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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第二章 ケルトニアの魔導士
34/395

十 威力偵察

 シルヴィアの目は上へと注がれている。ほかの者たちは彼女の視線を追った。


 最初は天井の隅のあたりで、埃が舞っているように見えた。

 少しすると、茶色い粉のようなものが、ぱらぱらと落ちてくるのがはっきりと分かった。

 角に小さな黒い穴が空き、みるみるうちに広がっていく。


 黒い穴はたちまち拳ほどの大きさになったが、それはそこだけに生じた現象ではなかった。

 他の天井の隅にも、床の角にも同じような穴が開いた。

 そして、十分に広がった穴から、小さな生き物がわらわらと湧き出してきたのだ。


 それは丸々と太ったネズミの群れだった。


 何十匹ものネズミが穴から溢れ出してきて、床を駆けまわった。

 黒灰色のつやつやした毛並みを光らせ、群れはキイキイという鳴き声を上げて四人に向かって襲いかかってきた。

 天井から直接落ちてくる者、床やベッドの上から飛び跳ねる者、壁に駆け上って横から跳躍してくる者など、その数は数百匹に達していた。


 しかしエイナたちの周囲には、魔法の盾が存在していた。

 ネズミたちは半球状の障壁に張りついた。彼らの肉球には無数の溝があり、どんな場所でも滑らずにしがみつくことができる。例えそれが目に見えない力場であってもだ。


 障壁はあっという間にネズミの群れに覆いつくされ、内側のエイナたちは周囲が見えなくなった。

 黒っぽい体毛とは対照的なピンクの足裏が、エイナたちのすぐ目の前でぺたぺたうごめいている。


 ただそれだけなら、気味が悪いだけで無害である。

 だが、ネズミたちは自分たちの侵入を拒む障害に対し、本能的に敵意を向ける性質があった。

 要するに、彼らは魔法の障壁を齧って穴を開けることに夢中になったのだ。


 げっ歯類特有の長く伸びた門歯は、むことなく空間に穴を穿うがとうと、精力的に働き続けた。

 それは空を齧るむなしい行為に思えたが、実際には障壁にダメージを与え続け、術者であるケネス大尉の魔力を着実に削っていった。


 物理防御魔法は一点にかかる大きな力には強いが、広範囲で継続する地味な負荷に弱いという欠点があったのだ。


 さらにこの小さな生き物の攻撃は、ケネス以外の者たちにも心理的な圧迫を加えていた。

 女性にとって、ただでさえネズミは恐怖と嫌悪の対象である。それが数百匹も自分たちを取り囲んでいる状況は、悲鳴を上げないだけで精一杯である。

 特に、何もできないシルヴィアとサーラの精神は、ヒステリーの発作を起こす寸前にまで追い詰められていた。

 サーラは、上半身裸のケネス大尉の背中にしがみついていたが、その爪が素肌に喰い込んで血が滲んでいることにも気づいていなかった。


 じりじりと過ぎていく時間の中で、エイナだけは自分の呪文に集中していた。

 下腹部の奥が燃えるように熱い。

 子宮に溜め込まれていた魔力が螺旋状に上昇を続け、身体中を駆け巡った末に、前に伸ばした手の先へと送り込まれていく。

 手の平や指先の毛細血管が破裂し、ぴりぴりとした痛みが肘のあたりまで広がってきた。

 もう十分過ぎるほどの魔力が集まっていたというのに、無我夢中のエイナは力の供給を止めなかったのだ。


 訓練では何度も放ってきた魔法だが、実戦で試すのは生まれて初めてだった。

 相手は小動物の群れではあるが、自分の魔法でそれを殺し尽くすことになる。

 普段のエイナなら、そこに逡巡を覚えるはずだったが、今の彼女はひたすらに呪文に没頭していた。もう理性は、どこかに消し飛んでいた


『エイナが魔導士として優れているのは、その集中力ね。

 魔法の威力は、そこに込められる魔力量以上に、術者がいかに魔法という世界にのめり込めるかで決まるの。

 ただ、それだけに詠唱中は無防備なりがちだから、状況判断を忘れては駄目よ』

 魔導院の授業でケイト先生から教わったのに、今のエイナはそれができていなかった。


「おい、エイナ。お前、魔力を溜め過ぎじゃねえのか? 指先から血が垂れているぞ。

 ……ちっ、聞こえていねえか」


 ケネスは舌打ちをして、シルヴィアに向けて注意を与えた。

「そろそろ魔法が発動するぞ。

 この馬鹿、夢中になり過ぎて周りが見えていねえ。お前も馬鹿みたいに剣を構えるのをよせ!

 できるだけ俺の近くにいろ。でないと巻き添えを食うぞ!」


 エイナが魔法を放ったのは、彼の忠告の数秒後のことだった。


      *       *


 パンッ! バキバキッ!

 ザーーーーッ!


 正体不明の破裂音、そして真っ白に凍りついたネズミたちが、防御障壁を伝って床に滑り落ちていく雨のような音が響いた。

 ネズミが落ちたことにより一瞬視界が開けたが、すぐに目の前が真っ白になって何も見えなくなった。

 その後も〝パキッ、バキッ!〟という破裂音が断続的に響く。


「なにっ? 誰なの!」

 シルヴィアは半ばパニック状態となって剣を音のする方に振り回し、見えない敵に向かって叫び出した。


 その肩をケネスがぽんと叩く。

「落ち着け。極低温で材木が凍裂を起こしているだけだ。建具にちゃんと乾燥させていない安物を使ったんだろうな。

 もう防御魔法は解くぞ」


 彼がそう言うと、魔法が解除されたせいで、部屋に満ちた冷気が一気に襲ってきた。

「うおっ、さみいっ!

 おいシルヴィア、お前の幻獣は何て言っている?」

「えっ?」


「だから、まだ危険だと言っているのか?」

「あっ、ええ、そうですね。

 カー君、どうなの?」


 シルヴィアは我に返り、慌てて足元のカーバンクルに訊ねた。

『んー、多分だいじょうぶ。もう嫌な感じはしなくなった』


 彼女が幻獣の言葉をケネスに伝えても、彼は軽くうなずいただけだった。その答えは聞く前から分かっていたのだろう。

 エイナが魔法を放つまで、全身の毛を逆立てて警戒を続けていたカーバンクルは、もういつもの姿に戻っていたからだ。


「シルヴィア、扉を開けて空気を入れ換えろ。寒くてたまらねえぞ。

 ついでに船員を呼んで、ネズミの死骸を片付けさせろ」


「は、はい! 分かりました」

 シルヴィアは慌てて部屋の扉へ向け、足を踏み出した。

 凍りついたネズミの死骸が軍靴に踏まれ、尻尾や手足がパキパキ音を立てて折れた。中にはバキッと大きな音を立て、本体が砕け潰れるものもあった。


 彼女は「ひっ!」と悲鳴を上げ、できるだけ足元を見ないようにして歩いて行き、廊下に通じる扉を開けた。そして船員を呼ぶために、逃げるように走り出した。

 扉が開いたことで、部屋の中に温かく湿った空気がもわっと流れ込んできた。


 放心状態になっていたエイナも、いくらかまともになって廊下に出た。

 シルヴィアと同様に、軍靴で凍ったネズミを何匹か踏み潰したが、田舎育ちの彼女は割と平気だった。

 それよりも、エイナは自分の魔法が生み出した氷の世界に心を奪われているようだった。


 ガウン一枚を羽織っただけのサーラは凍えそうになっていたが、彼女は裸足だったのでネズミの死骸の上を歩くことができず、ケネスが抱きかかえて廊下まで運ぶことになった。


 部屋に入ってくる暖気と入れ替わりで大量の冷気が床を這い、個室よりも一段低い船底の大部屋へと流れ込んでいった。

 雨で外にも出れず、蒸し暑い船底で喘いでいた乗客たちは、突然運ばれてきた冷たい空気に驚いたが、あまりの気持ちよさに喜び、誰もが笑顔となった。

 もし彼ら(特に女性客)が、冷気の元が数百匹のネズミの凍死体だと知ったら、パニックが起きていただろう。


 極寒の部屋から出たサーラは、エイナたちの部屋に入ってベッドに潜り込み、それきり出てこなかった。


 しばらくすると、シルヴィアが数人の船員を連れて戻ってきた。

 船員たちは凍りついた部屋と、床を埋め尽くしているネズミの死骸に言葉を失った。


 船員たちとともに改めて部屋を覗いたエイナとシルヴィアは、歯がガチガチと鳴ってうまく喋ることができなくなった。襲撃された恐怖に、今ごろになって身体が反応しているのだ。

 やむを得ず、ケネスが船員たちに事情を説明することになった。


 突然部屋の中に大量のネズミが入ってきたので、魔導士である自分とエイナが魔法でネズミを凍らせた。

 何故ネズミが出てきたのかは、自分たちにもさっぱり分からない。

 ――その説明には、何一つ嘘はない。


 普通ならとても信じられない話だが、迷信深い船員たちは簡単に納得してくれた。船では何かしら不思議なことが起きるものなのだ。

 そんなことより、ネズミをどうにかする方が現実問題である。彼らは倉庫から大きな麻袋を持ってきて、カチカチに凍っているネズミを床から引っ剥がし、片っ端から袋に放り込むことにした。


 船員から報告がいったらしく、船の責任者である船頭と舵取りもやってきた。彼らは部屋の惨状を見て渋い顔をした。

 何しろ乗客は、快適さを求めて特等個室に大金を払っているのである。ネズミの死骸を片付けたとしても、それだけで「どうぞこの後も船旅をお楽しみください」とは言えないだろう。


 年輩の船頭は渋い顔のままケネスの方を向いた。小柄な身体から滲み出る迫力は、決してケネスに負けていない。


「お客さん。ネズミを片づけたら、部屋は隅々まで徹底的に清掃させるし、寝具は取り替えさせる。

 申し訳ないが、黒城市まではそれで辛抱してくれんかな。

 本来なら絨毯の貼り換えと隅っこの穴塞ぎもせにゃあならんが、船大工のいる川港じゃないと対処できんし、時間もかかる。

 運航に支障がない以上、修繕のために船を遅らせるわけにはいかんのだ」


 ケネスは鷹揚にうなずいた。ここは気前のいい金持ちを演ずるべきところである。


「ああ、俺は軍人だからな。人間の残骸に囲まれて寝たことも珍しくない。

 ネズミ程度でがたがた言ったら笑われるだろう」

「そうか、そいつは助かる。

 部屋の清掃は大至急やらせるが、夜までかかるだろう。それまでは隣の部屋で我慢してくれ。

 何でネズミどもが集まったのか腑に落ちんが、糞どもがまとめて退治されたのは不幸中の幸いだ。寝ている最中に足を齧られる心配がなくなったということだ」


 船頭は笑ってケネスの背を平手で叩き、舵取りと一緒に雨の降る船上へと戻っていった。


 彼らが姿を消すと、ケネスはエイナたちに指示を出した。

「そういうことだから、取りあえずはお前たちの部屋に移ろう。

 シルヴィアはサーラの側についてやってくれ。あいつ一人じゃ不安だろうからな。

 俺はシャツと上着を取りに戻るが、エイナも付き合え」

「自分がですか?」


「ああ、サーラは素っ裸だ。下着と何か着替えを持っていってやらないといかんだろう。俺は女の着物なんざよく分からねえ。頼む」

「そういうことでしたら」


 二人は船員たちがネズミを片付けている部屋に戻った。

 凍りついていた部屋は、夏の熱気によって元に戻りかけていた。ネズミはまだ固かったが、床に張られた絨毯は溶けた氷のせいでびちゃびちゃになっていた。

 船員がモップで水を吸い取っては、桶の中で絞っている。


 ケネスはベッドの上に脱ぎ散らかしていたシャツと上着を無造作に掴み、すぐに隣の部屋に戻っていった。

 エイナは部屋に備えつけの衣装棚の扉を開け、中に掛かっていた着やすそうな服を選んだ。続いて下の引き出しを開けると、下着類が女性らしくきちんと畳んで収まっている。

 彼女は必要と思われる下着を一式取り出し、部屋を出ようとした。

 すると、掃除をしていた船員の一人が声をかけてきた。


「お嬢ちゃんは魔法使いなのかい?」

「え? あ、はい。えとその、魔導士ですけど」


「船中のネズミを退治しちまったんだから、魔法ってのはすげえもんだな。

 軍なんか辞めて、ネズミ駆除の仕事をしたらどうだい? 絶対儲かるぜ」

「えとえと、これは一か所に集まったからできたことで、隠れているネズミは無理です」


「それもそうか。じゃあ、船の空気を冷やす商売ってのはどうだ?

 さっきは下のお客さんが気持ちいいって喜んでたぜ。金を払うからもう一回やってくれってな」

「夏はいいかもしれませんが、それ以外の時はどうやって稼ぐんですか?」


「俺の女房になればいいだろう。ちゃんと食わせてやるぜ」

 周囲の船員たちが一斉に笑い出し、エイナは自分が揶揄からかわれていたことに気がついた。


「知りません!」

 彼女は背後の笑い声を聞かなかったことにして、部屋を後にした。


「遅いわ!」

 出迎えたのはサーラの不機嫌そうな声だった。

 彼女はエイナから着替えをひったくると、もそもそと服を着始めた。

 ケネス、シルヴィア、エイナの三人は、部屋の中央に固定されたテーブルを囲んで一息ついた。


「さてと、まずはシルヴィアの幻獣に礼を言うべきだろうな。

 こいつの警告がなければ、対処が間に合わなかったからな」

 ケネスが素直に感謝の言葉を口にしたのは、ちょっとした驚きだった。


「ネズミを操って襲わせたのは、やはり帝国の魔導士でしょうか?」


 シルヴィアの質問に、エイナとケネスは顔を見合わせた。

「多分、帝国じゃないだろう。あいつらが動物を使って攻撃をしてきた例はない」

「確か、帝国の魔導士の中には使い魔を操る者がいると聞いたことがありますけど……」

 エイナが一応疑義を挟む。使い魔に関する魔法は習得していないが、知識としては教えられていた。


「あれは低霊格の妖精や地霊を魔法で縛って使役するって奴だが、今じゃほとんど使う魔導士はいないぞ」

「それはどうしてでしょうか?」

 シルヴィアは魔法に詳しくないので、素直に訊いてくる。


「召喚魔法じゃないから、使い魔にできる幻獣を見つけること自体が難しいんだよ。

 運よく出会えて術をかけたとしても、魔法で縛れるのは単体に限られる。

 ネズミのような普通の動物は使い魔にできないし、群れごと支配するのは不可能だ。

 それに使い魔にできる幻獣の能力はたかが知れているから、攻撃力も知能も低いんだ。

 昔は伝書鳩代わりに使ったらしいが、念話魔法が開発されて以降、廃れてしまったという話だ」

「帝国の魔導士じゃないなら、一体誰が私たちを襲撃したというのでしょう?」


「それが分かれば苦労はしないさ。

 エイナ、お前はどう思う?」

「えとえと、サラーム教国の呪術師は、動物を操るのが得意だと教わりました」


「呪術か……。確かにそんな話を聞いたことがあるが、何だって奴ら(呪術師)が俺たちを狙う?

 リスト王国がどこぞのサラーム教国と紛争を起こしている――なんて話は聞いていないぞ?」

 エイナは黙り込んだ。確かに呪術師の仕業とすれば、動機が分からない。


「はいはい!」

 シルヴィアが元気よく手を挙げた。


「なんだ金髪?」

「帝国が呪術師を雇って、わが国の幻獣を妨害したことがあります!」


 それは十年近く前、帝国が黒城市を占領した際に起きたことで、偵察を担当する飛行幻獣を鳥の大群に襲わせたという事件である。

 結局、魔導士のマリウスと召喚士のユニが組んで帝国に侵入し、呪術師の排除に成功したのだが、ユニの信奉者であるシルヴィアは、そうした冒険譚に詳しかった。


「なるほど、あり得ない話ではないが……。

 だがなぁ、俺の王国入りはそこまでして妨害するようなことか?

 いくら何でも、南方の呪術師を雇うのは大げさだろう」


「まぁ、とにかく今回は敵が正体を現しちゃいないし、恐らくこちらの戦力を見極めるための小手調べ、要するに威力偵察だろう。

 本気の襲撃はこれからだってことだ。お前らは俺の護衛だそうだから、せいぜい気張ってくれや」


 ケネスは皮肉な笑みを浮かべて片目をつぶってみせたが、シルヴィアには通じなかったようだ。

「が、頑張ります!」

「それとエイナ」


「はっ、はい!」

「お前、実戦はこれが初めてか?」


「そうです」

「だろうな。

 魔法に集中するのはいいことだが、周囲が見えていない奴は早死にする。そのことは肝に銘じておけ。

 お前の魔力量は相当なものだ。それは見れば分かる」


 ケネスはそう言いながら、テーブルの上に置いてあった新聞を手に取り、くるくると丸め始めた。

 そして、片手で握ると、エイナの頭をぱこんと叩いた。


「馬鹿野郎、やり過ぎなんだよ!

 たかがネズミ相手に、どんだけの魔力をぶっ放したと思ってやがる!

 ちったぁ加減ってもんを覚えろ、阿呆!」

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