二十 料理屋
それはヤン中尉がまとめてくれた、行方不明者の詳細リストだった。
「エイナちゃん、まだ読んでいないでしょ?
今のうちに、ちゃんと目を通してちょうだい」
アデリナはそう言うと、欠伸をしながら大きく背伸びをした。
そして、懐から煙管を取り出し、煙草を詰めてエイナに向けて突き出した。
「私、煙草は吸いませんよ」
「知ってるわよ、そんなこと。
そうじゃなくて、火を貸してってこと。魔法でちゃちゃっと出せるんでしょ?」
エイナは少し顔をしかめ、いかにも〝仕方がない〟という表情で短い呪文を唱えて、指先に火を灯した。
アデリナは身を乗り出して羅宇(先端の煙草を詰める部分)を火に入れ、空気を吸い込んだ。
紫煙がゆらりと立ちのぼり、煙草独特の臭いが周囲に広がる。
エイナはベッドから降りて、窓の鎧戸を押し上げた。
戻ってくると、恨めしそうな視線を母親に向ける。
「私のお母さんは、煙草なんて吸いませんでしたけど」
「エイナちゃんのために我慢してたのよ。感謝しなさい。
でも、時々は隠れて吸ってたんだけどね」
この世界では、喫煙習慣がごく当り前に広がっていて、その率も高かった。
男性ほどではないが、女性の喫煙者も珍しくない。
「私……煙草は嫌いです。子どものころから」
「どういうこと?
少なくとも、あたしはあなたの前じゃ吸わなかったし、ニコル(エイナの父)はもっと偉かったわ。彼、あたしが妊娠したって知った日から、きっぱり煙草を止めたのよ。
家じゃ誰も吸わなかったんだから、好きも嫌いもないじゃない?」
「アイリ叔母さんとゴーチェ小父さんは、二人とも吸っていました。
小父さんはよく、あたしの顔に煙を吹きかけて笑うんです。
逃げようとすると殴られるから、黙って我慢するしかなくて……とても嫌だった」
「ああ、あたしが消えた後の話ね。
悪かったとは思っているわ。でも、何度も言うようだけど、仕方がなかったのよ」
エイナは小さく首を振った。
「分かっています。だから、気にしないでください」
そして、エイナは黙って資料を読み始めた。
アデリナは煙草を吸いながら、娘の姿を複雑な表情で眺めていた。
* *
アデリナの方は、この資料に目を通していた。錆猫亭にいた時だ。
エイナは食べるのがやや遅かったが、それ以上にアデリナは早過ぎであった。
時間を持て余した彼女は、資料を読み始めた。
エイナは呆れたような顔で母を見上げた。
「そんなに急いで食べなくても……料理は逃げませんよ」
アデリナは視線を書類に落としたまま、答えた。
「早飯、早糞は武人のたしなみ――軍で教えられなかった?」
「そういう教官もいましたが、強制まではされなかったです」
「あら、王国軍はやっぱり緩いのね。帝国は徹底しているわよ。
特に排便時って一番無防備だから、自然と身につくのよ。
野糞している時に襲われてみなさい。丸出しのお尻を見られるのはともかく、ズボンとズロースを足首まで下ろした状態で、満足に敵と戦えると思う?」
エイナは何も答えずに、黙って食事を続けた。
これ以上この下品な話題を続けては、ほかのお客さんに迷惑だったからだ。
* *
「読み取るべきは、犠牲者の共通点でしょうか?」
エイナはめくっていた書類を元に戻し、顔を上げてアデリナに訊ねた。
「そうよ。次の被害者を予測するには、まず把握しておくべき情報だわ。
それで、何か分かった?」
「そうですね……まず、男女ともに被害に遭っていますが、年齢が十六歳から十八歳の未婚ということが共通しています。
家族構成に特徴は見られません。ただ、比較的裕福な家庭が多いと思われます」
「あら、資料に被害家族の資産状況なんて書いていなかったわよ。
どうしてそう思ったの?」
「襲われた場所がすべて被害者の個室で、ひとりで寝ていたとあります。
親や兄弟姉妹と同じ部屋だと、騒がれる恐れがありますから、これはうなずけます。
そして、子どもに個室を与えるなんて贅沢は、ある程度余裕のある家庭でしか、許されないと思います」
「合格よ。それだけ条件が絞れれば、かなり捜しやすくなるでしょ?」
「この町、四、五万くらいの人口ですよね?
つまり、ひとつの街区で一万人以上、千数百世帯の住民がいるってことになります。
次の襲撃まで猶予は三日。それまでに全部を調べるなんて、絶対に不可能です。
もし可能だとしても、対象者は相当の数になるはずです」
「あら、あたしたち二人だけでやるなんて、誰も言っていないわ」
「あ、そうか! 軍の出張所に協力させるんですね?」
「残念、不正解よ。あたしヤン中尉に、何人兵を出せるか質問したでしょ?
根こそぎ動員しても十三人よ。実際には六、七人が限度ってとこね。焼け石に水だわ」
「それじゃ、どうやって探すつもりですか?
どうやって本命を特定するんですか?」
エイナの声音に苛立ちが混じった。
彼女はどうしても、アデリナが〝母親〟だという意識が抜けない。
普段は穏やかでのんびりした性格なのに、どうしても肉親相手だと感情をぶつけやすくなる。
だが、アデリナは肩をすくめてみせた。わざと挑発するような仕草だ。
「ちょっと落ち着きなさい。
まず調査の件は、明日には手伝いが来てくれるから、心配しなくていいの。
それと、その先の絞り込みのことだけど、裕福な家なんてそう多くないから、せいぜい三十軒前後だと思うのね。
丸一日あれば回れる数よ。実際に見れば、吸血鬼が出るかどうかなんて、一発で分かるわよ」
「えっ……!」
エイナから、思わず驚きの声が洩れる。
その反応に気をよくしたアデリナは、ますます芝居がかった口調になる。
「もうっ、エイナちゃんったら! あなたの目の前にいるのは誰?
美少女剣士〝吸血鬼狩りのアデリナ〟よ!」
「いや、その美少女っていらないですから。聞かされる私の方が恥ずかしいです」
「あなた、ポテル村で吸血鬼を殺ったのよね?」
いきなりアデリナの声が低くなった。
「え、……ええ」
エイナはその気迫に、思わずたじろいでしまう。
「吸血鬼のこと、最初に気づいたのは誰?」
「えと、あの、アリッサさんが教えてくれました。吸血鬼の臭いがするって」
「アリッサ?」
「オルロック伯爵の眷属です。私の護衛についていた……」
「ああ、あの変態糞野郎の性玩物ね、汚らわしい!
……まぁ、いいわ。吸血鬼は鼻がいいし、同族の臭いには敏感。
だからダンピールのあたしも、その能力を受け継いでいるの」
「そう……なんですか」
「さて、吸血鬼は用心深いから、いきなりは襲ってこない。何日か前に、必ず下見に来るのよ。
本当にひとりで寝ているかとか、部屋の間取りや脱出経路の確認ね。襲撃が三日後なら、下見は間違いなく済んでいるわ。
つまり、あたしが気づくくらいの臭いを残していってるってこと。
狙われている人の特定は、とても簡単なのよ」
アデリナは煙管をぽんと手に打ちつけた。足元に置いた灰皿の中に、灰の塊りがぶつかり、潰れて広がった。
* *
エイナはアデリナに連れられて、再び宿を出た。
もう夕方になったので、早目に食事を済ませておこうという話になったのだ。
アデリナは南部の大半の村を訪ねている。当然、その中心となるゼルデンは、よく知っている。
そこで、自分が知っている美味しい店に、エイナを案内しようという話である。もちろんエイナに断る理由はない。
問題は、彼女の記憶が二十五年も前のもので、その店がまだ存続しているかどうかだった。
ただ、二人は運がよかったらしい。最初に向かった料理屋の軒先には明かりが灯り、ちゃんと営業していた。
そこは、こじんまりとした農家風の家屋だったが、入ってみると外からの印象とは真逆の雰囲気だった。
板張りのよく磨かれた床には、白いクロスがかけられた丸テーブルと、優雅な曲線を描く椅子が並び、客の訪れを行儀よく待っていた。
壁には乾燥させたバラが大量に下がっていて、仄かな芳香が漂っている。すべての窓には、レースのカーテンがかかっていた。
食事を楽しんでいる先客の身なりも洗練されて、いかにも裕福そうな感じを受けた。
軍服姿のエイナと、黒ずくめで長剣を背負ったアデリナは無粋で、どう見ても場違いに見える。
だが、アデリナはまったく気にする様子もなく、給仕の案内に従って席に着いた。
給仕は黒革の表紙のメニューを差し出そうとしたが、彼女はそれを断って、慣れた様子で注文を伝えた。そして、最後にこう付け加えた。
「ここにくるのは、ずい分と久しぶりなの。
料理長はロブで変わりないかしら?」
「左様でございます」
「でしたら、食事が終わってから、ぜひご挨拶がしたいわ。
彼に『アデリナが来た』って、伝えてくださいな」
「かしこまりました」
給仕は丁寧にお辞儀をして、奥へと消えていった。
アデリナは店内を見回すと、嬉しそうにエイナに語りかけた。
「ここも大分変わったわ。昔は本当に田舎家風のお店だったのよ。
でも、料理長が変わっていないなら、ラビオリの味も変わっていないはずだわ。
とても美味しいのよ」
ラビオリは二枚の麵生地の間に挽肉や野菜、チーズを挟み、茹でてソースをかけた料理だ。
本当はマウルタッシェンというのだが、エウロペ風の名の方が広まっている。
アデリナが頼んだのは、これに歯応えのあるねじりパン、そして赤ワインであった。
出された料理は、アデリナが自慢するだけのことはあり、本当に美味しかった。
ただ、エイナはあまりお酒が得意ではないので、ワインの方はアデリナが独占することになった。
大満足の食事が終わり。給仕が皿を下げると、入れ替わるようにして、白衣を着た老人が奥から出てきた。
きれいな白髪と白い髭を蓄え、柔和な表情をした老人は、もう七十歳を超しているだろう。
彼はテーブルの脇に立つと胸に片手を当て、アデリナに向かって丁寧に頭をさげた。
「これは驚きましたな。本当にアデリナだ。
ですが、あなたはちっとも歳を取っていない。私は夢を見ているのかな。
もしかして、実はアデリナの娘さん……とか言わないですよね?」
「嫌だわ。あたしは本物の美少女吸血鬼狩り、アデリナその人よ。
あなたも南部人なら、聞いたことがあるでしょ? アデリナは殺した吸血鬼の血で、若さを保っている魔女だって噂。
それと、あたしが戻ってきた噂も届いていないの?」
「まさか。あなたが暮れに戻ってきたという話は、誰でも知っていますよ。だけど、三か月前にまた、忽然と姿を消したとも聞きました。
だから皆、戻ってきたのはあなたの亡霊ではないかと噂していたところです」
「あはは、お生憎さま。あたしはちゃんと生きているわ。
幽霊が食事をするなんて話、聞いたことがないわ。
実はね、結構大きな怪我をして、しばらく療養していたのよ。それが治ったから、もう一度戻ってきたってわけ。
そしたら、またぞろ吸血鬼が出ているっていうじゃない?
あらかた潰したと思ったのに、本当にゴキブリ並みにしぶとい奴らだわ」
「そうでしたか、それは皆も喜びますでしょう」
「まぁ、任せといて。この町を出るまでには、きれいに退治してあげるわ」
「ゼルデンには、どのくらい滞在されるのですか?」
「そうね、掃除には十日くらいかかるかな?
大通りの〝麦倉屋〟っていう宿屋、知ってるわよね? あそこに泊まっているから、何かあったら訪ねてきてちょうだい」
「それでは、ほろほろになるまで煮込んだ、特製舌シチューでも差し入れに行きましょうかな?」
「わぁ! それって裏メニューよね? 楽しみに待っているから、絶対よ!」
アデリナは立ち上がると、恰幅のよい料理長の身体を軽く抱きしめた。背は彼女の方が少し高い。
「行くわよ、エイナちゃん」
声をかけられたエイナも、慌てて立ち上がる。
料理長は少し遠慮気味に訊ねた。
「そちらの軍人さんは、肩のマントからして魔導士様のようですが……?」
「ああ、この娘はエイナ。
あたしが怪我をして、しばらく休んでたって言ったでしょ?
それを聞いた軍が、援護してくれることになったのよ」
「おお! では、ついに軍も動く気になったということですな!?」
「そういうことみたいね」
料理長は数人いる給仕たちを呼んで、全員で外まで見送ってくれた。
彼が約束してくれたシチューは、これまた絶品だったのだが、それは後日の話となる。
* *
翌朝、夜明けとともに起きたエイナとアデリナは、顔を洗って着替えを済ませ、朝食を摂ろうと宿の食堂に向かった。
この麦倉屋という宿は、既に説明したが、平屋で奥へ長い建物となっている。
客室は長い廊下に面して、ずらりと並んでいた。
二人は少し薄暗い廊下を、宿の正面に向かって歩いていった。
真っ直ぐ進むと、大小のテーブルや椅子、ソファなどが並ぶ、広い土間に出る。
ここは宿泊客が自由にくつろいだり、商談などもできるロビー的な空間で、様々な用に対応する宿のカウンターもある。
それが通りから見た正面の右半分で、左半分は食堂となっていた。
宿の食堂は宿泊客以外も利用でき、入口が別になっている(宿泊客は外に出ずとも、土間から入っていける)。
特に美味いとか安いというわけではなく、いずれも〝そこそこ〟なのだが、結構繁盛していた。
早発ちの客に対応するため、夜明けと同時に開店するためである。
エイナとアデリナは、前の日もここで朝食を摂った。
塩蔵肉の薄切りと目玉焼き、それに黒パンと山羊バター、タマネギのスープというメニューだった。
これで銅貨二枚だから、それこそ〝そこそこ〟である。
二人は「今朝も同じメニューにしよう」と話しながら、廊下を進んでいった。
だが、ロビーとなる土間の手前で、彼女たちの足がぴたりと止まった。
入口を塞ぐようにして、宿の従業員が待ち構えていたのだ。
二人分の宿代は、エイナが支払うことになっていたから、彼女が主客である。
宿は支払い主の身分は確認するが、その連れのことまでは訊かない。何かあったら、主客が責任を取るのが常識なのだ。
それなのに、従業員の男の目は、最初からアデリナに向けられており、しかもあまり好意的なものではなかった。
彼は少し背を屈め、鍔の広い帽子で隠れたアデリナの顔を、下から覗き込んだ。
「実は、朝っぱらから面倒なことになっておりましてね。
お客さんにお訊ねしたいんですが……よろしいですかね?」
その声には、有無を言わせぬ圧力があり、抑えた怒りが感じられた。