十三 見義不為
「待ち伏せ……ですか?」
エイナは暗闇に向かって訊ねた。
いくら夜目が利くといっても、照明もなく窓を閉めた小屋の中で、闇に紛れた吸血鬼は視認できない。
エイナは農具に躓かないよう、手を伸ばし、すり足で壁に近づいた。
手探りで蔀戸(窓)を押し出すと、月明かりが入ってきた。彼女には、そのわずかな光で十分だった。
肩越しに振り返ると、干草の山の上にアリッサがちょこんと座っているのが確認できた。
軒から下がるL字形の金具に窓板を引っかけ、エイナはアリッサのもとに近づく。
「いや、偶然だろう」
吸血鬼はようやく先ほどの質問に答えた。エイナが側に来るのを待っていたのだろう。
『面倒くさい人だなぁ……』と思うが、もちろんエイナは口に出さない。
「この村の空気には、微かだが同族の臭いが残っている。現れたのは一日、いや二日前といったところだろう。
我々の動きとは無関係だ」
「ということは今現在、この村に吸血鬼がいるわけではないのですね?」
「もしそうだったら、三流でも私の存在に気づくだろう。
こうして出てくるのは、マナー違反となる。
他人の縄張りで食事の邪魔をするのは、敵対行為と見做されるからな」
「相手はベラスケスの眷属……なのでしょうか?」
アリッサは呆れたような表情を見せた。
「分かり切ったことを訊くな。これだから人間は好かんのだ。
まぁ、眷属といっても、貴様らのいう〝第三世代〟だから、取るに足らん小物だ。
ただ、この村を襲うのは、少し妙だとは言える」
「どういうことでしょう?」
「お前は……本当に愚かだな。そのご大層な頭は、何のためについている?
いいか、ここは大隧道を抜け、南に向かってから、最初にたどり着いた村だ。
つまり、ここから先が帝国南部、ベラスケスの縄張りになる」
「それは、私も理解しています」
「ベラスケスにすれば、自分の屋敷から遠く離れた最果てに当たる
しかも戸数は十数件、五十人ほどの餌しかいないちんけな村だ。
普通なら、見向きもされない寒村を、わざわざ襲いにくるか?」
「それだけ、彼が追い詰められている……ということですか?」
アリッサは、青白い月明かりに浮かんだ顔に、悪意のこもった笑みを浮かべた。
「ベラスケスが王国に派遣した二人は、奴の眷属の中でも古顔でな、そこそこ優秀な部下だったのだ。
それを一度に失っただけでも大打撃なのに、アデリナが直接乗り込んできた。
どうにかダンピールを退けたが、その代償でさらに三人が討たれた。
奴はいま、戦力の立て直しに躍起になっている。
こんな村からも血を集めに来るとは、もう形振り構っていられないのだろう」
この村に吸血鬼が現れたと聞いて、エイナはようやく納得した。
最初に村の役屋を訪れ、眠っていたハンス村長を起こした際、いきなりフォークを突きつけられた理由が分かったのだ。
そもそも、ハンスが長椅子で寝ていたことが変なのだ。
忙しい夕暮れ時に、呑気に寝ていられるほど、暮らしに余裕がある村には見えない。
吸血鬼に襲われたことで、男たちは夜間の警戒に当たっていたに違いない。
昼の農作業があるから、無理はできない。夜通しといっても、数時間で交代しているのだろう。
ただ、ハンスは村長としての責任がある。彼だけは先頭に立ち続けていたはずだ。
寝不足で、機嫌が悪かったのもうなずける。
ハンスはエイナが魔導士だと知ると、「この村が目的で来たのか?」と訊いてきた。
彼は吸血鬼の被害を、軍に訴え出たのだろう。
軍がそれに応えて、魔導士を派遣してくれた――そんな一縷の希望を抱いたのかもしれない。
もちろん、吸血鬼の存在を認めていない軍が、動くはずはない。
ハンスだって、そんなことは分かっていたのだ。
だからエイナが無関係だと分かると、彼は諦めてしまい、事件に触れなかった。
軍人は上からの命令がない限り、独断で動くことができない。
無理に食い下がって、軍の不興を買うほうが、村にとってはマイナスだった。
「ところがどっこい、エイナ・シュトルム魔導中尉は、暇を持て余しているのであった」
エイナは芝居がかった台詞をつぶやくと、回れ右をした。
その背中に、アリッサの呆れ声が浴びせられた。
「やめておけ。知らぬふりをして、朝になったら出ていけばよい。
余計な戦いは避けるべきだ。敵に情報を渡す危険を冒すつもりか?」
「はいはい、どうせ私は愚かな人間ですよ。
でもですね、アリッサさん。一宿一飯の恩義を返すのが、人間のやり方なんです」
「宿も飯も金を払っているのに、恩義もクソもないだろう。
お前が負けそうになっても、私は助けられないのだぞ?」
「そんなことは、最初から分かっています。
理屈っぽい吸血鬼って、可愛くないですよ?」
「貴様……やっぱり殺しておくか?
伯爵様には、落馬して頭を打ったことにしておけばよい」
アリッサの形相が険しくなり、赤い唇からにゅっと牙が伸びた。
しかし、エイナは怯んでくれなかった。
吸血鬼の牙がすっと引っ込み、アリッサは少し寂しそうに吐き捨てた。
「だから……人間は嫌いなのだ」
* *
エイナは納屋を出て、母屋に向かった。
勝手口の扉をノックすると、ごとごとと閂を外す音がして、村長の女房が顔を出してくれた。
「おやまぁ! もうお休みになったと思ってましたのに、何かご用でございますか?」
彼女はにこにこして、エイナを中に招き入れた。
扉を閉めると、太い角材で閂をかけ直す。
台所は洗い物が終わり、きれいに片付けられていた。
彼女が優秀な主婦であることが、ひと目で分かる整頓ぶりである。
「ずい分と戸締りが厳重ですが、やはり吸血鬼への用心ですか?」
エイナが餌を撒くと、女房は即座に喰いついてきた。
「ああ、主人にお聞きなさったんですね? そうなんです!
村の奥さんたちもすっかり怖がって、寄ると触るとこの話でもちきりなんでございますよ!」
「二日前ですよね。被害に遭われたのは、どなたですか?」
「そうそう、一昨日の夜のことです。
襲われたのはね、ゲッツさんとこの末の娘さんですよ!
ハンナちゃんはまだ十六歳だっていうのに、どんなに怖かったことか!!」
「そのハンナさんは、無事だったのですか?」
「ええ、これはもう神様のお陰ですよ!
ゲッツさんのとこはほら、上の娘たちがみんな嫁いじまって、今はハンナちゃんと三人暮らしなんですのよ。
その夜のことですけどね、ゲッツさんが厠に起きたら、娘の部屋から物音がするっていうじゃありませんか!
ハンナは村でも評判の別嬪ですからね、どこかの若勢(農家の次男以下の若者。使用人として働くことが多い)が、夜這いをかけたと思ったんですね。
それで、二度と変な気を起こさないよう脅かしてやろうと、フォークを構えてハンナの部屋に飛び込んだと思いなさい」
「ふんふん、それで?」
「ハンナちゃんはベッドで眠ったままで、見知らぬ男が覆いかぶさっていたんです!
物音に驚いた男が振り返ると、目は充血して吊り上がっているし、耳まで裂けた口から、牙が見えたそうですよ。
ゲッツさんは、すぐに『吸血鬼だ!』と気づきました。この南部じゃ、昔から吸血鬼に悩まされていますからね。
私だったら悲鳴を上げるばかりで、何もできなかったでしょうね。
でも、さすがに男の人ですね、娘を助けようと夢中で突っ込んだそうです。
フォークの爪は見事、尻に突き刺さりました。いい気味です!
ところが、吸血鬼は恐ろしい叫び声を残して、煙のように消え去ったんでございます!」
「それは、何と言うか……凄いですね」
「そうでしょう!?
幸い、ハンナちゃんは噛まれる前で、無事だったそうですよ。
でもね、吸血鬼は一度狙った獲物を、何度も襲うって言いますから、村の男衆が一晩中警戒しているんです。
うちの人は何しろ村長ですから、陣頭指揮をしていましてね。
私もさっきまで、夜食の弁当を用意していたんでございます」
女房はそう言って、アケビで編んだ手下げ籠を、誇らしげに持ち上げてみせた。
エイナは彼女のお陰で、十分な情報を手に入れた。
その代わりとでも言うように、この気立てのよい女性はエイナに対し、訴えるような視線を向けてきた。
どうしてその期待を裏切れるだろう? 例えアリッサに愚か者と揶揄されようとも、である。
「伺ったのは、実はその件なんです。
これは任務ではないのですが、〝義を見てせざるは勇なきなり〟と申します。
一夜の宿をお借りしたご恩返しに、お手伝いをしたいと思いまして……」
「まあ、やっぱり! そうじゃないかと思っていたんです!!」
村長の女房は無邪気に喜び、エイナを力任せに抱きしめた。
肉の壁で窒息しそうになりながら、エイナは『どうよ、アリッサ?』と見返した気分だった。
エイナは女房に連れられ、身支度中のハンスに会いにいった。
村長は彼女の姿を見て驚いたが、エイナは素早く近寄って耳打ちした。
『これは内命による行動です。お分かりだと思いますが、他言されないように願います。
軍は決して、民を見捨てません』
付け加えた一言は、エイナ自身の願望だったのかもしれない。
ハンスは無言でうなずいたが、その目には涙が滲んでいた。
* *
村長の説明によると、夜間の警備は二隊各四人構成で、四時間で交代しているらしい。
予想どおり、ハンスだけは夜通し指揮に当たっていた。
一隊は狙われているハンナの家の周囲を固め、残る一隊は村の中を巡回しているということだった。
警戒態勢を敷いて昨夜が初めての夜だったが、何も起きなかった。
今夜はその二日目となる。
ハンスの女房も言っていたが、吸血鬼は狙いを定めた人間に、強い執着を示すことが知られている。
吸血鬼にも、彼らなりのプライドがあるのかもしれない。
「この村に吸血鬼が出たのは、初めてですか?」
「そうだ」
「被害者の家の周囲を警戒するのが、無駄だとは言いません。
ただ、吸血鬼はその気なれば、直接彼女の部屋に現れることができます。
それは、ご存じですか?」
「分かっている。だからハンナの部屋では、父親が寝ずの番をしている。
俺たちもそうすべきなのかもしれんが、ハンナは年頃の娘だ。
いくら子どものころから知っているといっても、男に囲まれるのは嫌だろうからな。
その代わり、何かあれば彼女の両親が大声を上げる手筈だ。
その時はすぐに踏み込めるよう、わざと戸締りをしていない」
「なるほど。ですが、それではご両親も危険です。
それに、吸血鬼には魅了能力があります。声を上げる前に、意識を奪われる可能性だってあります。
それより、私がハンナさんに付き添う――同衾するのはどうでしょう?
同じ女性ですから、彼女も恥ずかしくないでしょうし、私に気づかれずに襲うことは不可能です」
「だが、中尉さんだって魅了されれば、同じことじゃないのか?」
「魔導士には、吸血鬼の魅了は効きません」
村長は『そういうものか』と納得してくれたが、これは嘘である。
吸血鬼の魅了は魔法ではなく、種族として獲得している特殊能力だ。
例え魔法防御の結界を張っていても、防ぐことはできない。
エイナが無効化できるのは、彼女に流れる吸血鬼の血のせいなのだが、それを言うわけにはいかなかった。
「中尉さんは、やけに詳しいな?」
「私には、吸血鬼と戦い倒した経験があります。だから、こうして派遣されたのです。
もちろん、これも機密ですから、他言無用ですよ」
これも後半は嘘なのだが、ハンスは疑わなかった。
彼だって誰かに縋りたいし、信じたいのだ。
村長はハンナとその両親を説得し、エイナの提案は認められた。
どう考えても、本物の職業軍人で魔導士のエイナの方が、百姓の男どもより頼りになるに決まっているから、当然である。
魔導士が軍のエリートであることは、片田舎の農民にとっても常識だったのだ。
エイナはゲッツの家に入れられ、一家と顔合わせをした。
ハンスの女房が言っていたとおり、ハンナは確かに可愛らしい娘だった。
ただし、そこには〝百姓にしては〟という前置きが必要だった。
彼女はエイナよりも背が高く、幼いころから農作業を手伝っていたせいで、可憐というよりも逞しい印象だった。
もちろん、彼女は少女らしく恐怖に怯えていたし、エイナを救世主のように信じてくれた。
父親のゲッツは、娘の部屋の前で不審番を務めることとなり、エイナはハンナと同じベッドに入り、薄い毛布を頭から被った。
ハンナは肌着姿だが、エイナは軍服を着たままで、靴も脱いでない(靴の泥は落とした)。
その手には、抜き身のナガサ(山刀)が握られていた。
それはユニが愛用していた二本のナガサの一振りで(もう片方はシルヴィアが持っていた)、敵の接近を発光して知らせてくれるはずだった。
ハンナは毛布の下で、エイナの背後から抱きついてきた。
最初のうちこそ震えていたが、やがて安心したのか、すやすやと寝息を立てはじめた。
この二日というもの、まともに眠っていなかったに違いない。
エイナはできるだけ自分の気配を殺し、息をひそめて待ち続けた。
自分とは違う、若い娘の汗ばんだ体臭が鼻腔をくすぐるのは、何だが奇妙な気分だったが、決して不快ではなかった。
ただし、背中に押しつけられる乳房が、やけに立派なことだけは気になった。
ハンナは自分より、四つも年下なのだ。
この世は理不尽に溢れている……エイナは密かに神を呪わずにいられなかった。