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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第十章 復讐するは
333/358

一 外務次官

 扉をノックする音に、エイミー秘書官は顔を上げた。


 机の上に置いてある懐中時計に目を遣ると、針はぴったり八時半を示している。

 それは、軍における日勤者の正式な始業時間でもある。


 〝正式な〟と言ったのには理由がある。

 参謀本部で勤務している将校を適当に捕まえ、勤務時間を訪ねたとする。

 すると、彼は迷うことなく「八時から六時まで」と答えるはずだ。

 それは常識であり、誰ひとりとして疑いなど持っていない。


 だが、軍の服務規程に目を通せば分かる。

 そこにには〝午前八時半から午後五時半まで〟と書かれているのだ。

 それなのに、実際に働いている人間は、それを知らない。


 要するに、それくらい軍隊という組織は人使いが荒く、規則など有名無実なのだ。

 現に、エイミーは毎日、朝の六時半には登城していた。

 七時過ぎには、彼女のボスであるマリウスが執務室に現れるからだ。

 その前に、彼女は執務室と秘書官室を掃除し、お茶の支度をしておかねばならない。


 上司に淹れたての香り高い紅茶と、朝に焼いたばかりのまだ温かいクッキー(いずれもファン・パッセル家の提供)を出すと、八時までは自分の時間だ。


 マリウスのスケジュールは、前日の段階で分刻みに決まっている。

 しかし、エイミーが出勤してきた早朝の段階で、いくつかの変更要請があるので、その再調整が必要となる。


 卓上の状差し(円形の金属板に、長い針が立っている事務用品)には、毎朝必ず数枚のメモが刺さっている。

 仕事を終えたエイミーが退室するのは、大体午後の七時ころだから、それ以降の夜間、あるいは早朝に、誰かが刺していったに違いない。

 内容はほぼ決まっていて、予定外の面会要請が八割、予約時間の変更が二割である。


 メモを見れば、内容と筆跡で誰が書いたかはすぐに分かる。

 各部門の部長級(大佐か将官)に配属されている、女性秘書官のきれいな字だ。

 つまり、彼女たちは夜遅くか、エイミーを上回る早朝に仕事をしているということになる。


 女性にそのような過酷な勤務を強いるとは、何とすばらしい職場環境であろうか。


      *       *


 エイミーはノックに対し、立ち上がって「どうぞ」と声をかけた。

 その声音には、隠しようのない警戒感が滲んでいる。

 この時間に押しかけてくるということは、絶対に厄介ごとに違いないのだ。


 ところが、扉を開けて入ってきたのは、予想外の人物であった。


「あら、サミュエル次官! 今朝はずいぶんとお早いのですね?

 そうぞ、おかけください。いま、お茶をお淹れしますわ」


 本日最初の訪問者とは、外務部のサミュエル次官であった。


      *       *


 外務部が折衝する国は多岐にわたるが、主要な相手は二か国だと言ってよい。

 ケルトニア連合王国とイゾルデル帝国である。


 ケルトニアはいわずとしれた大国で、ここ数十年でリスト王国との関係を急速に深化させていた。

 貿易の拡大もそうだが、軍事・教育面での連携が目覚ましい。

 帝国という共通の敵を抱えていることもあって、その関係は、事実上の軍事同盟と呼べるものだった。


 一方、仮想敵国である帝国も、無視できない相手である。

 王国と帝国は、長年の対立を続けながらも、国交だけは維持されていた。


 それは、地理的な要因が大きく影響している。

 両国はボルゾ川という、長大な国境線で向かい合う隣国である。


 帝国はこの世界で最も発展した、先進国のひとつであった。

 王国は、医薬品や工業機械といった最先端の製品や技術から、膨大な量の古着といった生活物資まで、幅広い品目を大量に輸入していた。


 もちろん先進国という点では、ケルトニアも帝国に劣らないから、できれば敵には頼りたくない。

 しかし、遠い海外のケルトニアと、地続きで隣接する帝国からの輸入では、輸送コストに圧倒的な差があった。


 その一方で、農業国である王国にとって、帝国は重要な顧客でもある。

 帝国が抱える、コルドラ大山脈東方の広大な領土は、遅々として開発が進まなかった。

 半強制的に移住させられた開拓民は、いまだに自給すらできず、王国から供給される農産物によって、どうにか命をつないでいたのだ。


 王国と対峙する、一万人以上の帝国東部軍の食糧も、王国からの輸入頼りというのは、皮肉な現実であった。


 ともあれ、仮想敵国である帝国はもちろん、外見上の友好国であるケルトニアも、いつ王国に牙を剥くか分からない相手だ。

 両国との外交情報は軍事的にも重要で、参謀本部としても無関心ではいられない。


 したがって、参謀本部と外務部は緊密な連絡を取り合っていた。

 マリウスとサミュエル次官による、毎日の定例会議はその一環である。


 特別なことがない限り、この会議はマリウスの朝一番の予定に組み入れられている。

 それは午前九時からの三十分間と決まっていた。


 サミュエル次官は毎朝、九時五分前にエイミーの秘書官室にやってくる。

 彼女にとって、それは朝に太陽が昇るのと同じくらい、自然なことであった。


 それなのに今日に限って、次官は予定の三十分も前に訪ねてきた。

 エイミーが驚いたのは、無理もないことだろう。


      *       *


「どうされたのですか?」

 応接のソファに座ったサミュエル次官に対し、エイミーは単刀直入に訊ねた。


 テーブルの上には、彼が抱えてきた布に包まれた箱らしきものが置かれている。

 それが何かは気になるが、次官は訊かれる前に、自分の方から説明する人間だ。

 何も言わないということは、エイミーも訊くべきではない。


「急で悪いのだが、マリウス様の予定を空けてもらいたいのです」


『ほら来た!』

 エイミーは内心で顔をしかめて舌を突き出したが、実際の表情はにこやかなままだ。


「時間は?」

「十一時からです。

 レテイシア陛下と面会の約束を取りつけているのですが、そこに参謀副総長もご同席願いたいのです。

 話が延びて昼食をご一緒するかもしれませんが、陛下には午後から外せない行事がありますから、時間的には一時まで、と確約できます」


 要するに彼は、かなり厄介な外交案件を女王に報告しなければならず、その援軍を求めているということだ。

 予定より早く訪れたのは、マリウスの予定を変更してもらうためである。


 エイミーは次官の話を聞きながら、手もとではメモを書き綴っていた。

「分かりました。少々そのままでお待ちください」

 彼女はソファから立ち上がり、出入り口へ向かった。


 廊下に出たエイミーは、踵の音を響かせながら、足早に先を急ぐ。

 執務室の前を過ぎると、すぐ隣りに目指す部屋がある。

 彼女はこつこつとノックしただけで、返事を待たずに扉を開けた。


 中では若い将校が二人、机に向かって書類の作成をしていた。

 二人ともすぐに顔を上げたが、相手がエイミーだと分かると、ぱっと表情が明るくなる。


「悪いけど、急ぎの仕事よ。

 情報部のアマンダ秘書官に、これを渡してちょうだい」

「はっ、了解であります! 中尉殿」


 立ち上がった二人の若者は、元気よく敬礼して。差し出されたメモを受け取った。

 そして、争うように互いの肩をぶつけ、部屋を飛び出していく。


 彼らは参謀本部の下っ端、配属間もない新人の少尉だった。

 普段はこの小さな部屋で、日がな一日、書類の処理に追われていた。

 それらは先輩将校が押しつけてきた、面倒なくせに退屈という、軍隊用語で〝糞のような〟仕事である。


 だが、こうしてエイミーが訪ねてきて、〝お使い〟を言いつけられると、それが最優先となる。

 つまり、彼らはエイミー秘書官専属のメッセンジャーなのだ(だからこそ、部屋が近い)。


 しかも、エイミーのお使い先は、十中八九、同じ秘書仲間である。

 彼らだって若い男性だから、魅力的な美女と会話を交わす方が、書類整理より楽しいに決まっている。


 エイミーからは、結構な頻度で急ぎの用事が言いつけられるので、若者たちは城内を走り回ることになる。

 今回の行き先である情報部も、参謀本部とは反対側の北塔だから、階段の昇降を含めて体力勝負となる。若くなければ務まらないのだ。


 彼らはこの仕事によって、さまざまな部署に顔を売り、人脈の基礎をつくる。

 各幹部の秘書官は裏の実力者で情報通だから、参謀本部で生きていくためには、非常に貴重な経験であった。


 情報部長の秘書であるアマンダは、エイミーとは気心の知れた友人である。

 彼女は若い少尉からメモを受け取ると、エイミーに引けを取らない有能さで、たちどころに部長の予定を組み替えてくれた。

 二人が息を切らして、その結果を持ち帰ったのは、ぎりぎり九時五分前のことであった。


      *       *


 執務室の応接ソファで、マリウスと向かい合ったサミュエル次官は、まず本題となる予定の件から説明した。

 このあと十一時に設定されている、レテイシア女王への報告に、付き合ってほしいという頼みだ。

 もちろん、マリウスの予定は変更済みだとも付け加えた。


 マリウスは顔をしかめ、握った拳でこめかみをぐりぐりとえぐった。

「話は分かった。私の承諾前に、勝手に予定を変えてくれたことも、よしとしよう。

 エイミーが判断を誤ることはないからね。

 そこで問題だ。その〝厄介な外交案件〟とは、何なのだ?」


 サミュエルはうなずいて、傍らに寄せていた布包みを引き寄せる。

 覆っている布を開くと、中から美しい文箱が現れた。

 真っ黒な漆器にでんを散らした豪勢な作りで、蓋の中央には、金泥で特徴のある紋章が描かれている。

 それはイゾルデル帝国皇帝のもので、同国からの正式な外交文書が収められていると分かる。


「これは帝国のさる伯爵が、わが国を親善訪問するという通知です。

 それだけではなく、その伯爵はレイテイシア陛下を表敬し、親しく会談したいらしく、その調整を依頼してきました。

 一貴族の訪問だけなら、外務部われわれだけで処理できるのですが、陛下との面会となるとそうもいきません。

 しかも、向こうの事務方が出してきた、わが国での訪問先リストがこれなのです」


 次官は懐から封筒を取り出し、中身をマリウスの前に広げて見せた。

 そこには事務的な筆致で、八人の名前が綴られていた。

 だが、リストに目を通したマリウスは、眉間に皺を寄せた。


「全員侯爵、それも大物ぞろいだな。

 というより、全員が例の政変で、転封てんぽうされた北岸諸侯じゃないか?」


 マリウスが口にした政変とは、一般には〝王の反乱クーデター〟と呼ばれている事件だ。

 リスト王国では、伝統的に王は大した実権を持たない、いわばお飾りであった。

 国の政治は、大商人と結託した有力貴族の意のままであったが、これを覆したのが、現在も君臨するレテイシア女王である。


 当時、国境であるボルゾ川沿岸を領地とする有力侯爵たち(北岸諸侯)に、帝国から調略の手が伸び、秘密裏に応じようとする者もいた。

 これを察知したレテイシアは、白城市の第一軍を味方に引き入れ、自ら王都を占拠して戒厳令を敷いたのである。


 議会出席のため、王都に集まっていた北岸諸侯は、身柄を拘束された結果、女王との取引に応じるしかなかった。

 彼らは祖先から受け継いだボルゾ川沿いの地を追われ、内陸の代替地へ減封されたのである。


 大きく勢力を減じた諸侯は委縮して、レテイシアは政治の実権を取り戻した。

 かつて造反を企てた侯爵たちを、帝国の貴族が訪問して回るなど、露骨すぎる動きである。


 それだけでなく、レテイシア女王とも堂々と面会しようというのだ。どう考えても正気と思えない。


「相手はただの伯爵なのだろう?」

「いえ、それが、伯爵といっても〝辺境伯〟なのです」


      *       *


 爵位は国によって違いもあるが、ざっくり公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵に分かれ、順位付けされている。


 公爵は、君主の姻戚で大領主である。

 侯爵は、元は小国の王であった祖先が服従した例が多く、やはり大領主であることが多い。

 伯爵は、それより小勢力の豪族出身者が多く、中領主である。

 子爵や男爵は、数村規模の小領主で、中には領地を持たない者すらいる。


 辺境伯というのは、伯爵の中でも特に国境地帯を領地とし、敵国への盾となっている者をいう。

 身分上では伯爵の最上位で、準侯爵の扱いを受けている。


 ちなみに王国にも辺境伯は存在するが、本来の意味と異なり、単純に辺境地域に領地を持っているに過ぎない。

 ただし、一般の伯爵より、格上である点では変わりない。


      *       *


「知ってのとおり、私は帝国で生まれ育っている。

 辺境伯ならば、名前くらいは覚えているはずだ。どこの領主だね?」


 マリウスの問いに、サミュエル次官は文箱の中の公文書を開き、貴族の名前が記されている箇所を指さした。

「コルドラ大山脈北部、アフマド族との国境を古くから守備する辺境伯です」


 次官は下から舐めるように、マリウスの顔を覗き込んだ。

「名は〝オルロック伯爵〟。もちろん、マリウス様はご存知ですね?」


 マリウスは両手で顔を覆い、しばらく何も言わなかった。

 そして長い沈黙のあと、ようやくかすれた声を絞り出した。


「昼日中、吸血鬼が他国を堂々と訪問するだと?

 しかも、レテイシア様に会わせろ?

 糞が! これは何の冗談だ!?」

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― 新着の感想 ―
呪術師に吸血鬼にと、いよいよ百鬼夜行の様相を呈してきたな
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