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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第十章 復讐するは
343/359

十一 百年の孤独

 完全な不意打ちに、エイナは反射的に立ち上がろうとした。

 だが、すぐに自分が裸であることを思い出し、胸を押さえてしゃがみ込む。


「誰っ!?」

 声がした方を振り返っても、誰もいない――というか、彼女は露店風呂の岩壁に寄りかかっていたのだ。それなのに、声は耳のすぐ後ろから聞こえた。

 だとすれば、声の主は石畳の床に寝転がっていたことになってしまう。


「何を間抜けなことをやっている?」

 またしても声がした。また後ろからだから、今度こそ声の主は温泉の中である。


 そして、つい今しがたまで、誰もいなかった空間に、見知った顔が浮かんでいた。

 伯爵の眷属、アリッサだ。

 彼女は長い黒髪をまとめて頭の上で結い、肩のあたりまでお湯につかっていた。


 緊張が一気に解け、エイナは大きく息を吐いた。

「驚かせないでください、アリッサ。

 いつからいたんですか?」


「無礼者!」

 いきなりアリッサの顔が険しくなる。


「貴様のような小娘に、呼び捨てにされるいわれはない!

 卑しい人間の分際で、それ以上調子に乗るなら……殺すぞ」

 最後のひと言はドスの利いた低音で、可憐な容姿とは真逆の迫力があった。


「えと、あの、ごめんなさい! 私より年下に見えるものだから、つい……。

 アリッサさん(・・)って、実際はおいくつなんですか?」

「私が伯爵さまの眷属に加えていただいたのは、今から二百四十二年前のことだ。

 愚かな人間であった私は、その時まだ十七歳だったから、よわい二百五十九ということになるな。

 以後、年長者に対する敬意を忘れるでない」


『やけに細かいのね。切りよく二百六十歳でよくない?』

 エイナはそう思ったものの、怒られそうなので、口には出さなかった。


「では、館では誰よりも長く、伯爵様にお仕えなのですね?」

「馬鹿を言うな!

 私は眷属で二番目に若いのだ。年寄り扱いすると許さんぞ!」


『さっきは年上として敬え、って言ってたのに?』

 もちろん、これも声には出さない。その代わりに、エイナは話題を切り替えた。


「それで、どうして急に出てきたのですか?」

「貴様は馬鹿か?

 私は伯爵様から、夜の間、お前を守ってやれと命じられたのだ。

 暗くなったのだから、出てくるのは当然だろう」


「こんなところまで、ベラスケスの眷属が襲ってくる……ということでしょうか?」

「いや、それはないな。

 コルドラ山脈の東側は、伯爵様の支配地域だ。

 ほかの吸血鬼は立ち入りを遠慮するものなのだ。いわゆる不文律という奴だ」


「では、わざわざ出てこなくても……」

「だから人間は愚かなのだ」


 アリッサは『度しがたい』という表情で、首を左右に振った。

「いいか、危険とは別に吸血鬼に限ったことではない。あらゆる可能性を考えるのが賢者の常道だ。

 今だって、山賊や追剥の類に襲われぬとも限らんのだぞ?」


「いえ、さすがに女湯に山賊はないですよ」

「ならば石鹸で足を滑らせ、頭を打ったらどうする?」


「まぁ……見守ってくださるのはありがたいです。

 でもそれだったら、アリッサさんまで裸になる必要ないじゃありませんか?

 あ……ひょっとして、温泉に入りたかったんですか?」

「ばっ、ばばばばっ、馬鹿を言うな!

 私は伯爵様の血を分け与えられた、誇り高き眷属だぞ!?」


「あら、でも吸血鬼だって、お風呂には入りますよね?

 これほど大きな露天風呂ですもの、別に恥ずかしがることありませんよ」

「黙れ! 貴様の護衛をするからには、湯にも入らねばならんのだ。

 私は常識をわきまえているだけだ」


「ちゃんと髪まで上げてるの、準備がよすぎません?」

「うっ……」


「それと、アリッサさんの隣りに浮いているの、何ですか?

 私はそんなもの、持ち込んでいませんよ」


 アリッサの横には、黄色いアヒルの玩具おもちゃが、ぷかぷか浮かんでいたのである。


      *       *


「いやぁ~、それにしても気持ちよかったですねー?」

 エイナはそう言って、皿に残っていた肉饅頭に手を伸ばした。


 風呂上がりの彼女は、アリッサと連れ立って、繁華街の食堂に入っていた。

 昼に街道脇の木立で、堅い黒パンを水筒の水で流し込んでから、何も食べていなかったので、遅い夕食を摂りにきたのだ。

 注文したのは、ヒツジの挽肉を包んだ蒸し饅頭を三つ、ジャガイモとキャベツのスープである。


「まぁ、あのマッサージは……うん、人間にしてはなかなか良かったな」

 アリッサも渋々認めざるを得ない。


 温泉を心ゆくまで堪能した後、二人は並んで別料金のマッサージを受けたのだ。

 御山温泉の垢擦り女の腕前は有名で、この温泉の売りとなっていた。

 あまりの気持ちよさに寝落ちするのは当たり前で、女性客は失禁することすらあるので、事前にトイレを勧められるほどである。


 実際、うつ伏で背中を揉みほぐされたアリッサは、

「あ、あああああぁ~」

と、あられもない声を上げたのを、隣りのエイナにしっかり聞かれていたのだ。

 今さら強がるわけにもいかなかった。


「温泉に入っていた時、エイナは『吸血鬼だって風呂に入るだろう?』と訊ねたな。

 確かに黒死山のお館にも立派な風呂がある。

 だが、私たちがそれを使うのは、月に一度がせいぜいなのだ」

「え゛?」


「貴様、いま汚ない物を見る目をしなかったか?」

 エイナはぶんぶんと首を横に振った。肯定したら本当に殺されそうだった。


「なぜだか分かるか?

 人間は常に新陳代謝を行っているが、不死に近い吸血鬼にはそれがないか、あっても極端に遅いからだ」

「代謝……って何ですか?」


「貴様は本当に物を知らんのだな?

 いいか、人間の体は、目に見えないほどの小さな組織が集まって構成されている。

 皮膚、筋肉、骨、血管、内臓の組織……それこそ無数の種類がある。

 生物である以上、それぞれの組織には寿命があって、早ければ数日、長いものでも数年経てば死に、新しく生まれた組織と入れ替わる。

 つまり、見た目に変化はなくとも、人間は数年で別の個体に生まれ変わっているのだ。

 死んだ組織は老廃物となって、身体から排出される。一番分かりやすいのが、風呂で身体を擦ると出てくる垢だな」

「吸血鬼は代謝がないから、垢もフケも出ないということですね?」


「そうだ。老廃物は細菌の餌となるから、繁殖して悪臭を出す。

 だから私たちには、ほとんど体臭もない」

「正直に言って、うらやましいです。

 もっ、もしかしてっ! 無駄毛の処理とかもいらないんですか!?」


 エイナが勢い込んで訊ねた。任務によっては、いつシャワーを浴びられるかも分からない女性兵士にとって、これは重大な問題である。

 だが、アリッサの答えは、期待に反したものだった。


「むしろ逆だ。例えば、わき毛を剃ったとする。

 すると、私たちの身体は〝体組織が欠損した〟と判断するのだ。

 吸血鬼には強力な再生能力が備わっているから、わき毛程度なら、一瞬で元に戻る」

「でっ、でもっ! アリッサさんのわきの下、つるつるでしたよ?」


「きっ、貴様、……よく見ているな?」

 王国訪問中、アリッサは夏向きの薄手のドレスを着ていることが多かった。

 そのため、軽く腕を上げただけでもわきが見えてしまう。

 女性であるエイナが、それを見逃すはずがなかった。


「ちょっと耳を貸せ!」

 アリッサは周囲を見回し、ほかの客が誰もこちらを見ていないのを確認した。

 言われたとおりに身を乗り出すと、アリッサも腰を浮かせ、エイナの耳に唇を近づけた。

 こそこそと耳打ちがされ、エイナが目を丸くした。


「ええっ、そんな方法が……!?」

「ふっ、これは女性吸血鬼に自然発生的に伝わった秘儀なのだ。

 まぁ、人間には真似できないだろうな」


「たっ、確かに! とてもそんな勇気はありません」

「だろうな。この方法なら……」


 アリッサは再び周囲を窺い、エイナの耳にささやいた。

「あそこも完璧に除毛できるのだぞ!」

「うっ、羨ましいです!」


「そうだろう、そうだろう」

 女吸血鬼は椅子に腰を下ろすと、満足そうに二、三度うなずいた。

 しかし、すぐに顔を曇らせ、「だが……」とつぶやいた。


「何か問題があるのですか?」

「伯爵様がそれだけは、どうしてもお許しにならないのだ」

 彼女は心底から残念そうな表情を浮かべた。


 エイナはこの手の話題には疎い方だが、何となく察してしまった。

 男性には、いろいろな趣味嗜好があるものなのだ。


 エイナは怪しくなってきた話題の、軌道修正を試みた。

「アリッサさんは、本当に何も食べなくていいんですか?」


 アリッサの前には料理の皿がなく、彼女はグラスワインをちびちび舐めているだけだった。


「忘れたのか? 私は吸血鬼だぞ」

「でも、伯爵様はよくお食べになりますよね?

 黒死山のお館でも、美味しい食事が出ましたし、確か専門の料理人がいると仰ってました」


「ああ、伯爵様はこの世界の出身ではないからな。

 私も行ったことがないが、向こうの世界には、料理屋がないのだそうだ。

 それで、面白がっていろいろ食べ歩くうちに、すっかり気に入られたらしい。

 バルバロッサを眷属にした時も、私たちはずい分と反対したのだがな」

「その方が料理人なんですか?」


「そうだ」

「確か、男性なのですよね?」


「だから反対したのだ。

 あの赤毛が仲間になるまで、お館の男性眷属は、執事のセバスチャンただひとりだった(バルバロッサもセバスチャンも、本名ではなく渾名らしい)。

 貴族の館には執事が必要だから、彼は仕方がない。

 だが、料理なら女にだって作れる。なにもわざわざ男の料理人を入れることはないだろう。貴様もそう思わんか?」


 何とも答えづらい質問だった。

 伯爵の女性眷属は、全員が十六、七歳の美少女で、貴族や王族の娘だった。

 当然、料理などしたことがなかっただろうから、その腕前は察するに余りある。

 だからこそ、伯爵はわざわざ専門の料理人を眷属にしたのだろう。


 それを指摘するのは、気位の高いアリッサの逆鱗に触れそうだった。

 エイナはこの窮地を脱するため、違う話題を餌にして針を垂らした。


「それにしても驚きました」

「何がだ?」(喰いついた)


「アリッサさんは、いえ、ジニアさんもそうでしたが、とても無口な方だと思っていました」

「はて、そうであったか?」


「そうですよ!

 だって、アリッサさんが私に話しかけのって、今日が初めてですよ?

 今までは、存在からして無視していたじゃないですか」


「何だ、そんなことか」

 彼女は空になったグラスを持ち上げ、給仕の女性を呼んでお代わりを所望した。


「理由は簡単だ。

 私たちはオルロック伯爵様の直系眷属だ。ベラスケスごときの卑しい眷属とは、そもそも格が違う。

 ましてや、お前たち人間など、私たちからすれば虫けらに等しい。

 貴様は地面で動き回るアリに、いちいち『ごきげんよう』と声をかけるか?

 つまり、そういうことだ」


 ここまで言われると、さすがにエイナもむっとする。

「ずい分な言い様ですね。

 じゃあ、どうして今夜に限ってお喋りなんですか?」


「そっ、それはだな……」

 アリッサは口ごもった。


 そこに給仕の娘が、お代わりの赤ワインを運んできた。

「お待たせしましたぁ。グラスワインになりまぁす!」


 そばかすだらけの、いかにもといった田舎娘だが、アリッサにとびきりの笑顔を向け、グラスを置いた。

「あ、ああ。……ありがとう」


 アリッサはドレスではなかったが、高級店で仕立てのが丸分かりの、上質な服を着ていたし、そもそも誰もが振り返るような美少女だった。

 給仕の娘の目には、たまらなく眩しく映ったのだろう。


「ごゆっくりぃ~」

 娘はアリッサに小さく手を振って、ほかのテーブルに向かっていった。


「どうしたんですか?」

 エイナが心配したのも道理で、アリッサの顔が真っ赤になっていた。

 まだ二杯目だし、吸血鬼が酒に弱いとも思えない。


 だが、彼女はエイナの心配には答えず、ちょっと怒ったように、ワインを一息で飲み干した。


「貴様は食べ終わったのだろう?

 長居をしては店も迷惑だ。もう宿に戻るぞ」


 どう見ても、アリッサは店の回転率を気にするようなタマ(・・)ではない。

『これは何かあるな』

 そう感じたエイナは、素直に勘定を済ませて立ち上がった。


「ありゃあとざーましたぁ!」

 出口の外まで笑顔で見送る娘の手に、銅貨を三枚握らせて、二人は店を後にした。

 もう夜の九時を回っていた。真夏でも、さすがにこの時間となれば風が涼しい。


 繁華街は今が人出の盛りで、軒先には大きなランプが吊られ、広い通りの中央には、十メートル間隔でかがり火が焚かれていた。


「ずいぶんと賑やかですね」

 エイナはすぐ後ろにいたアリッサに声をかけた。

 だが返事はない。振り返ると、もうどこにも彼女の姿はなかった。


      *       *


 繁華街から宿までは、歩いても二十分ほどしかかからなかった。

 遅い戻りにも関わらず、宿の従業員は特に心配していないようだった。

 ほとんどの宿泊客は観光や保養目的だから、夜遊びは珍しくないのだろう。


 部屋に戻って、着慣れない帝国軍の制服を脱ぎ、ハンガーに吊るす。

 温泉で替えた汚れた肌着とシャツは、籠に入れて宿の女中に渡してある。


 宿には必ず洗濯女がいて、夜の間に洗ってくれる。

 熱した石で高温にした乾燥室に入れ、アイロン(鉄製で中に炭を入れて使う)をかけると、朝までには糊のきいた清潔な着替えが戻ってくるのだ。


 ゆったりしたネグリジェ姿になり、あとはランプの火を落として寝るだけである。

 またアリッサが出てくるのではないかと、しばらく待ってみたが、彼女は現れなかった。

 ただ、気のせいかもしれないが、誰かに見守られている気配がした。


 ベッドにもぐり込み、毛布を被っても、エイナはなかなか寝付けなかった。

 食堂でのアリッサとの会話が頭に浮かんできて、どうしても意識が冴えてしまうのだ。

 彼女は二百五十年近くもの間、あの岩だらけの山中の館で、ひっそりと暮らしていたのだ。


 使えるべき主人もいれば、仲間の娘たちもいるだろう。

 ただ、その顔触れは何百年も変わらないのだ。

 訪ねてくる客人もなければ、どこかに遊びに行くということもない(仕事で遠出はするだろうが)。


 同じ相手と毎日過ごしていれば、話の種などすぐに尽きる。

 彼女たちは自然に無口になり、感情を表す機会も薄れていったことだろう。

 アリッサにとって、エイナは久しぶりに現れた話し相手だったに違いない。

 しかも、人間としての記憶が途切れた当時の自分と、比較的近い年齢である。


 アリッサはエイナとお喋りがしたくて、我慢できなかったのだろう。

 彼女はきっと、明日の夜になれば、何食わぬ顔で出てくるはずだ。

 そうしたら、自分もそれが当り前だという顔をして、迎えてやろう。


 母と合流するのがいつになるかは分からないが、それまでに少しでも、アリッサとは仲よくなりたかった。


 そう心に決めたら、とたんに眠気が襲ってきた。

 とろとろとまどろみながら、彼女はそっとつぶやいた。


「お休み、アリッサ」


 毛布の下でしばらく待ってみたが、やはり返事はなかった。

 意識がほとんど切れかけた時、どこかで声がしたような気がしたが、エイナはそのまま眠りに落ちてしまった。


「……アリッサさん(・・)だ、この無礼者」

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― 新着の感想 ―
その毛のせいで そこが樹氷になってそこが霜焼けに・・ 毛が無いのを羨ましい理由これかな
孤独な侍女が言葉の通じるネズミと出会ったみたいな気持ちなのかな……
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