十一 百年の孤独
完全な不意打ちに、エイナは反射的に立ち上がろうとした。
だが、すぐに自分が裸であることを思い出し、胸を押さえてしゃがみ込む。
「誰っ!?」
声がした方を振り返っても、誰もいない――というか、彼女は露店風呂の岩壁に寄りかかっていたのだ。それなのに、声は耳のすぐ後ろから聞こえた。
だとすれば、声の主は石畳の床に寝転がっていたことになってしまう。
「何を間抜けなことをやっている?」
またしても声がした。また後ろからだから、今度こそ声の主は温泉の中である。
そして、つい今しがたまで、誰もいなかった空間に、見知った顔が浮かんでいた。
伯爵の眷属、アリッサだ。
彼女は長い黒髪をまとめて頭の上で結い、肩のあたりまでお湯につかっていた。
緊張が一気に解け、エイナは大きく息を吐いた。
「驚かせないでください、アリッサ。
いつからいたんですか?」
「無礼者!」
いきなりアリッサの顔が険しくなる。
「貴様のような小娘に、呼び捨てにされるいわれはない!
卑しい人間の分際で、それ以上調子に乗るなら……殺すぞ」
最後のひと言はドスの利いた低音で、可憐な容姿とは真逆の迫力があった。
「えと、あの、ごめんなさい! 私より年下に見えるものだから、つい……。
アリッサさんって、実際はおいくつなんですか?」
「私が伯爵さまの眷属に加えていただいたのは、今から二百四十二年前のことだ。
愚かな人間であった私は、その時まだ十七歳だったから、齢二百五十九ということになるな。
以後、年長者に対する敬意を忘れるでない」
『やけに細かいのね。切りよく二百六十歳でよくない?』
エイナはそう思ったものの、怒られそうなので、口には出さなかった。
「では、館では誰よりも長く、伯爵様にお仕えなのですね?」
「馬鹿を言うな!
私は眷属で二番目に若いのだ。年寄り扱いすると許さんぞ!」
『さっきは年上として敬え、って言ってたのに?』
もちろん、これも声には出さない。その代わりに、エイナは話題を切り替えた。
「それで、どうして急に出てきたのですか?」
「貴様は馬鹿か?
私は伯爵様から、夜の間、お前を守ってやれと命じられたのだ。
暗くなったのだから、出てくるのは当然だろう」
「こんなところまで、ベラスケスの眷属が襲ってくる……ということでしょうか?」
「いや、それはないな。
コルドラ山脈の東側は、伯爵様の支配地域だ。
ほかの吸血鬼は立ち入りを遠慮するものなのだ。いわゆる不文律という奴だ」
「では、わざわざ出てこなくても……」
「だから人間は愚かなのだ」
アリッサは『度しがたい』という表情で、首を左右に振った。
「いいか、危険とは別に吸血鬼に限ったことではない。あらゆる可能性を考えるのが賢者の常道だ。
今だって、山賊や追剥の類に襲われぬとも限らんのだぞ?」
「いえ、さすがに女湯に山賊はないですよ」
「ならば石鹸で足を滑らせ、頭を打ったらどうする?」
「まぁ……見守ってくださるのはありがたいです。
でもそれだったら、アリッサさんまで裸になる必要ないじゃありませんか?
あ……ひょっとして、温泉に入りたかったんですか?」
「ばっ、ばばばばっ、馬鹿を言うな!
私は伯爵様の血を分け与えられた、誇り高き眷属だぞ!?」
「あら、でも吸血鬼だって、お風呂には入りますよね?
これほど大きな露天風呂ですもの、別に恥ずかしがることありませんよ」
「黙れ! 貴様の護衛をするからには、湯にも入らねばならんのだ。
私は常識をわきまえているだけだ」
「ちゃんと髪まで上げてるの、準備がよすぎません?」
「うっ……」
「それと、アリッサさんの隣りに浮いているの、何ですか?
私はそんなもの、持ち込んでいませんよ」
アリッサの横には、黄色いアヒルの玩具が、ぷかぷか浮かんでいたのである。
* *
「いやぁ~、それにしても気持ちよかったですねー?」
エイナはそう言って、皿に残っていた肉饅頭に手を伸ばした。
風呂上がりの彼女は、アリッサと連れ立って、繁華街の食堂に入っていた。
昼に街道脇の木立で、堅い黒パンを水筒の水で流し込んでから、何も食べていなかったので、遅い夕食を摂りにきたのだ。
注文したのは、ヒツジの挽肉を包んだ蒸し饅頭を三つ、ジャガイモとキャベツのスープである。
「まぁ、あのマッサージは……うん、人間にしてはなかなか良かったな」
アリッサも渋々認めざるを得ない。
温泉を心ゆくまで堪能した後、二人は並んで別料金のマッサージを受けたのだ。
御山温泉の垢擦り女の腕前は有名で、この温泉の売りとなっていた。
あまりの気持ちよさに寝落ちするのは当たり前で、女性客は失禁することすらあるので、事前にトイレを勧められるほどである。
実際、うつ伏で背中を揉みほぐされたアリッサは、
「あ、あああああぁ~」
と、あられもない声を上げたのを、隣りのエイナにしっかり聞かれていたのだ。
今さら強がるわけにもいかなかった。
「温泉に入っていた時、エイナは『吸血鬼だって風呂に入るだろう?』と訊ねたな。
確かに黒死山のお館にも立派な風呂がある。
だが、私たちがそれを使うのは、月に一度がせいぜいなのだ」
「え゛?」
「貴様、いま汚ない物を見る目をしなかったか?」
エイナはぶんぶんと首を横に振った。肯定したら本当に殺されそうだった。
「なぜだか分かるか?
人間は常に新陳代謝を行っているが、不死に近い吸血鬼にはそれがないか、あっても極端に遅いからだ」
「代謝……って何ですか?」
「貴様は本当に物を知らんのだな?
いいか、人間の体は、目に見えないほどの小さな組織が集まって構成されている。
皮膚、筋肉、骨、血管、内臓の組織……それこそ無数の種類がある。
生物である以上、それぞれの組織には寿命があって、早ければ数日、長いものでも数年経てば死に、新しく生まれた組織と入れ替わる。
つまり、見た目に変化はなくとも、人間は数年で別の個体に生まれ変わっているのだ。
死んだ組織は老廃物となって、身体から排出される。一番分かりやすいのが、風呂で身体を擦ると出てくる垢だな」
「吸血鬼は代謝がないから、垢もフケも出ないということですね?」
「そうだ。老廃物は細菌の餌となるから、繁殖して悪臭を出す。
だから私たちには、ほとんど体臭もない」
「正直に言って、うらやましいです。
もっ、もしかしてっ! 無駄毛の処理とかもいらないんですか!?」
エイナが勢い込んで訊ねた。任務によっては、いつシャワーを浴びられるかも分からない女性兵士にとって、これは重大な問題である。
だが、アリッサの答えは、期待に反したものだった。
「むしろ逆だ。例えば、わき毛を剃ったとする。
すると、私たちの身体は〝体組織が欠損した〟と判断するのだ。
吸血鬼には強力な再生能力が備わっているから、わき毛程度なら、一瞬で元に戻る」
「でっ、でもっ! アリッサさんのわきの下、つるつるでしたよ?」
「きっ、貴様、……よく見ているな?」
王国訪問中、アリッサは夏向きの薄手のドレスを着ていることが多かった。
そのため、軽く腕を上げただけでもわきが見えてしまう。
女性であるエイナが、それを見逃すはずがなかった。
「ちょっと耳を貸せ!」
アリッサは周囲を見回し、ほかの客が誰もこちらを見ていないのを確認した。
言われたとおりに身を乗り出すと、アリッサも腰を浮かせ、エイナの耳に唇を近づけた。
こそこそと耳打ちがされ、エイナが目を丸くした。
「ええっ、そんな方法が……!?」
「ふっ、これは女性吸血鬼に自然発生的に伝わった秘儀なのだ。
まぁ、人間には真似できないだろうな」
「たっ、確かに! とてもそんな勇気はありません」
「だろうな。この方法なら……」
アリッサは再び周囲を窺い、エイナの耳にささやいた。
「あそこも完璧に除毛できるのだぞ!」
「うっ、羨ましいです!」
「そうだろう、そうだろう」
女吸血鬼は椅子に腰を下ろすと、満足そうに二、三度うなずいた。
しかし、すぐに顔を曇らせ、「だが……」とつぶやいた。
「何か問題があるのですか?」
「伯爵様がそれだけは、どうしてもお許しにならないのだ」
彼女は心底から残念そうな表情を浮かべた。
エイナはこの手の話題には疎い方だが、何となく察してしまった。
男性には、いろいろな趣味嗜好があるものなのだ。
エイナは怪しくなってきた話題の、軌道修正を試みた。
「アリッサさんは、本当に何も食べなくていいんですか?」
アリッサの前には料理の皿がなく、彼女はグラスワインをちびちび舐めているだけだった。
「忘れたのか? 私は吸血鬼だぞ」
「でも、伯爵様はよくお食べになりますよね?
黒死山のお館でも、美味しい食事が出ましたし、確か専門の料理人がいると仰ってました」
「ああ、伯爵様はこの世界の出身ではないからな。
私も行ったことがないが、向こうの世界には、料理屋がないのだそうだ。
それで、面白がっていろいろ食べ歩くうちに、すっかり気に入られたらしい。
バルバロッサを眷属にした時も、私たちはずい分と反対したのだがな」
「その方が料理人なんですか?」
「そうだ」
「確か、男性なのですよね?」
「だから反対したのだ。
あの赤毛が仲間になるまで、お館の男性眷属は、執事のセバスチャンただひとりだった(バルバロッサもセバスチャンも、本名ではなく渾名らしい)。
貴族の館には執事が必要だから、彼は仕方がない。
だが、料理なら女にだって作れる。なにもわざわざ男の料理人を入れることはないだろう。貴様もそう思わんか?」
何とも答えづらい質問だった。
伯爵の女性眷属は、全員が十六、七歳の美少女で、貴族や王族の娘だった。
当然、料理などしたことがなかっただろうから、その腕前は察するに余りある。
だからこそ、伯爵はわざわざ専門の料理人を眷属にしたのだろう。
それを指摘するのは、気位の高いアリッサの逆鱗に触れそうだった。
エイナはこの窮地を脱するため、違う話題を餌にして針を垂らした。
「それにしても驚きました」
「何がだ?」(喰いついた)
「アリッサさんは、いえ、ジニアさんもそうでしたが、とても無口な方だと思っていました」
「はて、そうであったか?」
「そうですよ!
だって、アリッサさんが私に話しかけのって、今日が初めてですよ?
今までは、存在からして無視していたじゃないですか」
「何だ、そんなことか」
彼女は空になったグラスを持ち上げ、給仕の女性を呼んでお代わりを所望した。
「理由は簡単だ。
私たちはオルロック伯爵様の直系眷属だ。ベラスケスごときの卑しい眷属とは、そもそも格が違う。
ましてや、お前たち人間など、私たちからすれば虫けらに等しい。
貴様は地面で動き回るアリに、いちいち『ごきげんよう』と声をかけるか?
つまり、そういうことだ」
ここまで言われると、さすがにエイナもむっとする。
「ずい分な言い様ですね。
じゃあ、どうして今夜に限ってお喋りなんですか?」
「そっ、それはだな……」
アリッサは口ごもった。
そこに給仕の娘が、お代わりの赤ワインを運んできた。
「お待たせしましたぁ。グラスワインになりまぁす!」
そばかすだらけの、いかにもといった田舎娘だが、アリッサにとびきりの笑顔を向け、グラスを置いた。
「あ、ああ。……ありがとう」
アリッサはドレスではなかったが、高級店で仕立てのが丸分かりの、上質な服を着ていたし、そもそも誰もが振り返るような美少女だった。
給仕の娘の目には、たまらなく眩しく映ったのだろう。
「ごゆっくりぃ~」
娘はアリッサに小さく手を振って、ほかのテーブルに向かっていった。
「どうしたんですか?」
エイナが心配したのも道理で、アリッサの顔が真っ赤になっていた。
まだ二杯目だし、吸血鬼が酒に弱いとも思えない。
だが、彼女はエイナの心配には答えず、ちょっと怒ったように、ワインを一息で飲み干した。
「貴様は食べ終わったのだろう?
長居をしては店も迷惑だ。もう宿に戻るぞ」
どう見ても、アリッサは店の回転率を気にするようなタマではない。
『これは何かあるな』
そう感じたエイナは、素直に勘定を済ませて立ち上がった。
「ありゃあとざーましたぁ!」
出口の外まで笑顔で見送る娘の手に、銅貨を三枚握らせて、二人は店を後にした。
もう夜の九時を回っていた。真夏でも、さすがにこの時間となれば風が涼しい。
繁華街は今が人出の盛りで、軒先には大きなランプが吊られ、広い通りの中央には、十メートル間隔でかがり火が焚かれていた。
「ずいぶんと賑やかですね」
エイナはすぐ後ろにいたアリッサに声をかけた。
だが返事はない。振り返ると、もうどこにも彼女の姿はなかった。
* *
繁華街から宿までは、歩いても二十分ほどしかかからなかった。
遅い戻りにも関わらず、宿の従業員は特に心配していないようだった。
ほとんどの宿泊客は観光や保養目的だから、夜遊びは珍しくないのだろう。
部屋に戻って、着慣れない帝国軍の制服を脱ぎ、ハンガーに吊るす。
温泉で替えた汚れた肌着とシャツは、籠に入れて宿の女中に渡してある。
宿には必ず洗濯女がいて、夜の間に洗ってくれる。
熱した石で高温にした乾燥室に入れ、アイロン(鉄製で中に炭を入れて使う)をかけると、朝までには糊のきいた清潔な着替えが戻ってくるのだ。
ゆったりしたネグリジェ姿になり、あとはランプの火を落として寝るだけである。
またアリッサが出てくるのではないかと、しばらく待ってみたが、彼女は現れなかった。
ただ、気のせいかもしれないが、誰かに見守られている気配がした。
ベッドにもぐり込み、毛布を被っても、エイナはなかなか寝付けなかった。
食堂でのアリッサとの会話が頭に浮かんできて、どうしても意識が冴えてしまうのだ。
彼女は二百五十年近くもの間、あの岩だらけの山中の館で、ひっそりと暮らしていたのだ。
使えるべき主人もいれば、仲間の娘たちもいるだろう。
ただ、その顔触れは何百年も変わらないのだ。
訪ねてくる客人もなければ、どこかに遊びに行くということもない(仕事で遠出はするだろうが)。
同じ相手と毎日過ごしていれば、話の種などすぐに尽きる。
彼女たちは自然に無口になり、感情を表す機会も薄れていったことだろう。
アリッサにとって、エイナは久しぶりに現れた話し相手だったに違いない。
しかも、人間としての記憶が途切れた当時の自分と、比較的近い年齢である。
アリッサはエイナとお喋りがしたくて、我慢できなかったのだろう。
彼女はきっと、明日の夜になれば、何食わぬ顔で出てくるはずだ。
そうしたら、自分もそれが当り前だという顔をして、迎えてやろう。
母と合流するのがいつになるかは分からないが、それまでに少しでも、アリッサとは仲よくなりたかった。
そう心に決めたら、とたんに眠気が襲ってきた。
とろとろとまどろみながら、彼女はそっとつぶやいた。
「お休み、アリッサ」
毛布の下でしばらく待ってみたが、やはり返事はなかった。
意識がほとんど切れかけた時、どこかで声がしたような気がしたが、エイナはそのまま眠りに落ちてしまった。
「……アリッサさんだ、この無礼者」