二 小会議室
十数年前、レテイシア女王が政治の実権を奪取するまで、リスト王国の政治を担ってきたのは議会であった。
有力貴族によって構成される上院(貴族院)は、外交と軍事を動かし、大商人や地主が多数を占める下院が、主に経済や民政の方針を決めていた。
王は国の象徴であり、各種の儀式を司る〝お飾り〟のようなものであった。
こう説明すると、議会が主導する民主的な制度のように見えるが、実態は理想と懸け離れていた。
世襲の有力貴族は権力争いに没頭し、例外なく腐敗した。
貨幣経済の発展に伴って力をつけた大商人や大地主は、貴族たちを金で縛り、意のままに操った。
王国は大陸でも稀にみる豊かな国となった反面、軍事力は衰退の一途をたどり、科学技術が停滞して後進国に成り下がった。
王国では約四百年前の建国後まもなく、すべての新生児に召喚能力の検査を実施する体制を作り上げた。
召喚士となり得る才能は強制的に王都に集められ、魔導院という専門機関で養成された。
そして、異世界の幻獣が持つ圧倒的な能力で、王国軍は他国に優越した軍事力を誇ることになった。
すると、政治に対する影響力を得た商人たちは、こう考えた。
『それなら、少しくらい軍の規模を縮小して、浮いた予算を開拓や灌漑に投じても、罰は当たるまい?』
何しろ、軍は金を呑み込むだけで、何も生産しない。
損得だけで生きている商人にとって、いつ起きるか分からない戦争に備えて、永遠に金を投じ続けるというシステムは、理解しがたいものであった。
結果的に、レテイシアによる政変当時、王国軍の兵力は四万人にまで減少していた(しかも、このうち実際に勤務しているのは三分の一に過ぎない)。
隣接する帝国が、百万人超の兵力を擁して、世界と戦っていることを考えれば、お話にならない規模だった。
女王は決起に当たって軍の倍増計画を訴え、それは軍の気持ちを動かした。
彼女の反乱が成功したのは、冷遇に不満を募らせていた第一軍が、積極的に加担したためである。
このような経緯であったから、レテイシアの専制君主体制には、軍の支持と協力が不可欠だった。
建前として軍は女王に忠誠を誓っていたが、両者の蜜月関係は、レテイシアの進める軍の強化と改革を、彼らが是としたことで保たれていた。
一方、女王が考える経済政策を進めるには、大商人の協力がどうしても必要だった。
長年にわたる政治の停滞で、国庫は空に近い状態だったから、何をするにも民間の資金に頼らざるを得ないのだ。
レテイシアの仕事は、商人や地主たちを説得することである。
目先の利益につながらない投資でも、将来的にこれだけ返ってくる。
それを裏付ける資料を提示して根気よく説明すれば、彼らは案外素直に協力してくれるた。
結局のところ、女王が主体的に手腕を発揮できるのは、外交分野だけである。
政変以降、レテイシアは大国ケルトニアとの関係を深め、帝国へのけん制手段として利用してきた。
隙を見せれば呑み込まれる、油断ならない相手である。
判断を誤れば国を亡ぼすのだから、その重圧は計り知れない。
外務部は彼女のために動く、忠実な手足であった。
官僚たちは実務に徹し、重要な判断はレテイシアに仰いだ。
帝国が虎なら、ケルトニアは獅子である。勝手な判断をして、責任を取らされるなどまっぴらだった。
したがって、今回のような案件があれば、優先して女王に面会できるのが、サミュエル次官たち職員の特権でもあった。
レテイシアが外務部の報告を聞くのは、王城内にある小会議室と決まっていた。
城内にいくつかある会議室のひとつで、特別な部屋ではない。
高級官僚や将校たちが、日常的に使用している場所を、なぜ女王が指定するのかは謎だった。
* *
「マリウス、なぜお前がいる?」
予定時間ぴったりで、小会議室に入ってきたレテイシアは、少し意外そうな表情を浮かべた。
侍従が椅子を引いて彼女が腰を下ろすと、マリウスの答えを待たずに話が続く。
「つまりは厄介ごとだな? サミュエル、案件を説明せよ」
サミュエル次官は、女王の後ろに控えている侍従に目配せした。
侍従はすっと前に出て、彼女の前に置かれていた文箱の蓋を取った。
レテイシアは一番上に重ねてある羊皮紙を手に取り、内容にざっと目を通した。
そして、顔を上げて怪訝そうな表情を見せた。
「帝国貴族の親善訪問か……。
私の記憶にはないが、最近帝国と何か揉めていたか?」
* *
そもそも、このような親善訪問とは名目に過ぎず、その実態は外交交渉である。
王国と帝国は、年に何度も衝突を繰り返していた。
密入国の摘発は日常茶飯事で、正規の許可を受けて入国した民間人が、いきなり拘束されることも珍しくなかった。
時には、帝国の部隊が上陸して村を焼き討ちにし、住民を拉致する事件も起きた。
王国軍も、帝国の開拓村を一時的に占拠して、測量や生産能力調査を公然と行っていた。
両国は表面上、友好を保っていたから、こうした事実を絶対に認めなかった。
だが、実際に事件は起きており、人的・物的被害も発生していた。
こうした問題には、後始末が必要となる。
事件に対する抗議や再発防止の要求、拘束・拉致された自国民の返還など、解決のためは顔を合わせ、腹を割って交渉するしかない。
外交官が動いてしまうと、派遣側・受入側の双方が事件を認めることになる。
そんな場合に利用されるのが、貴族の親善訪問なのだ。
相手が貴族である以上、儀礼上拒絶が難しい。
やってきた貴族が面談を希望すれば、それなりの地位の者が相手をしなければならない。
帝国貴族は外交官になり代わって交渉に当たり、結果として〝手打ち〟が成立することが多かった。
表に出さない裏交渉であるから、互いの対面を気にする必要はない。
互いに一定の利益をもたらす、極めて現実的、かつ冷静な解決方法が選択されるのだ。
非公式な〝遺憾の意〟の表明が乱発され、発生した被害に対しては、一定の補償金が支払われた。
拘留されている者の交換で、人数が合わない場合にも、金銭で補填されるのだ。
交渉を有利に進めるには、それなりの外交圧力が必要なので、使者となる貴族の身分は高いほどよい。
そのため、爵位第二位の侯爵が出向く……それが常識であった。
* *
レテイシアは最初の羊皮紙を脇に寄せ、次の文書に目を落とした。
「訪問者はオルロック……伯爵だと?
侯爵でもないのに私に面会を要求するとは、奴ら正気なのか?
いや待て、オルロック……。はて、どこかで聞いたことのある名だな。何者だ?」
サミュエルは淡々と答えた。
「伯爵といっても、辺境伯です。
コルドラ大山脈北部の黒死山に館を構え、ノルド人を支配しながら、アフマド族と対峙している人物。
――これで思い出されましたか?」
レテイシアは、大きな目をさらに見開いた。
「プリシラの報告書か! ということは、吸血鬼ではないか!?」
その事件は極秘とされ、軍でも限られた人間しか知らなかった。
しかし、女王であるレテイシアには、さすがに報告されていた。
「い、いや、しかし!
公式訪問する貴族だ、まさか盗人よろしく、夜に忍んでくるわけにはいかないぞ?」
これには、マリウスが落ち着いて答えた。
「私はかつて、ナイラという吸血鬼と相対したことがあります」
「赤城市を襲った、あれか?」
マリウスはうなずく。
「初期の段階で出現した吸血鬼は、言い伝えどおり、日の光を浴びることで滅びました。
ですが、それら下っ端を生み出した上位の眷属、すなわち第二世代は、ある程度日光に耐えていました。
ナイラは〝青の宝珠〟の力で吸血鬼化した、オリジナルの個体――真祖です。
恐らく真祖の回復能力は、陽光による肉体の破壊を上回るのでしょう。
オルロック伯も真祖だそうですから、問題としないと思います」
「己が身を焼かれても、構わず会いにくるとはな……。
吸血鬼の目的は何だ?」
「それが分かれば、苦労しません」
サミュエルが早々に白旗を上げた。
「陛下がご覧になっている文書は、正式なものです。
相手は辺境伯ですから、面会を求められれば、儀礼上拒否はできないでしょう。
だったら、直接相手に聞くしかありません」
「お前も大概だな。会うのは私なんだぞ?
伯爵の身分も、外交文書も正規のものなら、帝国は奴が吸血鬼と知った上で派遣してくるのか?」
「いえ、伯爵が吸血鬼だと知っているのは、政権中枢のごく一部でしょう」
「しかし最低限、オルロック伯の目的は、把握しているだろう?」
「これは私の勘ですが、それすら知らないと思いますね。
私たち官僚は、上からの圧力に弱いですから」
サミュエルが軽く肩をすくめたのを見て、女王は深い溜息を吐いた。
「……分かった。
ここであれこれ言っても始まらない。まずは伯爵と対決してみようじゃないか?
私もこの目で吸血鬼を見てみたいしな」
「陛下なら、そう仰るだろうと思っていました」
マリウスはそう言いながらも、少し呆れ気味だった。
「われわれ軍としては、陛下の身の安全が第一です。
相手が吸血鬼、それも真祖だとすれば、それなりの対策を取る必要があります」
「いくら何でも、正式な賓客が襲ってはこないだろう?」
「相手は化け物です。人間の常識を当てはめるべきではありません。
陛下の護衛には、吸血鬼と実際に戦った第四軍のプリシラとタケミカヅチ、それに参謀本部からは、魔導士のエイナをつけます。
向こうもその程度は覚悟しているはずです」
「よかろう。そちらの手配は、マリウスに任せる。
サミュエルは日程の調整を頼む」
やはりレテイシアは決断が早い。
自分が吸血鬼と対峙することになるというのに、少しも臆する気色を見せない。
マリウスはその点に感心したが、どこか心の隅に引っかかるものを感じていた。
立ち上がった彼女は、会議室の扉へと向かいかけたが、それをマリウスが呼び止めた。
「お待ちください」
「何だ?」
女王は怪訝な顔で振り返った。もう話は終わったはずだ。
「今さらと言われそうですが、陛下は例の誘い……拒絶されたのですか?」
マリウスの問いに、若干の悪意を感じ取ったのだろう、女王は引き攣った笑みを浮かべた。
「是も非もない。こちらの回答を、結局向こうは確認しに来なかった。
私にはどうしようもない。
こっそり蒼龍帝にも確かめたが、同じだったそうだ。それとも、お前だけは違ったのか?」
「いえ、……私も同じでした」
マリウスはそう答えるしかなかった。
オルロック伯爵は、エイナやプリシラたちを助ける代償として、王国の指導者たちに対する、ある提案を伝えることを求めた。
その条件は誠実に実行されたが、結局伯爵は、誰に対してもその意志を確認しに来なかった。
対象であった女王と四帝、そしてマリウスは、吸血鬼の意図を計りかね、首を捻るのみであった。
「えーと……、何の話でしょうか?」
サミュエル次官が、ぽかんとした表情で訊ねた。
吸血鬼との取引は当事者だけの秘密で、外務部には知らされなかったのだ。
「何でもない。ただの戯言だ、気にするな」
レテイシアはそう言い残すと、今度こそ小会議室から出ていった。
時刻は正午五分前、いかにも彼女らしい、合理的な行動であった。
部屋に残されたマリウスとサミュエルは、疲れ切った表情で自分の書類をまとめ、席を立った。
ひと足先に退出しようとしたマリウスを、今度は次官が呼び止めた。
「マリウス様、戻ったらエイナ中尉を呼び出すのですよね?
そのついでに、彼女に外務部へ顔を出すよう、伝えてください」
「オルロック伯爵のことだったら、報告書以上のことは出てこないぞ?」
対外的な重大案件に関わった兵士への尋問は、徹底的に行われる。
エイナは黒死山事件から帰還した後、数日間にわたり、拷問のような尋問を受けていた。
搾り取れる情報は、すべて報告書に記載されているはずだった。
「それは軍事的な観点からの話でしょう?
私も報告書は読みましたが、いくつか必要な情報が落ちていました」
マリウスの眉根が、ぴくりと上がった。
これは参謀本部に対する、聞き捨てならない侮辱である。
少なくとも、エイナを担当した尋問官がこの言葉を聞いたら、その場で失禁するほど怒り狂っただろう。
「後学のために教えて欲しい。どのような情報が抜けていたのだね?」
怖い表情のマリウスに対し、外務次官は平然と応じる。
「そうですね……例えば、エイナ中尉たちは、オルロック伯爵の館で、夕食を共にしたと報告しています」
「いかにも」
「夕食のメニューは、何だったのでしょうか?」
「は?」
「あの報告書では、伯爵が食事とともに、赤ワインを飲んだということしか分かりません。
伯爵の料理人が出したのは、どんな料理だったのでしょうか?
吸血鬼が生き血以外に、人間の料理を食すというのなら、一大事です。
その好みを事前に把握しなくては、外務部の怠慢だと謗られましょう?
エイナ中尉には、料理名が分からずとも、その味をしっかり説明してもらわなくてはなりません!」
「な、なるほど……」
マリウスはぐうの音も出なかった。
「了解だ。あとで君の執務室に出頭するよう、彼女に話しておく」
「お願いいたします」
マリウスは、足早に会議室を後にした。
何となく、戦いに負けて撤退する途中で、間抜けな罠に引っかかったような気分だった。