十二 最初の村
エイナは夜明けころ、ひとりで目覚めた。
顔を洗い、歯を磨く。
部屋の前に置かれていた洗濯籠を回収し、きれいになったシャツを着て、少し汗臭い軍服に袖を通す。
髪をブラシで梳かし、鏡でおかしいところがないかチェックする。化粧はしない。
五時過ぎには宿の食堂で質素な朝食を摂り、勘定を済ませた。軍票にサインをするだけだから、とても楽だった。
宿を出ると、手回しよく馬が回されていた。
この世界の人びとは、夜明けとともに起き出して、一日の生活を始めるのが普通だから、特別早い出発というわけではない。
御山温泉から大隧道の入口までは三キロほど、馬だと一時間もかからない。
コルドラ大山脈を貫通するこのトンネルは、東部と帝国本土を結ぶ唯一の経路なので、当然のように身分確認がある。
検問で係の兵士が手綱を取り、馬を止めたので、エイナは下馬しようとした。
だが、兵士は笑顔を向け、その動きを押し留めた。
「中尉殿はそのままで結構です。身分証だけ確認させてください」
エイナは少し戸惑いながら、内ポケットから身分証を取り出し、彼に手渡す。
若い兵士はそれを開いたとたん、目を見開き、顔色を変えた。
「中尉殿、誠に申し訳ありませんが、少々お待ちください」
兵士はそう言い残すと、慌てて駆けていった。
彼はすぐに戻ってきたが、上官と一緒であった。
エイナは少し不安になった。
何しろ、彼女がひとりで検問を通るのは、これが初めてである。
クレア港から入国する際は、オルロック伯が一緒だったので、ほぼ無審査で通されたのだ。
『何か不備があったのかしら?』
エイナは内心どきどきであったが、すぐにその心配は解消された。
現れた将校(少尉だったから、警備小隊長といったところか)は、満面の笑みで身分証を返してきたのだ。
「部隊責任者の確認は、必要な手続きなのか?」
念のために訊ねると、エイナの機嫌を損ねたと思ったのか、少尉は慌てて首を振った。
「滅相もありません!
先をお急ぎのところ、お手間を取らせて申し訳ありません。
実は……ご存じでしょうが、大隧道を抜けても、しばらく町はありません。
出過ぎた真似かもしれませんが、これを昼食に召し上がっていただこうと、お持ちした次第で……」
少尉は藤籠の弁当箱をエイナに見せ、馬に装着された振り分け鞄に詰め込もうとした。
「ああ、いや。貴官の心遣いはありがたいが、そこまでされるいわれはない。
昼食なら、宿で用意してもらった」
「ですがっ! これは今朝焼いたばかりの白パンです。チーズだけでなく本物のソーセージも挟んであります!
自分の妻は料理上手で知られておりまして、この弁当を見ると、部下たちが羨むのです。是非、ご賞味いただきたく……」
「いやいやいや、そんなことを聞いたら、余計貰えないではないか!
奥方が心を込めて、貴官のために作ったのだぞ。私が食べては罰が当たる」
「そこを曲げて! 是非に!!」
少尉は泣きそうな顔で、馬上のエイナを見上げている。
エイナは大きな溜息をついた。
「分かった。貴官がそこまで言うのに、頑なに拒絶しては、かえって奥方に失礼だ。
ありがたくいただこう」
少尉の表情が、ぱっと明るくなった。
「自分は大隧道東部検問担当、第五小隊長を拝命しております、ベルツ少尉と申します!
よろしくお見知りおきください」
エイナは「うむ」とうなずき、馬上から敬礼した。
「旅のご無事をお祈りしております!」
少尉も直立不動で敬礼を返す。
エイナはようやく検問所から解放され、隧道の中へと馬を進めていった。
彼女の身分証は、絶大な効果を発揮した。
その摘要には、作戦部長の署名入りで、現地部隊に対して格別な配慮を求めていた。
重要な任務だということは、馬鹿でも分かる。
しかも、彼女の所属は参謀本部である。
中央本部直属の魔導士なら、佐官級が常識だ。エイナは若いがとんでもない実力者で、外見に合わせて階級を偽っているのかもしれない。
実力至上主義の帝国軍では、二十代で佐官になった天才が何人も存在するのだ。
検問所の小隊長が、自分の名前を売り込もうと必死になったのもうなずける。
帝国軍の規律は厳しいことで有名だが、現実には〝見舞い〟と称する賄賂が当たり前に横行していた。
エイナの通過は知らされていなかったから、ベルツ少尉は何も用意をしていなかった。とっさの策で、愛妻弁当を差し出したのだろう。
* *
大隧道の総延長は、二十キロ近くに及ぶ。
騎馬を含む大部隊の通過を可能とするため、トンネルの幅は五メートルもあり、高さも三・五メートルと十分過ぎる広さがあった。
土木機械のない時代に、これだけの大工事を可能としたのは、大量投入された魔導士のお陰である。
エイナは薄暗い隧道を、馬に乗って淡々と進んでいった。
旅人は少なかったが、物資を運ぶ荷馬車とは頻繁にすれ違う。
帝国が持つ外洋港は、東の果てにある北カシルだけである。
大陸の北は遊牧民族のアフマド族に押さえられ(そもそも北洋は一年の半分以上、氷に閉ざされている)、西の海は海洋国家ケルトニアの独壇場であった。
帝国が生産する医薬品や肥料、工業製品は、海外からの需要が大きい。
輸出するには、帝国本土から大隧道経由でクレアへ陸送し、そこから河川舟運で北カシル港まで運ばねばならない。
移出先は交易立国の東沿岸諸国で、これらの国からやってくる大型帆船が、いくらでも買い付けてくれるのだ。
南方で産出するゴムや化学製品の原材料も、この逆のルートをたどって輸入されている。
大隧道は、文字どおり帝国の死命を制する動脈にほかならず、荷馬車の多さはそれを証明していた。
もちろん、輸送にかかる経費と時間は莫大であり、その解決は帝国永遠の課題であった。
だからこそ帝国は、距離的に近い西のエウロペ諸王国の良港を奪おうと、大国ケルトニアと戦っているのだ。
エイナはすれ違っていく大型荷馬車の列を眺めながら、帝国の置かれた状況を肌で感じ取っていた。
彼らだって、好きで戦争をしているわけではない。
帝国が王国侵略を後回しにしてくれるのは、王国も南カシルしか外洋港を持っていないからだ。
北カシルの対岸を占領しても、問題の解決とはならないのである。
隧道内には、一定間隔で大型ランプが設置されている。
かなり暗いのだが、目が慣れればどうにかなる(馬は結構夜目が利く)。
どうせ障害物の心配はない。壁や天井は素掘りのままだが、地面だけは舗装並みに整備されているのだ。
長大なトンネルであるから、ランプはもの凄い数になる。
油代が莫大なことも問題だが、どうやって換気をしているのか、エイナは不思議でならなかった。
実際には、大隧道と並行して小隧道が掘られていて、要所で地表の換気口とつながっている。
換気口は頑丈な掩体で覆われ、強い山風を利用した風車で、強制排気が可能となっていた。
* *
隧道の中間地点までは、二時間ほどかかった。
ここは拡幅され、ちょっとした広場となっている。
馬のために水と飼料が用意されていて、軍は無料で利用できる。
一応、人間用にもちょったした売店が開かれていた。
興味本位で覗いてみたが、品揃えは貧相で、食料品も高い割に美味しそうに見えない。
商人たちは事前に準備をして入ってくるから、店が流行らないのは当然である。
エイナは馬の休憩時間を利用して、かなり早めの昼食を摂った(まだ午前十時前である)。
ベルツ少尉の愛妻弁当は、自慢するだけあって本当に美味しかった。
パンはふわふわで、挟まれた具材も新鮮で厚みがあった。
夫のための弁当であるから、女性には量が多かったが、残しては罰が当たる(そうでなくてもエイナは貧乏性である)。
きれいに平らげると、藤で編んだ弁当箱の底に小さなメモが入っていて、女文字で『パパ頑張って』と書いてあった。
これほど罪悪感のある食事は、生まれて初めてだった。
* *
長いトンネルを抜け、エイナは目を細めて眩しそうに太陽を見上げた。
季節と角度から計算して、正午前後といったところだ。
大隧道の出口にも検問があったが、これは東部へ向かう者が対象で、隧道から出てきたエイナは素通りできた。
地図によれば、ここから西へ三キロほど進むと左に分岐する道があり、これが南部地方に通じる脇街道となる。
この脇街道に入っても、のどかな田園風景が続くだけで、最初の集落が現れるまで二十キロ以上ある。
真夏であるから、馬はしきりに水と休憩を要求してくる。
夕方までに着けるかどうか、怪しいものだった。
たったひとりの旅は、愉快なものではない。
何より話し相手がいないのが辛い。
試しにアリッサの名前を呼んでみたが、当然のように返事はなかった。
* *
結局、最初の村〝ポテル〟が見えてきた頃には、午後六時を過ぎており、緯度が高い帝国ではもう日が傾いていた。
エイナが育った辺境とは違い、村を囲む柵や土塁はなく、よそ者を監視する門番もいなかった。
村の中に馬を乗り入れても、村人はあまり関心を向けてこなかった。
村の中央広場に役場らしい建物を見つけ、エイナはその前で馬から降りた。
役場といっても、茅葺の農家であることに変わりない。
壁にかかる農具が見当たらず、生活臭がしないので、そう判断したまでだ。
扉をノックしても返事がないので、エイナは勝手に中に入った。
散らかったテーブルの上にあるランプには、まだ火が入っていない。
黒い革の長椅子に、乾いた泥のついた長靴を履いた農夫が寝転がり、気持ちよさそうに鼾をかいていた。
「もし?」
エイナは近寄って、彼の肩を揺すってみた。
農夫はバネ仕掛けのように跳ね起き、エイナの胸に四本爪のフォーク(干草などを運搬する農具)を突きつけた。
床に置いていたのだろうが、いつ手に取ったのか分からない。それほど素早い動きだった。
「動くな!」
男の語気は鋭く迫力があり、その全身からは緊張感が漂っていた。
彼は眉根を寄せて目の焦点を合わせると、少しだけ肩の位置を下げた。
「なんでぇ、軍人さんかよ。脅かしやがって……。
あんたひとり……のようだな。こんな田舎村に、何しに来たんだね?」
「その前に、この物騒なものを下げてくれませんか?」
両手を挙げていたエイナは、自分に向けられているフォークの切っ先に目を遣った。
男は、ゆっくりと農具を下ろしたが、握った手から力は抜いていない。
「私はエイナ・シュトルム魔導中尉です。
任務で移動中なのですが、馬の世話と今夜の宿を借りたいのです。
この村の肝煎を呼んでくれませんか?」
「肝煎……村長のことかい? もしそうだとしたら、俺がそうだ。
ハンス・クルーゲルだ。ハンスと呼んでいいぜ」
王国では、村長を名乗れるのは親郷だけで、枝郷では肝煎と呼ぶのだが、帝国は違うらしい。
ハンス村長はエイナを値踏みするように、上から下までじろじろと見た。
そして、肩のマントに気づいたようだった。
「あんた、魔導士さんかい?」
「先ほど、魔導中尉と名乗ったはずですが?」
「ああ、すまん。まだ少し寝惚けててな」
「それにしては素早い身のこなしでしたね。軍務経験がおありですか?」
「俺のことはどうでもいい。それよりシュトルム中尉だったな?
任務の途中だと言ったが、この村が目的ではないのだな?」
「そうです。もっと南西に向かう予定です」
「まぁ、……そりゃそうだろうな」
ハンスはなぜか、落胆したような表情を浮かべた。
「分かった。俺の家の納屋でよければ泊まるがいい。馬の世話も引き受ける。
女房に言って、何か食い物も届けさせよう。百姓の食いもんだから、味に文句はつけるなよ。
もちろん、金は払ってもらえるんだろうな?」
「軍票でよろしいですか?」
「はぁ? 軍の出張所まで、何十キロあると思ってる?
この村じゃ、いつもニコニコ現金払いと決まってるんだ。
銅貨十五枚にまけといてやる。泣いて感謝しやがれ」
「……分かりました」
エイナは上着の内ポケットから、巾着を取り出した。
帝国の相場は分からないが、少し高いような気がする。
だが、一日中馬に揺られた身体はくたくただった。どうせ痛むのは帝国軍の懐だし、ここは素直に従うべきだろう。
ハンス村長は銅貨の枚数を確認し、上着のポケットにねじ込むと、エイナに付いてくるよう顎で合図した。
案内されたのはよくある農家の納屋で、農具置場と種籾の保管庫にしているという。
茅葺屋根に板壁と土間、撥ね上げ式の板窓という粗末な造りだが、村長だけあって、そこそこの大きさがあった。一夜の宿としては上等の部類だ。
納屋の説明を受けていると、母屋からハンスの女房がやってきた。
不愛想な村長と正反対で、顔も身体も丸々と肥え、とても気立てのよい陽気な女であった。
彼女は気合の入った夕食を運んできて、洗濯物も『ついでだから』と引き受けてくれた。
ランプは食事が終わったら返す約束で、空の食器とともに母屋に持っていった。
外はもう暗くなっており、ましてや明かりのない納屋は真っ暗だった。
だが、エイナは夜目が利くし勘もいい。そこに『誰かがいる』と、すぐに気づいた。
「アリッサさんですね?」
エイナは少し嬉しくなって、暗闇に向かって声をかけた。
返事はなかったが、独特の気配で彼女であることが確信できた。
エイナは後ろ手に扉を閉め、白シャツのボタンに手をかけた(軍服の上着はとっくに脱いでいた)。
寝間着に着替えて干草に潜り込み、アリッサに昼間の出来事を話すつもりだったのだ。
そのエイナに向けて、暗闇から何かが投げつけられた。
反射的に受け止めると、すぐに何か分かる。夕食前に脱いだはずの上着である。
エイナはアリッサがいるはずの闇に顔を向け、口を開こうとしたが、「シッ!」という叱声で黙らされた。
次の瞬間、間近で吐息が耳朶をくすぐった。昨夜の露天風呂と同じ手だ。
「黙って聞け。この村、吸血鬼が来ているぞ」