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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第十章 復讐するは
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十四 風魔法

 ハンナはすっかり安心し、微かな寝息を立てている。

 まだ十六歳の少女である。いくらでも眠れる年頃だ。


『軍の魔導士が来てくれた』という事実は、それほど心強いことなのだろう。

 これが王国の農民なら、魔法の存在からして疑うに違いない。


 エイナは狭い部屋の隅々まで意識を張り巡らせ、敵の気配を探っていた。

 吸血鬼とは昨年、オーク姉妹の誘拐事件の際に戦っている。

 彼らは恐ろしく強く、母の助けがなかったら、とても敵わなかっただろう。


 ただ、それは相手が第二世代、すなわちベラスケス直系の眷属の話だ。

 その配下である第三世代は、それほど苦労せずに倒せた。


 この手下どもは、人間離れした身体能力と怪力を備えていたが、簡単に動きが読めた。早くても単純なのだ。

 辺境に出没する、知性のないオークのようなものである。


 エイナは敵を待つ間、頭の中で段取りを組み立てていた。

 まず、この狭い部屋の中で戦うことは避けたかった。

 長剣は振り回せないから、ナガサ(刃渡り二十センチ余り)を握ったのだが、できれば広い屋外に移動したい。


 吸血鬼は跳躍力に優れているので、壁や天井を利用した立体的な攻撃をしかけてくる。

 強力な魔法を使えば一撃だが、ハンナや両親が巻き添えを食う恐れがある。

 というより、家そのものが倒壊するだろう。


 威力の弱い魔法で、どうにかして敵を外に追い出したい。

 彼女は吸血鬼の攻撃パターンを思い出し、対応を検討した。


 どれくらい時間が経ったか分からない。窓はわざと開けてあるから、星や月の位置を見れば、およその時刻は計れるはずだ。

 だが、どこから見られているか分からない。毛布から顔を出すわけにはいかなかった。


 目はすっかり闇に慣れた。毛布の中では、ナガサの刃に浮かぶ波紋まで、ぼんやり見える。

 その模様が、気のせいかはっきりしてきた。


 いや、気のせいではない。刀身が薄っすらと、光を帯びてきたのだ。

 ドワーフが付与した魔法効果――敵意の接近を知らせる、青白い燐光だった。


 それと同時に耳元に吐息がかかり、エイナはびくん! と身震いした。

 振り返っても、誰もいないのは分かっている。

 そして、予想どおりにアリッサの声が、耳朶をくすぐってきた。


「闇の通路が開いた。すぐに来るぞ!

 私にできるのはこれまでだ。

 いいか、私の許可なしに死んだら許さんからな!」


 ささやきを残してアリッサの気配は消え、戻ってくることはなかった。

 エイナは緊張を高めながら、考えずにはいられなかった。


『アリッサさんは、いつ許可を出すつもりなんだろう?』


      *       *


 月の光が届かない部屋の死角に、粘り気のある闇がわだかまった。

 男はそれを掻き分けて頭を覗かせ、床板に手をついて上半身を持ち上げた。

 次に腰を浮かせ、足を片方ずつ引き上げる。


 ようやく闇から脱すると、男は『やれやれ』という風情で立ち上がった。

 身長は百七十センチに満たず、男としては痩せて小柄な方だった。

 衣服は粗末な野良着で、靴を履かない裸足である。もとは農民だったのだろう。


 彼は立ち上がると、狭い部屋の中をきょろきょろ見回した。

 ベッドと毛布の小山を見つけると、嬉しそうにゆっくり近づいていく。

 初めてこの部屋を訪れたような仕草だったが、彼は間違いなく、二日前の夜にハンナを襲った吸血鬼だった。


 実を言うと、彼の記憶は一日持てばいい方なのだ。

 覚えていられるのは、『娘を連れてこい』という命令だけである。

 それ以外のことは、ぼんやりとした霧の中に沈んでいき、二度と浮かび上がってこなかった。


 真祖が新たな眷属を創造するには、優れた素質の人間に、自身の血と生命力を大量に与えてやる必要があった。

 ベラスケスのように、千年近い時を生きてきた吸血鬼には、かなりの負担がかかる。


 彼のような真祖なら、数年にひとりの眷属を生むのが適正なのだが、今はそんな贅沢を言っている場合ではない。アデリナに多くの部下を殺され、とにかく数が足りないのだ。


 ベラスケスは一か月前、必要最低限の血だけで二人の眷属を生み出した。

 当然、直系眷属を名乗るには、どう見ても力不足だった。


 生み出された新たな眷属は、まず人間を襲って多くの配下、すなわち第三世代を作るのが普通だ。

 彼らは真祖に注ぎ込まれた精気を、たっぷり蓄えているからそれが可能となる。


 しかし、ベラスケスが生んだ二人の眷属には、最初から余力がなかった。

 それでも、血と生贄を多方面から集めてくる手下が、どうしても必要である。

 結果的に、二人は主人マスターの真似、すなわち粗製乱造を選択せざるを得なかった。

 ハンナを襲ったのも、そうして生み出された〝出来損ない〟のひとりだった。


 男はベッドの傍らに立つと、背筋を伸ばして大きく息を吸い込んだ。

 青くさい処女の匂いが体中に沁みわたり、萎びていた陰茎がむくむくと怒張する。


 興奮した唇からにゅっと牙が露出し、糸を引くよだれが口の端から垂れた。

 毛布に向けて伸ばした指の爪も、娼婦のように長く鋭く伸びていた。


 男が毛布の端を掴もうとすると、予想外の光が発生し、彼は左手でとっさに目をかばった。

 その反応は人間だったころの名残であり、吸血鬼には不要な防御反応であった。


 男は顔の前に上げた左腕を少し下げ、何が起こったのかを確認しようとした。

 そこには青白い光に包まれた、奇妙な光景が浮かび上がっている。

 右手の甲から小さな三角の物体が生えている。それが光の発生源だった。


 実際には、水辺を飛ぶホタルのような弱い光なのだが、吸血鬼の目はそれを最大限増幅してしまうから、強烈な光に見えたのだ。


 手の甲から三センチほど突き出た三角は、手首に向けてするすると移動を始めた。

 まるで海面から背びれを出して、獲物に向かうサメのような動きである。


 不思議そうにそれを見つめている男の脳に、わずかに遅れて、焼け火箸でえぐるような激痛が殴りかかってきた。


 光る三角形は、背びれではなかった(そもそも農家のベッドに、サメが棲んでいるわけがない)。刃物の切っ先である。

 それが手の甲を下から突き通して、腕を切り裂こうとしているのだ。


 刃先は一気に振り抜かれ、びちゃっという濡れた音を立てて、肉の塊りが床に落ちた。

 中指と薬指の間から肘の手前まで、前腕が切断された結果だった。

 骨も切断されたはずなのに、刃先は滑らかに移動した。信じがたい切れ味である。


 吸血鬼は絶叫し、反射的に腕を押さえ、飛び下がった。

 その鳩尾みぞおちに何かの塊りが激突し、後退しかけていた男は、尻餅をついて倒れた。

 エイナが毛布を被ったまま、吸血鬼の腹に頭から突っ込んだのだ。


 仰向けに倒れた男は、もがきながらエイナに掴みかかったが、手にしたのは毛布だけだった。

 右腕の切断面では早くも再生が始まっていて、芋虫のよう小さな指が生え、ぐねぐねと動いている。

 エイナは引っ張られた毛布を男の頭に被せ、立ち上がりざまに顎のあたりを蹴とばした。


 彼女は重い軍靴を履いていたから、蹴りはかなりの衝撃だったはずだ。

 上下の顎が激しくぶつかり、嫌な音がした。何本かの歯が折れたに違いない。

 どうせすぐに再生するのだから、エイナは少しも同情しない。


 男は毛布で視界を奪われ、状況を理解できないまま、激痛で悶えている。

 これがアリッサのような強力な眷属だったら、腕を切断されてたとしても、顔色ひとつ変えないはずだ。

 それは、彼女が凄まじい精神力で自身を制御しているからであり、決して痛みを感じないわけではない。

 この男に、同じレベルを要求しては酷というものだ。


      *       *


 エイナが吸血鬼の手を刺してからここまで、実際には十秒も経っていない。

 ただその間に、もの凄い音でハンナは飛び起き、扉の外にいた父親のゲッツも、ランプとフォークを手に飛び込んできた。


 正直に言うと、エイナにとって二人は邪魔だった。

 特に父親に介入されては、彼女の計画が台無しとなる。

 

「どうした!?」


 エイナは、怒鳴って踏み込んできたゲッツの方を振り向き、激しく首を横に振り、ベッドで震えているハンナを、顎で指し示した。

『娘を守れ』という彼女の指示は、幸いにも父親に伝わってくれた。


 エイナが声を出せなかったのは、呪文の詠唱の途中だったからだ。

 アリッサが警告してきた直後から、彼女は呪文を唱え続けていた。


 その後に吸血鬼が出現し、近づいてくるまで数分の余裕があった。

 いつもの魔法なら、それで十分である。

 自分の身体に合わせて、呪文が極限まで効率化されているからだ。


 だが、いま唱えているのは、実戦で初めて使用する不慣れな魔法だった。

 体内に魔力回路を生成する必要があり、術式の圧縮もできないから、やたらと時間がかかる。


 エイナがゲッツに対応している隙に、吸血鬼は毛布を剥ぎ取り、ようやく立ち上がった。

 切られた腕も、すっかり再生されていた。

 男の目は怒りで吊り上がり、恐ろしい形相で牙をき、エイナを威嚇してきた。


 ただの人間、しかも女に傷つけられたのが、よほど衝撃だったのだろう。

 彼はすぐに襲いかかるべきだったのに、わずかだが躊躇してしまった。


 そのおかげで、どうにか詠唱が間に合った。

 吸血鬼が予備動作なしに跳躍したのと、エイナが魔力を放出したのは、ほぼ同時だった。


 裸足で床板を蹴った男は、飛び上がったものの空中で静止し、次の瞬間、猛烈な勢いで後方へ吹っ飛ばされた。

 壁には激突しなかったが、開け放った窓から外へ叩き出されてしまったのだ。


      *       *


 それは彼女が苦手とする風魔法の一種で、圧縮空気弾と呼ばれるものであった。


 半年ほど前、ケルトニアの傭兵として(あくまで建前だが)、トルゴルに派遣された時のことである。

 エイナの部下にノーマという、風魔法を使う若い娘がいた(彼女は魔導院を卒業したばかりだった)。


 間近で体験すると、風魔法は想像以上に便利なものだった。

 殺傷力や破壊力は大きくないが、戦いを有利に進める補助的な手段となったのである。


 そのため、エイナは風魔法を習得しようと考えた。

 彼女の体質が風魔法と相性が悪いので、高等魔法は無理でも、中級なら何とかなると思ったのだ。

 そこで、空いた時間を利用して、部下のノーマに教えを受けた。

 その時に選んだのが、圧縮空気弾である。


 これは名前どおりで、周囲の空気を球状に圧縮して、対象にぶつける魔法である。

 もちろん、大魔力を投入すれば敵を瞬殺できるが、エイナはそこまで望まなかった――というより、無理だったと言う方が正しい。

 彼女が放出できた魔力では、敵を数メートル吹っ飛ばすのが限界だった。


 だが、エイナにはそれで十分だった。敵を殺したいなら、得意な火系や水系の魔法を使えばよい。

 トルゴルから帰還してノーマと別れても、彼女はこの魔法の練習を続けていた。

 それがいま、役に立ったというわけである。


      *       *


 エイナは外へ吹っ飛んだ吸血鬼を追って、窓に向かって飛び込んだ。

 地面で前方回転して受け身をとり、その勢いで素早く立ち上がる。

 目の前には、腹を押さえてうずくまっている吸血鬼が転がっていた。


 物音に気づいた村長たちが、松明と農具を手に駆け寄ってきたが、エイナは怒鳴って彼らを近寄らせなかった。

 下手に近寄って人質に取られては、目も当てられない。


「周囲を取り囲んで、奴を照らせ!

 絶対にそれ以上近寄るな! 巻き添えを食うぞ!!」


 おとなしそうなエイナだが、見た目に反して厳しい声が浴びせられた。

 切迫した声音には、有無を言わせぬ力がある(指揮官経験のたまのである)。


 村人たちは数メートルの距離を取り、右手でフォークを構えたたまま、残る手で松明を高く掲げた。

 昼間同様とは言わないが、エイナと吸血鬼の周りはかなり明るく照らされた。

 吸血鬼が闇に潜って、逃走する手段を潰したのだ。


 エイナの唇が細かく震え、高速で詠唱される多重呪文が漏れ出した。

 今度は得意魔法だから、要した時間は驚くほど短かい。

 そのわずかな時間で吸血鬼は立ち上がり、狂ったように周りを見回した。


 囲みを突破して逃げるか、目の前の女を半殺しにして人質にするか迷ったのだ。

 彼は当然のように選択を誤った。エイナに向かって飛びかかったのだ。


 村人の目には、エイナが吸血鬼の突進を防ごうと、反射的に腕を伸ばしたように見えた。

 だが、その手の先に眩しく輝く光の球が発生すると、突っ込んできた男は、いきなり方向を変えた。

 吸血鬼の本能が危険を察知したのだ。人間なら不可能な動きであった。


 男は囲みの突破に方針を変更したが、遅すぎた。

 エイナの手から飛び出した光球は、吸血鬼を追って急角度で曲がり、あっと言う間に背中に吸い込まれた。


 次の瞬間、凄まじい爆発が起きた。


 光球が膨れ上がって吸血鬼を包み込み、結界が発生した。

 内部で炎の龍が何匹も生まれ、激しく絡み合う。

 十数秒後、魔法が消滅すると、焼け爛れた地面には、白い灰しか残っていなかった。


 一万度を超える高熱によって、吸血鬼は骨まで焼き尽くされた。

 もちろん再生など、許されるはずもなかった。

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10000度って太陽表面こえる極高温やんけ ファイアボールこわっ
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