一 外務次官
扉をノックする音に、エイミー秘書官は顔を上げた。
机の上に置いてある懐中時計に目を遣ると、針はぴったり八時半を示している。
それは、軍における日勤者の正式な始業時間でもある。
〝正式な〟と言ったのには理由がある。
参謀本部で勤務している将校を適当に捕まえ、勤務時間を訪ねたとする。
すると、彼は迷うことなく「八時から六時まで」と答えるはずだ。
それは常識であり、誰ひとりとして疑いなど持っていない。
だが、軍の服務規程に目を通せば分かる。
そこにには〝午前八時半から午後五時半まで〟と書かれているのだ。
それなのに、実際に働いている人間は、それを知らない。
要するに、それくらい軍隊という組織は人使いが荒く、規則など有名無実なのだ。
現に、エイミーは毎日、朝の六時半には登城していた。
七時過ぎには、彼女のボスであるマリウスが執務室に現れるからだ。
その前に、彼女は執務室と秘書官室を掃除し、お茶の支度をしておかねばならない。
上司に淹れたての香り高い紅茶と、朝に焼いたばかりのまだ温かいクッキー(いずれもファン・パッセル家の提供)を出すと、八時までは自分の時間だ。
マリウスのスケジュールは、前日の段階で分刻みに決まっている。
しかし、エイミーが出勤してきた早朝の段階で、いくつかの変更要請があるので、その再調整が必要となる。
卓上の状差し(円形の金属板に、長い針が立っている事務用品)には、毎朝必ず数枚のメモが刺さっている。
仕事を終えたエイミーが退室するのは、大体午後の七時ころだから、それ以降の夜間、あるいは早朝に、誰かが刺していったに違いない。
内容はほぼ決まっていて、予定外の面会要請が八割、予約時間の変更が二割である。
メモを見れば、内容と筆跡で誰が書いたかはすぐに分かる。
各部門の部長級(大佐か将官)に配属されている、女性秘書官のきれいな字だ。
つまり、彼女たちは夜遅くか、エイミーを上回る早朝に仕事をしているということになる。
女性にそのような過酷な勤務を強いるとは、何とすばらしい職場環境であろうか。
* *
エイミーはノックに対し、立ち上がって「どうぞ」と声をかけた。
その声音には、隠しようのない警戒感が滲んでいる。
この時間に押しかけてくるということは、絶対に厄介ごとに違いないのだ。
ところが、扉を開けて入ってきたのは、予想外の人物であった。
「あら、サミュエル次官! 今朝はずいぶんとお早いのですね?
そうぞ、おかけください。いま、お茶をお淹れしますわ」
本日最初の訪問者とは、外務部のサミュエル次官であった。
* *
外務部が折衝する国は多岐にわたるが、主要な相手は二か国だと言ってよい。
ケルトニア連合王国とイゾルデル帝国である。
ケルトニアはいわずとしれた大国で、ここ数十年でリスト王国との関係を急速に深化させていた。
貿易の拡大もそうだが、軍事・教育面での連携が目覚ましい。
帝国という共通の敵を抱えていることもあって、その関係は、事実上の軍事同盟と呼べるものだった。
一方、仮想敵国である帝国も、無視できない相手である。
王国と帝国は、長年の対立を続けながらも、国交だけは維持されていた。
それは、地理的な要因が大きく影響している。
両国はボルゾ川という、長大な国境線で向かい合う隣国である。
帝国はこの世界で最も発展した、先進国のひとつであった。
王国は、医薬品や工業機械といった最先端の製品や技術から、膨大な量の古着といった生活物資まで、幅広い品目を大量に輸入していた。
もちろん先進国という点では、ケルトニアも帝国に劣らないから、できれば敵には頼りたくない。
しかし、遠い海外のケルトニアと、地続きで隣接する帝国からの輸入では、輸送コストに圧倒的な差があった。
その一方で、農業国である王国にとって、帝国は重要な顧客でもある。
帝国が抱える、コルドラ大山脈東方の広大な領土は、遅々として開発が進まなかった。
半強制的に移住させられた開拓民は、いまだに自給すらできず、王国から供給される農産物によって、どうにか命をつないでいたのだ。
王国と対峙する、一万人以上の帝国東部軍の食糧も、王国からの輸入頼りというのは、皮肉な現実であった。
ともあれ、仮想敵国である帝国はもちろん、外見上の友好国であるケルトニアも、いつ王国に牙を剥くか分からない相手だ。
両国との外交情報は軍事的にも重要で、参謀本部としても無関心ではいられない。
したがって、参謀本部と外務部は緊密な連絡を取り合っていた。
マリウスとサミュエル次官による、毎日の定例会議はその一環である。
特別なことがない限り、この会議はマリウスの朝一番の予定に組み入れられている。
それは午前九時からの三十分間と決まっていた。
サミュエル次官は毎朝、九時五分前にエイミーの秘書官室にやってくる。
彼女にとって、それは朝に太陽が昇るのと同じくらい、自然なことであった。
それなのに今日に限って、次官は予定の三十分も前に訪ねてきた。
エイミーが驚いたのは、無理もないことだろう。
* *
「どうされたのですか?」
応接のソファに座ったサミュエル次官に対し、エイミーは単刀直入に訊ねた。
テーブルの上には、彼が抱えてきた布に包まれた箱らしきものが置かれている。
それが何かは気になるが、次官は訊かれる前に、自分の方から説明する人間だ。
何も言わないということは、エイミーも訊くべきではない。
「急で悪いのだが、マリウス様の予定を空けてもらいたいのです」
『ほら来た!』
エイミーは内心で顔をしかめて舌を突き出したが、実際の表情はにこやかなままだ。
「時間は?」
「十一時からです。
レテイシア陛下と面会の約束を取りつけているのですが、そこに参謀副総長もご同席願いたいのです。
話が延びて昼食をご一緒するかもしれませんが、陛下には午後から外せない行事がありますから、時間的には一時まで、と確約できます」
要するに彼は、かなり厄介な外交案件を女王に報告しなければならず、その援軍を求めているということだ。
予定より早く訪れたのは、マリウスの予定を変更してもらうためである。
エイミーは次官の話を聞きながら、手もとではメモを書き綴っていた。
「分かりました。少々そのままでお待ちください」
彼女はソファから立ち上がり、出入り口へ向かった。
廊下に出たエイミーは、踵の音を響かせながら、足早に先を急ぐ。
執務室の前を過ぎると、すぐ隣りに目指す部屋がある。
彼女はこつこつとノックしただけで、返事を待たずに扉を開けた。
中では若い将校が二人、机に向かって書類の作成をしていた。
二人ともすぐに顔を上げたが、相手がエイミーだと分かると、ぱっと表情が明るくなる。
「悪いけど、急ぎの仕事よ。
情報部のアマンダ秘書官に、これを渡してちょうだい」
「はっ、了解であります! 中尉殿」
立ち上がった二人の若者は、元気よく敬礼して。差し出されたメモを受け取った。
そして、争うように互いの肩をぶつけ、部屋を飛び出していく。
彼らは参謀本部の下っ端、配属間もない新人の少尉だった。
普段はこの小さな部屋で、日がな一日、書類の処理に追われていた。
それらは先輩将校が押しつけてきた、面倒なくせに退屈という、軍隊用語で〝糞のような〟仕事である。
だが、こうしてエイミーが訪ねてきて、〝お使い〟を言いつけられると、それが最優先となる。
つまり、彼らはエイミー秘書官専属のメッセンジャーなのだ(だからこそ、部屋が近い)。
しかも、エイミーのお使い先は、十中八九、同じ秘書仲間である。
彼らだって若い男性だから、魅力的な美女と会話を交わす方が、書類整理より楽しいに決まっている。
エイミーからは、結構な頻度で急ぎの用事が言いつけられるので、若者たちは城内を走り回ることになる。
今回の行き先である情報部も、参謀本部とは反対側の北塔だから、階段の昇降を含めて体力勝負となる。若くなければ務まらないのだ。
彼らはこの仕事によって、さまざまな部署に顔を売り、人脈の基礎をつくる。
各幹部の秘書官は裏の実力者で情報通だから、参謀本部で生きていくためには、非常に貴重な経験であった。
情報部長の秘書であるアマンダは、エイミーとは気心の知れた友人である。
彼女は若い少尉からメモを受け取ると、エイミーに引けを取らない有能さで、たちどころに部長の予定を組み替えてくれた。
二人が息を切らして、その結果を持ち帰ったのは、ぎりぎり九時五分前のことであった。
* *
執務室の応接ソファで、マリウスと向かい合ったサミュエル次官は、まず本題となる予定の件から説明した。
このあと十一時に設定されている、レテイシア女王への報告に、付き合ってほしいという頼みだ。
もちろん、マリウスの予定は変更済みだとも付け加えた。
マリウスは顔をしかめ、握った拳でこめかみをぐりぐりと抉った。
「話は分かった。私の承諾前に、勝手に予定を変えてくれたことも、よしとしよう。
エイミーが判断を誤ることはないからね。
そこで問題だ。その〝厄介な外交案件〟とは、何なのだ?」
サミュエルはうなずいて、傍らに寄せていた布包みを引き寄せる。
覆っている布を開くと、中から美しい文箱が現れた。
真っ黒な漆器に螺鈿を散らした豪勢な作りで、蓋の中央には、金泥で特徴のある紋章が描かれている。
それはイゾルデル帝国皇帝のもので、同国からの正式な外交文書が収められていると分かる。
「これは帝国のさる伯爵が、わが国を親善訪問するという通知です。
それだけではなく、その伯爵はレイテイシア陛下を表敬し、親しく会談したいらしく、その調整を依頼してきました。
一貴族の訪問だけなら、外務部だけで処理できるのですが、陛下との面会となるとそうもいきません。
しかも、向こうの事務方が出してきた、わが国での訪問先リストがこれなのです」
次官は懐から封筒を取り出し、中身をマリウスの前に広げて見せた。
そこには事務的な筆致で、八人の名前が綴られていた。
だが、リストに目を通したマリウスは、眉間に皺を寄せた。
「全員侯爵、それも大物ぞろいだな。
というより、全員が例の政変で、転封された北岸諸侯じゃないか?」
マリウスが口にした政変とは、一般には〝王の反乱〟と呼ばれている事件だ。
リスト王国では、伝統的に王は大した実権を持たない、いわばお飾りであった。
国の政治は、大商人と結託した有力貴族の意のままであったが、これを覆したのが、現在も君臨するレテイシア女王である。
当時、国境であるボルゾ川沿岸を領地とする有力侯爵たち(北岸諸侯)に、帝国から調略の手が伸び、秘密裏に応じようとする者もいた。
これを察知したレテイシアは、白城市の第一軍を味方に引き入れ、自ら王都を占拠して戒厳令を敷いたのである。
議会出席のため、王都に集まっていた北岸諸侯は、身柄を拘束された結果、女王との取引に応じるしかなかった。
彼らは祖先から受け継いだボルゾ川沿いの地を追われ、内陸の代替地へ減封されたのである。
大きく勢力を減じた諸侯は委縮して、レテイシアは政治の実権を取り戻した。
かつて造反を企てた侯爵たちを、帝国の貴族が訪問して回るなど、露骨すぎる動きである。
それだけでなく、レテイシア女王とも堂々と面会しようというのだ。どう考えても正気と思えない。
「相手はただの伯爵なのだろう?」
「いえ、それが、伯爵といっても〝辺境伯〟なのです」
* *
爵位は国によって違いもあるが、ざっくり公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵に分かれ、順位付けされている。
公爵は、君主の姻戚で大領主である。
侯爵は、元は小国の王であった祖先が服従した例が多く、やはり大領主であることが多い。
伯爵は、それより小勢力の豪族出身者が多く、中領主である。
子爵や男爵は、数村規模の小領主で、中には領地を持たない者すらいる。
辺境伯というのは、伯爵の中でも特に国境地帯を領地とし、敵国への盾となっている者をいう。
身分上では伯爵の最上位で、準侯爵の扱いを受けている。
ちなみに王国にも辺境伯は存在するが、本来の意味と異なり、単純に辺境地域に領地を持っているに過ぎない。
ただし、一般の伯爵より、格上である点では変わりない。
* *
「知ってのとおり、私は帝国で生まれ育っている。
辺境伯ならば、名前くらいは覚えているはずだ。どこの領主だね?」
マリウスの問いに、サミュエル次官は文箱の中の公文書を開き、貴族の名前が記されている箇所を指さした。
「コルドラ大山脈北部、アフマド族との国境を古くから守備する辺境伯です」
次官は下から舐めるように、マリウスの顔を覗き込んだ。
「名は〝オルロック伯爵〟。もちろん、マリウス様はご存知ですね?」
マリウスは両手で顔を覆い、しばらく何も言わなかった。
そして長い沈黙のあと、ようやく掠れた声を絞り出した。
「昼日中、吸血鬼が他国を堂々と訪問するだと?
しかも、レテイシア様に会わせろ?
糞が! これは何の冗談だ!?」