十六 軍出張所
「これが……南部一の町?」
エイナの唇から、思わず声が漏れた。
彼女はゼルデンの町の目抜き通りを、馬に揺られながらゆっくりと進んでいた。
通りの道幅は広く、石畳で舗装もされている。
沿道には、食糧や衣料品を並べた商店が軒を連ね、多くの買い物客が品定めををしたり、値段交渉を楽しんでいた。
賑やかで、活気に満ちた町の雰囲気が、そこかしこに漂っている。
ただ、そうした商店のほとんどは木造で、平屋か二階建てだった。
エイナが暮らす王都や、四古都のような大都会だと、石造りが当たり前だったし、三階建ての建物だって珍しくない。
確かにここは、南部で最も大きな町であっても、都市と呼べるほどではなかった。
恐らく人口も、数万人の規模に留まるのではないだろうか。
エイナは馬上から宿を探したが、それほど苦労せずに看板を見つけることができた。
その宿屋は少し古いが、立派な商家屋敷という佇まいだった。
馬から降りて、馬留めの杭に手綱をつないでから、中に入ってみる。
扉の先は土間になっていて、彼女に気づいた宿の者がすぐに寄ってきた。
「いらっしゃいませ。おひとりですか?」
「はい。取りあえず二泊でお願いします。
場合によっては延長するかもしれませんが、大丈夫ですか?」
男は愛想よく笑ってうなずいた。
「麦の収穫が終わるまでは、閑散期なのです。うちはちっとも構いません。
すぐにご案内しますが、馬は荷物を降ろして、厩に回してもよろしいですか?
荷物はうちの者が、お部屋に運ばせていただきます。」
「お願いします」
「では、こちらへ」
男は部屋に案内しようと、エイナの先に立った。
ロビーを兼ねた広い土間の先は、客室に面した廊下となっているのだが、びっくりするほどの奥行きがあった。
つまりこの建物は、細長い長屋のような造りになっているのだ。
「ずい分と立派な……それに歴史がありそうな建物ですね?」
エイナは先を行く男の背中に訊ねた。
廊下の床は土間の延長で、まるで黒大理石のように滑らかで、艶めいた光沢を放っている。
柱も梁も材質は分からないが、太く立派で飴色に磨き上げられていた。
男は肩越しに振り返り、少し誇らしげな笑顔を見せた。
「建てられてから、およそ百二十年だと聞いています。
もともとは穀物商の屋敷を兼ねた店舗だったのですが、十年ほど前に移転しましてね。
ここは取り壊す予定だったのを、私どもの主人が買い取って、宿屋に改装したのです」
「何部屋あるのですか?」
「うちは平屋ですけど、二十四室あるんですよ。ゼルデンの宿では一番ですね」
「細長いのには、何か理由があるのですか?」
「古い商家は、みんなこうですよ?
昔は店や屋敷にかかる税金が、面積じゃなく間口で決まっていましたから」
「間口?」
「通りに面した建物の幅のことです。
それさえ変えなければ、税金は同じですから、どんどん奥を増築して、ウナギの寝床になったというわけですね。
別に珍しくないと思いますけど……中尉さんは、どちらのご出身ですか?」
エイナは内心で『しまった!』と舌打ちした。
「私は貧しい村の生まれなんです。村にはお店なんかなかったんですよ。
恥ずかしいから、どこかは訊かないでください」
宿の従業員は怪しむ風もなく、それ以上追及してこなかった。
帝国人には常識かもしれないが、税制の違う王国民のエイナが、それを知っているはずがない。
どこに落とし穴が掘ってあるか分からない――彼女は気を引き締めた。
案内された部屋は二人部屋であったから、十分な広さがあった。
ひとりで泊ると割高だが、どうせ軍票を切るのだから問題ない。
男から部屋の使い方の説明を聞いていると、別の従業員が馬から降ろした荷物を運んできてくれた。
「この町には、軍の出張所がありますね?
私は任務中なので、報告のために出頭しなくてはなりません。
場所を教えてくれませんか?」
二人の従業員は快く応じ、簡単な地図まで描いて説明してくれた。
表通りの一本裏になるが、歩いて十分もかからない場所だという。
エイナはシャワー室と夕食の予約をして、さっそく出張所に向かうことにした。
これを済ませておかないと、軍服を脱いでくつろげない。
二日も風呂に入っていなかったから、早く身体を洗いたくてたまらなかった。
* *
出張所の周囲には人気がなく、ひっそりとしていた。
扉の横に帝国軍旗が掲げられていなければ、何の建物か分からないだろう。
エイナはその前に立ち、両手で自分の頬をぺちんと叩いた。
そうやって頭の中を、マグス大佐モードに切り替えるのだ。
扉を引き、事務所の中に足を踏み入れると、中で仕事をしていた数人の兵士が、一斉にエイナの方を見た。
そして、彼女の士官服と肩の黒マントを認めるや、全員その場で起立し、敬礼した。その動作が揃いすぎていて、まるで人形芝居のようだった。
室内には士官がいなかったから、上官への敬礼は当然である。
帝国軍の規律が厳しいことはエイナも聞いていたが、こうして実際に目にすると、感心せざるを得ない。
もちろん、王国軍だってそれなりの規律がある。ただ、それに比べると、帝国の兵士の動きには緊迫感がある。常に戦争を行っていて、死と隣り合わせの軍務に就いていると、自然に醸成される雰囲気なのだろう。
何かの手続きで訪れ、対面する兵士に何かを訴えていた市民は、目を丸くしておろおろしていた。
その場の全員が起立したので、自分も立ち上がるべきなのか、迷っているのだろう。
すぐにひとりの兵士がエイナの前に駆け寄ってきて、改めて敬礼をした。
かつんと打ち鳴らされる踵の音が、気持ちよく響く。
「自分はゼルデン出張所、第二分隊のヘルマン軍曹であります!
中尉殿のご尊名をお伺いいたします!」
エイナは意識してゆっくり答礼する。マグス大佐のような、余裕を見せなければならない。
「私は参謀本部所属、エイナ・シュトルム魔導中尉だ。
本出張所の責任者はいるか?」
彼女の口から出た〝参謀本部所属〟という言葉に、軍曹の顔から血の気が引いた。
「はっ! しかしながら規則であります。
失礼ながら、先に身分証を確認させていただきます!」
エイナは「うむ」とうなずき、内ポケットから身分証を取り出し、軍曹に手渡した。
そこに記された所属・階級・氏名は、彼女が名乗ったとおりである。
身長と体重、髪と瞳の色も、見た目と一致しており、特に疑うべき点はなかった。
続いて軍曹は、右側の頁の備考欄に目を走らせた。
その内容と作戦部長(ウィンザー大将)の署名で、軍曹の頬がぴくぴくと痙攣を始めた。
彼は震える手で身分証を閉じ、エイナに返却すると、再び敬礼をした。
「大変失礼いたしました!
ただいま所長を呼んでまいりますので、恐れ入りますが、しばしお待ち願います」
軍曹はバネ仕掛けのような動作で事務所の奥の扉を開け、早足で去っていった。
ほかの兵士たちが、慌てて椅子を運んできた。クッションも肘掛けもない、粗末な木製椅子だ。
彼らはせめてエイナを分隊長の席に案内して、そこに座らせるべきであった。
出入口の前に椅子を置いて、そこで待たせるというのは、どう考えても上官に対する非礼である。
兵士たちにとって、下士官とは神に近い存在である。彼らは士官よりも厚い尊敬と信頼を集めていた。
その軍曹が、エイナの身分証を見て血相を変えたのである。これはただ事ではなかい。
兵たちが動転したとしても、責められないだろう。
したがってエイナはそれを咎めず、悠然と椅子に腰かけた。
三分と経たずに騒々しい足音が聞こえ、軍曹に先導された士官が入ってきた。
上着を脱いでくつろいでいたのだろう、第一ボタンが開いたままである。
詰襟に留められた徽章は、エイナと同じ中尉の階級を示していた。
中尉は事務所に入るなり、エイナが座らされている位置を見て、茹でたカニのように顔を真っ赤にした。
彼は兵たちに自身の苛立ちを伝えようと、必要以上に足音を響かせて、エイナの前に急いだ。
そして舞踏会でダンスを申し込むかのように、一礼をして手を差し出した。
エイナがその手を取ると、中尉は彼女を椅子から立たせた。
そこで、ようやく敬礼をしたのである。
「自分は本出張所を任されているヤン中尉です。
まずもって、部下の非礼をお詫びさせてください」
頭を下げる中尉に、エイナは寛容な態度を示した。
「私は気にしていませんから、どうぞ兵たちを叱らないでください。
彼らの誠意は、私に十分伝わっております」
中尉はホッとした表情を浮かべた。
部下はどうでもよいが、自身の管理不行届きを報告されては、出世の道が永遠に閉ざされてしまう。
「ここでは落ち着いて話ができません。
むさ苦しい所ですが、所長室においでください」
* *
出張所の所長室は、あまり広くはないが、さすがに応接セットが設えてあった。
エイナはソファの背に身体を預け、一応は来客用らしい陶器のカップに注がれた、香り高い紅茶を口にした。
とっておきの茶葉なのだろう、そこそこの味である。ただし、エイミーの秘書官室で出てくるお茶には敵わない(豪商ファン・パッセル家から差し入れられる茶葉だから、当然ではある)。
エイナがお茶を味わう様を、ヤン中尉は探るような視線で下から舐めあげた。
階級こそ同じ中尉だが、エイナは魔導中尉であり、しかも参謀本部直属である。
格の違いは歴然としていた。
エイナは手にしたカップを皿の上に戻すと、単刀直入に切り出した。
「同人の要請に対しては、現地部隊は可能な限り応じるよう努力すべし。
ウィンザー作戦部長の指示は、軍曹から聞いて承知でありましょうな?」
中尉のこめかみが、ぴくぴくと痙攣した。
そして、黙ったままうなずいた。
「ここは南部における軍の拠点だ。通信魔導士が配備されているはずだ」
「当然です」
「では、まず参謀本部宛に、私のゼルデン到着と伝言を送信してもらいたい。
今すぐにだ」
「お安い御用です。伝文はいかがいたしますか?」
「一両日中に合流予定――と」
「それ……だけですか?」
「それだけだ」
「了解しました。すぐに手配いたします」
中尉は執務机の呼び鈴を鳴らして部下を呼び、すぐさま指示を伝えた。
所長室を出ていく部下の背中を見送ると、エイナは咳ばらいをした。
ここからが本番である。
「私は帝都での勤務が長くてな、こうした地方現場の業務については、あまり詳しくないのだ。
後学のために教えてほしい。ゼルデンのように戦線から遠く離れた地域において、軍の日常的な活動とは、どのようなものであろうか?
私の頭では、治安の維持と訓練くらいしか思い浮かばないのだ」
ヤン中尉は少し困ったような表情を浮かべた。
「いえ、これくらいの町になれば警察組織がありますから、住民の武装蜂起でもない限り、我々軍が動くことはまずありません。
正直なことを言えば、情報収集以外にやることはないのです」
「しかし、先ほどの事務室では、一般人が何やら相談に訪れていたようだが……あれは何だ?」
「ああ、陳情ですな。実際、結構多いのです。
まぁ、ほとんどはお門違いの要請なので、よく事情を聞いた上で、担当機関に回しております。
本来の業務ではありませんから、門前払いをしてもよいのですが、民衆に寄り添うのは軍の務め、無碍にはできません」
「この町以外の村からも、その陳情とやらはあるのか?」
中尉は少し渋い顔してうなずいた。
「あります。というか、困ったことに半数以上がそうした連中なのです。
何しろ、南部における軍の出先機関は、ここだけですからね」
「陳情の具体的な内容を、教えてもらえるだろうか?」
「はぁ……。野盗が村を襲い娘を攫うので、軍に退治してほしいという話が多いです。
ですが実際に調べてみると、野盗と呼べるほどの集団は認められません。
単独の犯罪者であれば警察の仕事ですから、軍は動きません。彼らもそれが分かっていて、話を大げさに盛るのでしょうな」
「この町の住人の場合は、家出人の相談がほとんどです。
警察に届けてもらちが明かないので、軍に持ち込んでくるのですが、我々は捜査機関ではありませんから、どうしようもありません。
一応、調書を取って、警察に回すだけになります」
エイナの眉根に皺が寄った。
「妙だな。彼らはなぜ、そんな問題をわざわざ軍に持ち込む?」
だが、中尉は肩をすくめるだけだった。
「さあ? 私が教えてほしいくらいです」
彼は意識的に目を逸らしている。
エイナの表情がますます険しくなり、声が一段と低くなった。
「ヤン中尉。貴官は、私に嘘をついているな?」