十九 地図
ヤン中尉が薦めてくれた錆猫亭は、カウンターとテーブル席が二つという小さな食堂で、昼食時は過ぎたというのに混みあっていた。
ぽっちゃりとした体形の女主人は、エプロン姿がよく似合い、にこにこと愛想よく迎えてくれた。
カウンター席の男性客を詰めさせ、エイナとアデリナを並んで座らせると、彼女はすぐにメニューを持ってきた。
だが、アデリナはそれを断って注文を済ませた。
「アイスヴァインをお願いするわ。パンもつけてくださいな」
女主人はメニューを胸に抱え、戸惑ったような表情を浮かべる。
「お客さん方、うちは初めてですよね?
女性の軍人さんと武芸者さんなんて組み合わせ、一度見たら忘れませんもの」
アデリナは背に不自然なほど長い刀を背負い、女だてらにズボンを穿いた男装である。
埃で薄汚れた黒マント姿は、旅の武芸者としか解釈しようがない。
「ええ、そうよ。実はさっき、軍の出張所で教えてもらったの。
ここのアイスヴァインは絶品だから、是非食べていけって」
すると、女主人の顔に笑みが戻った。
「ああ、中尉さんでしょう?」
「彼、常連なの?」
「ええ、週に四日は通ってくださいますのよ」
「ご主人を亡くされたって聞きましたけどけど、やっぱり戦争で?」
「ちょっと、アデリナさん! 失礼よ」
エイナが慌ててマントを引っ張ったが、女主人は気にする風もなく笑い飛ばした」
「いいんですよ、もう十年も前の話ですから。
あとひと月で退役だったのに、運が悪かったんでしょうね。
それより、お客さんのお名前、アデリナさんと仰るんですか?
いえ、まさか! でも、その長剣とマントって……」
「そうよ。吸血鬼狩りのアデリナ。南部じゃ結構有名だと思うけど、聞いたことないかしら?」
「でも、その噂を聞いたのって、あたしが娘時代の話ですよ?
お客さん、どう見ても二十代にしか……」
「吸血鬼が人間の血を吸うように、あたしは奴らの血を啜って生きているの。
だから、私は年を取らないのよ。驚いた? でも、これは秘密だから黙っていてね」
エイナはますます狼狽えた。自分から正体を明かすなんて、正気とは思えない。
「嘘です、ウソ! 信じないでください!!
この女、童顔で若作りしているだけなんですから!
そんなことより、混んでいるのにお喋りしていていいんですか!?
私たちだってお腹空いているし!」
「あらやだ、そうですよね。ごめんなさい! お料理、すぐにお持ちます」
彼女はぱたぱたと奥に引っ込んでいった。
アイスヴァインは煮込み料理だから、鍋からよそうだけでいい。
女主人の言葉どおり、すぐにカウンターの上に並べられた。
ヤン中尉が太鼓判を押すだけあって、その味は確かに絶品であった。
骨付きのすね肉は、口に入れた瞬間に繊維がほろほろと崩れてとろけた。
帝国でも肉といえば羊であり、豚は安いが臭い肉というイメージがある。
そのため、料理屋で出されることはめったにない。アイスヴァインも、庶民の家庭料理という位置づけである。
すね肉は固いので敬遠され、豚肉の中でも特に安い部位だ。
なぜ、この料理が店の名物となったのか、何となく事情が窺えた。
* *
エイナとアデリナは満足して食事を終え、まだ日が高いうちに宿に戻ってきた。
軍から提供された情報をもとに、今後の方針を相談しなくてはならない。
部屋に備え付けのテーブルは小さかったので、彼女たちはベッドの上に地図を広げて覗き込んだ。
まずは、南部全体の広域地図である。
村の位置は○印で示され、その大小である程度の規模が分かるようになっていた。
いくつかの村横には、新しく日付が書き込まれている。
それはアデリナが療養していた間の最新情報で、数えてみると十二か所である。
「さて、授業の時間だわ。
この地図の情報から、何が読み取れる?」
ベッドの上で胡坐をかいたアデリナが、微笑みながら課題を出してきた。
エイナは横座りでシーツに手をつき、考えながら慎重に答える。
「私たちの目的は、ベラスケスの討伐です。
そのためにはまず、彼の本拠地を解明しなくてはなりません」
「ふんふん、それで?」
「アデリナさんは、ある程度の目星をつけているんですよね?」
「それを教えちゃったら、エイナちゃんの勉強にならないわ」
「ええ、どうせそう言われると思っていました。
では、あなたが姿を消した当時の状況を整理してみましょう」
「昨年、私たちはベラスケスの直系眷属のうち、ジルドとイザベラの二人を滅ぼしました。
その後、あなたは帝国南部に舞い戻り、次々に吸血鬼を狩っていった」
「もっと誉めていいわよ」
エイナは母のからかいを無視して続けた。
「ベラスケスは油断していたんでしょうね。
彼の追跡は執拗で、十年をかけてアデリナが王国に亡命していたことを突き止めました。
そして、夫となっていた魔導士は殺したものの、肝心のアデリナは娘も捨てて、再び行方をくらましてしまった……」
「それは悪かったと思っているわ。
でも、そうでもしなきゃ、エイナちゃんだって狙われるもの」
「そのことは、もういいです。私も子どもではありませんから」
「あらまぁ、いつの間に経験したの?」
エイナは咳払いをして、低俗な軽口を黙殺した。
「ベラスケスはなおもアデリナを追い続けましたが、彼女はその後、十年以上も消息不明でした。
それが去年になって突然姿を現し、王国に派遣していた二人の眷属が斃されてしまいました。
それはベラスケスにとって大きな痛手でしたが、その代わり、アデリナが王国に留まっていることが判明しました。
大事な幹部を殺された彼は激怒したでしょうが、その一方で安堵もしていたはずです。
だから、突然南部に現れた吸血鬼狩りがアデリナだとは、夢にも思わなかったのでしょうね」
「ベラスケスは気位は高いくせに、思考が硬直しているのよ。要するに、馬鹿なんだわ」
「油断したベラスケスは判断を誤りました。
相手を少し腕の立つ吸血鬼狩りだと誤解した彼は、残り少ない眷属のひとりを討伐に向かわせたのです」
「そして美少女剣士アデリナに、あっさり返り討ちになったのね。いい気味だわ」
「……。ここに至って、やっとベラスケスもアデリナの帰還に気づきました。
そこで、なけなしの戦力――二人になった直系眷属を投入したのです。
これは大きな賭けでしたが、眷属たちは自分たちの命と引き換えに、ついにアデリナを倒した……はずでした」
「ところがどっこい、私は生きていた。
いやぁ、首を切断された時には、さすがに死んだかと思ったわ」
「化け物ですか? まぁ、その話は脇に置きましょう。
幹部をすべて失ったベラスケスは、慌てて戦力の補充に取りかかったはずです。
眷属が滅ぶと同時に、彼らが生み出した第三世代も運命を共にしました。
新たな眷属を作らなければ、ベラスケスに仕える者がいないわけですから、これは急務です。
ですが、年老いた彼には、眷属に分け与えるべき十分な血、すなわち生命力が不足していました。
それでも背に腹は代えられません。彼は必要最低限の血だけで、取りあえずの眷属を生み出したことと思います」
「命を削った結果が出来損ないだなんて、自業自得としか言いようがないわ」
「はい。問題はそんな不良品でも、大量の血が必要となることです。
部下はいないから、自分が動くしかない。貧すれば鈍すですね。彼はなりふり構わず、手近な村を次々に襲ったことでしょう。
地図を見てください。五月の被害報告は全体の半分を占める六件。そして、すべてが夜森の開拓村です。
これが六月になると、眷属が誕生したことで被害地域は各地に分散し、件数も減少しています。
つまり、ベラスケスの本拠地は夜森だと推測される――それが、私が導き出した結論です」
* *
夜森は、帝国最南端の大森林地帯である。
森の東と南はコルドラ大山脈が囲んで、西側にまで回り込んでいる。
西側では、トルゴル(ケルトニアの植民地)とつながっていて、彼らも夜森の領有権を主張していたから、両国の小競り合いが絶えなかった。
実際にエイナはこの春、ケルトニアの傭兵として、この地で帝国と戦ったばかりである。
南部地方の北側には、トリ川という大河が東西に流れ、トルゴル領内で海に注いでいる。
かつてはこの川が帝国領土の南部限界で、その南はすべて原生林であった。
帝国はこれを数百年かけて開拓し、広大な農地を得たわけだが、今なお夜森だけは、人間の侵略に抵抗を続けていた。
北側で皆伐された森林は純粋な針葉樹林だったが、夜森地域は少し植生が変化している。
気候が温暖で雨も多いため広葉樹が優勢で、針広混交林となっているのだ。
樹間が広く、苔や羊歯くらいしか下草がない針葉樹林と違い、低木や棘のある藪だらけ、そこに蔓性植物が絡み合っているから、伐採には恐ろしく手間がかかる。
そのため開拓は遅々として進まず、帝国で〝辺境〟といえば、この夜森に挑む開拓地帯を指すようになっていた。
* *
アデリナは、ぱちぱちと拍手をした。
「合格よ。よく分析ができているわ。
それで、ベラスケスの糞野郎は、夜森のどこにいるのかしら?
夜森って、この南部より広いのよ」
「それは……分かりません」
「そうよねぇ、それが分かれば苦労はしないのよ」
「あなたは――いえ、アデリナさんも、夜森だと当たりをつけていたのですね?」
アデリナは軽く肩をすくめた。
「そりゃあね、あたしが何年この地で戦っていたと思う?
ただ、館の手掛かりはあたしも掴んでいないわ。奴らが使う幻術は強力だもの。
エイナちゃんも、オルロックの館に行ったことがあるのよね?
魔導士のあなたには、館を隠している幻術が見破れた?」
エイナは苦笑いを浮かべるしかない。
「無理です。あれは私たちの精霊魔法と、系統が別物なんです。
どちらかといえば、呪術に近いんじゃないでしょうか」
「そうかぁ……魔術師でもお手上げとなると、やっぱり地道に情報を収集するしかないわねぇ」
「では、ベラスケスが襲った開拓村へ向かうのですね?」
エイナは勢い込んだが、アデリナは首を横に振った。
「その前にやっておくことがあるわ」
彼女はそう言って、新たな地図を広げた。ここ、ゼルデン町の市街図だ。
この地図にも、やはり手書きで日付が書き込まれている。
理由が判然としない家出人や行方不明者の情報だが、軍に持ち込まれたということは、残された家族が吸血鬼の仕業と見ていることになる。
「日付を見てちょうだい。ほとんどが七月中旬以降になっているでしょう?
多分、急造の眷属が、ようやく手下を作れるようになったのね。
一か所でひとりを狙うなら、郡部の村の方が都合がいいわ。
でも、連続して狩りをするなら、人口が多くて住民関係が希薄な町の方が、効率的なのよ。
彼らは下っ端を総動員して人間を誘拐し、ベラスケスと自分に捧げさせているんだわ。
まずは、こいつらを片付けてからね。奴らを放置したままで町を離れたら、吸血鬼狩りのアデリナの名に傷がつくもの」
エイナはもう一度、町の市街図を覗き込んだ。
「行方不明ということは、被害者はすでに吸血鬼に連れ去られたということですよね?
それではもう、救出は不可能だと思いますけど……」
「そうね。残念ながら、その人たちは諦めるしかないわ。
普通はできるだけ生かしておいて、少しずつ血を吸うものなんだけど、飢餓状態にある彼らは一度に吸い尽くして、すぐに殺してしまうでしょうね」
「それでは、私たちには次の襲撃が予想できない――ということになります」
「そうとも限らないわよ。
じゃあ、二時間目の授業ね。この地図から情報を読み取ってみなさい。
吸血鬼の行動パターンが分かると思うわ」
アデリナにそう言われたものの、エイナは困惑するばかりであった。
犠牲者の報告は町の全域に散らばっていて、特に偏りはない。日付もばらばらで、規則性は見つからなかった。
エイナは早々に降参した。
「諦めが早いわねぇ。じゃあ、ヒントをあげる。
この市街図をぱっと見て感じる、地形的な特徴を言ってごらんなさい」
「そうですね……まず、東西に街道が貫いていますね。
実際、大通りにはたくさんお店が並んでいました。そこから繁栄が周囲に広がって、大きな町になっていったという感じでしょうか?
だから、農村が大きくなった町というより、最初から宿場町として、意図的に作られたような気がします」
「他には?」
「町の中央、南北方向に川が流れていますが、不自然なくらいに真っ直ぐですね。
普通は自然に湾曲して、瀬や淵を形成すると思いますけど……」
「正解。実はこれ、川じゃなくて人工的に掘られた用水路なの。
町の人は〝大堰〟って呼んでいるわ。
ここから十キロ以上も北のトリ川から引いているのよ。
帝国は南部開拓のために、こうした用水路を何本も掘ったの。
もちろん、飲み水や生活用水にも使っているけど、基本的には農業用水だわ」
「つまりこの町は、街道と堰が十字に交わって、四つの街区に分割されていることになりますね」
「それじゃ、ひとつの街区に絞って日付を見てごらんなさい。
エイナちゃん、ちっちゃい時から数字に強かったでしょ、何か気づかない?」
「……あっ、そういうことか!」
ほとんどの魔導士は、高い計算能力を持っている。
魔法を発動させる呪文を組み上げるには、対象との距離、高低差、風速など、あらゆる情報を変数として取り込む必要がある。そうしないと、魔法が明後日の方向に飛んでいってしまう。
情報を瞬時に数値化し、呪文ごとに異なる計算式に当てはめて計算することで、初めて呪文が完成するのだ。
そんな訓練を受けているエイナが見れば、街区ごとの日付には明白な特徴があった。
例外なく、十二日間隔になっているのだ。
これを町全体で見てしまうと、他の街区と混じり合って法則性が隠れてしまう。
これは、街区ごとに違う吸血鬼が担当する、いわば縄張りのようなものなのだろう。
吸血鬼は狡猾で、極端に用心深い。都市部で狩りを続ける場合は、こんな分かりやすい証拠を残さないものである。
普通ならもっと間を空けるし、それもランダムにする。
十二日というのは、彼らなりに算出した、人間に騒がれないための最低間隔というわけだ。
それと同時に、ベラスケスと直系眷属が我慢できる、ぎりぎりの限度でもあるということになる。
「そうだとすれば、次に襲撃があるのは三日後、北東街区です」
エイナはあっさりと答えを出したが、表情は晴れない。彼女はアデリナに訴えた。
「でも、それでも広すぎます。
どうやって場所を特定するんですか?」
しかし、アデリナは名うての狩人であった。
彼女は地図の上に、黒い紐で綴られた書類の束を置き、エイナに向かって微笑んでみせた。
「そこで、これが役に立つのよ」