十八 出張所再訪
アデリナは、そのままエイナの部屋に泊まることした。
宿に事情を話すと、従業員がもうひとり分の寝具を運んでくれた。
もともとが二人部屋だから、宿としては手間がかからず大歓迎だ(もちろん料金は加算される)。
消灯後、エイナはアデリナのベッドに潜り込もうとしたが、容赦なく追い返された。
毛布の中に手を入れた時、触れたのは母の柔らかな身体ではなく、ひんやりとした木の鞘だった。
いつもアデリナが背負っている、吸血鬼を滅ぼす魔剣である。
闇の中で振り返ったアデリナの両眼は、夜行性動物のように白く光っていた。
「あたしがもう少し深く眠っていたら、あなた、今ごろ死んでいるわよ。
さあ、自分のベッドにお戻りなさい」
そこにいたのはエイナの母ではなく、ダンピールの剣士であった。
* *
父親のエリクが事故で不慮の死を遂げたのは、エイナがまだ七歳のことである。
その半年後、母親のクロエも失踪して、孤児となった彼女は、同じ村の叔母に引き取られた。
その叔母夫妻もオークに殺され、十一歳だったエイナは、女召喚士ユニの手で辺境から連れ出された。そして王立魔導院への入学を許され、十八歳で魔導士となった。
両親が帝国からの亡命者で、エリクとクロエという名前も偽名だった……そう知らされたのは、軍人になってからである。
父の本当の名はニコルで、帝国でも三人しかいない爆裂魔法の成功者だった。
そして、母はアデリナ。吸血鬼を父に持つダンピールで、帝国南部にその名を轟かせた吸血鬼狩りであった。
その後、大森林南部で起きたある事件に関連して、十三年ぶりに再会したアデリナは、エイナにはっきり釘を刺した。
『あなたのお母さんだったクロエは、もうどこにもいない』と。
それから一年、アデリナの態度は、ひとつも変わっていなかった。
* *
翌日の昼過ぎ、軍の出張所に再びエイナが姿を現した。
前日と同じように、その場にいた兵士たち全員が立ち上がって敬礼した。
ただ、彼らの視線はエイナではなく、その背後に立つ黒ずくめの人物に向けられていた。
鍔の大きな黒い帽子を目深に被り、夏だというのに黒い長マントに身を包んでいる。
そして、その肩からは背負った剣の柄が突き出していた。
身長はエイナよりも少し高いくらいで、特に大柄ではない。
女だということは雰囲気で分かる。そして、魔導士であるエイナを圧倒する存在感を放っていた。
昨日と同じく、ヘルマン軍曹がすぐに駆け寄ってきた。
彼は困惑した表情を押し殺し、取りあえずエイナに対して再敬礼を行う。
「お待ちしておりました、中尉殿。
いらしたらすぐ所長室にご案内するよう指示を受けておりますが、お連れの方も同道されるのでしょうか?」
「いかにも」
エイナの尊大な返答に、黒ずくめの帽子が前に傾いた。
かろうじて見えた赤い唇が、笑いを噛み殺すように震えている。
軍曹はそれに気づかないふりをして、エイナに視線を戻した。
「では、規則でありますから、身分証を拝見いたします」
エイナは肩越しに振り返った。
「そういう書類は……あるのか?」
初めて黒ずくめが顔を上げた。軍曹が思わず息を呑むほど美しい女である。
エイナよりは明らかに年上だが、せいぜい五、六歳の差に過ぎないだろう。
それなのに、受ける印象がまったく違う。エイナがようやく咲きかけた蕾なら、彼女は熟れた果実そのものであった。
「これでよろしいかしら?」
女はマントに手を入れて、身分証を差し出した。
軍曹は慎重にそれを受け取る。
彼は分隊を任されるほどの下士官である。積み重ねてきた経験が『この女は危険だ!』と、頭の中で警報を鳴らしていた。
艶然と微笑む目の下の薄い隈に〝狂気〟が宿っていることを、軍曹は敏感に感じ取ったのだ。
軍曹は女の顔から無理やり視線を引き剥がし、渡された身分証に目を落とした。
その手が、ぶるぶると震え出す。
「まさか、……そんな!」
彼は掠れた声を出し、手元の書類と女の顔とを、何度も見比べた。
身分証に書かれた名前はアデリナ・ライエン、出自・年齢ともに不詳とある。
よくそれで証明が出るものだと呆れるが、そのわけは次の職業欄にあった。
『対怪異専門傭兵 常時の武装を許可する』
* *
この世界には、異世界生まれのさまざまな異形が紛れ込んでいた。
リスト王国東部にそびえるサクヤ火山は、その通路として知られている。
そのため、王国のタブ大森林や隣接する辺境地域には、オークをはじめとする怪物がたびたび出現する。
ただ、王国ほどの頻度ではないが、こうした現象は世界中に存在した。
帝国ではそれら異種族を〝怪異〟と呼び、見つけ次第に殲滅する方針を取っていた。
だから、対怪異専門傭兵とは、そうした脅威に対処する民間の狩人だということになる。
ただし、あくまでこれは表向きの話である。
こんな職業が成立するほど、帝国に怪異が出現することなどない。
彼らが実際に戦っているのは、国が存在を認めない吸血鬼であって、それを怪異とごまかしているだけなのだ。
庶民は彼らのことを、率直に〝吸血鬼狩り〟と呼んでいた。
いくら国が認めなくても、吸血鬼の被害は現実に起きている。
訴えても軍が動かない以上、人びとは吸血鬼狩りに金を払って退治してもらう。
吸血鬼狩りは、何らかの事情で軍を辞めた魔導士が多くを占めていた。
その実力は様々だから、相手が第三世代の下っ端であっても、常に勝てるとは限らない。
しかも、狩り続けて名が知れてくると、吸血鬼の方も黙っていない。
第二世代の直系眷属が刺客として差し向けられ、最終的には殺されてしまうことになる。
そんな絶望的な職業だったから、吸血鬼狩りになる人間は変わり者が多かった。
淘汰が激しいから、彼らとの連絡が取れなくなるケースは珍しくない。
そういう時、庶民が取る手段こそが、軍への訴えなのだ。
もちろん軍は話を聞いてくれるが、彼らが動くわけではない。
ところが、しばらくすると、噂を聞いたという他の吸血鬼狩りが決まってやってくる。
村人は『不思議なこともあるものだ』と首を捻り、軍は『我々は関知していない』と沈黙を貫く。
こうした阿吽の呼吸で、世の中は回っているのだ。
吸血鬼狩りのアデリナは、吸血鬼と人間が長い時の中で築き上げてきた、この絶妙なバランスを破壊する〝異端者〟であった。
* *
ヘルマン軍曹は、南部の貧しい村の農家で生まれた五男坊だった。
多くの農家で両親と一緒に暮らすのは、家を継ぐ長男とその補佐をする(長男の不慮の死に備える意味もある)次男までである。
三男以下の男児は、十二歳前後で地主の家に若勢として奉公し、住み込みで働くのが常識だった。
ただし、十八歳になると彼らには徴兵があり、五年間は軍務に就かなければならない。
五年後、大多数の若者は退役して故郷の村に帰る。地獄の前線で生き残ったのだから、当然である。
だが、中には水が合ったのか、そのまま軍務を継続する者もいた。
ヘルマンもそのひとりだった。
ヘルマンは南部の人間だから、吸血鬼の被害や、それを狩る者のことをよく知っていた。
そして、彼が徴兵される十八歳当時、南部の村々の青年たちの憧れを、一身に集めていたのがアデリナだった。
彼女は吸血鬼を麦のように、造作なく刈り取っていった。さらにはベラスケスの直系眷属とも互角に闘い、時には斃しさえもした。
その驚異的な実力は、南部住民の希望の光であった。
だが、当時の青年たちにとっては、それ以上にアデリナの美貌と肉体が関心事であった。
長く美しい黒髪を三つ編みにして垂らし、抜けるような白い肌に、真っ赤な紅をさしたぽってりとした唇、潤んだ大きな瞳。
筋肉質で引き締まった身体、たわわな乳房、きゅっと上がった丸い尻を載せた長い足。
その姿を実際に見た者は衝撃を受け、熱病に浮かされたようになった。
そんな噂を聞かされた十代の青年が、強烈な憧れを抱くのは当然である。
アデリナのあられもない姿を想像して男根をしごき、何度となく熱い精をぶちまけたのは、当時の若者の共通体験だった。
アデリナは鍔の大きな黒い帽子、黒の長マント、黒の編み上げブーツという黒ずくめの姿で、逞しい黒馬に跨って村に現れる。
そしてその背には、浅く湾曲した長刀を背負っている。
ひとたびマントを撥ね上げると、ぴったりした黒の革のズボンとベストの男装であるが、白い首から豊かな胸元だけは露出されているという噂だった。
ただ、それを拝むことができるのは、よほど幸運な者に限られるのだ。
いま、ヘルマン軍曹の目の前に立っているのは、かつて脳裏に刻み込んだ情報そのままの姿である。
そして、何よりも国が発行した身分証が、彼女を〝吸血鬼狩りのアデリナ〟だと証明している。
だが、ヘルマン軍曹は十代の青年ではない。彼はもう四十歳を過ぎていた。
睾丸に痛みを覚えるほど自慰をしまくったのは、遠い昔の恥ずべき記憶だ。
それなのに、なぜ彼女は年老いていない?
彼は混乱してしまい、それ以上に言葉が出てこない。
ただぺこりと頭を下げ、二人の女性の先に立って案内することしかできなかった。
所長室の扉をノックした軍曹は、一歩中に入ると直立不動で敬礼をした。
「エイナ・シュトルム魔導中尉殿、並びにアデリナ・ライエン殿をお連れしました!」
「アデリナ……だと?」
ヤン中尉も驚いて目を剥いた。
軍曹は思い切って、分かりやすい言葉を選択した。
「はっ! かの有名な〝吸血鬼狩りのアデリナ〟であります!
もちろん、身分証で確認いたしました!」
「信じられんな……」
ヤン中尉は呻いたが、恐らく上層部から、彼女に関するある程度の情報を与えられているのだろう、軍曹ほどの混乱は見せなかった。
それに中尉はヘルマンより七歳下で、彼が十代だった頃、アデリナはすでに姿を消していたのだ。
* *
応接のソファで向かい合うと、ヤン中尉は用意してあった地図をテーブルの上に広げた。
「ご要望のとおり、この地図の作成以降の情報を追記しております。
それと、この町で発生した家出人……いや、不審な行方不明者に関しては、詳細な情報を書き出して、別にまとめておきました」
中尉はそう言って、綴り紐で束ねた書類を地図の上に置いた。
アデリナがそれを取り上げ、表紙をめくって中を確認する。
そこには行方不明者の住所、氏名、年齢、家族構成に加え、姿を消した際の詳しい状況が書き込まれ、簡易地図も添えられてあった。
「よくまとまっていますね、十分です」
アデリナは軽く頭を下げた。
そして、顔を上げながらヤン中尉の顔を覗き込んだ。
「あたくしのことは、何もお訊きにならないのですね?」
中尉は彼女と目を合わさぬよう、そっぽを向いて答えた。
「あなたに関しては、詮索無用――そう命令されております」
「どこから?」
「言えません」
顔を背けているのに、アデリナの視線が蜘蛛の糸のように粘りつくのを、中尉ははっきり感じた。
発情した雌の蛇は、きっとこんな目をしているに違いない。
「そう。では、その言えない誰かさんに、ありがとうって伝えてちょうだい」
「お言葉は承りました」
アデリナは地図を畳みながら、エイナに話しかけた。
「成果としては申し分ないわ。宿に戻って分析しましょう。
――ああ、その前に寄るところがあるわ」
彼女は不意に顔を上げ、油断していたヤン中尉の視線を絡み取った。
「中尉さん、あと二つばかり質問があるのだけれど」
「何でしょうか?」
「エイナちゃんから要請されれば、あなたたち、最大限協力してくれるのよね?」
「いかにも」
「戦力として、何人出せるの?」
「……何かの捜索、あるいは住民の規制という意味ですか?」
アデリナはころころと笑ったが、目が冷ややかだった。
「あたしは戦力って言ったわよ。吸血鬼と戦う場合の話よ。
三十人くらい用意できると嬉しいわ。まぁ、半分くらいは死ぬでしょうけどね」
「自分を含めて十三人。それで全員です」
「あら、それだけなの? 意外と少ないのね。
ということは、やっぱりあたしとエイナちゃんでやるしかないか。
分かったわ。変なことを訊いてごめんなさいね」
「もうひとつの質問は?」
「あらやだ、忘れるところだった。
あのね、あたしたち、まだお昼を食べていないのよ。
この町でお薦めの料理屋を知っていたら、教えてくださらない?」
ヤン中尉は軽く肩を落とし、溜息をついた。
「それなら、この通りの二百メートルほど先の左手に、錆猫亭という食堂があります。
未亡人の女主人がひとりで切り盛りしている小さな店なのですが、何を頼んでも外れませんが、アイスヴァイン(骨付豚すね肉の煮込料理)が絶品ですな」
「へえ、いいわね。エイナちゃんもそれでいい?」
もちろん、エイナに文句があろうはずがない。
「ねえ、中尉さん。その未亡人って、いくつくらいの人なの?」
「さて、はっきりとは分かりませんが、見た感じでは三十代の半ばではないでしょうか?」
「きれいな人?」
「きれい……とは違うと思いますが、笑顔を絶やさない女ですね。
いつも焼きたてのパンの匂いがするというか、話をするだけで安心する感じです」
「あらぁ! 中尉さん、その女のこと狙っているのね。
真面目そうな顔をして、隅に置けないわ」
どうやらアデリナのからかいは図星だったらしく、中尉の態度が突然硬化した。
「用がお済みなら、お引き取りください。
それと、ブリギッテ(未亡人の名前らしい)に余計なことを言ったら、今後一切の協力をお断りしますから、そのおつもりで!」
中尉は憤然として席を立ち、自ら出張所の出入り口まで案内に立った。
追い出されるように外に出た二人の背後で、扉の閉まる大きな音がした。