番外編 友の行方
『うわぁ~、何かすごい久しぶりな気がするね!』
シルヴィアの頭の中に、カー君の声が響いた。
眼下には、壁に囲まれた円形の城塞都市が広がり、そこに暮らす住民の家の屋根が、モザイク模様のように見えている。
都市の中心には、二つの尖塔を擁する王城が聳えている。
壮麗な城も、上空のシルヴィアには、玩具にしか見えない。
だが、カー君の超視力は、城の中庭と警備の兵士たちの姿を、はっきりと捉えていた。
王都の上空を旋回しながら、ゆっくりと降下を続けるカー君に、彼らはすでに気づいていた。
現時点の王国で、飛行能力を持つ幻獣は、カー君のほかにはロック鳥しかいない。
経験を積んだ衛兵が、両者を見誤ることはない。そもそも大きさが全然違うのだ。
豆粒ほどに見える衛兵たちは、忙しく駆け回っていた。
あの感じだと、シルヴィアたちの到着は、参謀本部に報告されているだろう。
カー君がすぐには降りず、城の上空を旋回しているのは、衛兵たちに自分の到着を知らせ、準備させるためである。
『もういいかな? シルヴィア、降りるよ!』
カー君が声をかけ、翼を閉じて、石ころのようにすとんと落下した。
地上に激突する寸前で羽ばたき、ふわりと着地する。
慣れているとはいえ、曲芸のような動きで、これに耐えられるシルヴィアも、賞賛されるべきだろう。
周囲で待っていた衛兵たちが一斉に駆け寄り、カー君の身体を締めつけている装着具を外しにかかる。
シルヴィアが座る低い椅子、手綱、荷物を収納する振り分け鞄など、装着具にはさまざまな物が固定されている。
シルヴィアの飛行服に、金具で繋がるベルトもそのひとつだ。
彼女は手早くベルトを外すと、カー君の身体を滑り降りた。
下では二人の兵が待っていて、落ちてくる彼女をしっかり受け止めてくれる。
シルヴィアが小さく礼を言うと、衛兵たちは笑顔を浮かべ、飛行服を脱がせにかかった。
彼女の飛行服はドワーフ製で、とびきり頑丈な上に、防風・防寒性に優れている。
カー君は飛行能力が向上して、コルドラ大山脈も越えられるようになった。
数千メートルの高空では、季節に関係なく厳しい寒風にさらされるから、この飛行服がなければ生身の人間には耐えられない。
だが、その代わり、夏などは地上に降りると地獄となる。
汗が一気に噴き出し、風を通さない飛行服のせいで蒸発しないから、ずぶ濡れとなるのだ。
だから、こうして兵士たちが手伝ってくれるのは、とてもありがたい。
飛行服は上着だけでなく、チャップスと呼ばれるズボンの前面を覆うカバーもセットになっている。
これらを脱がせて抱えると十キロを超し、とんでもなく重いのだ。
彼女の飛行服は用具倉庫に運ばれ、装備課の職員に任される。
汚れを拭きとってから陰干しにされ、丁寧に馬油を塗り込んで柔軟性を維持するのだ。
これをしないと、とんでもなく臭くなるから、手入れは絶対に怠れない。
重い装備を外してもらったカー君とシルヴィアは、さっぱりとした表情で、参謀本部のある南塔へ向かった。
リスト王国には、王都リンデルシアのほか、四古都にそれぞれ城を戴いている。
五つの城に共通して、城内の廊下の幅が広く、天井も高いという特徴がある。
それは、古くから王国が、異世界の幻獣を利用してきた歴史と関係がある。
戦力の要となる国家召喚士の幻獣は、人間より遥かに大きいことが多い。
幻獣は召喚士の側から離れるのを嫌がるので、城の内部も彼らの体格に合わせているのだ。
尻尾までいれると四メートルにもなるカー君も、シルヴィアに従って、広い廊下をのそのそと歩いていく。
彼女たちは、すれ違う将校と軽い挨拶を交わしながら、通い慣れた順路をたどった。
到着したのは、主席参謀副総長マリウス・ジーンの執務室である。
立派な扉が廊下に面しているが、これを利用できるのは、外国の使節などのいわゆる〝お客さん〟に限られる。
シルヴィアのような〝身内〟は、隣の秘書官室から入るのが習わしなのだ。
「あら、シルヴィア!
お帰りなさい、今回は長かったわね。ちょっと焼けたんじゃない?」
扉をノックして入っていくと、エイミー秘書官が笑顔で迎えてくれる。
エイミーはもう十年以上、マリウスの秘書を務めているベテランの女性だ。
もう三十代の半ばを過ぎているはずだが、二十代でも通りそうなほど若々しく、可愛らしい容姿をしている。
「マリウス様は?」
「いらっしゃるわよ。
あなたが戻ったことをお伝えしたら、予定をキャンセルして時間を空けてくださったの」
エイミーはそう言うと、シルヴィアの到着を伝えようと、隣の執務室に通じる扉の方へ足を向けた。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
慌ててシルヴィアが呼び止めると、エイミーは振り返って小首を傾げた。
「その、ご報告の前に、ちょっとした準備が必要なんです。
それで、この部屋をお借りしたいのですが……」
「別に構わないけど、準備って?」
エイミーはますます不思議そうな顔をする。
「着替えです」
「あなたの軍服、別に汚れていないわよ?」
「それが、私じゃなくて……カー君の方なんです。
ほら、説明が面倒なんだから、早くしなさい!」
シルヴィアは八つ当たり気味に、カー君の頭をぽかりと殴った。
『もう、シルヴィアは乱暴なんだから……。
えっと、僕、ちょっと変身するんで、エイミーさん、驚かないでね』
そう断ると同時に、いきなりカー君の輪郭が崩れた。
全身に気泡が浮かび、みるみるうちに収縮していく。
エイミーはとっさに口を両手で覆い、出かかった声を押し殺した。
うっかり悲鳴を上げたりすれば、隣室の上司に聞こえてまずいことになる。
この辺の自制心は、さすがにベテランの秘書である。
不定形の塊りは、蠕動しながら上に伸び、人の形をとっていった。
のっぺりした顔には目鼻が浮かび上がり、黒い髪の毛が生えてくる。
胸には風船のように乳房が膨らみ、先端にはピンク色の小さな乳首が尖っている。
ウエストはきゅっと引き締まり、六つに割れた腹筋が見事である。
わずか二分ほどで、四メートルの獣は、全裸の若い女性に変身していた。
カー君の人間形態、キャミイの姿である。
口を覆ったまま、驚愕で目を丸くしているエイミー。
それとは対照的に、シルヴィアは無感動で背負っていた背嚢を下ろした。
中から取り出したのは、新しい下着とシャツ、そして第三軍の軍服だった。
下着を受け取ったキャミイは、まったく恥ずかしがる様子を見せず、ズロースに足を通して引き上げた。
シルヴィアは彼女の後ろに回り、胸を覆うコルセットを当てて、背中で紐を締め上げた。
普通の女性なら、この上にシュミーズなどの薄い肌着を重ねるのだが、キャミイはそのまま白いシャツに袖を通した。
これに軍服の上下を重ね、靴下と軍靴を履けば、着替えは完了だった。
「あの、この女性……カー君なの?」
固まっていたエイミーの口から、ようやく言葉が出た。なかなか気の利いた質問である。
キャミイは少しおどけた仕草で、エイミーに敬礼をした。
「エイミーさん、目の前で見てたでしょう?
ああ、それとこの姿の時は、キャミイって呼んでください。
第三軍所属、キャミイ・グレンダモア准尉であります!
……一応、シルヴィアの〝いとこ〟っていう設定なんですよ」
「凄いわね。人間に変身する幻獣なんて、初めて見たわ。
それに、ちゃんと話もできるのね」
「念話よりは、違和感がないでしょ?
僕の身体も大きくなってきたから、人間の中で暮らすには、この姿の方が便利だと思うんだ。
服を着なきゃいけないのが、ちょっと面倒なんだけどね」
「あ、あの……これって、マリウス様は?」
この質問には、シルヴィアが答えた。
「リディア様から報告がいっているはずだから、とっくにご存知のはずよ。
だけど、さすがのマリウス様も、実際に見なければ信じられないでしょうね。
だから、さっきの変身を目の前でやりたかったんだけど……。
エイミーさんも見たでしょ? 男性の前で〝すっぽんぽん〟になれないもの。
キャミイは平気らしいけど、こっちが恥ずかしいわよ」
「そりゃそうでしょうけど……、でもカー君って、女の子だったの?
私、てっきり男性っていうか、オスだと思っていたわよ」
「それがね、カーバンクルには性別がないんだって。
カー君はずっとあたしと一緒で、動物だと思って気にしていなかったから、裸も見せていたの。
人間を真似て変身するには、服を脱いだ状態を知らないといけないでしょ?
カー君が知ってる全裸って、あたしだけだから、結果的に女性になっただけなの」
「ああ! それで、シルヴィアと体形がそっくりなのね!
でも、顔はちょっと違うのね?
「最初は同じだったの。でも、それはさすがに気持ち悪いから、変えさせたのよ。
カー君がよく知っている女の人の顔を、適当に混ぜただけなの」
「なるほどね~」
エイミーは感心しながら、まじまじとキャミイの顔を覗き込んだ。
「言われてみれば……シルヴィアが基本だけど、エイナの要素も強いわ。
同じ下宿で一緒にいるから、当然参考にされるわけね。それで髪も黒いのかぁ、納得だわ。
でも、口元は二人と似ていない……っていうか、何よこのほくろ!?」
エイミーの声の調子が一段上がった。
キャミイの唇の下には、小さなほくろがあり、それが彼女の顔に艶っぽさを与えていた。
だが、エイミーの唇の下にも、まったく同じ位置にほくろがあったのだ。
というより、唇の形自体が、エイミーそっくりだったのだ。
シルヴィアは目頭を押さえ、溜息をついた。
「ええと、説明させてください。
あたしが内勤の時、カー君ってば、この秘書官室に入り浸っていましたよね?」
エイミーはうなずいた。
「ええ。ここに来れば、必ずお菓子がもらえるから……」
「それで、エイミーさんの顔も、カー君の脳裏に刻まれちゃったんです。
カーバンクルは人間に興味がないから、覚えている顔のレパートリーが少ないんですよ」
「食べることの連想で、私の唇を真似たってこと?」
「はい。無許可ですみません。
でももう、この顔になってから、三か月近く経っています。
第三軍の方々にも、だいぶ知れ渡っちゃいましたから、今さら変えるわけにも……」
「もう、しょうがないわね」
エイミーは溜息をついた。どうやら唇の件は、黙認してくれるらしい。
「そういえば、その軍服もそうだけど、さっき第三軍所属って名乗ってたわよね?
どういうことなの?」
「リディア様のご判断で、臨時に第三軍の軍籍をいただいたんです。
でも、この格好で参謀本部をうろついたら、絶対変ですよね?
それでマリウス様にお願いして、参謀本部に所属を変えていただくよう、お願いするつもりなんです」
王国の軍服は、基本的に共通のデザインとなっている。
ただし、第一から第四までの地方軍では、胸の階級章の上に色違いのプレートが付いていて、ひと目で所属が分かるようになっている。
第一軍が白、第二軍が黒、第三軍が赤、第四軍が青で、それぞれが本拠とする都市名にちなんだ色だ。
キャミイが着用している軍服の胸には、真紅のプレートが輝いている。
これに対し、参謀本部の将校の軍服にはプレートがなかった。
エイミーは肩をすくめた。
「了解です。どうせ許可は出るでしょうから、先回りして装備課に発注をかけておくわ。
サイズはシルヴィアと同じでいいのよね?」
「はい、それで大丈夫です」
エイミーの目がすっと細くなった。
「キャミイはそれでいいとして。
……あなた、またお尻が大きくなったんじゃない?」
「な、なななな、何のことですか?」
「あなたのズボン、入隊してから二度もサイズを変えてるわよね?
それなのに、どうしてそんなにピチピチなのかしら?」
「きっ、気のせいです!
長時間の飛行で、きっとお尻がむくんでいるんですよ! あは、あははははは……」
* *
シルヴィアが下宿のファン・パッセル家に帰れたのは、もう夜の九時に近いころだった。
同家の屋敷は王城に近い高級住宅街にあるから、城を出て十分もかからない。
参謀本部の日勤は午後六時までだから、彼女がこれほど遅くなったのは、マリウスとの会談が長引いたせいだった。
彼女が王都に戻ったことは、昼間の内に知らせていた(城には、そうした私的な使いをしてくれる、民間業者が常駐している)。
家主のロゼッタは、シルヴィアの帰りを待ち構えているに違いない。
シルヴィアはキャミイと連れ立ち、街灯にぼんやり照らされた帰路を急いだ。
大通りに街灯があるのは、王都と四古都くらいである(午後十一時には消されるが)。
二人の目に、懐かしいファン・パッセル家の外壁が見えてきた。
鉄柵の門扉は閉じられていたが、内側にはちゃんと警備員が詰めている。
彼らはシルヴィアの顔を知っているが、キャミイに対しては警戒の色を浮かべた。
「彼女の身分は、このあたしが保障するわ。
多分、あとからロゼッタさんを通して説明があると思いますけど、今は通してください」
屋敷の人間に、いちいち説明していたらきりがない。
キャミイのことを使用人へどう説明するかは、屋敷の主人であるロゼッタに任せるほかなかった。
鉄扉が開かれると、すぐに玄関がある。
貴族の屋敷なら、そこに至るまで広い庭があるところだが、この辺はいかにも商家らしい(ちなみに、同家にも建物に囲まれた中庭がある)。
玄関のノッカーを鳴らすと、すぐに扉が開いてロゼッタが飛び出してきた。
彼女は満面の笑みで両手を広げ、シルヴィアを抱きしめようとした。
だが、シルヴィアの横にいるキャミイに気づくと、その動きがぴたりと止まる。
ロゼッタは戸惑った表情を浮かべた。
「こちらは……お客様かしら?」
シルヴィアは深く息を吸い込んだ。これは覚悟したはずの試練である。
「この子はキャミイ。
キャミイ・グレンダモアっていう名で、あたしのいとこ、ってことになっています」
「なっている?」
「取りあえず、今はあたしの親戚だと思ってください。
詳しいことはこれから説明しますから、エイナも呼んでください。
その方が手間が省けます。彼女、まだ起きていますよね?」
シルヴィアがそう訊ねると、ロゼッタの表情が少し曇った。
「それがね、あなたが出発してしばらくしてから、エイナも軍務で出張したのよ。
だけど彼女はまだ帰って来ないの。まぁ、遠いから仕方がないけど……」
「遠いって、辺境ですか?」
ロゼッタはキャミイの方をちらりと見ると、シルヴィアに顔を寄せた。
ほんのりと香水が匂い、耳元でささやき声がした。
「これ、上層部でも極秘だから、ここだけの話ね?」
そんな話を、十数年前に退役した女性が、どうして知り得るのか、思わず突っ込みたくなるが、好奇心の方が強かった。
シルヴィアは、黙って続く言葉を待った。
「エイナはね、帝国へ行かされたみたいなの!」