十五 ローファ村
吸血鬼を取り囲んでいた村人は、呆然として立ち尽くしていた。
この帝国南部は、もともとは森林地帯であった。
それを数百年の歳月をかけて開拓し、広大な面積を農地化してきたのだ。
王国でタブ大森林を切り拓いている、辺境のいわば先輩に当たる。
タブ大森林同様に、北の大地を支配していたのは、スギの巨木を主体とした針葉樹林であった。
広葉樹なら、秋に落葉して分厚い腐葉土が形成されるのだが、針葉樹の葉は落ちたとしても油分が多く、分解されにくい。
しかも常緑のスギ類は年間を通して陽光を独占し、大地はその恵みにあずかれないから、必然的に酸性で痩せた土壌になりやすい。
木を伐り、根を掘り起こしても、作物が育つ土を作るまでは、何年もかかる。
南部の農民たちは、物成りの悪い畑を懸命に耕し続け、村を出ることなく一生を終えるのが定めだった。
だから、彼らは魔導士の存在を認識していても、実際に会ったことはなく、魔法を見るのも初めであった。
エイナが出現させた、直系数メートルのドーム状の結界、その中で荒れ狂う炎の奔流、超高熱が発生させる眩い白光。その視覚情報が入ってきても、脳が理解を拒絶してしまう。
もし、魔法の結界が熱を遮断していなかったら、全員が(術者であるエイナを含めて)一瞬で焼け死んでいる。
本当は、そんな危うい状況だったのだ。
エイナは地面に残された灰を軍靴で土にこすりつけ、吸血鬼の肉体が滅んだことを確かめた。
闇に逃げ込む隙を与えなかったことが、主たる勝因であった。
彼女は明かり魔法を発動して周囲を照らし、飛び出してきた部屋の窓から中を覗き込んだ。
吸血鬼の消滅を知らない父親は顔を引き攣らせ、ベッドの上で仁王立ちとなり、フォークを構えたままだった。
娘のハンナは、背後からその腰にしがみついて震えている。
「吸血鬼は倒しました。
奴らはああ見えて、とても用心深いのです。
手下が殺られたと知れば、当分この村には近づかないでしょう。
だから、もう安心して大丈夫です」
エイナは窓の外から、できるだけ穏やかな声で、そう説明した。
窓枠は壊れていたし、蔀の板は吹っ飛ばされて見当たらない。
『この程度の被害で済んだのだから、合格点をもらえるわよね?』
エイナは心の中で、アリッサにそう呼びかけた。
もちろん気位が高く、人間嫌いの彼女は、『己惚れるな、愚か者!』と叱るに違いない。
そんな言葉でも、聞きたくなるのが不思議だった。
事態を理解した父親は、大声で母親を呼び、娘を安心させようとしていた。
『この家族はもう大丈夫だろう』
そう判断したエイナは、村人たちの元に戻ったが、彼らはまだ動けないままだった。
ただし、その中でハンス村長だけは、自分を取り戻しているように見えた。
エイナは村長に、ゲッツ父娘にしたのと同じ説明をした。
吸血鬼が意外と用心深く、危険を冒すのを嫌うという知識は、母のアデリナから教わったことである。
ハンスは安堵の息を吐き、エイナに敬礼をして丁寧に礼を述べた。
その仕草は自然で、様になっていた。
「やはり、村長さんは軍務経験がおありなのですね?」
「俺は次男だったからな。徴兵で五年間、軍にぶち込まれた。
ようやく帰ってきたら、兄貴が病死していて、家を継ぐことになったんだ」
「除隊時の階級は?」
「上等兵だ。結構向いていたんだろうな、除隊の時には『軍に残らないか?』って、引き留められたよ。
あのまま軍にいたら、下士官くらいにはなっていたかもしれない。
兄貴が死んだことを知っていたら、そうしていただろうな。
おかげで貧乏籤を引く羽目になって、弟には感謝されたよ」
「あら、村長になれたんですから、よかったじゃないですか?」
「戦場にいる方が、よほど気楽だよ」
「だったら今からでも志願して、再入隊したらよいでしょう?」
エイナが意地の悪い提案をすると、ハンスは首を横に振った。
「もう手遅れですよ、中尉殿。
うちの村はとびきり貧乏だ。日が昇ってから沈むまで、俺の肩には責任って奴がしがみついたまま、決して離れてくれないんだ。
ちょっとでも気を抜いたら、潰されちまうよ」
そして、彼はにやりと笑って付け加えた。
「それに夜は夜で、女房のでかい尻が俺に跨って潰しにくる。
逃げる隙なんざ、どこにもないんだよ」
* *
次の日の早朝、エイナは多くの村人に見送られ、ポテル村を出立した。
ひたすら馬を進め、夕方前にたどり着いたのが、ローファという、ポテルより大きな村だった。
村長はゲラルトという小柄な老人で、三十代のハンスとは対照的な人物だった。
エイナは役屋でお茶のもてなしを受けたが、ゲラルトはしきりに彼女の目的を訊き出そうとした。
もちろん本当のことは言えないが、情報収集が必要なことは、ポテル村で思い知らされたばかりである。
彼女はわざとらしく左右を確認し、声を潜めてささやいた。
「ここだけの話だ。誰にも言うなよ?」
この前置きは、とてもよく効く魔法の言葉だ。明日までには、村中に広がっているに違いない。
「最近、吸血鬼の被害が増加していることは、軍も把握している。
私はその実態を調査するよう、命じられているのだ」
「本当でございますか!?」
ゲラルトの目が輝いた。
いくら吸血鬼の被害を訴え出ても、〝軍は何もしてくれない〟というのが、ここ南部の常識である。
いまさら調査でもあるまいが、無視に比べれば大きな進歩である。
「ですが中尉殿、私たちが必要としているのは、調査ではなく軍の力です!」
村長は、不意に点った希望に縋りついた。
だが、エイナの返答は、その思いをはぐらかすものだった。
「ここはポテル村と交流があるのか?」
「ポテルですか? それは……まぁ、ございますよ。
この周辺の村々の作物は、ゼルデンの町に集められますから、ポテルの衆もその道すがら、必ずこの村で泊っていきます。ですから、大体が顔見知りですな。
それが何か?」
「実はな……」
エイナはいっそう声を潜め、ゲラルトは自然と身を乗り出す。
「いずれ噂は伝わるだろうから、特別に教えてやる。
私はそのポテル村に立ち寄ったが、そこで昨夜、吸血鬼をひとり始末した」
「何ですと! あんな所にまで出たのですか!?
あっ、ああああ、ああ! それであなた様が……!?」
「理解したようだな
軍がただの調査のために、わざわざ魔導士を派遣すると思うか?
つまりは、そういうことだ。
ただし、いかに我々魔導士でも、戦いには情報が必要不可欠だ。だから調査という名目は、嘘ではないのだ」
エイナの演技力は、二年半の軍隊経験で、かなり上達していた。
この村では、軍の権威をかさに着た態度を取ることに決め、彼女はその役になりきっていた。
尊大な口調は、マグス大佐がお手本であった。
もしシルヴィアが聞いたら、エイナのおでこに手を当て、熱を計ろうとするだろう。
「それで、この村はどうなのだ?」
「はい。三か月ほど前のことですが、若い娘が襲われて命を落としました。
奴らは一度でも襲撃に成功すると、そこを狩場に定めて次々に襲ってきます。
私たちもすぐさま自警団を組織して、立ち向かおうとしました。
ですが……」
「失敗したのか?」
「いえ、どういう偶然か分かりませんが、高名な吸血鬼狩りがふらりと立ち寄り、あっという間に討伐してくださったのです。
それ以来、被害はぴたりと止んでおります」
エイナは内心の動揺を押し殺した。
三か月前といえば、アデリナがベラスケスの眷属と一対二で闘い、重傷を負う直前の話である。
「それは、アデリナ……だな?」
「軍はそこまでご存じでしたか、お見それしました」
「彼女はどんな様子だった?」
「噂どおりのもの凄い美人でした。
深い胸の谷間といい、くびれた腰といい、いやはや、どこに目を遣ったらいいのか困るくらいで……」
『そんなことを訊いているのではない!』
エイナは怒鳴りつけてやりたい気分だった。
目の前にいる村長は若く見ても六十代、もしかしたら七十歳を超しているかもしれない。
そんなエイナの祖父世代の男性が、自分の母親を性的な対象として思い浮かべ、鼻の下を伸ばしているのだ。
嫌悪感で吐き気をもよおしそうだった。
もっとも、村長はアデリナがエイナの母だとは知らないし、知ったとしても、絶対に信じないだろう。
ダンピールであるアデリナの肉体は、二十代半ばで時を止めてしまっている。
ひょっとしたら、実際の年齢は(娘であるエイナも知らない)、村長より上かもしれなかった。
それくらい、彼女は吸血鬼に近い存在なのだ。
「違う。アデリナの態度に、何か変わった点はないかを訊いている」
エイナは憮然とした表情で、ゲラルトに警告を与えた。
村長もそれを感じたらしく、咳払いをして態度を改めた。
「そういえば……、体調がすぐれないのか、表情が険しかったような気がします。
それに、ずい分とお急ぎのようでした。
吸血鬼の首を一刀で切り落とすと、すぐに村を出ていこうとしたのです。
いくら何でも変でしょう。真夜中にですよ?
私が『報酬の話もありますから、今夜はどうかお休みください』と引き留めても、聞く耳を持ってくれませんでした。
結局、報酬も受け取らずに、夜闇の中に消えてしまったのです」
村長は探るような目で、エイナを窺った。
「ですから私どもには、あまりお話しできることがないのです」
母が何かを急いで(あるいは焦って)いる……それは、オルロック伯も口にしていたことだ。
エイナには、その理由が分からない。
アデリナに会って、直接問い質すほかないだろう。
* *
ローファ村は、ポテルより大きいといっても、農村であることに変わりない。
村には宿屋などないから、エイナはゲラルト村長に宿の提供を依頼した。
彼は自分の家に泊まるよう勧めてきたが、エイナはそれを固辞して、納屋を借りることになった。
時期的に春撒き小麦の収穫が始まる直前で、倉庫用の大きな納屋は空っぽになっていた。
莚と干草の束を借りれば、広くて快適な宿ができあがる。
気を遣う客用寝室より気楽であり、貧乏性のエイナの好みにも合っている。
何より家人の耳を気にせず、アリッサと話すのに都合がよかった。
夕食は、村長の女房が是非にというので、母屋でいただいた。
女房はお喋り好きな婆さんで、しきりにエイナの個人情報を訊き出そうとした。
下手に答えると帝国人でないことが露見してしまうので、エイナは任務を盾に黙秘権を行使した。
旦那の村長とは違い、彼女には軍の魔導士官という権威が通用しない。
あくまで〝女同士〟を盾にして迫ってくるから、始末に困るのだ。
婆さんは生まれも育ちも話そうとしないエイナに、『なんとまぁ、偏屈な娘だ』と、内心憤慨していたに違いない。
そそくさと食事を終え、逃げるように納屋に戻ると、案の定であった。
干草の上で、アリッサが腕組みをしてふんぞり返っていた。
「遅いぞ、愚か者。いつまで私を待たせるのだ?
これだから人間は好かんのだ」
これが彼女の挨拶なのだ。エイナは軽くため息をつき、借りてきたランプを堅い土間の上に置いた。
そして軍服とシャツを脱ぎ、柱に渡しておいたロープにかける。
肌着姿になると、アリッサが座っている干草の横に、猫のようにごろりと寝転がった。
「その、ひと言目に怒るの……止めませんか?」
エイナは控えめに抗議をしてみたが、アリッサは鼻でせせら笑った。
「人間であったころの私は、公爵令嬢なのだぞ?
それなのに、貴様のはしたない恰好は何だ!
文句を言われたくなければ、少しは敬意というものを示せ、愚か者」
「はいはい」
「……貴様、どうあっても殺されたいようだな?
こんなことなら、オルロック様から許可をいただくべきだった。
くっ、私としたが何たる不覚!」
「あら、黒死山のお館に帰ったのですか?」
「当り前のことを訊くな、愚か者。毎日の報告は、眷属としての義務である」
「伯爵様のことですから、お変わりないのでしょうが、アデリナはどうでした?」
「クソ忌々しいことに、ダンピールは元気だったぞ。
気分が悪くなるから、それ以上奴の話はするな!」
混血児が親である吸血鬼を憎むように、吸血鬼もまた〝出来損ない〟を激しく嫌悪していた。
公爵令嬢らしからぬ悪態を吐きながらも、アデリナの様子を伝えてくれたのは、アリッサなりの優しさである。
安堵の表情で微笑むエイナが、急に憎らしくなったのか、アリッサはわざとらしく顔をしかめた。
「お前、汗というか、……女臭いぞ。
そういえば、今も肌着を替えなかったな? 不潔な奴だ」
「仕方ありませんよ。吸血鬼と違って、人間には体臭がありますもの。
それに、どうせ寝汗をかくんですから、このままでいいんです。
明日の朝、身体を拭いてから、ちゃんと着替えますよ」
「だったら、風呂に入ればよいではないか?」
「こんな田舎の村で、無茶を言わないでください。
明日はゼルデンっていう、南部では大きな町に着くはずです。
そこなら宿もあるでしょうし、三日ぶりにお風呂に入れますから」
「おお、ゼルデンか、それで思い出したぞ。伯爵様から貴様に、伝言を預かっておったわ」
「ひょっとして、私が臭いとか風呂に入れとかって、ここにつなげる前振りだったんですか?」
「何のことだ? それよりよく聞け。結構重要な報せだ。
伯爵様はダンピール女を連れて、明日お館を出発されるそうだ。
貴様とは、ゼルデンで合流することになろう……という仰せであった」
「そうですか、明日ですね!」
エイナの表情が、ぱっと明るくなった。
およそ一年ぶりである。ようやく母と再会できるのである。
なぜだか知らないが、アリッサが得意気に小鼻を膨らませていた。
エイナは、それに気づかない振りをしなければならなかった。
元公爵令嬢をからかいたくて堪らなかったが、彼女は笑いを嚙み殺し、どうにか誘惑に耐えきってみせたのだった。




