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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第十章 復讐するは
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十 温泉町

 翌日、エイナは重い背嚢を背負い、歩いて登城した。

 参謀本部がある南塔の門を潜ると、顔馴染みの衛兵からメモが手渡された。


『朝一番で、主席参謀副総長の執務室に出頭せよ』

 二つ折りの事務用箋を開くと、簡潔な指示が書かれてる。

 こうなることは、昨日の時点で予想がついていた。

 要するに、すべては順調――エイナは帝国へ向かうということだ。


 エイナは軽く溜息をつき、そのままマリウスの執務室に向かった。

 普段なら、まず女性用の更衣室で軍服に着替えるのだが、どうせ忙しくなることは分かっていた。

 昨日は着替えずに帰り、今朝も軍服姿で下宿を出てきたのだ。


 秘書官室でエイミーに背嚢を預けると、すぐに執務室に通された。


「エイナ・フローリー中尉、お呼びにより出頭いたしました」

 執務室に足を踏み入れると、彼女は敬礼して申告した。

 応接の大型ソファで向かい合っていた者たちが、一斉に視線を向けてくる。


 客側の中央にオルロック伯爵が座り、その両脇に美しい少女――ジニアとアリッサがぴたりと身を寄せている。

 主人ホスト側はマリウスひとりで、ソファの背後にプリシラとタケミカヅチが立っていた。


 マリウスの肩には、小さなトカゲがちょこんと乗っていた。

 忘れがちだが、マリウスは高位の魔導士であると同時に、召喚士でもある。

 このトカゲは彼が召喚した火蜥蜴サラマンダーで、ゴーマという名であった。


 ゴーマが来客に姿を見せるのは珍しい。

 普段はマリウスの制服に潜り込んで眠っているか、秘書官のエイミーに遊んでもらっていることが多い。

 

 ゴーマが出てきたのは、吸血鬼を警戒してのことだろう。

 火蜥蜴サラマンダーの体長は五十センチほどで、ほっそりとしているが、これでも赤龍の眷属で、火を吐く能力を持っている。

 小さな火球でも、威力は赤龍のブレスと何ら変わりないから、直撃を受けると致命的である(防御魔法も効きづらい)。


 応接の一画には、女王は除く昨日の会談メンバーが、勢揃いしていることになる。

 エイナの顔が真っ赤になった。

 自分が遅くなったせいで、彼らを待たせてしまったと慌てたからだ。


「えと、あの、……遅れて申し訳ございません!」

 彼女はぴょこんと頭を下げ、早足でプリシラの隣りに向かった。


「別に遅くはないから、落ち着きなさい。

 伯爵たちとプリシラは、城に泊まったからね。早くて当たり前なんだ。

 ああ、それと、君は私の隣りに座りたまえ」

「はっ、はい!」


 エイナは慌ててソファを回り込み、マリウスの横に腰を下ろした。

 彼女は息を整えながら、斜め後ろに立っているタケミカヅチに、ちらりと目を遣った。

 王城内の客用寝室に吸血鬼の宿泊を許すとは、レテイシアも大胆なことをするものだ。

 恐らくタケミカヅチは、一睡もしていないはずである。


      *       *


「さて、それでは話を始めよう」

 マリウスが口火を切った。


「約束どおり、昨日の会談を受けて検討した結果を伝えよう。

 我々は、イゾルデル帝国軍の提案――いや、違うな……」


 参謀副総長は言い直した。

「我々は、オルロック伯爵の提案をすべて受け入れる。

 レテイシア陛下は、エイナ・フローリー中尉の帝国派遣を承認された」


 伯爵は皮肉な笑みを浮かべた。

「私は帝国軍の意を受けた、交渉役に過ぎないのだぞ。

 なぜ〝私の提案〟と言い直す必要がある?」


 マリウスは表情を変えずに答えた。

「正直言って、我々は帝国軍を信用していない。

 しかし、オルロック伯が仲介した以上、本件には伯爵個人の保証が付いたものと、我々は理解している」

「おかしなことを言うではないか。

 それではまるで、帝国は信用できないが、私個人なら信じられる――と聞こえてしまうぞ?」


「そう受け取ってもらって構わない」

「馬鹿を言うな!」


 伯爵は声をあげて笑い出した。

「人間よりも吸血鬼を信用するとは、気でも違ったか?」


「勘違いしてもらっては困るが、我々は伯爵が味方だとは思っていない。

 吸血鬼は人類にとって憎むべき敵であり、その認識は何も変わらない。

 ただ、相手が約束を守るかどうかは、それとは別問題だ」

「おかしいな……。

 昨日の会談では、私も娘たちも魅了チャームの能力を使っていないぞ。

 そのような世迷言、誰が言い出したのだね?」


 マリウスは肩をすくめてみせた。

「レテイシア陛下だ」

「それは……うん、光栄だな」


「どうせ我々に選択肢がないことは、伯爵だって分かっているはずだ。

 笑われようと、言い訳は必要なのだ。頼むから、これ以上は追及しないでくれ」

「了解した。悪かったな」


 マリウスは咳ばらいをして、気を取り直した。

「そこで、ひとつ伯爵に約束してほしいことがある」

「帝国軍ではなく、私個人に……ということかな?」


「そうだ」

「内容次第だな。言ってみたまえ」


「アデリナの目的は、ベラスケスを滅ぼすことにあるだろう。何故かは知らないが、彼女は焦っている。

 アデリナが勝てば問題ないが、負けた場合は彼女だけでなく、ともに戦うエイナも殺されるだろう。

 だが、二人、あるいはどちらか片方が、逃げ延びる可能性だってある。

 その場合は、伯爵に彼女たちの保護を頼みたい。

 どうせ二人の動向は、こっそり監視するつもりなのだろう?

 掟によって戦いに介入できなくても、逃亡の手助けならできるはずだ」


「ふむ……」

 オルロックは腕組みをして、考え込んだ。


 ジニアとアリッサがその腕に触れ、険しい表情を向けている。

『人間の頼みなど、断ってください』と訴えているようだった。


 ややあって、ようやく伯爵が口を開いた。

「言っておくが、アデリナが勝つ可能性は低いぞ?」

「だからこそ、最悪の事態に保険をかけておきたい」


「……よかろう。状況が許すならの話だが、生き残った者がいたら逃がしてやろう。

 さっきの歯の浮くような台詞セリフはこのためか? 芸が細かいな」


 マリウスはこれには答えず、話題を変えた。

 エイナが帝国に入国してからの予定を訪ねたのだ。


 伯爵の説明では、彼女はまず、クレアの帝国の東部方面軍司令部に案内され、伯爵とはそこで別れる。

 軍司令官には話が通っているので、エイナは帝国軍の装備と必要な情報を受け取り、そこからはひとりで行動することになっているとのことだ。


「昨日の話では、伯爵の眷属を護衛につけるということだったが?」

 マリウスはそう言って、ちらりとアリッサを窺ったが、少女に睨み返された。


「アリッサが護衛をするのは夜間だけで、日があるうちは闇に潜っている。

 その間に、エイナ中尉がどれだけ移動しても、問題はない。

 夜になれば、彼女はいつでも中尉の側に出てこれる」

「了解した。

 エイナは、我々と連絡が取れるのか?」


「残念ながら、それは不可能だ。

 ただ、状況に大きな変化があった場合は、私から報せてやろう」

「感謝する。

 エイナ中尉からは、何か質問はあるかね?」


「いえ、ありません」

 この彼女の一言で、朝の会談は終了した。


      *       *


 帝国への旅……といっても、黒城市までは同じ道を逆にたどるだけだった。

 黒城市では城に寄らずに港に向かい、黒蛇帝への状況説明はプリシラに任された。


 チャーターした渡船で対岸のクレア港に上陸すると、船着場には帝国兵の迎えが待っていた。

 彼らは詳しいことを知らされておらず、王国軍の将校を見て驚いていた。


 エイナと伯爵は軍が用意した馬車に乗り込み、市内の高台にある、東部方面軍司令部へと案内された。


 ここで王国軍の軍服や支給品をすべて預け、代わりに帝国軍の装備を受け取った。

 軍服の上着には、短い黒の肩マントが付属しており、これが魔導士官の目印となっている。


 サイズはあつらえたようにぴったりであった。

 身分証に身長と体重が記載されていたので、これはある程度は予想していた。

 だが、袖や裾丈はもちろん、ズボンのウエストサイズまでぴったりなのは、どういうことだろうか?


 着替えを終え、背嚢の荷物も詰め替えると、次に司令部の参謀将校から、情報のレクチャーがあった。

 エイナには帝国南部の地図(機密に属する)が渡された。最近になって吸血鬼被害が報告された村落には、ペンでその日付が書き込んである。

 エイナはその中で一番近い村を目指すことになるが、それまでにはアデリナと合流しているだろう。


 南部地方を熟知している母に地図は不要だろうが、最新の被害情報は役に立つはずである。

 エイナは参謀の言葉をメモに取りながら、被害の多さに驚いていた。


 ベラスケスは自らの存在を隠す気がないらしく、手当たり次第に村々を襲っていた。

 あるいは、アデリナが死んだと思い込んでいるのかもしれない。


 帝国軍の参謀は、その他の細かい注意事項を伝えてから、最後にこう付け加えた。

「予想外のトラブルに遭遇したとしても、貴官の身分証を示せば、ほとんどは切り抜けられるはずだ。

 だが、万が一それでも駄目だった場合、マグス大佐の名前を出して構わないそうだ」


「そんなことをしても大丈夫なのですか? あの方、怒らせるともの凄く怖いですよ」

 エイナは大佐の護衛を務めた時のことを思い出し、軽く身震いした。


 参謀は憮然として答える。

「王国兵にマグス大佐の恐ろしさを教わることになるとは、世も末だな。

 余計な心配はしなくてよろしい。大佐殿の許可は得ているそうだ。

 それと、これも持っていきたまえ」


 参謀はポケットから革の巾着を取り出し、エイナの前に押しやった。

 小さな巾着を手に取ると、それなりの重みとともに、馴染みのある金属の感触が伝わってくる。

 中身が貨幣なのは間違いないが、訊かずにはいられなかった。


「これは?」

「当座の銅貨が二十枚、銀貨が三枚だ。

 貨幣価値も物価も、王国とあまり変わりないから、戸惑うことはないだろう。

 軍票は、宿や商店なら問題なく使えるが、農家に馬の世話を頼んだり、屋台で買い食いする時にそんなものを出したら、かえって迷惑になる。

 足りなくなったら、両替商で軍票を現金化すればよい」


「そんな使い方が許されるのですか?」

「摘要欄に『小口現金』と書いておけば、金額が多すぎない限り問題ない。

 まだ午前中だから、これから出発すれば、日暮れには大隧道手前の町に着けるだろう。

 あそこには、御山温泉という公衆浴場がある。貴官も女性なら、埃や汗を流したいはずだ。

 温泉に入るには、さっそく銅貨が必要となるぞ」


 〝温泉〟という言葉に、エイナの目の色が変わった。


「そういう大事なことは、もっと早く教えてください!

 他になければ、私はこれで失礼します。いろいろお世話になりました!」


      *       *


 クレアがある東部地方から、大陸南部を目指すためには、大陸を二分するコルドラ大山脈を越える必要がある。

 だが、この巨大な脊梁山脈は、三千メートル級の高山が連なっており、とても人間に踏破できるものではない。


 そのため、帝国は莫大な費用と人手、そして時間を費やして、長大なトンネルを開通させた。原野だった東部地方開拓の始まりである。

 このトンネルは〝大隧道〟と呼ばれた。


 もう二十年近く前、帝国が王国北西部のノルド人居住地域に進駐したことがあった。

 ノルド人は山岳少数民族で、多くが帝国領内に住んでいたので、帝国軍は自国民の保護を名目にして、強引に攻め込んだのだ。


 王国で〝黒龍野会戦〟と呼ぶこの紛争は、帝国側の敗北で終わった。

 地脈を操る黒蛇ウエマクが大地震を起こし、大隧道を崩落させたのが、その大きな要因となった。


 帝国は大隧道の復旧のため、大量の一般労働者に加え、全国から重力魔導士を掻き集めて投入した。

 大隧道の手前に開かれた町は、こうした労働者の寝泊まりする飯場が起源であった。

 すぐに労働者相手の酒場と飯屋、そして女郎屋と洗濯屋が立ち並び、短期間で町は大きく発展した。


 さらに、隧道の復旧工事で湧き出した温泉が引き込まれ、〝御山温泉〟が誕生すると、工事関係者以外からも注目されるようになった。

 隧道は突貫工事によって、わずか三年で復旧を果たした。

 動員されていた重力魔導士は原隊に復帰し、数千人の労働者も全国に散っていった。


 町の人口は激減したが、寂れるということはなかった。

 東部最大の港町、クレアの住民の手軽な保養地として賑わったほか、温泉と歓楽街を目当てに、復旧した大隧道を通って山脈の西側からも人を呼び寄せたからだ。


 中央政府はこの町を〝新クレア〟と命名したが、これは不評で(特にクレアの住民の反発が大きかった)、まったく普及しなかった。

 代わりに人々は、ここを御山温泉町、あるいは単に温泉町と呼んだ。


 豊富な湯量、優れた泉質、数百人が一度に入れる巨大露天風呂、技量自慢の垢すり女たちの評判が知れ渡り、温泉は町そのものと言ってもよかったのだ。


      *       *


 エイナは馬を急き立て、日没の直前に御山温泉に入った。

 適当に見つけた宿に馬を止め、荷物を置くと、うきうきとした足取りで温泉に向かった。


 長袖の軍服とシャツ(一応は夏服)を着込み、半日真夏の日差しを浴び続け、馬に揺られてきたのだ。

 汗は下着までぐっしょりと濡らし、土埃と乾燥した馬糞で、髪の毛まで真っ白になっていた。


 普通は宿に頼めば、部屋に湯桶を運んで湯を汲んでくれる。

 だが、狭い桶で身体を洗っても、あっという間に湯が汚れ、まったくきれいになった気がしない。

 だから温泉があるこの町では、宿で湯を使おうという馬鹿はいなかった。


 エイナは心の中で参謀に感謝を捧げ、銅貨二枚の入浴料を払って中に入った。

 脱衣所で服を脱ぎ、タオルで前を押さえて浴場に向かう。

 もう暗くなっていたので、あちこちにかがり火が焚かれてた。

 かなりの人が入っていたが、それ以上に浴場が広いので、まったく気にならない。


 エイナは洗い場で髪と体を洗い、思う存分お湯をかぶった。

 信じがたいことに、洗い場には香料を練り込んだ石鹸がいくつも置かれていて、自由に使えるようになっていた。


 彼女にとって石鹸は高級品なのだが、帝国では大量生産されていて、王国よりも遥かに安価だったのだ。

 石鹸を胸に抱きしめて、感動にひたっている変わり者は、エイナただひとりだった。


 すっかりきれいになると、いよいよお風呂につかる。

 いかにも温泉らしい硫黄の臭いが鼻腔を刺激する。お湯は濁りのない無色透明であった。

 高温の源泉は町から数キロ離れた山中にあり、流れてくる間にまされて、ちょうどよい温度になっていた。


 首までお湯につかると、体中が弛緩して「あああぁ~!」と、あられもない声が洩れた。

 誰かに聞かれたかもと慌てて見回しても、湯気が立ち上るだけで、周囲に人の気配はない。


 安心したエイナは目を閉じて、思いっきり手足を延ばし、もう一度「あぁーーーっ」と嘆声を洩らした。


 次の瞬間、彼女の耳のすぐ近くで、誰かが声をかけてきた。完全な不意打ちである。


「おい!」

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そろそろ「悪い子の所にはマグス大佐が来るぞ!」って育てられる子どもたちが居そう
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