三十五 突撃
サラーム教徒は朝、昼、晩の一日三回、神に捧げる祈りを欠かさない。
床に清浄な布を敷いてひざまずき、聖地の方角に向け、額を三度地面につける。
もちろん、祈りの言葉を唱えながらのことだ。
カマール百人長もまた、士官用のテントの中で、この朝の〝お勤め〟を果たしていた。
祈り自体はごく短時間で終わるし、子どものころから毎日やってることなので、別に面倒とも思わなかった。
お勤めを済ませたカマールは、敷布を丁寧に畳んで立ちあがった。
テーブルの上には、すでに朝食の皿が並んでいたが、このサラーム教徒としての義務が終わらなければ、口にすることが許されないのだ。
丸い木皿には蒸したクスカス、その上にヒツジの干肉、そしてバターがひと片のっている。
これに甘く濃厚なミルク茶がつくのが、砂漠の民の基本食であった。
クスカスはナフ国の方言で、一般にはクスクスとして知られている。
小麦から作られた米粒状の乾燥パスタで、見た目は雑穀と変わらない。
これを蒸して主食とするのだが、大陸の中南部では広く普及しているものだ。
カマールは左手でクスカスを団子状に丸め、手早く口に放り込んだ。
ちなみに、用便で尻を拭く右手は不浄なので、決して食事で使用してはならない。
食事が終わるタイミングを見計らったように、部下が声をかけた。
「ハッサンが参りました」
「そうか、通せ」
短いやりとりの後、テントの中に小太りの男が入ってくる。
ハッサンは部下のひとりで、隊の調理を任されている人物だ。
彼は当番兵に促され、おずおずとカマールの側に近寄ってきた。
くりくりとしたどんぐり眼が、不安そうに左右に泳いでいる。
自分がなぜ百人長に呼ばれたのか、分からなかったからだ。
「美味い飯だった。お前には苦労ばかりをかけるが、いつも感謝をしている」
カマールの意外な労いに、ハッサンは安堵の息を吐いた。
どうやら呼ばれたのは、叱責が目的ではなさそうだ。
「捕虜たちへの朝食準備は、指示どおりだろうな?」
「はい、クスカスはいつもの五割増し、肉もひとり三切れにしています。
あんな連中には、もったいない献立です」
ハッサンは思わず不満を洩らした。
捕虜兵の食事は、正規の百人隊の後と決まっている。
食事の内容に差はないが、彼らにはお茶が出ずに、水だけで済ませることになっていた。
それなのに今朝に限って、百人長は捕虜への手厚い配慮を命じたのだ。
それは、正規兵たちより量を増やし、お茶までつけろという内容だった。
不足気味の食材に苦労しているハッサンとしては、文句のひとつも言いたくなるというものだ。
「そう怒るな。奴らにはこれから〝死ぬほど〟働いてもらうのだ。
途中でへばって動けなくなっては困る。これくらい許してやれ」
「はぁ……。百人長がそう仰るなら、仕方ねえです」
女のように頬を膨らませ、渋々納得するハッサンに、カマールは唇を歪ませた。
それが不器用な微笑みだということを、部下たちの誰もが知っていた。
「お前を呼んだのは他でもない。そいつを持っていけ」
カマールは、傍らに置かれている水桶の方を顎で指した。
ハッサンはそれを持ち上げ、中を覗き込んだ。
桶の中には水が半分入っているが、薄い褐色に濁っている。
そして底の方には、長方形の紙のようなものが沈んでいた。
「何ですか、これは?」
「そうだな、あえて名付ければ〝力水〟だな。
飲めば命令に従順になる一方で、恐れが消え、勇気が湧く。魔法の水というわけだ。
これを捕虜兵に出す茶に混ぜてやれ。大鍋に柄杓一杯の割合だ。間違えるなよ」
「はあ……。底に沈んでいる紙みたいなのは何ですか?」
「紙ではない、呪符だ。昨日の晩から漬けているから、呪文が溶けだしている。
言っておくが、味見をしようなんて了見は、絶対に起こすなよ?
呪われるぞ」
カマールの言葉には、得も言われぬ凄味があった。
ハッサンはぶんぶんと首を横に振る。
砂漠の民は、力ある呪術師を恐れると同時に、忌み嫌ってもいた。
彼らの本質が〝人を呪う〟ことにあると、よく知っているからだった。
ハッサンはここに至り、ようやく指揮官の意図を理解した。
あの捕虜兵どもの命運は尽きたのだ。
豪華な食事は、カマールの最後の慈悲なのだろう。
彼は水桶を胸に抱え、首を振りながらテントから出ていった。
* *
監視塔から警告が発せられ、すでに一時間以上が経過していた。
塹壕には六十余名のオーク戦士団、全員が集結しており、今や遅しと敵を待ち受けている。
敵は塹壕の西、四百五十メートルの位置まで接近していた。
歩兵に先んじていた騎兵は、すでにラクダから降りて長弓を手にしている。
そこは投石の有効射程外であり、最近の敵が使う〝いつもの手〟であった。
違うのは、約七百名の歩兵が加わっていることだった。
この距離になると、塹壕からでも敵が十分視認できる。
敵歩兵は弓兵の前に出て、整然と列を組んでいた。
監視塔の上から見ると、長方形の隊列が七つ並んでいることが分かる。
ひとつが百人、いずれも手に槍を持ち、金属の槍先が陽の光を反射してきらめいている。
歩兵の整列が完了すると、敵が動き始めた。
後方の騎兵が一斉に弓を構え、空に向けたのだ。
『防御用意!』
塹壕の中央部で指揮を執るウルンギが、オーク語で命じる。
それは口伝えで左右に伝播し、オークたちは丸太のような萱束を頭上に掲げた。
萱束は塹壕の幅より長いので、渡してしまえば、もう支える必要がない。
矢が飛んできたら、その陰に隠れるだけでよいのだ。
どうせ最初は試射に過ぎないから、オークたちの行動には余裕があった。
案の定、敵が放った矢は明後日の方向、しかも遠く離れた砂漠に、虚しく降り注ぐだけだった。
『妙だな……』
それを見たウルンギは首を捻る。
「何がです? 外れるのはいつものことですよ」
横に並ぶシルヴィアが訊ね、すかさずアドが通訳した。
『そうなんだが……。
最近は連中も慣れてきたのか、第一射でももっと近くに落ちる。
毎回、同じ位置から同じ目標に向けて射るんだから、そうならない方が変だ。
それなのに、今日のは酷い。まるでこれが〝初めて〟と言わんばかりだ』
これは当り前である。
経験を積んだアシッドの百人隊は、今朝早くに野営地を去っている。
カマールの部下たちにとっては、これがオアシス攻撃の初陣なのだ。
だが、この問題をゆっくり検討する暇はなかった。
監視塔から、見張りの警告が降ってきたのだ。
『敵歩兵、動きます!
全部隊、こちらに向かって走り出しました!
続いて第二射、来ます!!』
歩兵が移動を始めたことは、塹壕からでも分かった。
彼らの足元から土埃が巻き起こり、姿が見づらくなったからだ。
『ナフの連中、気でも狂ったか!?』
思わずウルンギは呻いた。
敵の意図は明らかである。こちらの十倍以上の兵力を投入し、数の力で押し切るつもりなのだ。
だが、彼我の距離は四百五十、全力疾走は続けられないから、せいぜいが駆け足だろう。
足場が悪いことを考えれば、塹壕まで五分はかかる。
問題はオークたちが、指を咥えているはずがない、ということだ。
当然、この間は投石し放題となる。
相手は大人数の密集隊形で接近してくる。
石を投げさえすれば、誰かに当たるはずだ。
控えめな想定だが、六十人が一分間に二度投石するとして、五分で六百発の攻撃になる。
命中率は八十%を超えるだろうから、七百人の敵うち、五百までは倒せることになる。
こんな犠牲を出すのでは、自殺行為と変わらない。
ウルンギが呻くのも、もっともであった。
いくら敵でも、自分の部下をここまで無慈悲に扱ってよいわけがない。
しかし、これは彼の目の前で現実に起きている事態だった。
敵歩兵が駆け出してすぐ、弓兵の第二射が放たれた。
今度は最初よりまともになり、三十メートル先の馬防柵の内側に突き刺さった。
『投石用意!
次の矢は近いだろうが、まだ当たりはすまい!
敵に届くと思ったら、各自の判断で攻撃してよし!!』
ウルンギに命じられるまでもなく、オークたちは頭上で投石器を回し始めていた。
敵歩兵が百メートルほど進んだところで、投石の第一波が彼らを襲った。
まだ距離があるから威力は低いが、標的はひ弱な人間である。
盾も持たず、鎧も兜も身に着けていない人間を倒すのは、赤子の手を捻るより容易かった。
最初の攻撃で、五十人以上の敵が脱落した。
即死者はいなくとも、どこかしらの骨を砕けば、もう満足には走れない。
一方、敵の矢の狙いは徐々に精度を増し、第五射でようやく塹壕に降り注いだ。
もう狙いの修正に時間をかける必要がない。後はひたすら射ちまくるだけである。
いつもなら、オークたちは萱束の陰に隠れてやり過ごすのだが、歩兵が向かってくるから、そうはいかない。
彼らはいったん投石器を回し始めると、絶対に逃げなかった。矢に当たる間抜けは、運が悪いのだ。
* *
敵の歩兵集団は、とうとう馬防柵を越えた。
もう、彼らは駆け足から全力疾走に移行し、槍を構えて雄叫びを上げ、突っ込んでくる。
間近に見える彼らの表情は狂気に支配され、とてもまともな人間と思えなかった。
実際、敵はもう三百を切っており、過半数の歩兵が点々と砂漠に倒れていた。
歩兵が肉薄したことで、弓兵の援護射撃は止んだ。
オークたちの投石も、あと一度が限度だろう。
攻める人間も、守るオークも、同じ戦場の狂気にどっぷりと浸かっていた。
彼らは等しく〝敵を倒す〟という意志に取り憑かれ、恐怖を忘れ去っていた。
『てーーっ!!』
ウルンギの号令が響き、最後の攻撃が放たれた。
この距離で外す者など、オークの戦士ではない。
六十余の石弾は、ひとつ残らず敵の眉間に吸い込まれていった。
至近距離からの攻撃で、石と同数の敵の頭が、スイカのように砕け散った。
赤い鮮血と白い脳漿が飛び散り、彼らは悲鳴を上げることすら許されず、地面に倒れ伏した。
その背中を踏みつけ、後続の歩兵たちが歯を剥き出して突進してくる。
最後の一撃で、人間側の勢力は二百人にまで減少した。
それでも、オークの三倍以上であるから、彼らの勢いが衰えることはなかった。
これに対し、オークたちも躊躇わず、塹壕から飛び出していった。
人間たちは不遜にも、自分たちに対して白兵戦を挑んできたのだ。
これに激怒しないオークが、どこにいようか?
これに狂喜しない戦士が、どこにいようか?
オークたちは横一列となり、槍衾を作って待ち構えた。
その鋭い穂先を恐れることなく、敵の歩兵たちは喚きながら突っ込んできた。
互いの槍が同時に繰り出される。
だが、一瞬早く敵に刺さったのは、オーク側の槍だった。
オークは人間より、遥かに体格が大きい。
しかも、彼らは前屈みとなると、手の甲が地面につくほど腕が長かった。
リーチが長ければ、先に槍が届くのは道理であった。
突っ込んでくる歩兵の前列に、ずぶずぶと槍が突き刺さった。
彼らの白い衣装に、たちまち真っ赤な染みが広がった。
だが、敵兵からは、まったく悲鳴が上がらなかった。
それどころではなく、彼らは誰ひとりとして倒れなかったのだ。
胸や腹に槍が突き刺さっているにも関わらず、敵歩兵の顔には、『してやったり!』と言わんばかりの、笑みが浮かんでいた。
彼らは鮮血を滝のように流しながら、その場に踏ん張り、しかもがっちりと両手で、槍の柄を握りしめていたのだ。
慌ててオークが槍を引こうとしても、まったく動かせない。
『槍は捨てろ! これは罠だ!!』
ウルンギはそう怒鳴りながら、自らも槍を放し、腰に下げていた棍棒を抜いた。
わざとオークの槍を受け、相手の武器を封じた者たちは、さすがにそれ以上進めない。
そんな仲間たちを乱暴に突き飛ばし、蹴り倒して、後続の歩兵たちが飛び込んできた。
地に這った負傷兵を、後続は容赦なく踏み潰していく。
虫の息だった彼らは、血まみれの槍を抱えたまま、次々と絶命していった。
オークたちもウルンギに倣い、棍棒を構えていた。
そもそも棍棒こそ、オークの手に最も馴染む得物なのだ。
半月刀を振りかざし、突っ込んでくる歩兵の側頭部に、ぶんっ! という風切音を残して、棍棒が打ちつけられた。
オークの会心の一撃をまともに受けた敵は、頭蓋骨を破壊されて吹っ飛んでいく。
ここからはもう、滅茶苦茶な乱戦となった。
敵味方が入り乱れると、もう槍には意味がない。
人間は半月刀を振るい、オークは棍棒を叩きつけた。
それが外れれば、拳で殴り、足で蹴り、歯で噛みつきすらした。
どんなことをしてでも、敵の肉を裂き、骨を断とうとする意志が、彼らを突き動かしていた。
戦場に響くのは、オークの怒号だけであった。
人間の歩兵たちはもう叫ばず、顔に至福の表情を浮かべていた。
肩を砕かれ、あばらをへし折られても、笑いながら挑みかかってくるのだ。
彼らの顔には、苦痛も恐怖も存在していない。明らかに異常だった。
むしろオークの方が、不気味な人間たちに怖気を感じていたのだ。
* *
ウルンギは戦列の中央で、敵兵を片っ端から薙ぎ倒してた。
人間たちは、オークの中でもひときわ体格のよい彼が、指揮官だと見極めたらしく、砂糖に群がるアリのように挑んできた。
長いリーチを生かした棍棒が右の敵を叩きのめし、左の敵を拳で殴りつける。
ウルンギの左手には、砕いた人間の白い歯が、飾りのように突き刺さっていた。
彼の背後には、少し離れてシルヴィアとキャミイ、そしてアドが控えていた。
もちろん、ナフ側も女たちの存在に気づいて回り込もうとしたが、立ちはだかるウルンギがそれを許さない。
それでも敵は諦めない。数を頼りに殺到してくる。
『シルヴィア、キャミイ!
すまんが、アドを守ってやってくれ!!』
ウルンギが振り返らずに怒鳴った。
シルヴィアとキャミイは顔を見合わせ、同時に溜息をついた。
中原語とオーク語で、二人の声が重なった。
「しょうがないわねぇ……」
『仕方がないなぁ……』
「わっ、わたしも戦います!」
慌てて仲間に入ろうとするアドを、二人は後ろ手で押し戻す。
そして、同じタイミングで、腰の佩刀をすらりと抜いた。
柄を握りしめるシルヴィアの手から、彼女の闘気が伝わったのだろう。
魔剣の刀身からは、赤い炎が噴き出していた。