋)にアデリナが姿を現した。
料理長のロブは、アデリナの昔馴染みであったから、彼女が『間違いなく本物だ』と太鼓判を押した。
すでに町中に広がっていたアデリナ復活の噂に、この情報が駄目押しをした。
誰かが音頭を取ったわけでもないのに、夜明け前から宿屋の前に人びとが集まったのは、そういう事情であった。
それは、アデリナが意図した結果でもあった。
* *
宿に押しかけた者たちに依頼した結果は、予想以上に早く集まってきた。
アデリナを知っていたカールが、町の世話役のひとりだったことも幸運だった。
『吸血鬼が狙われそうな家を教えてくれ』、そう依頼された世話役たちは、調査をする必要もなかった。
彼らはただ、自分の女房に訊けばよかったのだ。
主婦たちが握っているご近所情報は、恐ろしく正確で詳細だった。
今回求められた、比較的裕福な家庭の事情となると、さらに情報の精度が高まる。
午前十時過ぎには、北東地区における候補家庭のリストが、ほぼ出揃ったのである。
その総数は二十三軒。予想したよりはかなり少なかった。
年頃の娘や息子に独立した部屋を与えるだけの、経済的な余裕を持つ家はそれなりに存在した。
結婚して家を出るまでは、年頃になっても両親と同じ部屋で寝るという慣習が、地方では強固に残っていたためだろう。
エイナとアデリナは、すぐさま調査に乗り出した。
各町内の世話人を訪ね、その案内で候補の家庭を回ったのだ。話は通っていたので、住民たちは協力的だった。
子どもたちの寝室に足を踏み入れ、吸血鬼の臭いが感じられなければ、アデリナは即座に安全の判定を下した。
涙を流して喜ぶ両親には必要な助言を与え、すぐに次の家に向かう。
結局、午前中は八軒の家を回ったが、すべて問題がなかった。
「ビンゴだわ!」
アデリナがエイナにささやいたのは、午後の調査を始めて六軒目の家だった。
「思いっきり臭いわ。男の吸血鬼ね」
その言葉を聞いた家の主婦は震えあがった。
彼女の夫は服飾関係の卸業を営むミハエルという男で、狙われていたのはエミリアという名の、十六歳になる一人娘だった。
「念のため、お嬢さんは親戚の家に避難させてください。
吸血鬼は必ず倒しますが、部屋の一部を壊したり、汚したりするのは許してください」
淡々と説明するアデリナに、母親は歯の根が合わず、何度もうなずくだけだった。
目当ての家が見つかったとはいえ、残った候補を無視するわけにはいかない。
エイナたちは午後いっぱいかかってすべての家を訪ね、その安全を確認した。
* *
翌日、改めてミハエル夫妻の家を訪れたエイナたちは、半日を打ち合わせに費やした。
狙われているエミリアは、隣の街区に住む祖母の家に避難することになり、念のためにエイナが護衛として母娘に付き添った。
午後遅く宿に戻ると、アデリナは自分とニコル(エイナの父)が編み出した、連携手段をいろいろ教えてくれた。
今回使用する作戦は、その中でもきわめて単純なものであった。
「吸血鬼に高い魔法耐性があることは、エイナちゃんも知っているわよね?
それでも、熱や炎で攻撃する魔法は有効だと言われているし、実際あたしの経験でも、そうだと言えるわ。
まぁ、結局のところ相手が真祖じゃない限り、魔法でも何とかなるのよ。一応はね」
「何だか、奥歯に物が挟まったような言い方ですね?」
「魔法は工夫しないと、使い勝手が悪いのよ。
エイナちゃん、ポテル村で吸血鬼を倒したって言ってたけど、楽勝だった?」
エイナは首を横に振った。
「いいえ。倒すことよりも、相手を外へ追い出すのに苦労しました。
家の中だとファイア・ボールが使えなくて……」
「そうでしょ? だから、あたしみたいな物理攻撃が得意な前衛がいる場合、魔導士は補助に回る方がうまくいくの。
重力魔法なんか、その代表ね」
「それ、私は使えません」
「ニコルは普通に使ってたわよ?」
「不肖の娘ですみませんでしたね。
真面目な話、お父さんみたいな天才と比べないでください」
「大丈夫。重力魔法が駄目でも、ほかにいくらでも手はあるわ。
さっき話した明日の作戦は、基本技みたいなものね。初歩的な魔法だから、問題ないでしょ?」
「並行起動なんて初めてですけど、多分できると思います。
夕食後に練習しますから、付き合ってください」
* *
当日は朝から雨で、夏にしては肌寒い一日だった。
ミハエルの家は、木造の平屋だが建坪は大きく、部屋数多かった。
溺愛する一人娘にねだられれば、個室を与えたくもなるだろう。
エイナたちは昼過ぎにはこの家に来た。
打ち合わせ事項を再確認し、準備を点検すると、あとは夜まですることがない。
それまでの間は、青ざめた顔をしている両親、特に母親の緊張を解きほぐすように努めた。
早目の夕食をいただくと、エイナはエミリアの部屋に入った。
軍服から下着まで脱いで全裸になると、彼女は用意されていた娘の服に着替えた。
ベッドの上に畳まれていた寝巻と下着は、エミリアが実際に身に着けていたもので、あえて洗濯をしていなかった。
これは、事前にアデリナが要請していたことである。
同性とはいえ、他人が脱いだままの下着に触れることに、エイナは強い抵抗を覚えたが、アデリナはまったく取り合わなかった。
「吸血鬼は鼻がいいって、何度も言ったわよね?
相手は一度下見に訪れていて、エミリアの匂いを記憶しているはずよ。
違う匂いがぷんぷんしたら、簡単にバレて警戒されるわ。命がけの仕事を舐めないでちょうだい。
それじゃ、あたしは扉の前で待機しているから、打ち合わせどおりにやるのよ」
アデリナは部屋を出ると扉を閉め、廊下の床にべたりと座り込んだ。
一方、寝間着姿となったエイナは、ベッドの上に潜り込んだ。
外が雨なので、窓は鎧戸を閉めた上に雨戸を引いている。ランプを消すと部屋は真っ暗になった。
彼女は毛布を頭まで引っ被った。
ほんのりと湿っていた下着がエイナの身体で温められ、エミリアという娘の体臭がはっきりと感じられた。
エイナは人よりも嗅覚が鋭いので、ろくに身体を洗えない軍隊生活では、いつも苦労してきた。
男性はまったく異質な臭いなので、麻痺をして何とも思わなくなったが、女性の場合は、いつまで経っても慣れなかった。
エミリアのそれも、別に臭いというつもりはない。ただ、どうしても生臭さを感じてしまうのだ。
自分だって同じような匂いを出しているのだから、これは同族嫌悪というものなのだろう。
エイナは毛布の中で目を開けたまま、聴覚に神経を集中させていた。
それほど敏感ではないが、彼女も吸血鬼の気配を感じることができる。
後は暗闇の中、ひたすら待つしかなかった。
一時間以上は経ったはずだ。
エイナの頭の中に突然、警報が鳴り響いた。
何か音が聞こえたわけではなく、ぬめっとした粘液が床から溢れ出てきた気配がしたのだ。
彼女は気取られないように、自然な呼吸を続けることに必死になった。
最初に感じた不定形な気配は、すぐにはっきりとした人間のそれへと変わった。
侵入者は、部屋に異常はないかを確かめるように周囲を見回し、それからベッドへと近づいてきた。
毛布越しに肩に手が触れた瞬間、エイナは抱え込んだ片足を、思い切り蹴り出した。
裸足の踵が鳩尾に沈み込み、一瞬遅れて相手が後方に吹っ飛んだのが、闇の中でもはっきりと分かった。
それと同時に、空中に強烈な閃光が発生して、部屋の中を真昼のように照らし出した。あまりに強すぎる光で、すべてが色を失って真っ白に見える。
壁まで蹴り飛ばされた男は悲鳴を上げ、目と腹を庇って床を転がった。
同時に扉が乱暴に開き、アデリナが飛び込んできた。
侵入者は目を庇っていた腕を下ろし、慌てて周囲を見回した。
部屋を照らす強烈な光は、吸血鬼にダメージを与える太陽光ではなかったのだが、それに気づくのが遅れ、彼の命取りとなった。
吸血鬼が必死で探しても、どこにも暗闇がない。
明かり魔法による光源は複数あって、それぞれが位置を変えて部屋を多方向から照らしたので、吸血鬼が逃げ込める影の発生を許さなかったのだ。
飛び込んできたアデリナは、姿勢を低くして背中を丸めた。
長刀の鞘が撥ね上げられ、肩を滑って前に落ちてくる。
アデリナはその長い柄を握ると、一気に刀身を引き抜いた。
浅く湾曲した片刃が光を反射して一閃し、次の瞬間には吸血鬼の頭が、重い音を立てて床に転がっていた。
エイナには、いつ吸血鬼が斬られたのかが分からなかった。アデリナが刃を抜く動作しか見えなかったのだ。
首を刎ねられた吸血鬼は、完全に絶命していた。
床と壁に飛び散った鮮血がどす黒く変色し、嫌な臭いのする煙を上げて蒸発を始めていた。
「ご両親を呼んできなさい!」
アデリナの強い口調にエイナは我に返り、裸足のまま慌てて部屋を出ていった。
敵を斃したら、速やかに被害者の両親を呼ぶことは、事前の打ち合わせで決められたはずだ。
吸血鬼の死骸はすぐに崩壊を始め、あっという間に黒い灰になる。
被害者の両親にそれを見せることで、討伐の確認をさせると同時に、安全になったと納得させる、大切な段取りである。
両親は自分たちの部屋に籠っていたが、当然眠れるはずがない。
エイナが外から呼ぶと、すぐに跳ね起きて出てきてくれた。
彼らが娘の部屋に駆けつけると、吸血鬼の肉体は半分以上崩れて、白い肋骨や腰骨が露出していた。
切り落とされた頭部の崩壊はそれよりも遅く、虚空を睨む瞳と目が合った奥方は、悲鳴をあげて気絶してしまった。
父親のミハエルは、吸血鬼の最期を食い入るように見詰めていた。
そして、すべてが黒い灰になると、堪えていた嗚咽を洩らした。
幸いなことに奥方はすぐに目を覚ましたので、介抱はミハエルに任せ、二人は家を出て夜の町を宿屋へと帰った。
もちろん、エイナは自分の服と下着に着替え直していた。
まだ雨は止んでいなかったが、だいぶ小降りになっていた。
時刻は夜の九時を過ぎており、飲み屋街でもない限り、通りに人の姿はない。
道すがら、アデリナはエイナの働きを労ってくれた。
「初めての連係にしては、なかなか上手にできてたわよ」
誉められても、エイナは釈然としない。
「でも、私がやったのは明かり魔法で部屋を照らしただけです。
あまり役に立った気がしません」
「そんなことないわ。吸血鬼が逃げ込む闇を封じるのって、大事なことなのよ。
闇に触れた瞬間に、吸血鬼は生みの親である眷属と連絡が取れるの。
そうしたら、あたしが生きていたことが、ベラスケスにまで伝わってしまうでしょう?」
「明かり魔法で影を消さなくても、あの太刀筋から逃げられたとは、とても思えません」
「もちろんそうよ。でも、実際の戦いでは、何が起きるかなんて、誰にも分からないもの。
どんなに自信があっても、保険はかけておく……それが生き延びるコツなのよ」
「経験のなせる業ですか……。
私、自分の母親の実年齢を知るのが、だんだん怖くなってきました」
「知る必要なんかないわ。何なら、永遠の十八歳ってことにしておいてちょうだい」
エイナは星の見えない夜空を見上げ、小声でつぶやいた。
「おいおい」