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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第十章 復讐するは
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九 出発準備

 オルロック伯爵は咳払いをしてレテイシアの視線をそらし、壁紙の染みを数え始めた。

 気遣いのできるマリウスが、慌てて助け舟を出す。


「会ったこともないのに、伯爵の正体を知っていたということですよね?

 皇帝はどうやって、それを知ったのでしょう?」


 吸血鬼は肩をすくめた。

「さぁな。

 ただ、これは私にとっても驚きだったが、私と契約を結んでいた大貴族が受けた衝撃は、その比ではなかっただろう。

 参謀本部の作戦承認は別に珍しいものではないが、皇帝の勅命があったとなれば話題になる。政権内部にいる彼らなら、容易にその内容を知り得たはずだ。

 皇帝が私の正体だけでなく、公爵たちとの取引まで知っていたとしたら、その先待っているのは、破滅の二文字しかない」


「最初に断っておくが、これは私の推測だぞ?」

 オルロック伯はそう前置きして、話を続けた。


「自国の魔導士の代わりに王国を利用するとか、交渉役に貴族の皮を被った吸血鬼を当てるなど、大帝国の皇帝にしては、やり口が姑息だと思わないか?

 この作戦修正は、レイア妃の指示ではないか……私には、そう思えてならない。

 後宮から出られない彼女は、あらゆる手段を使って情報を掻き集め、皇帝を動かしている。今回も、その一例だと考えていいだろう」


 レイアは十人以上いる側室のひとりだが、皇帝の寵愛を独占していた。

 当初はその若さと美貌、そしてずば抜けた頭のよさで、皇帝に気に入られていたに過ぎなかった。


 ところが、レイアが産んだ男子が継嗣の最有力候補となると、彼女の後宮における権力は絶大なものとなり、政治にも影響を及ぼすようになったのだ。


「吸血鬼の私が言うのも何だが、あのレイアという女は、人間というより化け物に近い。

 彼女の皮をいだら、中からウエマクが出てきた――としても、私は驚かないだろうね」


「今回の作戦はレイア妃にとって、私と結んでいる大公爵に対する、警告の意味合いの方が強かったのだろう。

 皇帝は独裁者ではあるが、何よりも民の安寧を願う、根っからの君主だ。

 それに対して、レイアの目は国民ではなく、ただただ皇帝しか見ていない。

 あの女は、下手をすると帝国を滅ぼす存在となるかもしれないぞ」


 その場にいた者たちは、何も言えなかった。

 特にエイナは、レイア妃の東カシル訪問で失踪した際、捜索に当たったから、彼女のことをよく知っている。


 自分と同じような年齢の少女が、皇帝の夜を慰める愛人だということも衝撃だった。

 それ以上に、聡明な彼女が、皇帝の役に立つためなら、死をも恐れなかったのが、酷く切なかった。


 レイアは、自分が迷惑をかけたエイナを利用することに、少しも罪悪感を抱かないのだろう。


「また話が横道に逸れてしまったな。

 とにかく真相はどうあれ、皇帝は私の正体を知った上で、交渉役に指名してきたのだ。

 アデリナを死なすわけにはいかない、十分な理由になるだろう?」


      *       *


「ここからは現実的な話だ」


 伯爵は話題を切り替えた。

 帝国の内部事情を知らせ過ぎることに、彼なりの警戒感が生まれたのかもしれない。


「今回の作戦内容が、帝国にとって都合がよすぎるという点は、彼らも自覚している。

 したがって、帝国軍はエイナ中尉に対して、万全の支援体制を約束している」


「具体的には?」

 マリウスが少し疑わし気に質問する。

 彼はもともと帝国の魔導士官だっただけに、帝国軍の本質をよく理解している。

 甘い言葉など、簡単には信用しないのだ。


「エイナ中尉が帝国内で活動する際に発生する、すべての必要経費は帝国軍が負担する。

 これを見たまえ」


 オルロックは上着の中から、何種類かの書類の束を取り出し、マリウスの前に押しやった。

 伯爵の上着はぴったりと身体を覆っており、まったく膨れていなかったはずである。


「これは……帝国軍の身分証、それに軍票綴りですね。

 発行印が参謀本部とは、初めて見ます」


 軍票は、軍が発行する小切手のようなもので、その国内なら紙幣と同じ扱いで流通している。これを軍に持ち込めば、いつでも額面どおりの現金に替えてもらえるからだ。


 ただし、軍が支払いを拒絶することもある。会計課の審査で、正当な出費と認められなかった場合だ。

 民間に迷惑はかけられないので、こうした無効軍票は申請者の責任で清算されるのだが、手続きが面倒なうえに時間がかかる。

 特に地方司令部で発行された軍票に、そうしたトラブルが起きがちであった。


 そのような危険性を織り込んで、軍票を紙幣として使う時には、額面より一割程度割り引かれるのが普通である。

 危ない地方軍票は割引率が高く、帝都の中央機関が発行したものは信用度が高く、割引率も低かった。

 参謀本部発行の軍票ともなると、ほぼ額面どおりで取引されるのだ。


 マリウスは軍票を脇に寄せ、身分証の方を開いた。

 かつて彼も所持していた、帝国軍魔導士官の身許を保証する最重要書類である。

 見開きの左頁に姓名、階級、生年月日、身長や体重、軍歴が詳しく表示され、右側は特記事項を書き込む手帳形式となっている。


 身分証の名前は確かにエイナであったが、姓の方はシュトルムという、帝国風な偽名に変えられていた。階級は魔導中尉である。

 どうやって調べたのか謎だが、身長と体重も正確な数値が記入されていた。

 エイナが所持している王国軍の身分証の方が、体重が一キロ少ないのは秘密である(筋肉量の増加で変化した体重が、まだ反映されていないだけだが)。


 右側の特記欄には、

『左記の者は特殊任務の遂行中につき、詳細の詮索を禁止する。

 不明の点があれば、直接参謀本部に照会のこと。

 なお、同人の要請に対しては、現地部隊は可能な限り応じるよう努力すべし』

と書かれており、その下に作戦部長であるウィンザー大将のサインがあった。


 要するに、これを提示すれば、エイナはいかなる検問も無審査で通過できるということだ。

 軍の馬は自由に借りられるし、早馬のように途中の駅で替えることもできる。


「エイナ中尉には、クレア港から入国して、直接南部に向かってもらう。

 私はアデリナの回復具合を確認次第、彼女を連れて中尉と合流する。

 それまでの間は、アリッサを君の護衛につけよう」


 伯爵の左隣に座っていた少女が立ち上がり、エイナに向かって軽く会釈をした。

 ただ、その目には憎悪の炎が垣間見え、決して好意的とはいえなかった。


「伯爵の眷属が護衛では、吸血鬼同士の争いを禁ずる掟に抵触しないのですか?」

 マリウスが、すかさず確認を入れる。


「なに、問題ない。

 こちらから手は出せないが、それは向こうも一緒だ。

 アリッサがエイナについていれば、敵は何もできないはずだ。

 無論、向こうが協定を破って襲ってくれば、アリッサも容赦をしない。

 ベラスケスの手下など、文字どおり歯牙にもかけないだろう」


「ただし、基本的に護衛は夜間のみとなる。

 エイナ中尉はあくまで人間だ。夜は安心して眠りたいだろう?

 その代わり、昼間は自分で自分の身を護ってもらう」


 マリウスが不思議そうな表情を浮かべた。

「伯爵の眷属まで動かすのは、皇帝の指示なのですか?」


「いいや、あくまで私の好意だ。

 エイナがアデリナと合流を果たせば、その先は一切、手を出さないから、大したことではない」


「なぜ、そこまでしてくれるのでしょう?」

「好意だと言ったはずだ。しつこいぞ。

 例えレイア妃の入れ知恵だろうと、皇帝が私を指名した以上、この交渉に失敗するわけにいかんのだ」


「それに私だって、ベラスケスが人間に倒されることを願っている。

 南部の住民が恐怖から解放され、孤児たちに救いの手が差し伸べられるのは、実に喜ばしいことだからな」


「物は言いようだな」

 レテイシアは皮肉な笑いを浮かべ、椅子から立ち上がった。


「話は大体分かった。

 ただし、この件は私の一存で決めるわけにはいかない。

 マリウスの他に、外務や情報部の意見も聞かなければなるまい。

 回答は明日の朝まで、待ってもらえるだろうか?」


「お心のままに」

 オルロックはレテイシアの前で片膝をつき、差し出された手の甲に唇を近づけた。

(これは仕草だけで、実際に口づけするわけではない。)


 そんなことより、王国側が驚いたのは、どうやってオルロックが女王に近づいたかである。

 レテイシアが立ち上がった時、伯爵はテーブルを挟んだ反対側の席に座っていたはずだ。誰も彼が立ち上がったり、テーブルを回り込む姿を見ていない。

 それが、気がついた時には、女王の前で膝をついていたのだ。


 護衛していたはずのエイナとプリシラはもちろん、タケミカヅチですら何もできなかった。

 一方で、レテイシアが悲鳴を上げず、堂々と手を伯爵に預けたのも見事であった。

 突然、目の前に現れた伯爵に動じないのもそうだが、吸血鬼の唇を微塵も恐れずに近づけることを許したのは、まさに王の態度である。


「我々が承諾した場合、伯爵は明日、そのまま帰国されるおつもりか?」

「いかにも。エイナ中尉を伴って……ということになりましょうな」


「――だそうだ」

 レテイシアは、エイナの方に顔を向けた。


「そなたの午後の任務は免除する。後のことはプリシラに任せ、下城するがよい。

 今日中に出発の準備を済ませておけ」


 エイナはちらりとマリウスの顔を窺う。

 彼が小さくうなずいたのを確認してから、エイナは敬礼を行った。

 女王の指示は、帝国側の提案を受け入れると宣言したようなものである。

 どこが『私の一存で決めるわけには』だ。


 オルロックは苦笑しながら、女王に訊ねた。

「陛下は王国が承諾した場合の、私の行動をご下問なされましたな?

 逆に拒否した場合は、お訊ねにならないのですか?」


 レテイシアも笑い返した。

「そうだな……例えば、真夜中にエイナの寝所に現れ、彼女に『母親のところに連れていってやる』とささやいて、闇の通路を開いたとしたらどうなる?

 それとも、私の専制に不満を持つ貴族たちに、片っ端から『女王の寝首を掻いてやる』と誘ってみるか?

 脅し方はいくらでもあるだろう。そんなもの、聞いても不愉快になるだけだ。

 私は自分が可愛いのだよ」


 オルロックは感心したように、大きくうなずいてみせた。

「これは奇遇ですな。

 私も自分が可愛くて、仕方がないのですよ。

 何しろ、それが高じて吸血鬼になったのですから」


      *       *


 女王とオルロックの会談は、正午少し前に終了した。

 エイナは任務から解放され、城を下がって下宿に帰ることになった。


 ファン・パッセル家に戻ると、メイドが驚いた顔で出迎えた。

 いつも夜の七時過ぎに帰ってくるのに、まだ昼の一時半だから当然である。


「実はね、急に長期の出張が決まっちゃって、明日出発しないといけないの。

 その準備で、午後はお休みをもらえたのよ」

 メイドに事情を説明すると、彼女は「あら大変」と言い残し、女主人であるロゼッタのもとへ知らせようと、ぱたぱた駆けていった。


 エイナは軍に入って二年半になり、急な出張にも慣れっこになってきた。

 出張が長期にわたろうとも、持っていく荷物は、軍支給の背嚢に詰められる分、すなわち自分で背負えるだけと決まっている。


 洗顔用具や生理用品などの日用品、医療キット、簡単な調理用具などは、すぐに持ち出せるよう、あらかじめ準備している。

 使うかどうかは別にして、小さな化粧ポーチも忘れてはならない。


 衣服も基本は軍服だから、何も考えなくてよいが、いつも悩むのが私服と下着である。

 今回は帝国南部の村々を、アデリナとともに回ることになる。民間の吸血鬼狩りに帝国軍人が同行するのは不自然で、私服になる機会が多そうだった。


 あまりおしゃれに興味がないエイナは、清潔ならそれでよしという態度なのだが、シルヴィアが絶対に許してくれなかった。

 現在彼女は南方に出張中なのだが、そういう時は家主のロゼッタが、代わりに監督することになっているのだ。


 メイドの注進を受けたロゼッタは、手がけていた仕事を放り出し、エイナの荷造りを手伝いに来てくれた。

 彼女の決して広くない部屋は、あっという間に広げられた服と下着で埋め尽くされ、二人の女はあれやこれやで頭を悩ませるのであった。


「今度の任地はどこなの?

 あんまり気候が違ったら、選ぶ服も変わるわよ」

 大きな花模様のスカートを、立たせたエイナの腰に当てながら、ロゼッタは首をかしげて眉根を寄せた。


「ごめんなさい。それは言えないんです」

 エイナはそう答えるしかない。敵に等しい帝国へ堂々と乗り込むなど、明かせるはずがない。

 その辺の機微は、長く参謀本部で働いていたロゼッタも、十分承知している。


「そりゃまぁ、そうよね」

 家主はあっさりと納得してくれた。


 エイナは申し訳ない気持ちになって、許される範囲で情報を公開した。

「場所は言えませんが、王都よりは北になります。

 行ったことがないのでよく分かりませんが、それほど気候は違わないと思います。

 だから、ワンピースと下着はこれでいいのかも……」


 彼女は候補に挙げていた、夏物の組み合わせを手に取ったが、ロゼッタは即座に却下した。


「あら、駄目よ。それじゃ、薄すぎだわ」

「でもでも、まだ夏ですよ?」


「いいえ、駄目です!

 出張は長くなりそうなんでしょ? 八月に入れば、朝晩は結構冷えてくるのよ。

 それに、ボルゾ川より北だと、寒暖差が余計に大きいんですって」

「えっ?」

 目を丸くするエイナに、ロゼッタは『しまった!』という顔で口を両手で覆った。


 どこから、そしていつの間に情報を仕入れてくるのだろうか?

 優秀過ぎることで有名だった元秘書・・・は、まったく油断がならなかった。

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― 新着の感想 ―
オルロックも幻獣界の生き物なんだっけ 誰か王国でヴァンパイアを召喚した召喚士はおらんかったのかな
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