五 旧知
召喚士と幻獣は魂のレベルで融合し、深く結びついている。
したがって、常に一緒にいるのが当たり前で、互いの視界に入らないほど離れると、強い不安とストレスを感じてしまう。
ところが、四神獣(黒蛇、白虎、蒼龍、赤龍)と四帝の関係は、それとは少し違っていた。
そもそも神獣は、めったなことでは人前に出てこない。
この世界に召喚されている時は、城の地階にある広い召喚の間で、のんびりと休んでいる。
それ以外のほとんどの時間は、幻獣界に帰っているのだ。
神獣たちの言によれば、彼らは霊格が非常に高いので、存在を維持するために大量の魔素を必要とする。
魔素の正体はよく分かっていないが、自然や生物が発する精気のようなものと考えられており、幻獣界にはそれが濃密に満ちているらしい。
神獣が幻獣界に帰ってしまっても、四帝は特にダメージを受けず、その理由も不明のままである。
彼らがこの世界に召喚されているのは、一日の内の数時間に過ぎず、その間に四帝との情報交換を行っている。
そのため、城勤めの兵士ですら、神獣を見る機会はめったにない。
ましてや地方の農民などは、神獣を目にすることなく一生を終えるのが、当たり前であった。
国境の要害、黒城市を守護する黒蛇ウエマクは、リスト王国を打ち建てた、統一王セントレアが召喚した最初の神獣である。
その黒蛇が、エギルの傍らでとぐろを巻いているのだ。
謁見の儀式であるから、この広間には三十名ほどの儀仗兵と衛兵が整列していた。
訓練が行き届いている彼らは、動揺を見せることなく、真っ直ぐ前を向いているが、内心では驚いているに違いない。
黒蛇帝であるエギルも平静を装っているが、顔に戸惑いの表情が浮かんでいた。
だが、エイナたちは謁見の間に足を踏み入れてしまった。もう止まるわけにはいかないのだ。
エイナとプリシラは、赤い絨毯の両脇に分かれ、オルロック伯のために道を空けた。
伯爵はウエマクの存在を特に気にする様子もなく、絨毯を踏みしめて進んでいく。
美少女の皮を被った二人の眷属も、しずしずとそれにつき従った。
壇上の黒蛇帝の前まで来ると、伯爵は完璧な礼を取って口上を述べた。
それが終わると、斜め後ろで膝を突いていた少女たちが進み出て、捧げ持つ盆を差し出した。
二人の侍従がそれを受け取り、覆っていた袱紗を取って、エギルに見せた上で後ろに下がる。
その瞬間、わずかにエギルの表情が変化した。
盆の上には、慣習どおりに金地金が載っていたが、それが二枚ずつの計四枚だったのだ。
この世界で流通する金地金は、十六、三二、六四、一二八グラムの四種類で、伯爵が贈ったのは三二グラムのものだった。
金貨に換算すると五枚に当たるから、地金四枚で金貨二十枚、現在の我々の感覚では四百万円ほどになる。
エギルは型通りの答礼の中で、進物に対する感謝を示したが、そこに一言付け加えた。
「過分なお心遣いには感謝するが、……文字どおり〝過分〟ではあるまいか?
何か意図を含んでいるのであれば、お心の内を明かしてもらい」
伯爵は笑顔を浮かべて応じる。
「いや、信じていただきたいが、誓って他意はない。
王国の諸君は、私の名を聞いて〝よりにもよって〟と頭を抱えただろうし、気遣いも一方ではなかっただろう?
私の護衛に、わざわざ第四軍の国家召喚士と、虎の子の魔導士を付けたのがその証拠だ。
遠地のプリシラ殿を呼び寄せるだけでも、とんでもない経費がかかっているはずだ」
それは事実であった。オルロック伯のために特別に練られた警備(監視)計画には、通常以上の経費がかけられていた。
金貨二十枚というのは大きな金額であるが、伯爵にとっては大した痛手ではないのだろう。
黒蛇帝は小さくうなずいて、締めくくりの言葉を述べた。
「では、道中の無事を祈る」
これで儀式は終わりであった。
伯爵は再び礼をして、蒼龍帝の前から下がろうとした。
だがその瞬間、その場にいたすべての人の頭の中に、不思議な声が響いた。
『お待ちなさい、オルロック。まだ話は終わっていません』
男とも女ともつかない不思議な声音。一度でも聞いたことがある者なら、ウエマクだとすぐに気づく。
伯爵はゆっくりと振り返り、二人の少女がすすっとその前に出た。
武器こそ手にしていないが、警戒していることは明らかである。
ウエマクは眷属の動きなど目に入らぬように、言葉を続けた。
『なぜ、私には一言ないのでしょう?
こうしてわざわざ出てきたというのに、挨拶もなしに行こうとするのは、あまりに薄情というもの。
それでもあなた、〝人間〟ですか?』
「蛇のくせに、うまいことを言う」
オルロックは思わず吹き出した。そして、エギルの方を見る。
「黒蛇帝閣下、聞いてのとおり、私とウエマク殿はちょっとした知り合いなのだ。
彼と少し話しても構いませんかな?」
エギルは苦笑いを浮かべた。
「どうもウエマクの様子がおかしいと思っていたが、そういうことか。
伯爵のことを知っているとは聞いていたが、そこまでの仲とは知らなかった。
もちろん、好きに話してくれてよいさ」
オルロックは感謝を示すように頭を下げ、ウエマクの方に向き直った。
とたんに伯爵の雰囲気が変わり、口調もぐっと砕けた。
「何だ、お前。怒っていたのか?」
『当たり前です!
一昨年だって、無断で私の部屋にプリシラたちを連れてきて、何も言わずに帰ってしまったでしょう?
まぁ、確かに私は留守でしたが、それにしたって礼儀というものがあるはずです。
その時は仕方がなくとも、後で一言あって然るべきでしょう? 私は酷く気分を害しましたよ。
それなのに、今回も素通りしようなど、とても許せるものではありません!』
謁見の間の兵士たちは、ぽかんとした顔で神獣の姿を見つめていた。
黒蛇の声が響いたのは最初だけで、その後は何も聞こえなかったからだ。
ウエマクは蛇であるため発声器官がなく、念話を行う時も口が動かない。
だが、伯爵の言葉からして、会話が成立しているのは明らかである。
高度な念話を操る幻獣は、それを伝える者を自由に選択できる。
ウエマクは、うっかり伯爵の正体がバレないように気を遣ったのだろう。
いま、その声が聞こえるのは、エギルと伯爵、そしてエイナとプリシラだけだった。後者を加えたのは、完全に意図的である。
「二年前のことを根に持っているとは、執念深いにもほどがある。
さすがは蛇だな」
『黙らっしゃい! 誰がうまいことを言えと?』
「いやいやいや、先にやったのはお前の方だろう?」
『男が細かいことを言うものではありません。
それより、何しに来たのですか? 正直に白状しなさい!』
「知恵者ウエマクとは思えぬ質問だな。外交交渉に決まっているだろう?」
『だから、その内容を教えなさいと言っています』
「私の交渉相手は、ほかならぬレテイシア女王陛下だ。
いくらお前が神獣でも、先んじて知ろうとするのは不敬であろう」
『むう……口の減らぬ男ですね。
まぁ、よいでしょう。あなたは帝国でも、特に辺鄙な地を治める辺境伯です。
それをわざわざ交渉役として引っ張り出すということは、吸血鬼がらみの案件と推測するのが妥当です。
何しろ、帝国は公式には吸血鬼の存在を認めていませんからね。
ですが、王国と国境を接する帝国東部には吸血鬼は存在しません。考えられるとすれば、地理的に一番近い南部のベラスケスでしょう。
彼は王国に対して、実際に手出しをしてきましたからね。
つまり、ベラスケスの支配地で何かが起きている。それに対処するために、私たちの力を借りたい。
……こんなところだと思いますが、いかがですか?』
頭の中に響く声が、エイナの心臓を締めあげた。
彼女の母親が、ベラスケスの巣食う帝国南部へ入ったという情報を知ったのは、もう半年近く前のことだ。
だがその後、母が何をして、どうなっているかは、まったく分からない。
エイナとしては、すぐにでも飛んでいきたい思いだったが、軍の魔導士という立場は、それを許さなかった。
「ふむ、当たらずとも遠からず……と言っておこうか。
どうせ私には答えられんのだ。それが分からぬお前ではなかろう?
せいぜい想像を逞しくしているがよかろう」
『持つべきは友……といったところですか。
やはり、直接話すのが一番分かりやすい。あなたの顔で答え合わせができました。
感謝しておきましょう』
「私は……お前と友人になった覚えはないぞ?」
『奇遇ですね、私もです』
* *
謁見を終えたオルロック伯一行は、王国側が用意した市内の宿に下がった。
国賓なら、黒蛇帝主催の晩餐会に招待されるところだが、それよりは遥かに気楽であるし、旅の準備に専念できる。
もちろん、護衛役のエイナとプリシラも一緒に泊まることになる。
ひとり一泊で銀貨八枚という、超高級宿である。
貴族の庶子であるプリシラは平然としていたが、根が田舎者のエイナはどきどきであった。
とはいえ、贅沢な宿を満喫している暇などはない。
二人は短い睡眠を交替で取りながら、伯爵の部屋の前で不寝番を続けた。
もちろん、伯爵はその気になれば、自由に部屋を抜け出すことができる。
ただ、彼はエイナたちに対して外には出ないと約束してくれた。
もし、彼が嘘をついたとしても、外で警備についているタケミカヅチが、すぐに気づくはずだ。
幸いなことに、その夜は何事も起きず、平和に過ぎていった。
帝国の貴族を襲おうとする国粋主義者は現れなかったし、半裸の美少女が市民の血を吸う事件も起きなかった。
* *
翌日、伯爵たちを乗せた馬車が、黒城市の西大門を出たのは、朝の九時過ぎのことであった。
馬車は街道を西進し、途中の丁字路で南に分岐する主街道へと入った。
白城市までには二泊する予定なので、行程には余裕がある。
宿の豪華な朝食をゆっくり味わい、旅人としては遅い出発をしたのも、そのためである。
ちなみに、伯爵は出された料理を堪能し、きれいに完食して料理人を喜ばせた。
二人の少女がほとんど皿に手を付けず、お茶しか口にしなかったのとは対照的であった。
この日の目的地はボーヌという、黒城市から五十キロほど離れた町だった。
ボーヌのすぐ南で、第一軍管轄地に入るという境界の町である。
一日でボーヌに着くには、途中で馬の交換が必要だった。
軍は街道沿いの主要町村に馬を預けているので(駅伝制度)、一般の旅人よりも距離が稼げた。
そのような背景で、ボーヌの街には夕方に到着できた。
宿泊は〝さざなみ亭〟という、町一番の宿が予約されていた。
黒城市の高級宿とは比べようもないが、総二階建ての、地方にしては十分立派な宿である。
さざなみ亭の周囲には、すでに大勢の見物人が集まっていた。
町の人間よりも、田舎から集まってきたと思しき人が多い。
伯爵たちが彼らに姿を見せたのは、馬車を降りて宿の玄関に入るまでの、ほんのわずかな時間であった。
それでも、見物人たちは十分に満足できた。伯爵は堂々とした紳士であったし、お付きの少女たちは、溜息が漏れるほど美しかった(ここでも魅了が効果を表していた)。
さらに、二人の少女は二階の窓から顔を出し、集まっていた人びとに向けて、美しい千代紙の包みを撒いたものだから、大変な騒ぎとなった。
中身はありふれた焼き菓子や飴玉だったが、田舎では珍しい千代紙は、大いに喜ばれた。
「今度の貴族様は、何と気前のよいお方じゃ!」
わざわざ見物に来た近在の農民たちは、子どもへのよい土産ができたと喜んだし、女房や若い娘たちは、美しいドレスやアクセサリーに興奮して、お喋りが止まらなかった。
次の日は、第一軍管区に入ったことで、警備の引継ぎが行われた。
伯爵の直衛は変わらずにエイナとプリシラだが、ここまでは第二軍の騎馬一個小隊が同行し、馬車の前後を守っていてくれていたのだ。
途中、街道上の町にもう一泊して、三日目にようやく白城市である。
王国最大の都市である同市は、白虎帝ノエル・アシュビーが治めている。
しかし、オルロック伯は市内の高級宿に泊まっただけで、登城はしなかった。
伯爵が白虎帝との会談を希望しない限り、特に用はないからだ。
この辺は、国賓ではない身軽さである。
翌早朝、白城市を出立すれば、王都までは宿泊を必要としない距離である。
日が地平線に傾いていき、西日がカーテンの隙間から差し込んでくるころ、王都の大城壁が見えてきた。
厚手のカーテンを閉めた伯爵は、やれやれといった面持ちで溜息をついた。
「ボルゾ川を渡って五日か。
覚悟していたとはいえ、私にとっては拷問に等しい旅であったな。
お前たちも、さぞ辛かったであろう」
伯爵はそうつぶやいて、黒いマントの胸をぽんぽんと叩いた。
実を言うと、馬車に乗っている間だけ、二人の少女は伯爵が作り出した闇に隠れていたのだ。
彼女たちが、いくら伯爵の直系眷属だといっても、さすがに吸血鬼が日中に活動するのは負担が大きい。
当然、馬車の中では伯爵とエイナ、プリシラの三人だけとなる。
伯爵はたわいのない世間話には応じるが、今回の交渉に関する話題に関しては、一切口を開かなかった。
自然、車内ではあまり話がはずまない。
もっとも、馬車の中は騒音が酷いから、会話には大声を出さなくてはならない。
だから、会話の少なさは、お互いにありがたかったのである。
白城市と王都を結ぶ街道は広く、よく整備され、石畳で完全に舗装されていた。
がらがらという車輪の音と、馬の蹄が響く車内で、伯爵は二人の少女を両脇に戻した。
彼女たちは手鏡で身だしなみを素早く確認し、背筋を伸ばして澄ました表情を浮かべ、次に起きる事態に備えた。
目前に、王都大城壁の正門(東門)が迫ってきたからである。