三十六 壊滅
防衛部隊とともにオアシスを去ったヤコブ中佐は、特命大隊長という立場だった。
防衛任務に就いていた大隊は、別に彼の部下ではなく、今回の任務のために各隊から選抜、または志願した兵で編成された。
常に敵の襲撃にさらされる、過酷な任務ということを配慮し、上層部はこれを三か月で交代させることにした。
しかし、指揮官であるヤコブ中佐だけは、留任していたのである。
もともと彼は第三軍の監察部に所属し、戦技指導官という役職に就いていた。
どこの軍でもそうだが、自軍の戦力を一定の水準に保つため、武術や体術を指導する教官隊があり、兵の訓練を任されていた。
戦技指導官は、そうした教官たちを監督・指導する責任者ということになる。
中佐は剣の達人で、第三軍では知らない者のいない英雄である。
まだ十代だったリディアが赤龍帝に就任した時から、ずっと稽古をつけていたもヤコブで、彼女からも厚い信頼を得ていた。
オアシスの防衛部隊の指揮を任されたのも、リディアの指示だったのだ。
一見すると、どこにでもいそうな気のいい中年男性なのだが、剣一筋に生きてきた武人である。
シルヴィア中尉とキャミイ准尉がオアシスにやってきてすぐ、ひょんなことから試合を始めた時も、興味深く観戦していた。
シルヴィアはまだ若かったが、魔導院で十二年間、一度も首席を譲らなかったというだけあり、見事な腕前であった。
女性にしては体格に恵まれていたし、優れた才能がひと目で見て取れた。
それ以上に、彼女が厳しい鍛錬を自己に課してきたことが、ヤコブにはよく分かった。
その努力は、軍に入隊後も変わっていないのだろう。
一方のキャミイは、ヤコブにとって別の意味で驚きだった。
彼女が〝ど素人〟であることは、すぐに分かった。
とにかく動きがおかしい。キャミイは自分の身体の動かし方が、まるで分かっていない。
それなのに、かなりの腕前を持つシルヴィア中尉と、ほぼ互角に渡り合っているのだ。
キャミイが見せる技術は、明らかにシルヴィアの模倣であった。
彼女はシルヴィアの攻撃も防御も、すべて予測がついていて、信じられないほどの動体視力と反応速度で対応していた。
ヤコブの長い経験でも、准尉のような例は初めてだった。
二人の打ち合いを見るうちに、ヤコブ中佐の血が騒いだ。
そして矢も楯もたまらず、キャミイに試合を申し込んだのだ。
実際に手合わせをすれば、彼女の正体が掴めると思ったのだ。
もちろん、キャミイがカーバンクルであることは、赤龍帝の手紙で分かっている。
ならばこそ、人間に化けた幻獣がどれほど剣を使えるか、興味が湧くのだ。
結果は予想どおりであった。
キャミイ准尉は、中佐に対して手も足も出なかった。
やはり、彼女はずぶの素人だったのだ。
もし、シルヴィア中尉が相手だったら、もう少しまともな試合になっていただろう。
キャミイが中尉相手に互角だったのは、彼女がシルヴィアを熟知している上に、人間離れした身体能力を持ってるからだ。いわば、シルヴィアに特化した強さである。
ただ、確かに素人ではあるが、キャミイはその辺の一般兵士よりは、よほど強いだろう。
『この娘、面白いな……』
キャミイを翻弄しながら、中佐はすっかり愉快になっていた。
二人の女性が、任務ですぐにでも密林に向かうことになっているのが、とても残念だった。
彼は立ち合いの結果とは裏腹に、キャミイの腕前を素直に褒めた。
「お前は強くなるぞ。
オークの国から戻ったら、また稽古をつけてやろう」
そして、中佐はこの言葉を忘れていなかった。
二人が密林から戻ってから、彼がこの地を離れるまでの約一か月、ほぼ毎朝のように、キャミイに稽古をつけたのだ。
本当のことを言えば、才能のあるシルヴィアも、一緒に鍛えてやりたかったのだが、彼女は壊滅的に朝が弱かった。
キャミイに頼めば、無理やり起こすのは可能だったが、頭がまともに働くまで、一時間はかかるのだ。
指揮官として忙しいヤコブが、彼女たちの相手をするのは、早朝の一時間が限度であった。
シルヴィアだって、剣豪として名高い中佐の稽古は受けたかったのだが、こればかりはどうにもならない。
そのため、シルヴィアはキャミイに教えを乞うことにした。
彼女のプライドは激しく抵抗したが、強くなりたいという意欲がそれに勝ったのだ。
キャミイが中佐から受けた教えを、シルヴィアはできるだけ吸収しようとした。
このやり方は、意外な効果をもたらした。
そもそも素人のキャミイが、上級者のシルヴィアに教えるのだ。
中佐が伝授した剣捌き、体重移動、次の技へのつなぎ方など、その技術をよほど深く理解していなければ、伝えられるものではない。
キャミイは最善を尽くしたが、どうしても限界がある。
技量の向上を渇望するシルヴィアは、もどかしさに癇癪を起こし、泣いて悔しがった。
キャミイだって、自分の召喚主の役に立ちたいのが本心だ。
だから次の朝の稽古になると、キャミイは『なぜ、シルヴィアにうまく伝えられないのでしょう?』と率直に訊ねた。
そして、自分が納得するまで復習をしなければ、絶対に前に進もうとしなかった。
キャミイによるヤコブの技術の伝授に、シルヴィアの集中力を極限まで高め、大きな成果を得ることができた。
だが、それとは比較にならないほど、キャミイの上達は目覚ましかった。
意外なことに、教える側のヤコブ中佐にとっても、この稽古は反省と勉強をもたらした。
とにかく、キャミイは実に優秀な生徒であり続けた。
これは、カー君の性格を考えると、驚くべきことであった。
カーバンクルという種族は、自分と無関係なことに冷淡だが、逆に興味を持ったことには、没頭する傾向があった。
キャミイは人間の身体だからこそ会得できる、剣という技術を面白がっていたのだ。
そして、ヤコブ中佐がオアシスを出立した頃には、キャミイはどこに出しても恥ずかしくない、ひとかどの剣士になっていたのである。
* *
『左右はシルヴィアと私に任せてください!
ウルンギさんは前の敵に集中を!!』
キャミイが大声で怒鳴り、突っ込んできた敵兵の腕を、下から撥ね上げた。
半月刀を握ったままの右腕が切り飛ばされ、くるくると宙で回転する。
彼女は伸び切った刃先を反転させ、今度は体重を乗せて振り下ろす。
肘から先を失った敵兵は、バランスを崩してつんのめった。
飛び込んできたその肩口に、キャミイの剣がまともに入り、肋骨を次々に断ち割った。
鮮血を撒き散らして敵が倒れると、その身体の陰から、姿勢を低くしたキャミイが飛び出した。
そして、彼女を見失っていた次の敵の脇腹を、すれ違いざまに深々と切り裂いた。
腹圧で腸がぞろりと飛び出し、出血のショックで敵は即死した。
ひと呼吸の間に二人を瞬殺――それがキャミイの初陣だった。
幻獣である彼女には、血や臓物への嫌悪も、人を殺したという罪悪感もなかった。
これは、剣術という新しい遊びを覚えた彼女が手に入れた、最初の賞品に過ぎなかったのだ。
ウルンギを挟んだ反対側では、シルヴィアが前に出て敵と対峙していた。
彼女は並みの男に負けない背丈があったが、敵には『所詮は女』という驕りがあった。
女だてらに長剣を振るおうが、いったん受け止めてしまえば、力で押し切れる……相手がそう考えたとしても、不思議ではない。
シルヴィアは、わざと正面から切りかかった。
フェイントもかけない、馬鹿正直な攻撃だった。
敵は馬鹿にしたように唇をゆがめ、両手で握った半月刀を斬撃に合わせる。
あとは楽々と撥ねのけ、体重差を利用して押し倒す気だった。
だが、半月刀が長剣を受け止めた瞬間、彼の視界は強烈な光に覆われ、何も見えなくなった。
シルヴィアの長剣から、真っ赤な炎が爆発的に噴き出したのだ。
しかも、剣を打ち合わせた結果、押されたのはナフ歩兵の方だった。
シルヴィアの膂力は男に引けを取らず、剣に体重をのせる術も心得ていた。
十分に押し込んでおいてから、シルヴィアはいきなり剣を引いた。
敵の半月刀はつっかえを外され、がくんと上体が前に落ちる。
無防備に差し出された背中に、薄い炎を纏った長剣が叩きつけられ、再び炎が爆ぜた。
男の背中には黒く炭化した大穴が開き、白い背骨と肋骨が見えた。
肺は炎で焼き尽くされ、窒息した敵は悲鳴も上げられず、そのままうつ伏せに倒れた。
少し離れ、棍棒で敵兵を殴り飛ばしていたウルンギも、突然起きた爆炎に驚き、思わずシルヴィアの方を振り返った。
『シルヴィア! そいつは何だ? 魔法か!?』
「まぁね、似たようなものよ! 後で見せてあげるわ!!」
『そいつは楽しみだ!』
キャミイは反対側で暴れているから、通訳はない。
それなのに、二人の会話は完全に噛み合っていた。
* *
ナフ国の歩兵約二百人と、オークの戦士六十人による白兵戦は、かなり長く続いたように思えた。
だが実際には、せいぜい十分程度のものであった。
結果を言ってしまえば、ナフの歩兵部隊は、ひとりも残さずに全滅したのだ。
長弓で援護射撃をしていた騎兵部隊は、白兵戦が始まっても突撃してこなかった。
そして、歩兵がすべて倒されたのを確認すると、ラクダに跨り、粛々と引き揚げていった。
まるで『予定どおり』と言わんばかりの態度であった。
あとで数えてみると、ウルンギはひとりで十六人の敵兵を屠っていた。
シルヴィアも二人を倒し、キャミイに至っては、四人を切り捨ていた。
つまり、ウルンギの周りだけで、敵の一割を殲滅したことになる。
なぜ、敵がここまでウルンギにこだわったのか、その理由は分からないままだ。
中央に敵が殺到した結果、残りは単純な計算問題である。
オークの戦士たちは、ひとりで三人の敵を倒せばよかった。
これは、彼らにとって、かなり楽な戦いである。
十数年前まで、王国の東部辺境では、オークによる家畜の被害が深刻であった。
辺境に出没したオークは、理性のない野獣であり、一定の文明を持つ密林オークとは異なる存在である。
辺境を管轄する第四軍は、開拓村の要請で、しばしばオーク討伐を行っていた。
その際は『決してひとりで立ち向かわない』、『一頭のオークを五人で囲む』ことが徹底されていた。
すなわち、オークひとりの戦力は、訓練された兵士五人分と見做されていたのである。
不足した戦力で、ただ正面から突っ込んだのでは、人間側が負けるのは当たり前であった。
むしろオークたちが驚いたのは、人間が誰も逃げ出さなかったことである。
人間たちは、ほとんどの味方が倒され、絶望的な状況になってからも、歯をむき出して立ち向かってきた。それは勇気ではなく、蛮勇に過ぎない。
事実として、オーク側が死者を出さなかったのに対し、七百人の歩兵が無駄に死んだのだ。
一方的な虐殺だと言ってもよい。
ナフ国は、なぜこんな無謀な攻撃をしたのだろう?
これだけの犠牲を出しておいて、彼らは何を得たというのだろう?
シルヴィアには、それがどうしても理解できなかった。
* *
最後の敵を、棍棒の一撃で殴り倒したウルンギは、傲然と背を反らし、凄惨な戦場を見渡した。
彼はオーク随一の戦士であるが、さすがに息が荒く、苦しそうであった。
身に着けていた分厚い貫頭衣は、敵兵の半月刀で何度も切りつけられ、ずたずたになっていた。
したがって、戦い終えた彼の姿は、下帯だけの全裸に近かった。
筋肉が瘤のように盛り上がった見事な肉体は、敵の返り血を存分に浴び、流れ出る汗が筋となって洗い流していた。
深手は負っていないが、浅い傷があちこちにあり、まだ血が止まりきっていない。
敵兵が縋りついたのか、血染めの手形がべたべたとついている。
棍棒を手に下げたまま、彼は戦場を睨み続けていた。
左右からシルヴィアとキャミイが近づき、後ろに下がっていたアドも心配そうに駆け寄ってきた。
シルヴィアはウルンギの大きな裸体を点検し、ほっと息をついた。
「大事はないようだけど、ずいぶん切られたわね。
早く傷口を洗って、応急手当をした方がいいわ」
『いや、これくらいはかすり傷だ』
ウルンギはシルヴィアを押しのけ、大声で伝令を呼んだ。
『怪我人はいないか、すぐに状況を確認させろ!』
伝令がすっ飛んでいくと、入れ替わりに、第三軍の連絡将校たちがやってきた。
彼らも塹壕の中に入って、戦況を確認していたのだ。
ウルンギは彼らの顔を見ると、表情を険しくした。
『貴官らは、今回の攻撃をどう見る?
俺には人間の考えることが、まったく分からん! 奴らは何を企んでいるのだ!?』
だが、将校たちは困ったように顔を見合わせた。
「私たちにも分かりません。
ただ、無理に理由をつけるとすれば、我々第三軍を引き戻す策なのかもしれません。
奴らにしてみれば、オアシスの防衛がオークに任されたことで、第三軍に過度の負担を強いるという、当初の目論みが崩れたわけです。
圧倒的な数で飽和攻撃を仕掛け、たとえ一時的であっても、塹壕の占拠を目指したのでしょう。
そうすれば、オークに対する信頼が揺らぎ、オアシス防衛への危機感が生まれることになります。
うまくいけば、第三軍の再派遣が実現するかもしれない。
そう考えたのではないでしょうか」
アドの通訳を聞いたウルンギは、簡単に納得しなかった。
『だが、実際に攻撃は失敗し、俺たちはここを守り切ったぞ?』
「例え失敗したとしても、次はもっと多くの戦力を投入してくるかもしれない。
こちらにそう思わせるだけでよしとした……とすれば?」
『馬鹿な! それだけのために、部下を無駄に殺すのか!?
人間の国が、何万人もの軍勢を持っていることは、俺だって知っている。
それでも七百人は大部隊だ。砂漠で虚しく擂り潰していいわけがなかろう!』
連絡将校たちは、黙って首を振った。
彼らだって、この推論が軍事的に無茶苦茶だと、よく分かっているのだ。
「これ以上、我々には何も言えません。
それより、ナフ国の歩兵たちは、明らかに常軌を逸していたように見えました。
正直に言って、我々人間はあそこまで勇猛にはなれません。
周囲の仲間が次々と倒れていくのです。それを見れば、必ず恐怖にかられ、逃げ出す者が出ます。
その兵士が臆病者なのではなく、人間ならそれが当たり前なのです」
将校たちの疑問を聞いた途端、ウルンギは顔をしかめた。
そして、こう吐き捨てたのだ。
『呪術師だ!』