七 メリット
「判断の根拠を述べよう……が、その前に、プリシラ。そこの棚から酒とグラスを取ってくれ。
伯爵はいける口か?」
「たしなむ程度ですが、お付き合いいたしましょう」
レテイシアの言いつけに、プリシラは眉をひそめた。
「陛下、まだ午前中です。
大事な会談なのですから、終わってからになさいませ」
プリシラが女王に意見できるのは、蒼龍帝の副官を務めてきた経験のなせる技だ。
「客人が杯を受けてくれるのだ、堅いことを言うな」
プリシラはそれ以上抵抗せず、二人の前にグラスを置き、美しいガラスの瓶から琥珀色の液体を注ぐ。
伯爵はグラスを口もとに近づけると、軽く回して香りを確かめたのち、少しだけ口に含んだ。
「ふむ……香ばしい穀物とナッツ、それに干した果実。ハチミツの甘い香りも感じる。
陛下はよいケルトニア酒をお持ちだ」
「分かるか? 侍女も執事も下がらせたゆえ、肴が出せんのは許せ。
――さて、話を元に戻そう」
レテイシアは、ケルトニア酒を一口飲み込んだ。
「帝国が吸血鬼の存在を、公式には認めていないことは、私も存じておる。
まぁ、世界に冠たる軍事大国が、自国内で化け物の跋扈を許しているとなれば、沽券に関わるだろうからな。それは理解できる。
ただしその裏では、存在も被害も把握しているだろう。
差し支えなければ教えてもらいたいのだが、帝国には何人の〝真祖が〟いるのだ?」
「五人だ。二十年ほど前にひとり増えたが、それ以前は何百年も四人の時代が続いていた」
「増えた?
新たに誕生した、あるいは幻獣界からの転移ということか?」
だが、伯爵は首を横に振った。
「どちらも違うな。人間の事情だよ。
増えた吸血鬼というのは、エウロペ諸王国の東端を縄張りにしていたモルガンという女だ。
二十年前、その地域が帝国に占領され、併合された。ただそれだけのことだ」
レテイシアは少し驚いた表情を浮かべた。
「吸血鬼は、帝国以外にも存在していたのか?」
「当り前だ。餌となる人間がいる以上、捕食者である吸血鬼もいなくては、バランスが取れんだろう。
エウロペ諸王国には他に二人、ケルトニア本国にも何人かいたはずだ。
私が知る限り、この世界の真祖はそれだけだな」
「つまり、我が国や、南のサラーム教国にはいない……のだな?」
伯爵は、また一口酒を含んでうなずいた。
「なぜだ?
貴君の言葉を借りるなら、〝餌となる人間〟は、我が国にもサラームにも、もっと南の黒人国家群にだって、いくらでもいるのだぞ?」
オルロックの答えは、至極単純だった。
「暑いからだよ。
私たちは冷涼な気候を好む。私の屋敷だって山の中腹、それも洞窟の奧深くに築いているくらいだ。
吸血鬼が快適な暮らしを望んだって、罰は当たらないだろう?」
「なるほど、了解した。
話を戻そう。その五人いる吸血鬼の中で、南部のベラスケスだけが、公然と人々を襲っている……そうだな?」
伯爵は再びうなずいて、空になったグラスに酒を注いだ。
「あいつは頑固だからな。昔気質といえば聞こえはいいが、気位ばかり高くて融通の利かない馬鹿だ」
レテイシアは、彼の辛辣な評価は無視して、話を続けた。
「帝国としては、あくまで吸血鬼は民間伝承、迷信の類だということにしておきたい。
彼らにしてみれば、貴君のようにうまく立ち回ってくれるなら、放置しても構わないわけだ。
それなのに、ベラスケスだけが悪目立ちしている。これは非常に都合が悪い」
「帝国はベラスケスを排除したいが、認めてもいない相手に、大きな兵力を動かすことができない。
秘密裏に処理しようにも、相手は吸血鬼だ。それ相応の戦力と、一定の犠牲を覚悟する必要がある。
具体的には魔導士、それもよほどの実力者でないと、第二世代の眷属に勝てないだろう。
さらに真祖を倒す段階では、何人もの上級魔導士を投入することになるが、ケルトニアと戦争中の彼らに、そんな余裕があるはずがない。
帝国首脳部は、歯噛みをして見守るしかなかった」
「現実には、吸血鬼への対処は、民間の〝吸血鬼狩り〟に任すよりほかなかった。
彼らは軍に属さない魔導士や、腕に覚えのある退役軍人だと聞く。
実際に村に出現して人を襲い、攫っていくのは、ほとんどが最下級の第三世代眷属だ。
吸血鬼狩りの実力は、それこそピンキリだが、相手が下っ端なら比較的楽に勝てる」
オルロック伯は『ふんふん』と小さくうなずきながら、酒をちびちびと舐めていたが、ここで少し意地の悪い笑みを浮かべ、口を挟んだ。
「下っ端だとしても、大事な部下だぞ?
それを失った上に、食糧まで断たれては、ベラスケスも黙っていまい。
諸君が第一世代と呼んでいる、直系眷属が出張ってきたら、どうするのだ?」
女王は肩をすくめてみせた。
「現実には、第一世代に勝てる吸血鬼狩りは、ほんの一握りの腕利きだけらしい。
他の者はあっさり殺される。
それぞれが持つ奥の手を使って、刺し違えられたら御の字だが、成功する確率は高くないそうだ。
それでも、眷属の方が返り討ちに遭う可能性はある――ということだ。
ベラスケスのような、古くから生きている吸血鬼は、簡単に眷属を増やせないそうじゃないか。
伯爵もそうなのであろう?」
レテイシアの挑発するような問いかけに対し、オルロックは沈黙で応えた。
「ところがだ!」
女王の声音が、一段高くなる。
伯爵の片眉が、わずかに上がった。
「昨年の暮れあたりから、状況が変化した。
ベラスケスの縄張りである帝国南部に、凄腕の吸血鬼狩りが現れた。
――いや、帰ってきたと言った方が正しいか」
「その狩人の名はアデリナ。魔法は使えないが、女だてらに凄まじい剣を遣う女だ。
彼女は今から二十五年ほど前、南部で名を馳せた有名な吸血鬼狩りだった。
それがある時期から、これまた凄腕の魔導士と組んで、手当り次第にベラスケスの手下を殺しまくった。つまり、彼女はやり過ぎたのだな。
二人はベラスケスの怒りを買い、徹底的に追われたらしく、忽然と姿を消し、いつしか忘れられていた」
「そのアデリナが、ひとりで戻ってきたのだ。
相棒の魔導士はいなかったが、彼女は以前にも増した勢いで、ベラスケスの部下たちを狩り続けている。
おかげで今年に入ってから、ベラスケスの戦力は激減し、彼の力は大幅に衰退している。」
「帝国にしてみれば、『好機到来!』の思いだろう。
アデリナのかつての相棒のように、強力な魔導士に協力させれば、ベラスケスを滅ぼすことも夢ではない。
だだしそれには、少なくとも異名持ちクラスで、吸血鬼との戦闘経験を持つ者が必要になる。
帝国内でその条件を満たす魔導士は、マグス大佐とカーン少将しかいない。
だからといって、軍が彼女たちを出せるか? とても無理だろう」
「そこで帝国は考えた。
自軍の魔導士を出せないなら、他国の魔導士を使えばよい……とな。
カメリアの報告によって、ベラスケスが王国に手を伸ばしているという情報は、彼らも把握しているはずだ。
王国にとっても、彼が脅威であることは分かっている。
そして、吸血鬼に対抗し得る魔導士が王国にいるか? という質問に対し、マグス大佐もカーン少将も、『エイナ以外にいない』と答えたに違いない」
「ただ、エイナは、まだまだ脆弱な王国魔導士の中で、奇跡のように出現した、文字どおりの虎の子だ。
それを、他国の吸血鬼にぶつけるのだぞ? 王国が得る利益に比べ、背負うリスクが大き過ぎる。誰が考えても、この提案は拒絶すべきだろう。
そこで、交渉役に選ばれたのが、オルロック辺境伯……というわけだ」
伯爵はグラスを目の高さまで持ち上げ、軽く謝意を表した。
「恐らくだが、吸血鬼のことは、帝国貴族でも皇帝に近い者だけの秘密なのだろう。
いつもの裏交渉に担ぎ出される侯爵たちは、吸血鬼の知識など、芝居でしか知らないはずだ。
そこで白羽の矢を立てたのが、オルロック辺境伯だ。
吸血鬼である貴君ほど、使者としてふさわしい人物はいない。
しかも、伯爵は情報を武器にして、政権内部に喰い込んできた人物だ。
我々に『うん』と言わせるだけの情報も、何かしら持っていると踏んだのだろう。
実際、帝国の連中は知らないだろうが、我々は貴君にかなりの恩義を負っている。新たな情報は不要だろうな」
「それは、どうかな?」
意外にも、伯爵は異議を唱えた。
「陛下は、エイナが〝虎の子〟の魔導士だと、自らお認めになったではないか。
国と国との交渉事で、恩義などという情に訴えられて、『はい、そうですか』と応じるおつもりか?
そんな寝言をほざいているようでは、この国はとっくに滅んでいるはずだ。
別に隠さなくてもよいのですぞ?
アデリナがエイナの母親だということくらい、私はとっくの昔に知っている。
エイナは今すぐにでも、母のもとに駆けつけ、力になりたいと切望しているはずだ。
下手をすれば、軍を脱走して帝国に向かう懸念すらある。
諸君は最初から、この話に乗るしかないと、覚悟を決めていたのであろう?」
女王はグラスに残っていた酒を、一気に呷った。
「ふう……。そこまで知っていたか。まぁ、あまり驚きはしないがな。
ということは、アデリナの出自も、承知しているのだな?」
「ダンピール(吸血鬼と人間の混血児)だということか? 当然だ。
ついでに言えば、アデリナの父が私だということも知っている。
まぁ、これは彼女が吸血鬼狩りとして、有名になってから知ったことだがな。
アデリナの母親は、私に黙って彼女を産んだのだ。もし知られたら、殺されると分かっていたからね。
どうだね、エイナ・フローリー中尉。お爺ちゃんだぞ?」
オルロックはげらげらと笑い声を上げた。あまり品のいい笑い方ではなかった。
馬鹿にされたエイナは、むっとして黙り込んだ。
「やはり、感動の対面とはいかないか……。
断っておくが、私は真祖たる吸血鬼だ。はっきりさせておこう。
私の家族とは眷属であり、穢らわしいダンピール風情には、毛ほどの情も感じていない。
当然、その子であるエイナに対してもだ。
エイナが私の血を引いていることは、最初に会った時点で気づいていた。
吸血鬼は、血の匂いに対して極めて敏感だ。ましてや自分の血の匂いなら、どんなに薄くともすぐに分かるのだよ。
エイナ中尉も、私を祖父と思わなくていい。思われてはかえって迷惑だ。よいな?」
「さてと……」
伯爵は視線を再びレテイシアに向けた。
「これまでの陛下の話には、まだ納得できない点がある。
帝国と王国、それぞれにとっての利益は明らかとなった。だが、交渉役となる私のメリットとは何だ?
その説明がないのは、私に対して失礼だろう」
レテイシアは動じない。
「それは、伯爵自身が承知していることだ。わざわざ私が説明する必要などないだろう。
普通に考えれば、帝国のお偉方に恩を売るだけでも、効果的な投資になると思うがな」
だが、伯爵は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「ふん、恩を売る……、またしても情か。いかにも人間の思考だな。
何度も言うが、私は吸血鬼であって人間ではないのだ。
もっと現実的、即物的に考えていただきたいものですな」
「分かった、分かった」
とうとう女王の方が降参した。
「貴君は、こちらがすべての手の内をさらすまでは、許すつもりがないらしい。
――これは、我々の情報部が探り出してきた話だ。
帝国はケルトニア以外にも、北方のアフマド族や南のトルゴル王国とも争っている。
多数の戦死者が出るから、それに伴い孤児も増加する。
そのため帝国内では、宗教団体や民間組織が経営する孤児院が、各地に建てられている」
「ふむ……それで?」
「帝国政府もこの動きは歓迎しており、一定の補助金も出して協力している」
「当然だな」
「ところで、最近になって、これらの施設が手薄だった帝国南部で、新たな孤児院建設の申請が出された。それも、同時に四か所もだ。
さらに、この申請を行った団体は、同時に補助金の申請まで行っている。
普通、新設の孤児院であれば、数年の経営実績を積み重ねてから、運営に対する補助が認められるのが常識だ。
ところが、この四件に関しては、まだ未開設であるにも関わらず、来月の下院に補正予算が上程され、認可される見通しらしい」
「慈善事業に対する国の支援が、迅速に行われるのは、よいことだろう?」
「そうだな、同意しよう。
話は変わるが、こうした施設では、孤児の面倒を見るのは十五歳までで、男女を問わず十六歳になると、働いて自立する決まりとなっている。
もちろん、孤児院の方でも働き口を紹介して、孤児たちの自立を支援しているそうだ」
「よいことではないか」
「孤児たちは天涯孤独で貯蓄もないから、住み込みで働ける職場が人気だそうだ」
「そうだろうな」
「そのよい例が裕福な家の使用人で、特に貴族の邸宅に、執事やメイド見習いで雇われるのは、最もよい就職先だと言われているらしい。
なにしろ信用のある職場だし、給与も一般より高い。
その分、競争率が激しいから、希望者から選ばれるのは、成績優秀、容姿端麗な少年少女たちに限られる。
地方で都会から離れているのが難点だが、どうせ帰る家も故郷もないのだから、彼らは喜んで孤児院を巣立っていく。
年に一度くらいは、孤児院に『元気でやっている』という便りがくるが、それも数年経てば絶えてしまうのは、仕方がないことだろう。
誰も不審に思わないし、彼らの安否を確かめようと思う人間など、どこにもいないはずだ」
「何ひとつ、問題はないというわけだ。
しかし、よくそんなことを調べたものだな」
「なに、入札の公示や議事録を丹念に追っていれば、簡単に掴める情報だ。
問題は、それをまったく別の事件と結びつける、発想力があるかどうかだな。
その点では、今回は情報部のお手柄だろう。
まったく、実にうまい手を考えつくものだ。貴君の頭脳には、脱帽せざるを得ない」
レテイシアが口を閉じると、オルロック伯がただひとり、ぱちぱちと拍手を贈った。
「それが私とどう関係するのか、さっぱり分からんが、全体として、なかなか興味深い話でしたな。
ただ、アデリナの動向については、少し情報が古くはないか?」
「ああ、実は帝国に潜入して探っていた召喚士は、今年の初めに帰還している。
したがって、我々はその後の情報を持っていないのだ」
女王は素直に認めた。
「王国諸君の推論は、大枠において間違っていない。
ただ、いくつか不足している情報もある。まずは、アデリナのその後から、補足しよう」
オルロック伯は、空になったグラスに、ゆっくりと水を注いだ。