九 始まり
時は八月、炎暑の時期である。日中の船底は、熱と湿気で耐え難い環境となっていた。
そのため、乗客のほとんどは船上に出て、川面をわたる爽やかな風に当たって暑気を逃れていた。
船の両側を流れていく風景は、左はタブ大森林の黒い森、右は帝国領の未開発な荒野が延々と続いている。
正直に言って、十分もすれば飽きてしまうような眺めだった。
たまにすれ違う船があっても、お互いの乗客同士が何か変わったことがないかと、物欲しそうな表情で見詰め合うだけであった。まるで鏡を見ているようで、興ざめなこと甚だしい。
乗客たちは自然と互いの旅の目的や、身の上話などをして暇を潰すようになった。
三週間に及ぶ船旅は、思いがけない出会いの場となるのである。
贅沢な個室で、夜毎に愛欲の限りを尽くしていたケルトニアの魔導士と南カシルの遊女も、昼間は船上で風に吹かれながら涼を取っていた。
扇情的な衣装を纏ったサーラは乗客たちの注目を浴びていたが、それは船員たちとて同じであった。
高価な個室を利用するような客は、底辺労働者である船員たちに対し、鼻も引っかけないのが当たり前である。
だが、サーラはそうではなかった。汗だらけになって働いている船員たちに優しい労いの言葉をかけ、自分から彼らの輪の中に入って楽しそうにお喋りをした。
サーラは粗野な男たちの下品な冗談を笑って受け流し、エイナたちが川港から仕入れてきた果汁入りの飲み物や菓子を、気前よく彼らに勧めてくれた。
特等の個室に泊まるような客が、そんな態度を示すのは前代未聞のことであった。
サーラはたちまち船員たちの人気者となったが、ほどなく彼女が黒船屋の遊女だということが知れると、船員たちの扱いは別格のものとなった。
彼らにとって南カシルでの女遊びは、自らの自尊心を満たすと同時に、仲間内での優劣を決定づける見栄を得る場でもあった。
いかに気立てがよくて情が篤く、男を満足させる女に当たったかは、退屈な船旅における船員たちの主要な話題であり、その情報は何物にも代え難かった。
そんな彼らにとって、高級娼館の人気遊女たちは、まさに憧れの的である。
船員たちが登楼する女郎屋の遊女は、一時間半で銀貨一枚が相場であった。
銀貨二枚の遊女をあげたとなれば大変な豪遊で、半年は仲間内で自慢ができた。
黒船屋は南カシルでも五本の指に数えられる高級店で、一晩の遊び代は最低でも銀貨六枚である。
船員たちは誰一人として、そんな店にあがった経験がない。
だが、それだけに彼らの憧れは大きかった。ことに店の看板を張る遊女は、女優や流行歌手と同様に、絶大な人気があった。
この時代に写真はないが、専門の絵師が描いた人気遊女の似顔絵は、多色刷りの版画となって広く出回っていた(当然、露骨にきわどい姿態をさらしたものだ)。
サーラはそうした人気遊女の一人だったのだ。
したがって、船員の一人がそれに気づくまで、そう時間はかからなかった。
自分たちに気さくに話しかけてくれる妖艶な美女が、絵でしか見たことのない憧れの遊女その人である――それを知った船員たちの興奮は、察するに余りある。
もちろん彼女は船にとって大切なお客様であり、しかも屈強な男に大金で買われ、奉仕をしているらしい。
船員たちがサーラを女神のように扱うので、退屈な船旅の間、彼女自身とても楽しそうに過ごしていた。
ケネスはそんなサーラの態度を寛大に許していた。むしろ彼女がちやほやされる様を嬉しそうに眺め、寝そべって酒を飲むことを好んでいるようだった。
* *
エイナたちの主任務は、フォレスター大尉の護衛である。
イゾルデル帝国とリスト王国は、かろうじて国交を保ってはいるものの、敵対して紛争をたびたび起こしていた。十年余り前には、帝国軍の大軍が王国の四古都の一つ、黒城市を一時的に占拠するという大事件まで起きている。
ケルトニアは帝国と大陸西部の覇権を争う仇敵同士であるから、帝国としてはケルトニアと王国が結託するのは阻止したいはずである。
となれば、王国の魔導士養成に協力しようとする今回の派遣に対して、帝国が妨害する動機は十分である。
帝国とリスト王国は、互いにボルゾ川を物流の大動脈として利用している関係から、この河川上での敵対行為を禁止する約定を結んでいる。
ただ、それはあくまで表向きの話である。
正体不明の船舶がすれ違いざまに火矢を放ったとしても、証拠がなければどうにもならない。
そのため、エイナとシルヴィアは夜間の停泊時を除いて交替で船上に立ち、不審な船が接近しないか監視を怠らなかった。
エイナは火矢攻撃に備え、朝目覚めると同時に物理防御魔法の呪文を唱え、いつでも発動できる態勢を取っていた。
こうした魔法の〝一時停止状態〟を朝から夕方まで維持するには、かなりの魔力を消費するため、日が落ちると彼女は疲労でふらふらになった。
また、仮想敵が帝国である以上、魔導士による魔法攻撃の可能性も考慮しなければならない。
通常、物理防御と魔法防御は同時に発動できないため、非常時にはシルヴィアが魔法を撥ね返せるカーバンクルで、そのカバーに回ることとなっていた。
夏の日差しは容赦なく船上を照らし、川面で反射される紫外線の量も馬鹿にできない。
エイナたちは日焼けを防ぐため肌の露出を避け、流れ落ちる汗に耐えながら川の監視を続けていた。
保護対象であるケネスは、日除けのパラソルの下で寝そべり、冷たい果実酒を飲みながら昼寝を楽しんでいる。
その傍らには半裸と言ってよい衣装のサーラが寄り添い、うちわで風を送りながら酒をついでいた。
エイナたちはその様子を努めて見ないようにした。見れば腹が立つからだ。
客人がくつろいでいることは我慢ができる。だが、夜中の嬌声で寝不足にさせられた恨みは消えない。
彼女たちは若く健康な女性である。大人の男女のそうした行為に興味はあるし、認めたくはないが性欲もある。もやもやとする思いを処理をする方法を知らない娘たちは、その不満を怒りに変えるしかなかったのだ。
* *
南カシルを出航して七日目。その日は朝から曇りがちだったが、昼前からは本格的な雨となった。
船の乗客は蒸し暑い船底に籠り、思い思いに暇を潰していた。
そんな日でも――いや、そんな日だからこそ、エイナたちは周囲の監視に余念がなかった。
じっとしたまま雨に打たれ続けるのは地味に体力を消耗したが、少なくとも夏の暑さからは逃れられた。
「護衛任務って……地味よねぇ」
額にかかる前髪から、ぽたぽたと水滴を垂らしながらシルヴィアがつぶやいた。
「それは覚悟していたけど、服が濡れるのは嫌よね。
明日の朝、生乾きの湿った軍服に袖を通すのかと思うと、気が重くなるわ」
エイナも自分の不満を正直に打ち明けた。
「ケイト大尉が『替えの下着は二組あれば十分』って言ってたけど、あれ正気?
夏だから確かに洗って干せばすぐ乾くけど、ズロースを人目にさらすなんて死ぬほど恥ずかしいわ」
「そう? あたしはあんまり気にならないけど……」
「エイナはもう少し淑女としての慎みをもった方がいいと思うわ。
見た? サーラさんの下着!
ああいう職業の女性って、普段からあんな凄いの穿いているのかしら?」
シルヴィアへの不満が危ない方向に流れ出す気配がして、エイナは身構えた。そうした話題は苦手なのだ。
ところが、お喋りに本腰を入れようとしていたシルヴィアが、びくんと身体を震わせ、いきなり真顔になった。
「何、どうしたの?」
エイナが不思議そうに訊ねた瞬間、何かが二人の間に飛び込んできた。
「えっ! カー君?」
それはシルヴィアの幻獣、カーバンクルであった。
カー君は船尾の船べりから川を覗き込んで、魚影を探していたはずだった。
彼の毛並みはぶわりと膨れあがり、身体が倍近くの大きさに見えた。
鼻の頭に皺が寄って口から白い牙が剥き出しになり、大きな目が吊り上がっている。
明らかに普通ではなかった。
シルヴィアが突然立ち上がった。
「エイナ! カー君が危険を報せている!」
「敵襲? でもどこから? 近くに船はいないわ!」
何かを見逃したのか? エイナは慌てて周囲を見渡したが、やはりどこにも船影は見当たらない。
「よく分からないけど下だって言ってる。部屋に戻るわよ!」
二人は甲板出入り口の蓋を持ち上げ、梯子を無視して中に飛び降りた。
着地した瞬間に、ぐちゃっと軍靴が音を立てる。革靴の中から靴下まで、すっかり雨が染み込んでいたのだ。
彼女たちはカエルでも踏み潰しているような靴音を響かせながら、船の狭い通路を走った。
もう一段下に降りれば一般客室で、彼女たちの泊まる個室は中二階にある。
二人は個室エリアに駆け込み、ケネス大尉たちの部屋の扉をドンドンと叩く。
すぐに内側から留め金を外す音がして扉が開いた。
「どうした?」
上半身裸のケネスが低い声で訊ねる。その手には、すでに抜身の剣が握られていた。
「分かりませんが、私の幻獣が危険を感じています」
シルヴィアの言葉に、大尉はあれこれ訊ねなかった。
「中に入れ!」
大尉は二人を部屋の中に入れると、すばやく扉の鍵をかけた。
鍵と言っても掛金式の簡易なもので、扉に体当たりでもされたら、すぐにネジごと吹っ飛んでしまう頼りないものだ。
三人のただならぬ様子に、サーラが不安そうな顔でベッドの中から這い出してきた。
慌ててガウンを羽織ったらしいが、その下が素っ裸であることは丸わかりだった。
「お前は俺の後ろにいろ!」
ケネスが振り向きもせずに女に命じた。
「それで? 状況を説明しろ」
「はっきりとは分かりません。周囲に船影はありませんでした。
幻獣は外ではなく、この船の中に危険があると言っています」
シルヴィアはそう説明しながら、自分の足元で〝フーッ!〟と威嚇の声を上げ続けるカー君をちらりと見た。
カーバンクルは相変わらず全身の毛を逆立て、凄まじい形相で牙を剥いている。
シルヴィアを守るように彼女の前で四肢を踏ん張っている様は、普段の呑気で愛らしい姿とは、まるで違って見えた。
「お前のペットの勘は、さぞかし頼りになるんだろうな」
ケネスは茶化すつもりだった言葉を吞み込んだ。どうやら冗談ではないらしいと悟ったのだ。
四人は部屋の中央で、背中合わせになって周囲を警戒した。
遅ればせながら、エイナとシルヴィアも剣を抜いている。
カー君の唸り声と、四人の押し殺した呼吸音だけが部屋に響いていた。
全員の目が、閉じられた扉に向けられていた。この個室には、それ以外に出入りする手段はない。
家具を動かして扉の前にバリケードを作りたいところだが、部屋の調度はすべて床に固定されていて、動かすのは不可能である。
耳を澄ましても襲撃者の気配は感じられず、部屋の外から聞こえてくるのは、船体のきしむ音と降りしきる雨が甲板を撃つ、微かなざわめきだけである。
「誰も……来ないわよ。ねぇ、気のせいじゃないの?」
ややあって、沈黙に耐えかねたサーラが口を開いた。
「しっ!」
鋭く黙らせたのは、意外にもエイナだった。
「聞こえませんか?」
彼女は押し殺した声でささやいた。
「ん? 何も聞こえないけど」
「俺もだ」
シルヴィアとケネスがやはり小声で答えた。
「天井……いえ、床からも。……違うわ、部屋の周り全部から聞こえる!」
エイナはそうささやくと、唇に指を立てた。
全員が息を殺し、耳を澄ませた。
かりかりかりかりかり……。
確かにそれは、よほど注意しなければ気がつかないような、小さな音だった。
何かを引っ掻くような音――それが上からも、下からも、横からも聞こえてくる。
心なしか、その音は段々大きくなってくるように感じられた。
がりがりがりがりがり……。
気のせいではなく、音ははっきりと大きくなってきた。
引っ掻いているのではない、何かを齧っている音だ。
「こいつは……人じゃねえな」
ケネスがつぶやいた。そして、周囲を見回しながらエイナに声をかける。
「おい魔導士、エイナと言ったな。魔法は何が使える?」
「攻防どちらも。取りあえず物理防御は発動態勢にありますから、いつでもいけます」
「万能型か。なら攻撃魔法も複数の系統が使えるな。
火系以外――氷系か雷系はどうだ?」
「氷系は割と得意です」
「よし、なら防御魔法は解除して、そっちの呪文を唱えておけ。
何分でいける?」
「えっ、防御魔法なら即座に発動できるんですよ?
これから攻撃魔法を出すには、最低でも十分以上はかかりますけど……」
エイナが口ごもると、ケネスが目を剥いてエイナを怒鳴りつけた。
「十分だとぉ? 遅い、遅すぎる! てめえ、亀みたいにのろい奴だな!
いいか、俺は火系攻撃に特化した魔導士だ。船の中じゃ使えねえんだよ!
だから得意じゃないが、防御魔法は俺がやってやる。
泥亀女はさっさと呪文を唱えろ! ぐずぐずしてるとケツの穴から手を突っ込んでハラワタ引きずり出すぞ、ボケぇ!」
エイナは教官からもこんな暴言を浴びたことがなかった(教官とはケイトだから当然だが)。
彼女はすっかり怯えながら、言われたとおりに凍結呪文の詠唱に入った。
どう考えてもケネスの言い分は理不尽である。
彼の方だって、これから防御障壁を展開するには時間がかかるだろう。
せっかく魔力を浪費しながら、朝から防御魔法の準備をしていたのに、それを無駄にするのがどれだけ非効率か、この人は分かっているのだろうか?
不得意な防御魔法を使うと言うのなら、それこそ火系以外の攻撃魔法を使えばいいだけじゃない!
だが文句を言いたくても、今は呪文の詠唱中である。
エイナは目に涙を溜めているのを大尉に見られたくなくて、真っ直ぐ前を向いた。
その途端、彼女は息を呑み、思わず詠唱を中断しそうになった。
目の前に防御障壁が張られていたのだ。それも感じられる魔力で、かなり強力なものだということが分かる。
ケネスとの言い合いから、一分も経っていない。
それはあり得ない早さであった、エイナなら、呪文の詠唱だけで十数分が必要なのだ。
ケイト先生から聞いたことがあるが、魔法防御の専門家であるマリウス閣下は、三分程度で障壁が張れるという。
それは常人では成し得ない驚くべき技術だと教わった。
自ら〝不得意だ〟と認めたケネスが、それを上回れるはずがない。
つまりこのケルトニアの魔導士は、エイナたちが部屋の扉を叩いた瞬間から、魔法の詠唱を始めていたということになる。
だが、その間にも彼は会話を交わしていた。呪文は一度でも中断したら、また最初からやり直しとなるはずだった。
混乱する思いを頭を振って追い出し、彼女は呪文に専念した。
どんな手を使ったのか知らないが、事実として物理障壁は完成している。もう焦ることはないのだ。
シルヴィアも防御障壁が張られたことを感じ取っていたが、剣の構えは緩めない。
その鋭い眼差しは、部屋に生じたわずかな兆候を見逃してはいなかった。
彼女は甲高い声で警告を放った。
「来る!」




