三十三 交代部隊
季節はもう、完全に夏だった。
太陽が容赦なく照りつける灼熱の砂漠で、日中外に出るのは自殺行為である。
砂漠の民は、日光を遮るテントの中に避難し、壁となる帆布を巻き上げて風を入れ、昼寝をして厳しい暑さをやり過ごす。
ただし、部隊指揮官ともなると、そんな贅沢は許されない。
百人長のアシッドは、指揮所となっているテントの中で、書類整理に追われていた。
二日前のことだが、都から伝令のカラスが飛んできて、部隊交替が告げられたのだ。
南街道のオアシス攻撃を命じられ、部隊を率いて北の果てまでやってきて、もう半年が過ぎていた。
上層部の指示は、攻撃といっても嫌がらせ程度にとどめ、決して無理をするなという、不可解なものだった。
百人長という地位はそれなりのものだが、所詮は数多存在する中級指揮官に過ぎない。
アシッドに許されたのは、作戦の意味を問い返さず、黙々と指示に従うことであった。
『攻撃に当たっては、できるだけ人的被害を抑えよ』
出撃に当たって、そう念を押されたのだが、現実はそう甘くはない。
『ふん、だったらお前が指揮を執ってみろ!』
現場指揮官として、アシッドが不満を募らせたのは当然であった。
いつ、どこから攻めるかという手札は、確かに彼の手にあった。
だが、敵はオアシスの外縁に強固な塹壕を掘り、防御に徹している。
待ち構えている敵に突っ込む側が、より多くの損害を被るのは、戦いの鉄則である。
それでも、アシッドは自分にできる最善を尽くした。
綿密な作戦と、巧みな用兵によって、部隊の消耗は予想以上に抑えられていた。
潮目が変わったのは、敵の防御陣地にオークという異人種が現れた時である。
何も知らない彼らは、最も勇敢で優秀な十人隊を、一度の戦いで全滅させてしまった。
しかも運の悪いことに、それは全軍の総司令官であるジャミラが、異例の視察に訪れた当日のことであった。
アシッドは死を覚悟した。
ジャミラの気性が激しいことは有名だった。
いくら将軍とはいえ、女に手討ちされるくらいなら、自ら死を選ぶつもりであった。
しかし、意外なことに、事情を聞いたジャミラは、一切アシッドを責めなかった。
それどころか、著しく兵力を減じた彼の部隊を、交代させると約束してくれたのだ。
この二十年近くで、勢力を急拡大しているナフ首長国は、各地で紛争を繰り広げていた。
その相手が、仇敵である異教徒のルカ大公国ではなく、同じ連邦を構成する仲間(しかもサラーム教徒)だというのは、実に皮肉であった。
ともあれ、ナフ国軍には余裕がなかった。
人もラクダも足りなければ、金も物資も不足していた。
並みの国家ならとっくに破綻し、反乱を招いて内部崩壊していただろう。
それを紙一重のところで支えていたのが、悪魔の頭脳を持つと噂される、サリド王の手腕であった。
アシッドだって、本国が綱渡りの状態で周辺国と戦っていることを知っている。
だから、『交代させる』というジャミラの言葉も、話半分で受け取っていた。
その場に居合わせた各部隊長にも、『決して兵たちに知らせるな』と厳命したほどである。
誰だって国に帰りたい。
ましてや、戦果を挙げることを禁じられた、無意味な作戦に半年も従事してきたのである。
兵に下手な期待を抱かせ、それを裏切られた時の反発ほど、怖いものはなかった。
だが、ジャミラは約束を守った。
本当に一か月で、交代の部隊を差し向けたのだ。
伝令カラスが脚につけていた伝文によると、交代部隊の指揮官はカマールという男だった。
直接の面識はないが、アシッドも名前だけは知っていた。
かなりの実績のある男で、アシッドよりもだいぶ年上のはずだった。
本来ならば、千人長を務めていてもおかしくはないのに、いまだに百人長なのは、その性格に問題があるという噂である。
* *
「ふう、どうやら間に合ったか……」
アシッドは折り畳みの簡易テーブルの上に、羽ペンを放り投げた。
彼は根っからの武人であるから、こうした書類整理は苦手だった。
戦闘報告は毎日の日誌があるから、そう苦労はしない。
死者・行方不明者、それに負傷者のリストだって、すぐにまとめられた。
厄介なのは、物資の報告書だった。
現在のナフ軍では、作戦期間中に消費した武器や食糧、そして日用品にいたるまで、事細かな報告が求められていた。
昔気質の指揮官たちは
『それは戦士の仕事ではない! 卑しい商人のすることだ!!』
と憤ったが、これはサリド王の厳命である。
王に言わせれば、『戦争は経済だ』ということらしい。
これには現場の反発も多かったし、上層部の間でも理解している者は、ほんの一握りしかいなかった。
そもそも、最高司令官のジャミラでさえ、『兄上がそう仰るのなら、間違いはない』という態度だったのだ。
少し余談になるが、まだ十代だったサリド王が戴冠して、最初に行ったのは〝主計局〟の設立である。
王は民間の商人の中から、これはと思う若者を採用し、物資の調達と兵站を任せたのだ。
『飯を食わねば兵は動かない。矢がなくては戦いは始まらない』
それは、戦争の本質を突いた言葉である。
サリドはそれが分かっていたからこそ、主計局を設けて、兵站の管理を一手に任せたのだ。
戦いでは優秀でも、経済を理解しない指揮官に最初から教え込むより、その方が合理的である。
残念ながら、アシッドは〝分かっていない〟指揮官のひとりであった。
ただ、彼は職務に忠実な性格だったから、文句を垂れつつも、時間ぎりぎりで報告書をまとめ上げたのだ。
周囲にわざと聞こえるような大げさな独り言に、側近の兵士は笑いを嚙み殺した。
そして、上官の涙ぐましい努力を労うため、熱いお茶を淹れて運んだのである。
砂漠の民の嗜好品といえば、コーヒーを頭に浮かべることが多いが、実際に飲まれているのはお茶である。
いわゆる紅茶であるが、北の諸国がお湯で淹れた澄んだお茶を好むのに対し、彼らはヤギの乳で煮出した濃厚な味を好む。
しかも、南方では砂糖が安く手に入るので、〝これでもか〟とばかりに甘くするのだ。
アシッドは部下が淹れてくれた甘くて熱いお茶を啜り、安堵の溜息をついた。
交代の部隊が到着すれば、久しぶりに国に帰れる。
いくら何でも、少しは休暇を貰えるだろうから、久しく会えていない妻や子どもたちの顔も見れるだろう。
家を出る時、一番下の子どもは、ようやく意味のある単語を喋り始めた時期だった。
今ごろは、片言でうるさく質問して、母親を悩ませているのだろう。
『俺の顔など、きっと覚えていないだろうな……』
アシッドはそうつぶやいて、小さく笑った。
* *
「百人長、監視塔からの報告です!
交代部隊と思しき集団が南方、およそ四キロを接近中とのことです」
外から伝令兵が駆け込み、大声を張り上げた。
テントは風を通すため、全部の壁が巻き上げられているから、ノックも何もない。
「やれやれ、ゆっくり茶も飲ませてもらえないのか」
アシッドは苦笑して、まだ中身の入っているカップをテーブル置き、立ち上がった。
交代の部隊到着となれば、現地指揮官として、それを出迎えるのが礼儀である。
ゆっくりお茶を飲んでいていいわけがない。
だが、そこで彼は小さな違和感に気づいた。
指揮官である彼以上に、一般の兵たちは帰国を心待ちにしている。
彼らにそれが伝えられたのは、たった二日前のことである。
であれば、交代部隊の到着は待ちに待った朗報である。
それなのに、伝令兵の声音には嬉しさではなく、不安の色が感じられたのだ。
「どうした、何かあったのか?」
アシッドが訊ねたのは当然である。
「それが……人数がやけに多いのであります」
「交代するのはカマールの百人隊のはずだ。
遠路だからな、物資を運ぶ人足が多いだけ……ではないのか?」
「いえ、そうだとしても多過ぎるのです。
監視塔の話では、どう見ても千人隊の規模だと……」
答える伝令の表情も、戸惑いを隠せないでいる。
「馬鹿な!」
アシッドも顔色を変えた。
「四キロと言ったな? なら到着まで、あと三十分はあるだろう。
とにかく、俺も物見に上がる!」
アシッド百人隊の野営地は、以前よりもかなりオアシス側に移動していた。
敵が専守防衛に徹していることは明白だったし、ジャミラの指示によって、無理はしない代わりに攻撃頻度が上がっていた。
前進基地を敵に近づけるのは、当然の判断であった。
だからといって、敵に無警戒であっていいはずがない。
野営地には、高さ三メートルほどの櫓が組まれ、昼夜交代で周辺の監視を怠らなかった。
三メートルというと大したことがないように思えるが、遮るもののない砂漠では、それで十分役に立ったのだ。
アシッドは、その監視塔に駆け寄り、掛けられている梯子を登っていった。
上にあがると、監視役の兵士が手すりを掴み、身を乗り出していた。
彼らの視線を追うと、確かに人の塊りが遠くに小さく見える。
アシッドも監視兵の横に並び、懐から出した単眼鏡を片目に当てた。
北の先進諸国では量産され、軍の標準装備となっている単眼鏡だが、この南方ではまだまだ高級品だった。
個人で所有しているのは中級将校以上で、一般兵が使えるのは、こうした監視業務に就いている場合に限られる。
たかだか三倍程度の倍率なのだが、あるとないとでは大違いだ。
特に、砂漠の民は視力がよいのでなおさらである。
丸い視野に映ったのは、間違いなく味方の軍勢である。
そして、『千人隊の規模』という報告も、そのとおりであった。
「妙だな……」
「はい、見たことのない陣形です」
アシッドのつぶやきに監視兵も同意した。視線を動かさないのは、訓練の賜物である。
普通に考えれば、アシッドの百人隊と交代するのだから、同規模の兵を派遣すればいい話だ。
ただ、相手がオークに変わったという特殊事情から、増派された可能性はある。
カマールが臨時の千人長を命じられるというのは、あり得る話だった。
ただし、監視兵の言うとおり、行軍陣形が妙だった。
単眼鏡で見たところ、千人隊の構成は、ラクダ騎兵と歩兵の混成部隊である。
これは別に珍しいことではなく、ごく一般的な編成である。
だが、アシッドたちに下された命令は敵の挑発と牽制、そして情報収集である。
それには機動力のある騎兵が適しており、足の遅い歩兵を連れてきても、まったく意味をなさない。
しかも、ここは本国から遠く離れた領域外だ。
そんな北の僻地に徒歩の軍勢を派遣するなど、狂気の沙汰としか言えないだろう。
そして、問題の陣形である。
こうした混成部隊の場合、騎兵が先頭で露払いを務め、その後に歩兵の大集団が続き、物資を運ぶ輜重隊が殿軍となるのが普通だ。
ところが、こちらに向かってくる友軍は、その常道を踏み外していた。
百騎ほどのラクダ騎兵がばらけ、歩兵集団の周りを囲んでいるのだ。
まるで外からの攻撃に対して、警戒態勢を取っているかのようだった。
しかし、ここは岩石砂漠のど真ん中である。戦場でもないのに、ナフの軍勢を襲撃する馬鹿が、どこにいるというのだ?
アシッドは単眼鏡を覗いたまま、しばらく考え込んでいたが、やがてその努力を諦めた。
余所の部隊の考えなど、犬の餌にでもくれてやればいい。
彼には部隊指揮官として、やるべき仕事がある。
やってくるのが歩兵を含む千人隊なら、到着には一時間以上かかるだろう。
アシッドは後を監視兵に任せ、塔を降りた。
各部隊長を集めて状況を説明するとともに、対応の指示を出す。
遠路はるばるやってきた味方のため、先任部隊としては総出で迎え、敬意を示すのが礼儀というものだ。
こうなると、時間に余裕があるのがありがたい。
兵たちには、ラクダの毛をきれいに梳かせ、装備の再点検をするよう命令が出された。
かくして完璧な準備を整えた百人隊は、一時間後に宿営地南側に集合し、整列して友軍の到着を待った。
交代部隊が今日到着することは、当然兵たちも知っている。
それは、いよいよ帰国が実現する証拠であるから、言われなくても歓迎する気満々である。
千人隊が到着したのは、それから二十分が過ぎたころだった。
ずいぶんと足が遅いが、誰も気にする者はいなかった。
アシッドの兵たちは、現れた部隊の異様な姿に驚き、それどころではなかったのだ。
ラクダに乗る騎兵たちは、長旅の埃で薄汚れてはいたが、ごく当り前の友軍であった。
問題は歩兵である。
彼らの服装は、騎兵たちとは比べ物にならないほどに汚く、ぼろぼろであった。
目には生気がなく、誰もが疲れ切った表情をしていた。
千人隊の主力を占める、およそ七百人ほどの歩兵たちは、のろのろと足を引きずっている。靴の底が抜け、血まみれの指が見えている者も多い。
それは、誇りあるナフ首長国の戦士ではなく、敗残兵の集まりにしか見えなかった。
しかも、誰ひとりとして武器を持っていない、まったくの丸腰であった。
「こいつら……捕虜兵か!」
先頭で待ち構えていたアシッドは、ようやく陣形の意味を理解した。
歩兵を取り囲んでいた騎兵たちは、敵を警戒していたのではなかった。
彼らは、捕虜が逃げ出さないよう、監視をしていたのである。